第3話 喰らってやる
大扉の向こうの廊下は、壁の松明に照らされて奥まで赤く浮かび上がっていた。
その真ん中で、早瀬と班長と影山がひとかたまりになって立ちすくんでいる。行く手をふさぐように、見慣れない色の鎧の列が廊下の幅いっぱいに迫っていた。槍の穂先が松明の火を受けてぎらぎらと光っている。鎧の擦れる音と規則正しい足音が、石の壁に反響して近づいてくる。岩田さんが家田さんの腕を引いて、広間のほうへ後ずさっていくのが見えた。
俺は床に頬をつけたまま、それを見ていた。左腕と左脚の切り口ではまだ肉がうごめき続けている。
最初に動いたのは早瀬だった。
早瀬は悲鳴を上げて踵を返し、こちらへ駆け戻ろうとした。速い。人間とは思えない速さだった。あれがさっき読み上げられた、足の速くなる力なのだろう。
だが、背中に槍が三本突き立つほうが、もっと速かった。早瀬は前のめりに倒れて、そのまま動かなくなった。
「待て! 待ってくれ! 俺は――俺たちは、ただの――」
班長が両手を広げて兵士たちに何か命じるように叫んだ。工場で何百回も聞いた、指示を出すときの声だった。
兵士たちはその声に一瞬だけ足を止めたように見えた。けれど、次の瞬間には班長の太った体を剣が袈裟がけに切り裂いていた。
影山はその場に両膝をついた。
「助けてくれ……! なあ、頼むよ、何でもする! 何でもするから!」
日焼けした大きな背中が床に額をこすりつけて震えている。工場で俺を笑っていたあの声が裏返って、みっともなくかすれていた。
兵士のひとりが無造作に剣を振り下ろした。
影山の声が、途中で消えた。
――ざまあみろ。
最初に湧いてきたのは、それだった。
次に湧いてきたのは、それよりもずっと熱くて、どす黒いものだった。
「……ふざけんなよ」
あいつらは俺の手の届かないところで、俺の知らない連中に殺された。俺を笑って、俺を突き飛ばして、何ひとつ償わないまま、勝手に死んでいった。
それで終わりなのか。俺のこの腕と脚は、誰が返してくれるんだ。
償わせたい相手が先に死んだのなら、償わせる先は、残った連中しかない。
「許せねぇ……俺を下に見た奴ら全員!」
喉が裂けるほど叫んでいた。
あいつらだけじゃない。突き飛ばされて囮になった俺に、背を向けて逃げた連中も、俺の手足を切り落として笑いもしなかった兵士も、俺を値踏みして冷たい目で見たこの国の連中も、全員だ。
「力さえあれば! こいつらみんな、殺してやるのに!」
すぐ近くでどさりと重いものが倒れる音がした。
振り向くと、騎士がひとり胸を剣で貫かれて床に崩れ落ちるところだった。見覚えのある鎧だった。さっきまで俺の真後ろに立っていた騎士だ。騎士は二度ほど口を動かして、それきり息をしなくなった。
その騎士を斬った兵士はもう次の相手に向かっている。床に這いつくばった俺のことなど誰も見ていなかった。
俺は生え始めたばかりの左腕と、無事な右腕で床をかいて、その死体に這い寄った。
鉄の手甲に指を触れる。
【誓いの重み】
名前が頭の中に響き、意味が流れこんでくる。誓いを守るほど、体が強くなる力。
それと一緒に、この騎士の最期が頭の中へ割りこんできた。
剣が胸に入ってくる冷たさ。家で待っている誰かの顔。そして、ほんの少し前に聞いた、誰かの低い声。
「閣下のお言葉は、確かに承った。あの死体漁りは、儀のあとで始末する」
割れるような頭痛に、俺は歯を食いしばった。他人の記憶の切れ端がばらばらに散らばって、頭の中で暴れ回っている。何の話なのか、考える余裕などなかった。
振り払う。こんなものは、どうでもいい。
大事なのは、俺の中に力がひとつ増えたということだけだ。死んだ人間に触れるだけでいい。それが分かれば十分だった。
「……はは」
笑いがこぼれた。
広間を見渡すと、あちこちで人が倒れ、あちこちで人が死にかけていた。
「喰らってやるぞ……! こいつらのスキル、全部!」
柱の陰から、短い悲鳴が上がった。
ずんぐりした岩田さんとエプロン姿の家田さんが、兵士に見つかって引きずり出されるところだった。岩田さんは家田さんをかばうように前に出て、兵士の腕をつかんだ。兵士の体が、ぶん、と横に振り回される。さっき読み上げられた【剛力】の力だろう。
だが、すぐに別の兵士が後ろから岩田さんの背中を刺した。家田さんが叫ぶ暇もなく、その喉にも刃が走った。
ふたりが床に倒れるのを、俺は見ていた。
岩田さんは、最後まで家田さんをかばっていた。俺をかばった奴は、ひとりもいなかった。
這った。手が、一度だけ止まった。それでも、もう止まらなかった。
岩田さんの手に触れると、【剛力】の名前と一緒に、腕に力がみなぎるような感覚が流れこんできた。それから、知らない家の居間と、誰かが作った弁当の包み。
家田さんの手は、思っていたよりもずっと小さかった。【炉守り】。火を絶やさず守る力。流れこんできたのは、小さな子どもの笑い声だった。孫だろうか。「ばあば」と呼ぶ声が、何度も頭の中で響いた。
頭の奥がきしむように痛んだ。目の奥が焼けるように熱い。誰かの人生の最後の欠片が次々に俺の中に積み重なっていく。
知るか。
お前らだって、俺のことなんか見てもいなかっただろうが。
壁際ではローブの男が床に倒れていた。召喚の間で膝をついていた連中とは少し違う色のローブだ。腹から血を流しながら、何かを唱えようとして、そのまま事切れた。
触れる。
【匠の手】
素材を生み出し、形を変える力。流れこんできた記憶の中で、この男は城の崩れた壁を手のひらひとつで継ぎ直していた。
悪くない。そう思った。
次に触れたのは、見慣れない色の鎧を着た兵士の死体だった。騎士に斬られて俺の目の前で倒れた男だ。
だが、何も流れこんでこなかった。名前も、記憶も、何ひとつ。
「……なんだ?」
もう一度触れてみる。やはり何も起きない。
もしかしたら、こいつはスキルを持っていなかったのか。
考えてみれば、騎士もあのローブの男も持っていた。だが、兵士まで全員が持っているとは限らない。鑑定で名前を読まれたのは召喚された俺たちだけだ。この世界の人間がどれだけ持っているのかは、俺には分からない。
俺は兵士の死体から手を離して次の死体へ向かった。
気がつくと、剣戟の音が遠くなっていた。
兵士たちは広間の奥の扉から城の奥へ雪崩れこんでいったらしい。召喚士を探しているのだろう。広間に残っているのは、死体と、死にきれずにうめいている数人だけだった。
俺はゆっくりと立ち上がった。
両足で床を踏みしめる。左脚はもう元どおりの形をしていた。左腕を目の前にかざすと、指が五本ちゃんと動いた。傷ひとつない、生まれたての皮膚に覆われている。
足元で何かが砕ける小さな音がした。
割れた眼鏡だった。俺はそれを見下ろした。もう、いらない。眼鏡がなくても広間の隅々までくっきりと見えていた。
砕けた窓から夜風が吹きこんで燭台の火を揺らしている。床には血だまりがいくつも広がり、鉄と脂の混じったような匂いが鼻をついた。倒れた騎士の兜が転がったまま天井を向いている。
腹の底から笑いがせり上がってきた。
「はは……! 俺のスキルにとって、この状況は願ってもないイベントじゃないか!」
人が死ななければ無能。そう言って笑われた力が、この広間ではいくらでも使える。そこらじゅうに死体が転がっている。
俺は笑った。うめき声しか聞こえない広間で、ひとりで笑い続けた。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
急に膝ががくがくと震えだした。流れこんできた最期の数々が遅れて押し寄せてくる。胸を貫かれる冷たさ。喉を裂かれる熱さ。孫を呼ぶ声。誰かの家の居間の匂い。
俺はその場に座りこんで頭を抱えた。吐き気がこみ上げてくる。他人の死が、まるで自分の死のように体の中に居座っている。
しばらく動けなかった。どれだけそうしていたのかも分からない。ただ震えが収まるのを待つことしかできなかった。
ようやく立ち上がれるようになって、俺は大扉をくぐり、廊下へ出た。
松明の火がさっきと同じように揺れている。床には三つの死体が転がっていた。どれもさっき見たときの姿のまま、冷たい石の上に投げ出されている。
早瀬の背中に触れる。何も起きない。
班長の肩に触れる。何も起きない。
最後に影山の日焼けした太い腕に触れる。
――何も、起きなかった。
「……なんでだよ」
こいつらは確かに持っていたはずだ。召喚の間であの老人が名前を読み上げるのを、俺はこの耳で聞いた。【疾駆】、【号令】、【影法師】。
それなのに、何も流れこんでこない。
理由は分からなかった。分からないまま、俺は影山の死体を見下ろした。
確かに触れたはずなのに、空をつかんだような感触だけが、指先に引っかかって残っていた。
まあ、いい。
足が速くなる力と、号令をかける力。それに、忍者ごっこみたいな影の力だ。どれも大したものじゃない。
こいつらから奪えなくても、惜しくはなかった。
俺は影山の死体をまたいで廊下の奥へ歩き出した。
遠くではまだ剣のぶつかる音がしている。城のどこかで今も誰かが死んでいる。
指先にはまだ、あの空白が引っかかっている。死体なら、この先にいくらでも転がっているはずだ。




