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第三話:公瑾の娘

 長江に面した武昌(ぶしょう)は、今や呉王・孫権が政を執る都である。


 朝の川面には大小の舟が行き交い、城門へ続く道には荷を運ぶ人々の声が絶えない。俺が孫策だった頃、江東の諸郡を駆け回っていた時代とは、ずいぶん景色が変わった。


 もっとも、今日ばかりは、その賑わいを眺めている余裕がない。


 俺は呉王宮から川岸へ下りる道の途中で、遠くの船影を見つめていた。


 周瑜の娘が来る。


 俺の妻となる娘が。


 あの縁談を告げられてから、ひと月あまり。話はすでに両家の間で進められていたらしく、俺が驚いている間にも、婚儀の支度は滞りなく整えられていった。


 今回、花嫁を迎える役目を任されたのは程秉(ていへい)という人物だった。


 字(あざな)は徳枢(とくすう)。五経(ごきょう)に通じた学者で、孫登の学問の師でもある。父上の命を受け、呉郡(ごぐん)の周家まで花嫁を迎えに行き、今朝、長江を遡って武昌へ戻ることになっていた。


 孫登としての俺は、この先生に随分と世話になっている。


 少しでも曖昧な答えをすれば、穏やかな顔でさらに問いを重ねてくる。どれほど立派な言葉を並べても、意味を理解していなければ容赦なく見抜かれるのだ。


 やがて、川の向こうから一行が姿を現した。


 先頭の舟には、呉王府の旗が掲げられている。その後ろに続く数隻の舟には、周家から運ばれてきた調度や、花嫁に付き従う者たちが乗っていた。


 俺は立ち上がり、衣の襟を整えた。


 船着き場では役人たちが慌ただしく動き、程秉を迎えるために列を作っている。俺もそちらへ向かおうとしたが、近くに控えていた侍従が一礼した。


 「殿下。呉王殿下がお越しになります」


 父上が?


 振り向くと、数人の近臣を伴った孫権が、川岸へ下りてくるところだった。


 二十五年前に江東を託した若者は、今では四十三になっている。


 父上は俺に軽くうなずくと、程秉の乗る舟へ向かった。そして、自ら舟に上がり、長旅を終えた老臣を労(ねぎら)った。


 呉王自ら到着した船に足を運ぶ。


 それだけで、今回の婚姻をどれほど大切にしているかが伝わってくる。


 程秉は恐縮した様子で礼を取ったが、父上はそのまましばらく話し込んでいた。


 俺は少し離れた場所から、その様子を見守った。


 かつての仲謀は、兄である俺の後ろに立ち、こちらの話を静かに聞いていることが多かった。それが今では、大勢の者の前に立ち、一つひとつの振る舞いで国を動かしている。


 あいつも、ずいぶん立派になったものだ。


 そう思う一方で、今日に限っては、できれば兄としてあいつの隣に立ちたかった。


 息子として結婚を祝われるよりも、兄として少しばかり悪態をついてやりたかったのだ。


 もっとも、それが許される身ではない。


 俺は十六歳の孫登であり、あいつの息子なのだから。


 舟から下りた周家の人々が、迎えの役人に案内されていく。


 花嫁も侍女たちに付き添われ、宮中へ向かう輿(こし)へと移った。遠目にはその姿を確かめられたが、顔までは見えなかった。


 俺は、これから生涯をともにする相手の顔さえ、まだ知らない。


     *


 婚儀が始まったのは、その日の夕刻だった。


 場所は武昌の呉王宮、その一角に設けられた王太子の宮院(きゅういん)である。


 普段は師や賓友(ひんゆう)たちと学問を論じる正堂も、今日はすっかり様子を変えていた。席や調度が改められ、柱の間には儀礼のための布が張られている。


 堂の奥には父上が座り、その脇には婚儀を取り仕切る程秉が控えていた。孫家と周家に縁の深い重臣たちも列席し、侍従や侍女たちは、それぞれ定められた場所で静かに待っている。


 俺は正堂の一方に立ち、花嫁が現れるのを待った。


 やがて、堂の入口から足音が近づいてきた。


 侍女に付き添われ、一人の娘が姿を現す。


 周瑛(しゅうえい)。


 周公瑾の娘である。


 年は十七。俺よりひとつ上だ。


 落ち着いた色の婚礼衣をまとい、髪には飾りが整えられていた。華やかな装いではあったが、何より目を引いたのは、その立ち居振る舞いだった。


 堂内に並ぶ人々の視線を受けながらも、歩みを乱さない。


 初めて入る王宮、見知らぬ夫、そして呉王をはじめとする重臣たち。


 緊張していないはずはない。それでも彼女は、定められた位置まで進むと、落ち着いて礼を取った。


 なるほど。


 さすが、公瑾の娘といったところか。


 そんな考えが頭をよぎったが、すぐに思い直した。


 俺は、まだ彼女のことを何も知らない。


 父親の名だけで娘を判断するのは、少々早計(そうけい)だろう。


 程秉の声が堂内に響いた。


 俺は姿勢を正し、周瑛と向かい合った。


 婚儀は定められた礼に従って進められた。互いに礼を交わし、同じ膳を分かち、夫婦となることを示す杯が運ばれる。


 孫登として学んできた礼法が、こういうときには実にありがたかった。


 孫策だった頃、俺は戦の作法なら心得ていたが、こうした儀礼にはとんと興味がなかった。


 しかし今日ばかりは、そんなことも言っていられない。


 俺はひとつひとつの所作を確かめながら、儀式を進めた。


 ふと、隣に立つ周瑛へ視線を向けた。


 彼女は静かに前を見つめていた。


 俺が何か言えば、すぐに返事をするだろう。だが、今は口を開くべき場所ではないと、きちんと理解しているようだった。


 その横顔に、公瑾の面影を探してみる。


 似ている、と思った。


 だが、それが本当に顔立ちのせいなのか、俺がそう思いたいだけなのかは分からなかった。


 公瑾が亡くなったのは、今から十五年前。


 あのとき、この娘はまだ二歳ほどだったはずだ。


 父親の姿を、どれほど覚えているのだろう。


 俺にとって公瑾は、共に江東を駆けた親友だった。


 だが、彼女にとっては、生涯を通じて会うことのできない父親なのだ。


 同じ男を知っていながら、お互いが見ているものは、まるで違う。


 やがて儀式は滞りなく終わり、参列者たちが順に祝辞を述べた。


 最後に、父上が俺たちを前へ呼んだ。


 「登」


 「はい、父上」


 「周家とは、兄上の代から深い縁がある。公瑾には私自身も、数えきれぬほど助けられた」


 父上はそこで一度言葉を切り、周瑛へ視線を移した。


 「今日、こうしてその娘を我が家に迎えられたことを、私は嬉しく思う」


 周瑛は深く頭を下げた。


 「ありがたきお言葉にございます、大王様」


 「慣れぬことも多かろう。困ったことがあれば、遠慮なく申し出よ」


 「はい。お心遣い、ありがたく存じます」


 父上は満足そうにうなずき、再び俺を見た。


 「登。そなたも、よく心得ておけ」


 「はい」


 「夫婦となったからには、互いを大切にせよ」


 俺は改めて頭を下げた。


 今の言葉だけは、呉王としてではなく、一人の父親として告げてくれたように思えた。


 周瑛もまた、静かに礼を取った。


 こうして、俺と周瑛の婚儀は終わった。


     *


 祝いの席が始まると、正堂にはようやく賑やかな声が戻ってきた。


 重臣たちは互いに杯を掲げ、周家から来た者たちも、ほっとした様子で言葉を交わしている。


 俺は次々と祝辞を受けながら、ふと周瑛へ目を向けた。


 彼女は少し離れた席で、年長の婦人たちと言葉を交わしていた。相手が話し終えるまで静かに聞き、尋ねられれば丁寧に答える。


 まるで、この場の空気を最初からよく知っているかのようだった。


 だが、時折、彼女の指先が衣の端をそっと握るのが見えた。


 やはり、緊張しているのだろう。


 俺は目の前の杯を置いた。


 すると、ちょうど周瑛がこちらを向いた。


 目が合った。


 彼女はわずかに微笑み、それから静かに頭を下げた。


 その仕草に、俺も軽く会釈する。


 それだけのことだった。


 だが、不思議なものだ。


 つい先ほど夫婦となったばかりだというのに、俺たちはまだ、互いの声さえほとんど知らない。


 宴が終われば、この娘と話すことになる。


 何を尋ねようか。


 公瑾のことか。周家のことか。それとも、ここまでの船旅のことか。


 考えているうちに、ひとつ気づいた。


 俺は先ほどから、彼女に何を聞こうかと考えてばかりいる。


 向こうが俺に何を尋ねたいのかなど、一度も考えていなかった。


 そして、その答えを知るのは、どうやら思っていたより早くなりそうだった。


 宴が終わりに近づいた頃、周瑛は俺の前まで来て、静かに礼を取った。


 「殿下。後ほど、少しだけお時間をいただけますでしょうか」


 「もちろんです。何か?」


 「お尋ねしたいことがございます」


 そう答えた彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。


 俺はうなずいた。


 だが、そのときの俺はまだ知らなかった。


 公瑾の娘が、ただ礼儀正しいだけの娘ではないということを。

読んでいただきありがとうございます。

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