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第六話: 書物の余白

 武昌の空が茜色に染まる頃、俺は宮院の書庫へ向かっていた。


 昼間の講義が思いのほか長引いたせいで、約束の時刻が近づいている。廊下の向こうからは、夕餉(ゆうげ)の支度をする者たちの声が聞こえてきた。


 書庫の入口には、すでに周瑛(しゅうえい)が待っていた。


 侍女を一人伴い、俺の姿を認めると静かに礼を取る。


「殿下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ。お待たせしましたか」


「いいえ。少し早く参りましたので」


 そう言ってから、周瑛は書庫の扉に目を向けた。


「思っていたより、大きいのですね」


「私が集めたものばかりではありません。父上から与えられた書物もあれば、師の方々が持ち込まれたものもあります」


 扉を開けると、乾いた竹と墨の匂いが漂ってきた。


 壁際には木製の棚が並び、竹簡(ちくかん)を束ねたものや、布に包まれた巻物が収められている。奥の卓には筆と硯(すずり)が置かれ、昼間の講義で使った『漢書』も、そのまま残されていた。


 孫策だった頃、俺がこうした場所を好んで訪れることは少なかった。


 もちろん、兵書を読まなかったわけではない。だが、書物というものは必要なことを覚えるための道具であって、何時間も向き合うものではなかった。


 それが今では、こうして自分の書庫を持っている。


 人生とは分からないものである。


「これが、殿下が普段お使いになっている書庫ですか」


「ええ。もっとも、片づけるのは大抵、ほかの者ですが」


 周瑛は小さく笑った。


「では、どこに何があるのかは、その方々に伺った方が早いのでしょうか」


 ……なかなか厳しい。


「探す書物が決まっているなら、その方が確実でしょうね」


「それでしたら、今日は殿下にご案内いただきたく存じます」


「私に?」


「はい。殿下がどのような書物をお好みなのか、知りたいと思いましたので」


 なるほど。書物を借りるだけが目的ではないらしい。


 俺は周瑛を書棚の方へ案内した。


     *


 周瑛はまず、経書の置かれた棚に目を留めた。


 『論語』『礼記』、それから諸家の学説を記した竹簡が並んでいる。彼女は一つひとつ表題を確かめ、時折、俺に内容を尋ねた。


 しばらくして、卓に置かれた『漢書』を見つけると、その前で足を止めた。


「こちらは、お読みになっている途中ですか」


「ええ。今日も張休(ちょうきゅう)と諸葛恪(しょかつかく)を交えて読んでいました」


「どのようなお話を?」


「昔の蜀郡(しょくぐん)を治めた文翁(ぶんおう)という人物についてです。学問を広め、人を育てることに力を注いだそうで」


 周瑛はうなずき、続きを促した。


「それで、兵を養うべきか、人を育てるべきかという話になりまして」


「兵と人、でございますか」


「ええ。もっとも、話をややこしくしたのは元遜なのですが」


 昼間の議論を簡単に説明すると、周瑛は少し考えてから尋ねた。


「お二方は、普段からそのように意見を異にされるのですか」


「よくあります。元遜は決断が早く、叔嗣は慎重ですから」


「では、殿下はお困りになることも多いのでしょうね」


「困るというほどでは。二人とも優秀な男ですし、議論を聞くのは面白いですよ」


 俺がそう答えると、周瑛は不思議そうな顔をした。


「殿下は、お二方の意見が異なることを、むしろ喜んでおられるのですね」


「同じ考えばかり聞いていても、気づけないことがありますから」


 周瑛はしばらく黙っていた。


 それから、少し声を落とした。


「差し出がましいことを申し上げますが、よろしいでしょうか」


「何でしょう」


「今は、殿下の御前で議論するだけで済むのでしょう。けれど、いずれお二方が別々の立場で人を率いることになったら、どうなるのでしょうか」


 俺は周瑛を見た。


 なるほど。


 考えが違うこと自体は、悪くない。


 だが、立場が変われば、意見の違いがそのまま利害の違いになることもある。


 俺が孫策だった頃にも、似たことはあった。互いに優れた将でありながら、手柄を争い、意地を張り合う。本人たちに悪気がなくとも、周囲が勝手に肩入れすることさえある。


「そうなれば、二人の意見だけでなく、その周りにいる人々のことも考えなければならないでしょうね」


「では、殿下はどうなさいますか」


「できる限り、私自身が話を聞きます」


 周瑛は静かにうなずいた。


 しかし、その顔にはまだ何か言いたげな様子があった。


「何か気になりますか」


「いえ。ただ……」


 彼女は少しためらってから続けた。


「殿下がお聞きになれるうちは、それでよろしいのでしょう。けれど、殿下がいつもおそばにおられるとは限りません」


 俺は返す言葉を探した。


 確かに、その通りだった。


 俺がいなければまとまらない者たちばかりでは、俺が倒れた途端に国は揺らぐ。


 かつての江東が、そうだった。


 俺の死後、仲謀たちがどれほど苦労したか。あの二十五年を思えば、周瑛の問いは決して大げさではない。


「……難しいことを考えますね」


「申し訳ございません。少々、出過ぎたことを」


「いいえ。考えておかなければならないことでしょう」


 周瑛は安堵(あんど)したように微笑んだ。


 しかし、俺の方はしばらく考え込んでしまった。


 かつて俺は、江東に多くの仲間を集めた。才ある者を見つけ、仕事を任せ、ともに戦った。その誰もが、俺のもとで力を発揮してくれた。


 だが、その者たちが俺のいない場所でも協力できるようにすることなど、考えたことがあっただろうか。


 書庫の奥で、夕風が竹簡の端をかすかに鳴らした。


 並んだ書物の数だけ、先人たちの知恵がある。


 その中に、俺の知らなかった答えもあるのだろうか。

読んでいただきありがとうございます。

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