第1話 死体漁り
午前三時の工場は、いつも同じ音で満ちている。
コンベアの低いうなり。エアの抜ける乾いた音。電動ドライバーが決まった回数だけ短く鳴く音。白い蛍光灯の光が、油の匂いの染みた床を平らに照らしている。窓のない建屋の奥では、朝も夜も分からない。
その音の列の、いちばん最後に俺はいる。
流れてきた部品を手に取って、ボルトの頭を確かめた。
締め付けを終えたボルトには、確認の印を付ける決まりになっている。その印が、一本だけない。トルクチェッカーを当ててみると、針は規定値の手前で止まった。
締め付けが足りていない。上流の工程で誰かが手順を飛ばした証拠だった。
俺は不良品を脇の赤い箱に入れて、ラインの上流に目をやった。今夜だけでこれが三つ目になる。
「班長」
声をかけると、腹の出た白髪まじりの男が面倒くさそうに振り返った。夜勤の現場責任者の、古賀班長だ。
「なんだ、末永」
「三番の締め付けが、またトルク不足です。手順書に締めた後の確認を一行入れるだけでいいんです。そうすれば――」
班長は俺の言葉を最後まで聞かなかった。分厚い手のひらを虫でも払うように振ってみせる。
「最後でお前が弾いてるんだから、問題ないだろ」
「問題が出ていないのは、俺が弾いているからです。上流で直さないと、いつか必ず外に流れます」
班長の眉間に深いしわが寄った。正しいかどうかより、面倒かどうかで物事を決める人の顔だった。
「新人がいちいち口出しすんな」
それで話は終わりだった。班長はもう、手元の日報に目を戻している。
ラインの向こうで誰かが吹き出した。
「出た出た、末永センセーの品質講座!」
大柄で日焼けした男が、作業着の袖をまくった腕を組んでにやついていた。影山剛。三番の工程は、こいつの持ち場だ。
工場の騒音の中でも、こいつの声だけはよく通る。
「大卒様は言うことが違うねぇ。なあ、早瀬」
「ほんとそれっす」
茶髪の早瀬がすかさず調子を合わせた。影山の行くところには、いつもこいつがくっついている。
筋肉自慢の不破が、太い首を左右に鳴らしながら笑った。
「細けぇんだよ。そんなだからモヤシなんだよ、お前は」
ほかの連中は、聞こえないふりで手を動かしている。
パートの青年の佐倉だけが、長い前髪の隙間から一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。
いつものことだ。
俺は眼鏡を押し上げて、次の部品に手を伸ばした。指先に触れた金属が、やけに冷たかった。
間違ったことは言っていない。手順書は曖昧なままで、現場はミスだらけで、そのしわ寄せは全部ラインの最後尾に来る。つまり、俺のところに来る。赤い箱が埋まるたびに、ラインを遅らせたと叱られるのも俺のほうだった。
学生の頃は教師にも親にも将来有望だと言われていた。それが今は、夜勤続きで目の下に隈を作って他人の雑な仕事の尻拭いをしている。
世の中には、できる人間と、できない人間がいる。そして俺は、間違った場所に置かれている。
そう思った、そのときだった。
足元が光った。
最初は照明が故障したのだと思った。だが、違った。光っているのは、床そのものだった。
灰色のコンクリートの上に、見たこともない模様が浮かび上がっていく。幾重にも重なった円と、文字のような細い線。それがラインを丸ごと呑みこむほど大きく広がって、心臓の鼓動のように明滅している。
「な、なんだこれ!?」
影山の怒鳴り声がひどく遠くに聞こえた。
光が視界を白く塗りつぶしていく。コンベアの音が消え、足の裏から床の感触が消えた。上も下も分からない白の中で、自分の呼吸の音だけが聞こえる。
その白の奥から、言葉がひとつ頭の中へ流れこんできた。
【死者を継ぐ器】
知らない言葉だった。それなのに、意味が分かる。
これは俺の中に宿った、何かの名前だ。それが何をするものなのかも、ずっと前から知っていたように理解できた。
――死んだ者から、その力を奪う。
やがて光はゆっくりと引いていった。
最初に感じたのは、冷たい石の匂いだった。
見上げるほど高い天井を、太い石の柱が何本も支えている。壁に並んだ燭台の火が、薄暗い石造りの部屋をぼんやりと照らしていた。壁に掛けられた大きな布には文字が縫い取られているが、一文字も読めない。
足元にはさっきと同じ模様が刻まれていた。今度は光らず、焼きついたように床に残っている。
その円を囲むように、ローブ姿の男たちが何人も膝をついていた。誰もが肩で荒い息をしていて、顔は紙のように白い。
そして円の内側に、俺たちがいた。
夜勤の八人。それから、作業台と工具箱。電動ドライバーのぶら下がったエアホースが、途中でちぎれたように床に伸びている。組みかけの部品が石の床にいくつも転がっていた。
ラインの一部ごと、俺たちはここへ来ていた。
「成功だ……!」
円の外で豪奢な服を着た男が声を上げた。その周りには、鎧を着た騎士たちが槍を手にずらりと並んでいる。
「異界の者たちよ、よくぞ参られた」
男は芝居がかった仕草で両手を大きく広げた。
「ここはルーフェン王国、王都アイゼンブルクの王城である。そなたらは我が国の召喚に応じ、この世界へ招かれたのだ」
言葉は分かる。けれど、男の口の動きと耳に届く言葉が微妙に合っていなかった。知らない言語を頭のどこかが勝手に訳しているような、気味の悪いずれがある。
「は? 召喚? ふざけんな、ドッキリかよ!」
影山が騎士に詰め寄ろうとして、喉元に槍の穂先を突きつけられた。日焼けした顔からさっと血の気が引いていく。
早瀬が甲高い悲鳴を上げた。エプロン姿の家田さんはその場にへたりこみ、班長は口を開けたまま何も言えずに立ち尽くしている。
そんな中で、俺は妙に冷静だった。
頭の中にはまだあの名前が残っている。夢ではないらしい。
工場では月に一度は安全衛生教育があった。危険予知トレーニング、いわゆるKYTでは、挟まれや巻きこまれの危険を班ごとに書き出して、最後に全員で指を差して「ヨシ!」と声をそろえた。年に一度の防災訓練では、地震と火事のときの避難経路をぞろぞろと歩かされた。
異世界に召喚されたときの訓練は、一度もなかった。
手順書の穴ならさんざん指摘してきた俺でも、さすがにその項目を足せとは言わなかった。
現場責任者の班長が固まっているのも、無理はない。ここから先は、どの手順書にも載っていない。
ただ、異世界に召喚されるという筋書きの話なら、ネットでいくらでも読んだことがあった。
「そなたらの内には、天より授かりし力が宿っているはずだ。我らはそれをスキルと呼んでいる」
男はそう言って、背後を振り返った。
「鑑定士、前へ」
進み出たのは、白い髭を胸まで垂らした老人だった。
老人は円の縁に立ち、俺たちをひとりずつじっと見つめていった。その目が誰かの上で止まるたびに、乾いた声がひとつの名前を読み上げる。
「――【号令】」
班長がびくりと肩を揺らした。自分の胸のあたりを確かめるように押さえている。
「――【疾駆】」
「え、俺っすか? これ、足が速くなるやつっすよね……?」
早瀬は引きつった顔で笑った。
「――【影法師】」
「影法師ぃ? なんだそりゃ、忍者かよ」
影山が鼻で笑った。さっきまで槍に怯えていたくせに、まんざらでもない顔をしている。
「――【瞬癒】」
不破は自分の太い腕をまじまじと見下ろした。
「……おい、マジかよ。分かるぞ、これ。どんな傷でも、すぐ治るんだってよ」
それから、天井に向かって大声で笑い出した。
「はははっ! 俺は不死身だ!」
治るのと死なないのは別の話だろう、と思ったが、口には出さなかった。
「――【剛力】」
ずんぐりした岩田さんは無言で自分の拳を握り、開いた。
「――【炉守り】」
家田さんはへたりこんだまま首を傾げている。
老人の目が佐倉の上で止まった。
「――【不屈】」
その瞬間、空気が変わった。
豪奢な服の男が身を乗り出し、騎士たちの間にざわめきが走る。佐倉は何が起きたのか分からないという顔で、長い前髪の奥の目を伏せた。
どうやら、当たりを引いたらしい。
よりによって、あの佐倉が。
最後に老人の目が俺を捉えた。
ラインの最後尾。ここでも、俺はいちばん最後だった。
「――【死者を継ぐ器】」
しん、とその場が凍りついた。
さっきまでのざわめきが嘘のように消える。騎士たちの視線が一斉に俺へ突き刺さった。豪奢な服の男の顔から、貼りついていた笑みが抜け落ちていく。
「……その力は、何をする」
男が低い声で問うた。
俺は正直に答えた。答えない理由が思いつかなかった。
「死んだ人間から……スキルを、奪える。そういう力、みたいです」
一拍の沈黙があった。
それを破ったのは、影山だった。
「ははは! なんじゃそりゃ!」
影山は腹を抱えて、身をよじって笑った。
「人が死ななきゃ無能じゃねーか! まるで死体漁りだな! お前にぴったりだ!」
早瀬が噴き出して、「死体漁りだってよ!」と影山の口まねをした。班長まで口の端を歪めている。
影山が涙の浮いた目で俺を指さした。
「おい末永、品質管理の次は死体の管理か?」
その隣で不破が太い手を打ち鳴らした。
「俺は不死身で、お前は死体漁り! はははっ、出来すぎだろ!」
笑い声が石の天井に跳ね返って、何重にも降ってくる。
顔が熱い。それなのに、手のひらには冷たい汗がにじんでいた。俺は眼鏡の奥から床の模様を睨みつけることしかできなかった。
なんだよ、それ。
工場では、正しいことを言っても聞き入れられなかった。それでも腹の底では、こいつらとは違うと思っていた。俺は本当は、もっと上に行ける人間なんだと。
それが異世界に来てまで、これか。
当たりを引いたのは、目立たないパートの佐倉だった。どんな傷でも治る力を引いたのは、筋肉しか取り柄のない不破だった。俺だけが、人が死ななければ何もできない。
――死体漁り。
ふと視線を感じて、顔を上げた。
鑑定士の老人が豪奢な服の男に何かを耳打ちしていた。男は俺を一瞥して、短く頷く。その目は、少しも笑っていなかった。
騎士のひとりが、半歩だけ立ち位置を変えた。
見下されているのだろう、と思った。
わざわざ異界から呼びつけておいて、とんだ外れを引いた、と。
「……よかろう」
男は咳払いをひとつして、また芝居がかった笑みを顔に貼りつけた。
「詳しい話は、場所を移してからにしよう。皆、ついてまいれ」
騎士たちに促されて、俺たちは歩き出した。
影山たちはまだ笑っていた。「死体漁り」という一言を、何度も、何度も繰り返しながら。
俺は拳を握りしめて、列のいちばん後ろを歩いた。
そのとき、足の裏にかすかな震えを感じた。
遠くで何か重いものが崩れるような、低い音がした。燭台の火がほんのわずかに揺れる。
誰も気づいていない。前を歩く連中は笑うのに忙しかった。
ラインの異音に気づくのは、いつだって最後尾の俺だった。




