第6話 北へ
夜が明けても、王都の空は黒いままだった。
小高い丘の上から振り返ると、城のあったあたりから何本もの煙の柱が立ちのぼっていた。風に乗って灰が流れてくる。焦げた木と何か嫌な脂の混じった匂いが、ここまで届いていた。
丘のふもとの街道は逃げてくる人であふれていた。荷車を引く者、子どもを背負う者、何も持たずにただ歩く者。誰もが煤で顔を黒くして、うつむいたまま王都とは反対の方角へ流れていく。
道ばたで小さな子どもが泣いていた。母親らしい女がその手を引きずるようにして歩いていく。泣き声はやがて人の波に呑まれて聞こえなくなった。
それを見ても、俺は何とも思わなかった。
俺は街道から少し離れた草むらを、人の流れに沿って歩いた。
作業着は血で固まり、左の袖と左の裾がちぎれたままだった。この格好で人ごみに紛れれば、嫌でも目立つ。手には鞘もない抜き身の剣を握っている。
腹が鳴った。昨夜から何も口にしていなかった。
街道を行く人々の声が、ところどころ風に乗って聞こえてきた。
「ナイデンの連中、城の中まで入りこんだらしい」
「王様はどうなったんだ」
「知らん。だが、もうルーフェンはおしまいだ」
ナイデン。それがあの見慣れない色の鎧の連中の国の名前らしかった。
よその国が攻めてきて、この国を潰した。分かったのはそれだけだった。それで十分だった。俺を呼びつけた国も、俺の手足を切り落とした国も、どちらも好きにはなれない。どちらにも見つからない場所へ行けばいい。
昼過ぎに街道が二つに分かれるところへ出た。
分かれ道の真ん中に木の道標が立っている。二枚の板にそれぞれ文字が刻まれていた。俺はその前で立ち止まり、しばらく板を見上げていた。
読めない。
召喚の間の壁の布と同じだ。ミミズがのたくったような線が、俺をあざ笑うように並んでいる。
人の流れはほとんどが右の道へ向かっていた。きっとその先に別の大きな町があるのだろう。
左の道は北西へ延び、その先に遠く青く霞んだ山々が連なっていた。そちらへ向かう者は、ほとんどいない。
俺は左の道を選んだ。
人が少ないほうがいい。攻めてきた軍も追っ手も、あんな山奥まではすぐには来ないはずだ。
夕方、道から少し外れた窪地で、横倒しになった荷車を見つけた。
荷台はひっくり返され、木箱が壊されて中身が散らばっている。そのそばに旅装束の男がうつ伏せに倒れていた。背中に大きな刀傷があった。逃げる途中で誰かに襲われたのだろう。
男はもう、冷たくなっていた。
俺は男の体を仰向けに返した。
指が男の首筋に触れたが、何も流れこんでこなかった。こいつもスキルを持っていなかったらしい。
男の外套を剥ぎ取り、荷物を探った。麻のシャツとズボンが一揃いと、干し肉が少し。外套の内側に縫いつけた隠しから、革の袋に入った硬貨が何枚か出てきた。価値は分からないが、ないよりはましだ。
血まみれの作業着を脱いで、男のシャツとズボンに着替えた。少し丈が短かったが、贅沢は言えない。脱いだ作業着は壊れた木箱と一緒に窪地の奥へ押しこんだ。
靴だけは、履き替えなかった。
工場の安全靴だ。爪先に鉄板の入った、重くて不格好な靴。この世界のどんな靴よりもたぶん頑丈だった。
着替え終えてから、窪地にたまった雨水をのぞきこんだ。眼鏡をかけていない短い髪の男が、知らない男の服を着てこちらを見返していた。
眼鏡をかけ、作業着を着ていた新人はもうどこにもいなかった。
干し肉をかじりながら、俺は歩き続けた。
二日目に街道沿いの小さな村でパンを買った。硬貨を一枚差し出すと、店の女は目を丸くして、パンを三つと手のひらいっぱいの小銭を返してよこした。思っていたよりもずっと価値のある硬貨だったらしい。店先では誰かが、どんな傷でも治るという薬が山のほうから出回っている、と話していた。傷なら放っておいても治る体だ、と俺は聞き流した。女は俺の抜き身の剣を何度も横目で見ていた。
それからは剣を外套の下に隠して歩くことにした。
夜は道を外れた木立の中で眠った。目を閉じると、知らない誰かの最期が浮かんでくる。胸を貫かれる冷たさ。孫を呼ぶ声。女の足元にしがみつく小さな男の子。あの子たちだけは、という祈り。
それから、長い前髪の奥の佐倉の目と、かすれた声。
――辛そうな君の味方に、なれず……ごめん。
俺は寝返りを打って、その声を頭の外へ追い出した。
三日目から、奪った力をひとつずつ試すことにした。
頭に流れこんできたのは、名前と単純な力だけだった。どう使えば何ができるのか、どこまでできるのかは、自分で確かめるしかない。
工場で古い製品を任されたときと同じだ。手順書がないなら、よく観察し、必要な情報を書き出すのだ。『現場』『現物』『現実』の三現主義はこの世界でも役に立つ。
まず【剛力】。
道ばたの岩に両手をかけて、力をこめる。俺の背丈ほどもある岩が、根元の土ごとめりめりと持ち上がった。腕がしびれるような感覚はあるが、痛みはない。長く持ち上げ続けると、息が上がった。力は強くなっても、体力までは増えないらしい。
次に【匠の手】。
手ごろな石を拾って、手のひらで包みこむ。形を思い描くと、石が粘土のように柔らかくなり、指のあいだで伸びていった。思い描いたとおりの刃物の形にはならず、出来上がったのはいびつな石の小刀だった。
それでも、刃はちゃんと物を切った。
いびつな刃を指でなぞったとき、胸の奥で何かがほんの少しだけ動いた。子どもの頃は工作の時間が好きだった。そんなことをなぜか思い出した。
けれど、すぐにどうでもよくなった。小刀を腰の紐に差して、次へ進んだ。
【炉守り】は夜になってから試した。
小さな焚き火を起こして、火に意識を向ける。その夜は小雨が降ったが、火は一度も消えなかった。薪が尽きかけても、炎は細くなるだけで、朝まで燃え続けていた。
家田さんの、いつもエプロン姿だった背中を思い出した。この火があれば、あの人は毎日家族の飯を炊いてやれただろう。
便利な力だ、とだけ思って、燃えさしに土をかけた。
【誓いの重み】は何も起きなかった。
試しに「生き延びてやる」と口に出しても、体は変わらない。誓いと呼べるほどのものを俺は持っていないらしい。
【術式読み】も使い道がなかった。
城で奪ったほかの力も、名前は頭に残っているが、どれも地味だった。【防錆】などは、剣の手入れくらいにしか使えそうにない。
【不屈】を確かめる機会は、五日目の夜にやってきた。
焚き火の向こうの暗がりで、いくつもの目が光った。
狼に似た獣だった。だが、狼よりもひと回り大きく、目が鈍い緑色に光っている。四頭。低いうなり声が木立のあいだから迫ってくる。
心臓が跳ね上がった。
あの牙で喉を食い破られたら、【瞬癒】でも助からない。額に矢を受けた不破の姿がまた頭をよぎる。
その恐怖が、そのまま熱に変わった。剣を握る指先まで力がみなぎっていく。
最初の一頭が飛びかかってきた。俺はそれを横に払った。剣が獣の首を半ばまで断ち、獣は悲鳴を上げて地面に転がった。二頭目、三頭目。体が勝手に動く。気がつくと四頭とも焚き火のまわりに倒れていた。
息を整えるうちに、体の奥の熱がすうっと引いていった。戦いが終われば、力も消える。怖さや痛みが強いほど、力は増す。そういうものらしい。
倒れた獣に触れてみた。
何も流れこんでこなかった。獣にスキルはないのか。それとも、この獣が持っていなかっただけなのか。分からない。
影山たちのときも名前を聞いていたのに何も来なかった。窪地の男も、この獣も同じだ。
分からないことが、また増えた。
それから先も、俺は北西の山を目指して歩き続けた。
道はしだいに細く、険しくなっていった。畑が減り、松の林が増え、朝晩の空気が冷たくなっていく。すれ違う人もほとんどいなくなった。
王都を出て、十日あまりが過ぎた頃だった。
尾根道の上から谷底の街道を見下ろしたとき、遠くで悲鳴が上がった。
荷馬車が三台止まっていた。その周りを薄汚れた身なりの男たちが十人ほど取り囲んでいる。剣や斧を手にした男たちが荷馬車の御者を引きずり下ろしていた。商人たちの荷を狙った、盗賊の群れらしかった。
俺は尾根の岩陰に身を伏せて、その光景を見下ろした。
盗賊たちの中に、ひとりだけ妙に落ち着いた男がいた。ほかの連中に指図をしながら、こちらとは別の方角へ何度も鋭く目を走らせている。
あいつらの中に、スキルを持っている奴がいるかもしれない。
そう思ったとき、俺は自分が少しも迷っていないことに気づいた。




