第4話 ごめん
城の奥へ進むほど、煙の匂いが濃くなっていった。
どこかで火が出ているらしい。天井の低い廊下には灰色の煙が薄く漂い、壁の松明の光をにじませている。石の床には、騎士の死体と見慣れない色の鎧の死体が折り重なるように転がっていた。遠くからはまだ剣のぶつかる音と、誰かの悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。
広間で死んだ者に触れ、力を奪ったばかりだ。体はまだ再生の途中で、作業着の左の袖は肘の上から、ズボンの左の裾は膝の下から、ちぎれてなくなっていた。むき出しになった新しい腕と脚に、煙の熱がまとわりつく。召喚した側にも襲ってきた側にも、俺の味方はいない。
死体の横を通りすぎるたびに、つい目が向いた。どれがスキルを持っていたのか、見ただけでは分からない。それより奥から聞こえてくる剣の音のほうが気になった。騎士たちがまだ戦っているなら、そこにはスキルを持った連中がいるはずだ。
角を曲がったところで、足が止まった。
廊下の先で、騎士がひとり壁際に追い詰められていた。それを囲んでいるのは、見慣れない色の鎧の兵が三人と、ひときわ大きな男がひとりだった。
大男はほかの兵よりも厚い鎧を着て、肩に赤い布を巻いている。頬から顎にかけて古い刀傷が走っていた。男が無造作に剣を振ると、騎士の剣が弾き飛ばされ、次の一振りで騎士の首が落ちた。男は刃の血を軽く払っただけで、騎士には目もくれない。
「百人隊長殿、こちらにも召喚士はおりません」
「探せ。奥の塔だ。生かして連れ帰らねば、ここまで来た意味がない」
低くて、よく通る声だった。
百人隊長と呼ばれた男がふとこちらを振り返った。目が合った。
男の視線が俺の着ている作業着の上をゆっくりと這う。この城の誰とも違う服だ。
「……異界の者か」
男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「召喚士でないなら、用はない。片づけろ」
兵がふたり、剣を構えてこちらへ向かってきた。
逃げる、という考えは浮かばなかった。広間で奪った力が、腹の底で熱く渦を巻いている。
先に斬りかかってきた兵の腕を、俺は右手でつかんだ。
【剛力】。そう念じるより早く、体が動いていた。つかんだ腕ごと兵を振り回すと、鎧を着た男の体が嘘のように軽く宙を舞った。兵は壁に叩きつけられて、うめき声を上げたまま床に伸びた。
――いける。
二人目の兵の剣が俺の脇腹をかすめた。熱い痛みが走る。けれど、【瞬癒】がすぐに傷を塞いでいく。俺は笑いながら、その兵の兜を拳で殴りつけた。兜がへこみ、兵はふらつきながら膝をついた。
「ほう」
百人隊長が初めて興味を持ったように目を細めた。
男はゆっくりと剣を構え直した。それだけで、空気が変わった。さっきの兵たちとは、まるで違う。構えには一分の隙もない。
踏みこんできた。
速い。目で追うのがやっとだった。俺は【剛力】に任せて腕を振り回したが、男はそれを半歩でかわし、すれ違いざまに俺の太腿を斬り裂いた。二度、三度と振った腕は、空を切るだけだった。
傷はすぐに塞がる。だが塞がるより早く次の一撃が来る。荒い息をつく俺とは違って、男の呼吸は少しも乱れていなかった。肩。脇腹。腕。男の剣はまるで最初からそこに道が引いてあるかのように、正確に俺の体を刻んでいく。
力の大きさなら、負けていないはずだった。腕をひと振りすれば、鎧を着た兵が宙を舞う。それなのにその腕がどうしても男に届かない。
力はある。だが、使い方が分からない。
俺は床に手をついて、【匠の手】を叩きこんだ。石の床がぐにゃりと盛り上がり、男との間に不格好な壁ができる。
壁は剣が触れた側から崩れ、そのまま剣先が俺の頬を薙いだ。崩れた石の破片がばらばらと床に散った。
【誓いの重み】も試した。何も起きなかった。守るべき誓いなど、俺はひとつも持っていない。
「傷が塞がるのか。面白い力だ」
男はまるで道具の具合でも確かめるような目で、俺の頬の傷が閉じていくのを見ていた。
「ならば、首を落とすまでだ」
その言葉を聞いた瞬間、体が凍りついた。
額に矢を生やして倒れた、不破の姿が浮かんだ。どんな傷でも治る力は、一撃で死んだ人間には何の役にも立たない。首を落とされたら、終わりだ。
男の剣がまっすぐ俺の首を狙って跳ね上がった。
俺は無様に身をよじった。刃が耳をかすめ髪がひと房宙に散る。体勢を崩したところに、男の蹴りが腹にめりこんだ。
背中から何かを突き破った。木の砕ける音がして、俺は扉ごと隣の部屋の床に転がりこんだ。
転がりこんだ先は、小さな礼拝堂のような部屋だった。
正面の壁に、天を仰ぐ人の姿を描いた大きな布が掛かっている。並んだ長椅子はほとんどがなぎ倒され、そのあいだに騎士たちの死体が何人も転がっていた。燭台が倒れて、床の上で細い火がくすぶっている。焦げた布と血の匂いが混じり合っていた。ここでもついさっきまで戦いがあったのだ。
俺のすぐ横に、誰かが仰向けに倒れていた。
佐倉だった。
見覚えのある作業着は胸から腹にかけて真っ赤に染まっていた。右手にはどこかの騎士のものらしい剣を握ったままだ。その指が小刻みに震えている。
まだ、生きていた。けれど、その呼吸は浅く、ひと息ごとに胸の傷から血があふれ出していた。助からないことは、俺にも分かった。
「……末永、くん」
長い前髪のあいだから、うつろな目が俺を見上げた。
佐倉の唇がかすかに動く。喉の奥で血の泡がごぼりと鳴った。
「……ごめん」
何を言っているのか、分からなかった。
佐倉は浅い息を何度か繰り返してから、言葉を継いだ。
「パートだったから……辛そうな君の味方に、なれず……ごめん」
息が止まった。
工場で班長に食ってかかるたびに、長い前髪の隙間からこちらを見ていた目を思い出した。すぐに逸らされた目。俺はあれを、関わりたくないという意味だと思っていた。
班長に逆らえないパートの佐倉には、目を逸らすしかなかったのか。
佐倉の右手が剣を離した。震える指が俺のほうへゆっくりと伸びてくる。
その指は俺に届く前に、力なく床に落ちた。
佐倉の胸が、もう動かなかった。
部屋の外で重い足音がした。百人隊長がこちらへ近づいてくる。
時間がない。分かっている。目の前に、死体がある。広間で何度もやったことだ。
それなのに、手が動かなかった。
こいつは、俺を笑わなかった。
けれどこいつも、俺を助けてはくれなかった。
今さら謝られて、何になる。死んでいく人間の言葉ひとつで、何が変わる。
伸ばしかけた指は、佐倉の手の上で止まったままだった。
この力があれば、あの男に勝てるかもしれない。読み上げられたとき、召喚の場で騎士たちがざわめいた、あの力だ。ここで迷えば、俺も佐倉と同じ床の上で死ぬ。
足音が扉の前で止まった。
俺は奥歯を噛みしめて、佐倉の手に触れた。
【不屈】
名前と一緒に、力の意味が流れこんでくる。戦う意志がある限り、体の力も剣の冴えも、大きく引き上げられる力。恐れも痛みも、そのまま力に変わる。
それから、佐倉の最期の欠片が頭の中へ流れこんできた。
――工場の、いつもの夜。ラインの最後尾で、班長に食い下がる背中。何か言わなければと思う。けれど、喉が動かない。
――知らない男たちに両腕をつかまれて、引きずられていく。怖い。怖くて、足が震える。
――倒れた騎士の手から、剣を拾い上げる。重い。指が震えて、うまく握れない。それでも、構える。
――怖い。それでも、逃げない。
――最後に、すぐそばに誰かが転がりこんでくる。ああ、末永くんだ。言わなきゃ。今度こそ、言わなきゃ。
頭痛は広間のときよりも、ずっと静かだった。
その代わりに胸の奥の、どこか知らない場所が痛んだ。
あいつは、ずっと言おうとしていたのか。工場で目を逸らしたあのときも。俺が背を向けて、次の部品に手を伸ばしていたあいだも。
俺はその痛みごと、振り払った。
知るか。そう思おうとした。思いこもうとした。
佐倉の手から離れた剣を拾い上げる。
柄にはまだ、あいつの手の温かさが残っていた。
握った瞬間、体の芯から熱いものが噴き上がってきた。首を落とされる恐怖。手足を切り落とされた痛み。笑われた屈辱。そのすべてがひとつ残らず力に変わっていく。指の先まで力がみなぎっていく。
壊れた扉の向こうに、百人隊長が姿を現した。
「まだ動けるか。しぶとい奴だ」
男の目が俺の手の剣に止まった。
「その剣……さっきの小僧が、震えながら振り回していたものだな」
それを聞いて、腹の底で何かがはっきりと形になった。佐倉を斬ったのは、こいつだ。
男が剣を構える。さっきは一分の隙もないと思った構えだった。
今はその剣の切っ先が、ひどく遅く見える。男の肩の動きも、足の運びも、次にどこへ剣が来るのかも、手に取るように分かった。
俺は佐倉の剣を構えて、立ち上がった。
怖さはまだ消えていない。消えていないのに、負ける気がまるでしなかった。




