第四話: 周瑛という人
宴が終わった正堂には、まだ酒と香の匂いが残っていた。周家の客人たちは宿所へ案内され、宮院の廊下を行き交う者も、ようやく少なくなった。
俺が席を立とうとしたところで、程秉が近づいてきた。
「太子殿下。婚儀は滞りなく済みましたが、最後にひと言だけ申し上げたいことがございます」
この先生の「ひと言」が短かったためしはない。だが、今日ばかりは逃げるわけにもいかなかった。
「お聞かせください」
「婚姻は人倫の始まり、国を治める教えの基でございます。太子殿下には、ご夫婦の間にあっても礼を重んじ、国の人々の模範となっていただきたい」
程秉の声は静かだった。かつてなら窮屈な説教と聞き流していただろうが、周瑛が見知らぬ者たちに囲まれて一日を過ごす姿を見たばかりでは、そうもいかない。
「先生のお言葉、忘れません。至らぬところがあれば、これからもお正しください」
程秉は満足したようにうなずいた。
「そのお心があれば、何よりにございます」
去っていく背中を見送りながら、俺は小さく息をついた。
孫策だった頃、俺を叱る者はそう多くなかった。
孫登になってからは、どうやら増える一方らしい。
それが悪いことではないと、今は思う。
さて、もう一人、話をしなければならない相手がいる。
*
周瑛のための居室は、王太子の宮院の奥に整えられていた。俺の寝起きする部屋からは廊下を隔てた別の建物で、周家から持参した衣や書物もすでに運び込まれている。
訪ねる旨を告げると、侍女が小さな客間へ通してくれた。卓には茶が置かれ、奥の部屋へ通じる戸のそばには、周家から付き従ってきた侍女が控えていた。侍女たちは用を済ませると隣室に下がった。
周瑛は婚礼の衣を着替えていたが、背筋は先ほどと変わらず伸びていた。
「殿下。お疲れのところ、お越しいただき恐縮です」
「私の方こそ。長旅のあとで一日中、気を張っていたでしょう」
「はい。正直に申し上げれば、少々」
初めて彼女が、儀礼の言葉以外で答えた気がした。
「それで、お尋ねしたいこととは?」
周瑛は茶碗を置いた。
「殿下は、父のことをどのようにお聞きになっておられますか」
公瑾のことか。
俺の胸には、あいつと過ごした数えきれぬ場面が浮かんだ。馬を並べて走った日、軍議の後に夜更けまで話し込んだこと、人前では涼しい顔をしているくせに、親しい相手には本当に負けず嫌いだったこと。
だが、孫登がその場にいたはずはない。
「父上からは、学問にも武にも優れ、多くの人に慕われた方だったと聞いています」
周瑛はうなずいた。
「私も、そのように聞いております。母は、父が琴の小さな誤りにも気づく人だったと話してくれました」
思わず懐かしくなった。公瑾は昔から、宴会中であっても、音の誤りを聞き逃さない男だった。
「ですが、私には父の記憶がほとんどございません。亡くなったときは、まだ幼かったものですから」
彼女は悲しげに俯くのではなく、まっすぐこちらを見ていた。
「幼い頃から、誰もが私を見るたび『周都督の娘』と申しました。誇らしいことです。ただ、皆様がご存じの父は、私には知らない人でもあるのです」
俺はすぐには答えられなかった。
周瑜の娘を娶ると聞いた日、俺が真っ先に考えたのも公瑾のことだった。娘自身が何を好み、何を恐れているか、考えもしなかった。
「立派な都督だったというお話より、私は、そういう父の話が好きなのです」
そうだろうな。
戦の功績も、江東に残した名声も、彼女にとって父親の代わりにはならない。
公瑾がどんな男だったかを、俺はよく知っている。
だが、俺の知る公瑾をそのまま語ったところで、彼女の寂しさが埋まるわけでもないのだろう。
しばらくして、周瑛が改めて姿勢を正した。
「殿下。私はまだ、宮中のことを十分に存じません。至らぬことも多いかと思います」
「私も、知らぬことばかりです」
そう答えると、周瑛は少し驚いたようだった。
俺は続けた。
「太子として学んできたつもりですが、人と共に暮らすことは、書物だけではわかりません。私のほうこそ、教わることがあるでしょう」
周瑛はしばらく俺を見ていたが、やがて静かに頭を下げた。
「そのように仰っていただけるなら、心強く存じます」
礼儀正しい、落ち着いた声だった。
けれど、ただ従うだけの娘ではないのだろう。
父のことを尋ねたときの眼差しには、自分の知りたいことを確かめようとする強さがあった。
「周瑛殿」
「はい」
「周都督のことも、周家のことも、大切にしたいと思っています。ですが……」
俺は一度、言葉を選んだ。
「あなた自身のことも、これから知っていければと思います」
周瑛は少し目を見開いた。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下」
その返事は短かったが、先ほどまでより、ほんの少し柔らかく聞こえた。
俺は窓の外へ目を向けた。
武昌の夜は静かだった。
遠くの川から、舟を繋ぐ綱の軋む音が聞こえてくる。
公瑾。
お前の娘は、立派に育っているぞ。
そう伝えられる相手が、もういないことだけが残念だった。
かつて俺は、江東を取るために多くの者と手を結んだ。公瑾も、その一人だった。
だが、今夜結ばれた縁は、昔のように戦場を駆けるためのものではない。
周家の名を守ることも、孫家の威を示すことも、大切なのだろう。
けれど、それだけでは足りない。
俺の隣に座るこの娘が、いつかここを自分の居場所だと思えるようにすること。
そんなことを考える自分が、少し不思議だった。
孫策だった頃の俺は、もっと遠くばかり見ていた気がする。
今は、目の前にいる一人の人間のことさえ、まだ何も知らない。
まずは、そこからだ。
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