第2話 囮
通されたのは、細長い広間だった。
左右に並んだ石の柱が、奥の壇まで続いている。片側の壁には背の高いステンドグラスの窓がいくつも連なり、色ガラスで組まれた絵が燭台の明かりに暗く浮かんでいた。
足の裏には、さっきの震えがまだ残っている気がした。
壇の上に立った豪奢な服の男は、ここでもまた芝居がかった調子で語り始めた。
「そなたらはこれより、王国の力となる。住まいも食事も、望むだけ与えよう。その代わり、授かった力は陛下のために振るってもらう」
影山が騎士の槍を横目に見ながら、声を張り上げた。さっきの一件で懲りたのか、今度は一歩も前へ出ていない。
「待てよ。帰れるんだろうな、俺たちは」
「帰る術はない」
男はあっさりとそう言った。呼ぶ術はあっても、送り返す術はないのだという。
広間がざわついた。早瀬が「は?」と間の抜けた声を出し、家田さんが口元を両手で覆う。班長は何か言いかけて、結局黙りこんだ。
「案ずることはない。授かった力に応じて、それぞれにふさわしい務めを与えよう」
ふさわしい務め、という言葉が耳に引っかかった。人が死ななければ何もできない俺に、この国はどんな務めを与えるつもりなのだろう。
だが、それ以上の言葉は半分も耳に入ってこなかった。
足の裏の震えが、さっきよりもはっきりと強くなっていたからだ。燭台の火が、風もないのに小刻みに揺れている。
俺はそっと周りを見回した。騎士たちは壇の男を見つめたまま、身じろぎもしない。同僚たちは「帰れない」という一言に気を取られて、それどころではなかった。
俺の真後ろには、さっき立ち位置を変えた騎士がそのまま立っている。
「帰れねえなら、しょうがねえだろ」
不破が太い腕を組み、口の端を吊り上げて鼻を鳴らした。
「どうせ俺は不死身なんだ。どこへ行ったって――」
その先を不破は言えなかった。
轟音がした。
窓のひとつが外から叩き割られた。色とりどりのガラスの破片が雨のように降りそそぎ、燭台の火が一斉に大きく揺らぐ。悲鳴が上がるより先に、ひゅっ、と空気を裂く短い音が続いた。
不破の頭ががくんと後ろへ跳ねた。
額の真ん中に太く短い矢が突き立っていた。
不破は笑ったときの口の形のまま、仰向けに倒れた。石の床に後頭部がぶつかる鈍い音がして、それきり動かなくなった。
俺はその場から一歩も動けなかった。
窓にいちばん近いところに立っていたのが、不破だった。狙われたのか、ただ運が悪かったのか、それすら分からない。
どんな傷でも、すぐ治る。そう言って笑っていた男が、治る暇もなく死んだ。あまりにもあっけなくて、何かの冗談のようにしか見えなかった。
「敵襲! 敵襲だ!」
騎士の誰かが叫んだ。
砕けた窓から、見慣れない色の鎧を着た兵士たちが次々に飛びこんでくる。窓の外のテラスの暗がりにはクロスボウを構えた兵が並んでいて、二本目、三本目の矢が広間の中へ撃ちこまれた。
騎士たちが剣を抜いて兵士の群れにぶつかり、金属のぶつかる音が広間じゅうに響き渡る。俺の真後ろにいた騎士も、剣を抜いて飛び出していった。壇の上の男は真っ先に奥の扉へ逃げていった。
「その者を連れていけ! 何としても守れ!」
数人の騎士が佐倉の両腕をつかみ、脇の小さな扉へ引きずっていく。佐倉は振り返って何か叫んだようだったが、その声は剣戟にかき消された。
「逃げろ! 出口だ!」
班長の声を合図に、同僚たちは我先にと駆け出した。
入ってきたときの大きな扉が背後で開いたままになっている。早瀬が真っ先に走り、班長が転びそうになりながら続く。岩田さんは家田さんの腕を引いて、柱の陰を伝いながら扉へ向かった。
俺も扉に向かって走った。すぐ後ろから、荒い足音が追ってくる。
その襟首を後ろから乱暴につかまれた。
振り返ると、影山の日焼けした顔がすぐそこにあった。目が血走っている。怯えきった顔なのに、その目だけが妙に冷めていて、俺と兵士たちとの距離を測っていた。
「無能な新人! こういうときぐらい役に立て!」
怒鳴り声と同時に、体が宙に浮いた。
影山は俺を兵士たちのほうへ思いきり突き飛ばした。足がもつれて、俺は顔から床に叩きつけられた。眼鏡が飛んで、石の床の上でガラスの割れる軽い音がした。
ぼやけた視界の端で、影山の背中が扉のほうへ遠ざかっていく。
顔を上げると、すぐ目の前に兵士が立っていた。
輪郭のにじんだ影が剣を振り上げている。俺はとっさに左腕を上げた。
衝撃が来た。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。左腕の肘の少し上から先が、急に軽くなった。床に何かが落ちる湿った音がして、少し遅れて焼けた鉄を押しつけられたような痛みが突き抜けた。
「あ……あ、ああああっ!」
叫びながら、這って逃げようとした。
その左脚にもう一度重い衝撃が落ちてきた。膝の下で骨の砕ける音がして、その先の感覚がふっと消えた。見なくても分かった。脚が、もうそこにない。
体がつんのめって、俺は自分の血の中に倒れこんだ。
頭の上で兵士たちの声がした。
「こいつはもう助からん。放っておけ」
「召喚士はどこだ。奥か」
「生かして連れ帰れとのお達しだ。急げ」
召喚士。床の円を囲んで膝をついていた、ローブ姿の男たちのことだろう。こいつらが欲しいのは、俺たちを呼んだあの男たちなのだ。
足音が俺の脇を通りすぎていく。
もう誰も、俺を見ていなかった。片腕と片脚を失った男など、放っておいても死ぬ。わざわざとどめを刺す手間をかける価値もない。それだけのことだった。
血が止まらない。
腕の切り口から、脚の切り口から、温かいものがどくどくと流れ出していく。床に広がった血だまりが、頬に触れてぬるかった。体の芯から急速に熱が抜けていく。
寒い。痛い。息がうまく吸えない。
「……いやだ」
喉からかすれた声がもれた。
「俺はまだ、何も成し遂げてないのに……!」
勉強した。努力した。言われたとおりにやってきた。優秀でいなさいと言われて育ち、そのとおりに生きてきたつもりだった。
それなのに、ラインの最後尾で笑われて、知らない世界で笑われて、最後は囮にされて、床の上で血を流して死ぬ。何ひとつ残せないまま、誰の記憶にも残らないまま、ここで終わる。
怖かった。端から暗くなっていく視界が、少しずつ遠のいていく音が、怖くてたまらなかった。
影山の血走った目が浮かんだ。役に立て、と怒鳴った声。遠ざかっていく背中。
あいつは今も、どこかで息をしている。俺を突き飛ばして手に入れた命で。
腹の底で、何かが黒く煮え立った。工場で浴びせられた嘲笑も、押しつけられた仕事も、黙って飲みこんできたものが全部、喉元までせり上がってくる。
許せなかった。あいつが生きて、俺がここで死ぬことが、どうしても許せなかった。
「なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
誰も答えなかった。剣のぶつかる音と悲鳴が、遠くで鳴り続けているだけだった。
みっともないのは分かっていた。それでも、死にたくなかった。死にたくなかった。
にじんだ視界の中に、大きな人の形が横たわっていた。
不破だった。額に矢を生やしたまま、天井を見上げている。俺からほんの数歩のところだ。
――どんな傷でも、すぐ治るんだってよ。
あいつの声が頭の中によみがえった。
そして頭の奥に宿った名前が、それに応えるように疼いた。
――死んだ者から、その力を奪う。
あいつは死んでいる。
あいつの力が、すぐそこにある。
散々俺を笑っていた男の力に、すがるのか。一瞬だけそう思って、すぐにどうでもよくなった。生き延びられるなら、何でもよかった。
俺は残った右腕を床に突いた。
肘で体を引きずり、腹で石の床を這う。血で手のひらが滑り、そのたびに顎を床に打ちつけた。視界の端から少しずつ暗くなっていく。
それでも這った。歯を食いしばって、這い続けた。
伸ばした指先が不破の太い腕に触れた。俺はそのまますがりつくように、その腕をつかんだ。
その瞬間、頭の中に何かが流れこんできた。
【瞬癒】
名前と一緒に、その力の意味が理解できた。どんな傷も、どんな体の不調も、たちどころに元どおりに治してしまう力。
流れこんできたのは、それだけではなかった。不破の最期だった。
――にやついている。自分の声が、高い天井に響いている。どこへ行ったって、俺は不死身だ。腹の底から湧いてくる、根拠のない万能感。
――額に、何かが当たった。
――それで、終わり。
そこから先は、何もなかった。痛みも、恐怖も、後悔さえもない。ただぷつりと途切れた暗闇だけが、そこにあった。
割れるような頭痛が来て、俺はうめき声を上げた。他人の最期が自分の頭の中に無理やりねじこまれる感覚だった。
次の瞬間、左腕の切り口が焼けるように熱くなった。
目を向けると、肉が泡立つようにうごめいていた。白いものが少しずつ伸びてくる。骨だ。その周りに赤い筋が絡みつき、さらにその上を薄い皮膚が覆っていく。脚の切り口でも同じことが起きていた。
痛いのか、痒いのか、もう分からない。俺は床に額を押しつけて、声にならない声を上げ続けた。
すぐそばで不破が天井を見上げている。この力があっても、こいつは助からなかった。どんな傷でも治る力は、一撃で死んだ人間には何の役にも立たない。その事実が頭の奥に冷たく刻みこまれた。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
ふと気づくと、ぼやけていた視界が少しずつ輪郭を取り戻し始めていた。眼鏡はどこかへ飛んでいってしまったはずなのに。
傷だけではなかった。この力は、悪かった目まで治してしまったらしい。
柱の模様が見える。床に散らばった色ガラスの破片の、ひとつひとつのきらめきまで見える。
開け放たれた大扉の向こうに、長い廊下が延びている。
その先で、逃げていった班長や早瀬、岩田さんと家田さん、それに影山が立ちすくんでいるのがはっきりと見えた。
廊下の奥から、見慣れない色の鎧の列がこちらへ近づいてきていた。




