第一話:死んだはずの小覇王
俺が死ぬ間際に見たものは、敵の顔でも、懐かしい故郷の景色でもなかった。
降ろされる、江東の旗だった。
建安五年、西暦にして二〇〇年。
俺、孫策は死の床にあった。
狩りの途中で刺客に襲われ、負った傷が思いのほか深かったのである。医者は口を揃えて静養を勧めたが、今さら寝ているだけで治るとも思えなかった。
何より、俺にはやり残したことが多すぎた。
江東を平らげ、ようやく天下を争う足場を築いたところだ。北には曹操がいる。西には劉表がいる。これからという時に、天は俺を見捨てるつもりらしい。
まったく、気の早い話だ。
「兄上」
寝台の傍らに立つ弟が、俺を呼んだ。
孫権。字は仲謀。
まだ若い。俺に比べれば物静かで、何かを決めるにも人の意見をよく聞く。昔はそれが歯がゆくて、何度叱りつけたか知れない。
だが、今はその慎重さが頼もしかった。
「仲謀。江東のことは、お前に任せる」
弟の顔が強張った。
「そのようなことを仰らず、まずは傷を治してください」
「治るものなら、とっくに治している」
笑ってやるつもりだったが、うまく声が出なかった。
仲謀は唇を噛み、黙って俺の言葉を待っている。
「戦場で敵の隙を見つけ、兵を率いて道を切り開くことなら、俺のほうが得意だろう。だが、人を用い、それぞれの力を尽くさせることでは、お前に分がある」
「兄上……」
「俺の真似をするな。お前には、お前のやり方がある」
そう言って、弟の手を握った。
思えば、こいつには随分と無理をさせた。俺が前へ出るたび、後ろに残った仲謀が面倒を片づけてくれたのだ。
その苦労を、俺はどれほど理解していただろう。
「頼んだぞ、仲謀」
弟は何も言わず、強く頷いた。
これでよい。
俺が築いた江東を、仲謀が守る。いつの日か、孫家の旗が天下に翻ることもあるだろう。
そう信じて目を閉じた。
――そのときだった。
瞼の裏に、見知らぬ光景が浮かんだ。
壮麗な宮殿。向かい合って言い争う、よく似た顔立ちの男たち。
薄暗い部屋で、ひとり俯く老臣。
そして、長江を渡って押し寄せる無数の軍船。
最後に見えたのは、地に伏した孫家の旗だった。
馬鹿な。
俺は目を開こうとした。だが身体は動かず、光景だけが次々と移り変わる。
やがて、どこからともなく声が聞こえた。
『一木倒れて、万枝乱る』
男とも女ともつかぬ声だった。
『天に二日なし。されど呉の空には、二つの日が昇る』
何を言っている。
天に二つの太陽が昇るものか。
『城は外より破れ、国は内より亡ぶ』
待て。
それはどういう意味だ。
俺が死ねば、江東は乱れるというのか。
仲謀が国を失うとでもいうのか。
答えろ。
俺はまだ――。
そこで、すべてが闇に沈んだ。
◇
二十五年後。
俺は、孫登という名の少年だった。
いや、今も孫登である。
ただ、その日の朝までは、それだけだった。
黄武四年。西暦二二五年。
父は呉王・孫権。俺はその長男であり、王太子の位にあった。
十六年の人生に、特に不満はなかった。
父は多忙ながら俺を気にかけてくれる。師たちは熱心に教え、周囲の者たちも親切だった。俺自身、書を読み、人と議論するのが好きだった。
武芸は、あまり得意ではない。
そのことを恥じた覚えもなかった。
少なくとも、あの朝までは。
「登。また書を読んでおったのか」
声に顔を上げると、父が立っていた。
四十を過ぎた父は、家臣の前では威厳を崩さない。しかし俺と二人になると、ときおり昔話をしてくれる。
「はい、父上」
「少しは外へ出よ。書物ばかり相手にしていては、身体が鈍るぞ」
「昨日は弓の稽古もいたしました」
「それは聞いておる。的に当たらなかったそうだな」
「……師が、風向きも考えねばならぬと」
「風のせいにしたのか」
父が笑った。
俺もつられて笑う。
こんな穏やかな時間が、好きだった。
父は机の上に広げた書物を覗き込んだ。
「『礼記』か。お前は本当に学問が好きだな」
「まだ知らぬことばかりです」
「そのように答えるところが、いかにもお前らしい」
父はしばらく書物を眺めていたが、ふと遠い目をした。
「兄上にも、少しはお前を見習っていただきたかったものだ」
「伯父上に、ですか」
「ああ。兄上は、何かを思いつけばすぐ馬に乗るお方だった。こちらが止める暇もない。あの方についていくのは、なかなか骨が折れたぞ」
懐かしそうな声だった。
「だが、不思議と皆がついていった。兄上が笑えば、勝てぬ戦にも勝てるような気がしたものだ」
父は小さく笑った。
「もっとも、負ければどうするつもりだったのか、一度聞いてみたかったがな」
その瞬間。
胸の奥で、何かが弾けた。
――仲謀。
そう呼んだ覚えがあった。
目の前の父ではない。
まだ少年の面影を残した、若い弟。
俺の後ろを懸命についてきた、あの仲謀だ。
馬の蹄の音が聞こえた。
風を切る感覚。兵たちの歓声。公瑾と酒を酌み交わした夜。
江東を駆けた日々。
そして、死の床で握った弟の手。
忘れていたのではない。
今まで、思い出せなかったのだ。
「……仲謀」
声が漏れた。
「何だ?」
父がこちらを見る。
俺は立ち上がろうとした。
だが、思ったほど素早く身体が動かない。膝が机の脚に当たり、積んであった竹簡が音を立てて崩れた。
「登!」
父が驚いて身を乗り出す。
俺は反射的に、その肩を叩こうとした。
昔のように。
何を驚いている、仲謀。俺だ。伯符だぞ、と。
しかし、伸ばしかけた手は途中で止まった。
呉王の肩に、王太子が気安く手を置くなど。
そんな考えが、当たり前のように浮かんだからだ。
俺は自分の手を見つめた。
細い。
剣を握ったことのない手ではない。だが、かつて幾度も戦場を駆けた俺の手とは違う。
それだけではなかった。
目の前の男を、俺は弟だと知っている。
同時に、父だとも知っていた。
幼い頃に抱き上げてもらった記憶がある。病に伏した夜、見舞いに来てくれたことも覚えている。初めて書を褒められたとき、どれほど嬉しかったかも。
すべて、俺の記憶だった。
孫策として生きた二十五年。
孫登として生きた十六年。
二つの生涯が、ひとつの胸の中にあった。
「顔色が悪いぞ。医者を呼ばせよう」
父の声に、我に返った。
「いえ……父上。少し、立ちくらみがしただけです」
父上。
口にした途端、奇妙な気持ちになった。
俺より五つも年下だった弟が、俺の父親になっている。
いったい、どういう冗談だ。
しかも、今の俺はそいつに心配され、肩まで支えられている。
仲謀。お前、いつの間にそんなに大きくなった。
「本当に大事ないのか」
「はい。ご心配をおかけしました」
言葉が自然に出た。
かつての俺なら、「この程度で騒ぐな」と笑い飛ばしただろう。
だが今は、父を安心させたいという気持ちが先に立つ。
孫登という少年は、確かにここにいる。
父はしばらく俺を見つめていたが、やがて人を呼び、休むよう言いつけて部屋を出ていった。
ひとりになると、俺は大きく息を吐いた。
夢ではない。
俺は死んだ。
そして、仲謀の息子として生きていた。
天というものは、よほど人をからかうのが好きらしい。
だが、笑ってばかりもいられなかった。
あの声を思い出したのだ。
『一木倒れて、万枝乱る』
『天に二日なし。されど呉の空には、二つの日が昇る』
『城は外より破れ、国は内より亡ぶ』
あれは、ただの死に際の夢だったのか。
それとも、本当にこれから起きることなのか。
机の上には、先ほどまで読んでいた書物がある。
俺は散らばった竹簡を拾い、文字を追った。
――天に二日なく、土に二王なし。
見覚えのある言葉だった。
孫登として学んだ知識が、その意味を教えてくれる。
天に太陽は二つなく、国に君主は二人いない。
ならば、あの声はなぜ「呉の空には二つの日が昇る」と告げたのか。
何かのたとえか。
それとも、俺の知らぬ故事があるのか。
かつての俺なら、こんなことを考えるより先に馬を走らせていただろう。
敵がいるなら探し出し、戦えばよい。
だが、今度の敵はどこにいる。
そもそも、敵なのかどうかさえわからない。
俺はもう一度、書物を開いた。
生前の俺が見たら、腹を抱えて笑うに違いない。
江東の小覇王と呼ばれた男が、たった三つの言葉に手も足も出ず、竹簡とにらめっこをしているのだから。
それでも、確かめねばならなかった。
俺が見た、あの旗。
あれが本当に孫家の未来だというのなら。
俺は孫登。呉王・孫権の息子にして、王太子。
そして、かつて孫策と呼ばれた男である。
この二度目の命が何のために与えられたのか、まだわからない。
ただ、ひとつだけわかったことがある。
俺が死んだあとも、仲謀は生きていた。俺が託した江東を、二十五年ものあいだ守り続けてきたのだ。
あいつがどんな思いでその年月を過ごしたのか、今の俺にはまだわからない。だが、あの夜に見た、地に落ちる江東の旗だけは、どうしても忘れられなかった。
兄として託したものを、今度は息子として受け継ぐことになるとは。
まったく、妙な巡り合わせもあったものだ。
俺は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの空の下、宮城の旗が風を受けて揺れている。
あの旗を、降ろさせるわけにはいかない。
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・孫登/前世・孫策(主人公)
225年・16歳/孫策の享年は26歳
孫策に似た鋭い目元を持つが、線の細い少年。姿勢や所作は端正。体力は人並みで、武勇は前世ほどではない。
孫策と孫登は別人格の入れ替わりではなく、どちらの人生も「俺」のものとして描いています。
読んでいただきありがとうございます。
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