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第五話:王太子の学友たち

 婚儀から三日が過ぎた。


 武昌(ぶしょう)の朝は、今日も変わらず騒がしい。宮城の外からは荷車の軋む音が聞こえ、長江の方では、出航を告げる鐘が鳴っている。


 そして俺も、いつも通りの生活に戻っていた。


 朝は師の講義を受け、昼には書物を読み、時には弓を引く。王太子といっても、好き勝手に過ごしてよいわけではない。むしろ一日の予定は、そこらの役人より細かく決められている。


 孫策だった頃の俺に、こんな暮らしをしろと言っても無理だっただろう。


 だが、不思議と退屈はしていない。


「殿下。お休みの間に、ずいぶん書物が溜まりましたな」


 講堂へ入るなり声をかけてきたのは、諸葛恪(しょかつかく)だった。


 字は元遜(げんそん)。俺より六つ年上で、父は呉の重臣・諸葛瑾(しょかつきん)。頭が切れるのは確かだが、その舌まで鋭いのが困りものだ。


「三日で、それほど増えるものですか」


「三日で済んでよかったと申し上げているのです。これがひと月となれば、講堂は竹簡で埋まっていたでしょう」


「元遜。殿下をからかう暇があるなら、そちらを手伝え」


 卓の向こうで顔を上げたのは張休(ちょうきゅう)。字は叔嗣(しゅくし)。名臣・張昭(ちょうしょう)の息子で、学問となると冗談が通じない。諸葛恪とは、議論を始めれば大抵ひと悶着ある。


「私が整理したものを、お前は並べ直すばかりではないか」


「叔嗣の並べ方では、読んでいる間に日が暮れる」


「お前は読まずに話を始めるからな」


 俺が席につくと、二人は何事もなかったように頭を下げた。


 この距離感にも覚えがある。孫登としての十六年間を失ったわけではないのだ。こうして顔を合わせれば、二人が次に何を言いそうか、だいたい分かる。


 張休は竹簡を一本、俺の前へ置いた。


「今日は『漢書(かんじょ)』の続きを。父から教わった、文翁(ぶんおう)の事績です」


 文翁。前漢(ぜんかん)の時代、蜀郡(しょくぐん)を治めた役人である。地方の若者を学ばせ、役所で働く者に育てたという。


 張休は書かれた箇所を読み上げ、それから竹簡を伏せた。


「武をもって土地を得ることはできても、治め続けるには人が要ります。文翁はそれを見抜いていたのでしょう」


「よい話だ」


 諸葛恪が即座にうなずいたので、張休はかえって警戒した顔になった。


「ただし、敵に囲まれた城で同じことを始めれば、笑い話になる」


「ほら、始まった」


 思わず口にすると、諸葛恪は楽しげにこちらを見た。


「では殿下。仮に、国境の一郡から使者が来たとしましょう。蓄えには限りがあり、将は兵を増やしたいと言い、土地の役人は学び舎を作りたいと言う。どちらをお許しになりますか」


 張休がすぐに口を開いた。


「そんなもの、敵の動き次第だろう」


「だから、決める者には判断が要るのだ。書物には書いていないことがな」


 諸葛恪は得意そうに笑った。


 俺は卓の上に指を置き、しばらく考えた。


 孫策だった俺なら、まず兵の数を聞いただろう。地形を調べ、攻められる前に動こうとしたはずだ。その勘は今も残っている。


 だが、目の前の問いには肝心なことが抜けていた。


「その郡では、誰が兵糧を集めているのか」


 俺が問いかけると、諸葛恪が眉を上げた。


「役人でしょう」


「では、役人が足りなくなれば?」


「ほかから呼ぶことになる」


「どこも同じように人が足りなかったら?」


 諸葛恪は答えず、少しだけ笑みを深くした。


「殿下は、私の問いを別の問いに変えてしまわれる」


「元遜こそ、肝心なところを省いている。兵を増やすにしても、その兵を養う人が必要だろう」


 張休がうなずいた。


「文翁が育てたのも、まさにそのような人です」


「では、今すぐ兵を増やせと訴える将はどうする。『十年待て』と返すのか?」


 諸葛恪は引かない。


 俺は首を横に振った。


「まず、その郡の様子を調べさせる。蓄えがどれほどあり、兵が何人いて、来年も同じように税を集められるのか。そこを知らずに命じても、どちらかを失うだけではないか」


「それでは決断が遅れますぞ」


「ならば元遜には、敵が来るまでに調べ終える策を考えてもらおう」


 諸葛恪が一瞬、口を閉じた。


 隣で張休が声を立てずに笑っている。


「……なるほど。仕事を増やすとは、殿下も腕を上げられましたな」


「人の仕事を増やすのは、元遜の方が得意でしょう」


 今度は張休も遠慮なく笑った。


     *


 昼前になると、講堂の戸が開け放たれた。庭から入る風が竹簡の端を鳴らし、張休は慌てて重しを置いた。


 諸葛恪はまだ、先ほどの問いに納得していないらしい。


「殿下。私は兵を増やすべきだと申し上げているのではありません。決断を先送りすることを恐れているのです」


 さっきまでの調子とは違い、真剣な声だった。


 俺はうなずいた。


「分かっています。元遜が心配しているのは、迷っている間に機会を失うことでしょう」


「はい」


「叔嗣が心配しているのは、急いだ決断のために後々困ることになること。どちらも間違いではありません」


 張休は竹簡を結びながら答えた。


「しかし、最後には一つに決めねばなりません」


「そうですね」


 俺は庭に目をやった。長江の方から、船乗りたちの掛け声がかすかに届いてくる。


 かつての俺は、決めるのが早かった。それで勝てた戦も多い。けれど、自分がいなくなった後の二十五年間を支えたのは、別のやり方を選んだ者たちだった。


「今日は決めなくてよいでしょう。架空の一郡なのですから」


 諸葛恪が吹き出した。


「それを最初に仰っていただきたかった」


「最初に言えば、元遜はここまで考えなかったでしょう?」


 張休が竹簡で軽く卓を叩いた。


「殿下。そろそろ次の箇所へ進んでもよろしいでしょうか」


「叔嗣は、まだ読むつもりなのですか」


「当然です。今日はまだ半分も進んでおりません」


 諸葛恪が俺を見た。助けを求める顔である。


 俺は黙って竹簡を手に取った。


「元遜。今度は最後まで読んでから議論しよう」


「……殿下まで叔嗣の味方とは」


 その声に、また笑いが起こった。


 孫策としての記憶を取り戻して以来、過ぎ去った二十五年のことばかり気にしていた。だが、今日のような時間も、孫登が築いてきたものなのだ。


 夕方には、周瑛に書庫を見せる約束がある。彼女は何を読もうとするだろう。


 そう考えながら竹簡を開くと、隣から諸葛恪が小声で言った。


「殿下。明日こそ、私の問いに決着をつけましょう」


「まずは今日の分を読み終えてからです」


 俺の返事に、張休が満足そうにうなずいた。


 どうやら王太子の暮らしも、思っていたほど静かではないらしい。

読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
面白いです。 孫策であり、でもしっかり孫登でもある。 そこがとても魅力的。
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