第七話: 古い地図、新しい道
書棚をひと通り見終えた頃、周瑛が奥の壁に掛けられた古い図に気づいた。
「殿下。あちらは、地図でございますか」
「ええ。江東の古い地図です」
俺は卓の灯を近づけた。
図には長江とその支流、周辺の郡県や主要な道筋が記されている。古いものなので、現在とは地名や境界が異なる箇所もあった。
それを眺めていると、懐かしさが込み上げてきた。
この道を通って兵を進めた。
この川を渡るのに苦労した。
ここでは敵が城に籠もり、こちらは何日も攻めあぐねた。
地図に描かれた線の一本一本に、俺には思い出があった。
「随分と古いものですね」
周瑛が言った。
「そうですね。今は使われていない道もあるでしょう」
「では、なぜ残しておられるのですか」
俺は少し考えた。
「昔、この土地がどのような姿だったか、知っておきたいから、でしょうか」
周瑛はうなずき、地図の上に目を走らせた。
「母から聞いたことがございます。父も、地図をよく眺めていたそうです」
「周都督なら、そうでしょうね」
「ですが、父が見ていたのは、きっと戦のための地図だったのでしょう」
彼女はそう言って、武昌のあたりを指で示した。
「この城も、昔から今のような都だったわけではないのですね」
「ええ。父上が武昌を都と定められてから、まだそれほど経っていません」
「では、これから先も変わるのでしょうか」
「都が、ですか」
「はい。人が集まれば、新しい道もできます。土地の様子も変わるでしょう。今の地図が、ずっと使えるとは限りませんから」
俺は壁の地図を見つめた。
武昌。
建業。
長江によって結ばれた二つの都市。
今は武昌に呉王府が置かれているが、江東の人々が暮らす土地は、それよりはるかに広い。
国を治めるとは、この広い土地のすべてに目を配ることなのだろう。
「変わるでしょうね。人も、町も、国の形も」
俺は答えた。
「だからこそ、昔の地図を残す意味があるのかもしれません」
「昔を知るため、でございますか」
「ええ。ただし、昔の地図だけを頼りに歩くわけにはいきませんが」
周瑛は小さく笑った。
「では、新しい地図も必要になりますね」
その言葉が、不思議と心に残った。
古い地図を捨てず、新しい地図も作る。
言われてみれば当たり前のことだ。
だが俺は、孫策だった頃の記憶を取り戻してから、何かにつけて昔と今を比べていた。失われたものばかりを数え、昔の自分ならどうしたかと考えてしまう。
あの頃の江東と、今の江東。
どちらかが本物で、もう一方が偽物というわけではない。
俺の知らない二十五年もまた、確かに積み重ねられてきた歴史なのだ。
*
書庫を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
周瑛は結局、『漢書』の竹簡をいくつか借りることにした。侍女に持たせる前に、彼女は俺へ向き直った。
「殿下。本日は、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、考えさせられることが多かった」
「それでしたら、またお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
周瑛は微笑んだ。
そして、少し悪戯っぽい目をした。
「それでは、殿下が次にどのような書物をお読みになるのか、楽しみにしております」
「……書物ばかりでは、私の考えも分からないかもしれませんよ」
「でしたら、そのときは直接お尋ねいたします」
なるほど。
どうやら逃げ道は用意されていないらしい。
俺は思わず笑った。
「それなら、私も遠慮なく尋ねることにします」
「はい。お答えできることであれば」
周瑛は丁寧に礼を取り、侍女を伴って宮院の奥へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は先ほどの言葉を思い返していた。
(殿下がいつもおそばにおられるとは限りません。)
それは、何気ない言葉だったのかもしれない。
だが、俺には忘れられそうになかった。
俺が江東を託したとき、仲謀はまだ十九歳だった。
兄を失い、突然その重責を背負わされた弟が、どれほど苦労したか。今の俺は、そのすべてを知っているわけではない。
それでも、一つだけ分かることがある。
国は、一人の英雄がいるだけでは続かない。
優れた者たちが互いを支え、たとえ誰かが欠けても、残された者が歩き続けられるようにしなければならない。
俺はもう一度、書庫の扉に目を向けた。
明日も張休は書物を持ってくるだろうし、諸葛恪は何かと議論を吹っかけてくるだろう。周瑛もきっと、借りた『漢書』について尋ねてくるに違いない。
そんな日々が、これからも続くのだろう。
いや、続いてほしい。
そう思った。
宮城の向こうでは、長江を渡る舟の灯が、夜の闇に小さく揺れていた。
いつかこの景色も変わるのだろう。
そのとき、俺は何を残せるだろうか。
まだ答えは出ない。
だが、少なくとも今夜は、昔の地図を眺めているだけでは見えなかったものを、ひとつ知った気がした。
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