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第二話:知らぬ歳月

 朝の光が射場の土を白く照らしていた。


 庭木の葉にはまだ露が残り、的の向こうに続く土塀にも、夜の冷たさがわずかに染みついている。風はなく、鳥の声だけが時折、静かな庭を横切っていった。


 そんな穏やかな朝に、俺は弓を握りしめながら、自分の正気を疑っていた。


 二十五年前に死んだはずの俺が、今は仲謀の息子として生きている。昨夜から何度考えても、到底まともな話とは思えなかった。だが、孫登として過ごした十六年の記憶も、孫策として江東を駆け回った日々も、どちらも夢とは思えぬほど鮮やかに残っている。


 ならば、せめて確かめておきたいことがあった。


 孫策だった俺にできたことを、この身体でもできるのか。


 矢を番(つが)え、弦を引く。ところが、引き始めてすぐに肩が震え、腕の筋が悲鳴を上げた。かつてなら軽々と扱えたはずの強さに、今の身体はまるでついてこない。


「……硬いな」


 思わず呟く。


「殿下。それは昨日までお使いになっていた弓ですが」


 傍らの近侍が、不思議そうにこちらを見た。


 無論、知っている。孫登としての俺は、この弓を何度も引いてきた。弓術の師から教わった姿勢も、的を狙うときの呼吸も、きちんと覚えている。


 だが、孫策だった俺の腕は、もっと強い弓を知っていた。


 馬上で身体を捻り、振り返りざまに矢を放つ感覚。敵が次にどちらへ動くか、相手の肩が動いた瞬間に見当がつく、あの戦場の勘までもが、確かにこの身に残っている。


 それなのに、肝心の腕が言うことを聞かない。


 俺は奥歯を噛み、改めて的を睨んだ。足の置き方を直し、肩の力を抜いて弦を引き絞る。頭の中では、矢が的の中央を射抜くところまではっきり見えていた。


 弦が鳴った。


 放たれた矢は的の右を通り過ぎ、背後の土塀に乾いた音を立てて当たった。


「…………」


 近侍も黙った。


「今のは風だ」


「風は、ほとんどございませんが」


「では弓だ」


「昨日も同じ弓を」


「もうよい」


 口から出た声が、自分でも驚くほど強かった。


 近侍の肩がびくりと跳ねる。


 しまった。


 孫登なら、こんな物言いはしない。うまく射られなかったとしても、まず自分の未熟を恥じ、世話をする者に当たるような真似はしなかったはずだ。


 それもまた、俺自身の記憶なのだから始末が悪い。


「……すまぬ。少し、寝不足なのだ」


「は、はい。どうぞ御無理はなさらず」


 近侍は丁寧に頭を下げたものの、その目には心配が浮かんでいた。


 昨日まで温厚だった王太子が、朝から弓に八つ当たりしている。これでは前世の記憶が戻った以前に、どこかで頭を打ったと思われかねない。


 弓を置いて深く息をつくと、肩に残った鈍い痛みが、これが夢ではないことを嫌というほど教えてくれた。



 黄武四年。


 孫権は呉王であり、俺、孫登はその王太子だ。


 ここまでは、幾度となく頭の中で確かめた。厄介なのは、その先を思い出そうとするたびに、孫登として知っていることが、何の苦もなく浮かんでくることだった。


 曹操はもういない。劉備もいない。


 そして――公瑾(こうきん)も。


 胸の奥が急に重くなった。


 周瑜。字は公瑾。


 俺と同い年で、江東を取る前から共にいた男。


 その名を心の中で呼んだだけで、胸の奥が急に重くなった。


 周瑜、字は公瑾。俺と同い年で、江東を取るよりも前から苦楽を共にしてきた男だ。あいつとなら、どこまででも行けると思っていた。俺が死んだあとも、きっと仲謀を支えてくれると信じていた。


 孫登としての俺は、周瑜がすでに世を去ったことを知っている。書物でその功績を学び、父や家臣たちが語る思い出にも耳を傾けてきた。


 だが、孫策としての俺は、昨日になって初めて親友の死を知ったのだ。


 二つの記憶があるというのは、便利なばかりではないらしい。頭では知っていることを、心が少しも受け入れてくれなかった。


「殿下」


 物思いを破るように、別の侍者が足早に庭へ入ってきた。


「呂将軍がお見えです」


「子衡(しこう)が?」


 思わず顔を上げると、侍者が目を瞬かせた。


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


 呂範(りょはん)、字は子衡。俺がまだ何者でもなかったころから、傍らにいてくれた男である。孫登にとっては父に仕える重臣だが、孫策にとっては、気心の知れた古い仲間だった。


「……お通ししろ」


 また命令口調になってしまったが、侍者はそれを気にする暇もなく、足早に去っていった。


 どうやら孫登という男を続けるのは、戦をするより難しい。


 ほどなくして、庭へ一人の男が入ってきた。


 その姿を見た瞬間、懐かしさと戸惑いが同時に込み上げた。見覚えのある顔なのに、俺の知る呂範とはどこか違っていたのである。


 髪には白いものが混じり、目尻には深い皺が刻まれている。それでも衣の仕立ては相変わらず見事で、腰に下げた佩玉(はいぎょく)に至るまで抜かりがない。昔から身なりには人一倍気を遣う男だったが、そのあたりは歳を取っても変わらぬらしい。


 二十五年。


 俺が知らぬ間に過ぎた年月が、初めて人の姿をして目の前に現れた気がした。


「殿下。昨日、御気分を崩されたと伺いましてな」


 呂範が恭しく拝礼する。


 俺は危うく、その肩を叩きに駆け寄るところだった。


 子衡、老けたな。相変わらず洒落た格好をしているじゃないか。


 そんなことを言って笑い、昔のように酒でも持ってこさせたかった。


 しかし、足は動かなかった。


 孫登としての記憶が、この人は父の重臣であり、自分よりはるかに年長の将軍なのだと告げている。親しげに肩を叩くなど、王太子としてあるまじき振る舞いだ。


「……心配をかけた。もう大事ない」


 ようやくそう答えると、呂範は安堵したように顔を上げた。


「それは何より。大王も随分と御心配でございました」


 仲謀が俺を心配していたのか。


 そう思うと、妙に嬉しかった。もっとも、それが弟に案じられた嬉しさなのか、父に気遣われた安堵なのか、自分でも判然としない。


「子衡も変わらぬな。そのように着飾るところは」


 口にしてから、周囲の空気が変わったことに気づいた。


 呂範が瞬きをし、控えていた侍者たちまでこちらを見る。


 ……これは、まずい。


「殿下」


 呂範の声が、わずかに低くなった。


「私を子衡とお呼びになったことが、以前ございましたかな」


「父上から、昔の話を聞いたのだ。伯父上が、そう呼んでいたと」


 咄嗟に答えたものの、呂範はすぐには頷かなかった。俺の顔をじっと眺め、その視線を逸らさぬまま、何かを考えている。


 やがて、ふっと口元を緩めた。


「なるほど。大王も、ずいぶん昔のことをお話しになる」


「何かおかしいか」


「いえ。ただ――」


 呂範は俺の衣を一瞥(いちべつ)し、それから自分の袖を見下ろした。


「討逆将軍*にも、昔よく言われましたのでな。『子衡、お前は戦場へ行くのか嫁を取りに行くのか分からぬ』と」


 思わず吹き出してしまった。


「実際、お前は――」


 言いかけた言葉を、慌てて飲み込む。


 呂範の目が細くなる。


「実際?」


「……伯父上なら、そのくらい言いそうだと思ってな」


「左様でございますか」


 口元には笑みが残っている。だが、その目はあまり笑っていなかった。


 この男は昔から、妙なところで勘がいい。敵の腹を探るときにも、こちらが隠し事をしているときにも、こういう目をしたものだった。


 俺は咳払いを一つして、意識して呼び方を改めた。


「ところで、呂将軍。父上は、今の呉をどう見ておられる」


「また急な御問いですな」


「知りたいのだ。魏とのことも、蜀とのことも。父上がどのように考え、将軍たちが何をしてきたのか。……特に私が生まれる前のことを」


 最後の言葉には、思いのほか力がこもった。


 呂範は何かを感じたのか、すぐには答えなかった。


「殿下は、これまで十分に学んでこられたはずですが」


「書で知るのと、人から聞くのは違う」


 これは、孫登の言葉だった。


 口にしてみて、自分でもそう思った。


 実際、今の俺には、話を聞きたい相手が大勢いる。


 呂範はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「では、いずれゆっくりと。私の知ることでよければ」


「頼む」


 その一言が、孫策と孫登のどちらのものだったのか、俺にはわからなかった。


 呂範が帰ったあと、俺は部屋に戻った。


 机には、昨夜開いたままの竹簡がある。


 ――『一木倒れて、万枝乱る。』


 その言葉を指でなぞる。


 公瑾はもういない。


 魯子敬*も、子明*もいない。


 俺が死んだあとにも、皆は生き、戦い、そして死んだ。


 それでも江東は残っている。


 仲謀が残した。


 ――いや。


 父上が、残したのだ。


 その呼び方が胸に落ちるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。


 そこへ、侍者が遠慮がちに声をかけてきた。


「殿下。太傅より、婚儀についてお話があるとのことです」


「婚儀?」


 孫登の記憶が、何より早く答えを返してきた。


 今年、俺は妃を迎える。


 相手は――。


「周都督の御息女でございます」


 俺は竹簡を取り落とした。


 公瑾。


 お前、娘がいたのか。


 いや、知っている。


 俺は知っているはずなのだ。


 だが、それとこれとは別だ。


 死んだ親友の娘を、弟の息子になった俺が娶る。


 天というものは。


 やはり、よほど性格が悪いらしい。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


・呂範(子衡)169年〜

 孫策を知る人物。元は袁術の配下で、袁術に身を寄せた孫策に味方し、臣下として、孫策の江東進出を支援した。豪華な服飾を好んだ(史実です)


 討逆将軍⋯ 雑号将軍の一つ。孫策のことを指す

 魯子敬⋯魯粛のこと

 子明⋯呂蒙のこと


読んでいただきありがとうございます。

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