回りだす歯車
入学式からしばらくが経ったある日の放課後。
三人は図書室の一角で、共に予習に励んでいた。
平民のリリアーヌにとって、王太子や公爵令嬢と机を並べるのは身に余る光栄だったが、二人の気さくな態度が彼女の緊張を解いていた。
「レスティ、顔色が悪いよ。少し休んだほうがいい」
アルフレートが心配そうにセレスティーヌの手を取る。
その指先が、氷のように冷たくなっていることに彼は気づかなかった。
「……大丈夫ですわ、アル様。少し、春の陽気が強すぎるだけです」
セレスティーヌは微笑んだ。
セレスティーヌは、リリアーヌがアルフレートの魔力理論を熱心に聞いている姿を見て、胸の奥がチリリと焼けるような感覚に襲われた。
それは嫉妬ではない。恐怖だった。
最近、セレスティーヌの背中には、時折痛みと共に、銀色の鱗のような紋様が浮き出ることがあった。
彼女は誰にも言わずにムーン公爵家の禁書を調べ、一つの恐ろしい真実を知った。
ムーン公爵家に数百年に一度現れる「竜の愛し子」
愛し子が覚醒する際、その強大すぎる魔力を安定させるための『楔』として、最も愛する者の命――その魂を喰らうという残酷な儀式。
それは、強大な魔力を得る代わりに、最愛の者の命を喰らわなければ「怪物」へと堕ちる呪われた運命。
(もし、私がアル様を喰らう怪物になってしまったら……)
セレスティーヌの瞳が、一瞬だけ銀色に染まる。
その時、隣に座るリリアーヌの手元から、清らかな浄化の光が漏れた。
その光に触れた瞬間、セレスティーヌの背中の痛みが、嘘のように引いた。
「あ、ごめんなさい、セレスティーヌ様。私、まだ魔力の調整が上手くいかなくて……」
「……いいえ。いいのです、リリアーヌ様。貴女の光は、とても……心地よいわ」
その時セレスティーヌは悟った。
もし自分がいなくなった後、アルフレートを守り、その心を癒せる存在がいるとしたら。
それは、王家の魔力と完璧な共鳴を見せる、この清らかな聖女しかいないのだと。
「リリアーヌ様。貴女は、殿下のことをどう思っているの?」
「えっ!? そ、それは……。畏れ多いですが、あの方のように優しく、民を想う方を支えられるようになりたいと、心から願っています」
リリアーヌの頬が赤く染まる。その純粋な恋心を、セレスティーヌは誰よりも早く、そして正確に読み取った。
(……ああ、そう。そうなんですのね、神様。貴女は、私がアル様を殺してしまわないように、代わりに彼を愛する「替え」を用意してくださったのね)
セレスティーヌの瞳から、光が消えた。
彼女はこの時、密かに決意した。
いつか、自分が怪物としてアルフレートを喰らおうとするその前に。
彼に自分を嫌わせて、この聖女の元へと彼を追いやり、自分は独りで死ぬ。
そのために、今日から私は「完璧な婚約者」であることをやめ、「救いようのない悪女」を演じなければならない。
入学式の前、薔薇の庭園で交わした約束。
「ずっと一緒にいよう」というアルフレートの言葉。
それらを、すべて捨て去る覚悟を決めた彼女は、そっとリリアーヌの教科書を、聖霊の魔力を使って机から落とした。
「……あら、うっかりましたわ。平民の方は、物を置く場所も心得ていらっしゃらないの?」
わざとらしく、高慢な笑みを浮かべるセレスティーヌ。
リリアーヌは驚きに目を見開き、アルフレートは「どうしたんだ、レスティ?」と困惑の表情を浮かべる。
「いいえ。殿下。私もう猫を被るのには疲れましたの。平民といるのはもうまっぴら」
セレスティーヌは背を向け、一人、図書室を出た。
廊下の窓から見える月は、まだ三日月だというのに、彼女の目には不吉な白銀の満月に見えていた。
(愛しています、アル様。だから、お願い。私を、心の底から嫌って、あの光の少女と共に生きて――)
夕闇に染まる学院の廊下。
優しい出会いを果たした三人の道は、ここで決定的に分かれた。
春の嵐が吹き抜け、満開だった桜が、無残な雪のように地面を覆い尽くしている。
それは、数年後に訪れる、あの断罪の夜への静かな、プロローグだった。




