プロローグ 眠る少女のそばで
安宿の狭い部屋には、古いランプ油の匂いが染みついていた。
机の上で小さな火が揺れている。建てつけの悪い窓が風に鳴るたびに、炎も怯えたように身をすくめた。薄い壁の向こうからは、酔った誰かのいびきがかすかに聞こえてくる。
俺は寝台の脇の床に座り、壁に背中を預けていた。
首筋がやけに寒い。窓の隙間から風が入りこむたびに、そこにあったはずの重さがないことを思い知らされる。
短くなった髪に指を通してみた。指先に引っかかるものは、もう何もない。この世界に来てから三年のあいだ伸びるにまかせていた髪だ。背中に届くほどになっていたそれを今日、俺は自分の手で切り落とした。切った髪は風に流されて散り散りに舞っていった。
頭が軽い。軽すぎて、まだ自分の頭ではないような気がする。
寝台の上では、少女が眠っている。
薄い毛布にくるまり、膝を抱えるように体を丸めていた。腰まで届く長い黒髪が毛布の端から寝台の縁へこぼれている。寝息は静かだった。毛布の端を握ったままの指は細く、小さかった。眠っている顔は起きているときよりもずっと幼く見える。
よく眠れるものだと思う。
すぐ隣に座っている男が誰なのか、こいつは知っている。死体漁りと呼ばれた男が何をしてきたのか、そのほとんどをすぐそばで見てきた。それなのに、こいつは俺の目の前で無防備に寝息を立てている。
俺にはこんなふうに眠ることなどできそうにない。今夜はたぶん、朝まで起きていることになる。
自分の左手に目を落とした。
この手は、一度なくした手だ。この世界に来たその日に失い、すぐに生え直した。傷ひとつなく爪の形まで元どおりで、まるで作り物のように見える。ランプの明かりにかざすと、指の影が壁に長く伸びた。
この手で、俺は奪ってきた。
何人から奪ったのか、数えたことはない。数える気もなかった。
死んだばかりの人間に触れれば、それでよかった。触れるたびにその人間の最期が頭の中へ流れこんでくる。死ぬ間際の怯えや後悔、誰かを呼ぶ声、最後に見た空の色。知らない誰かの一生のいちばん最後の数瞬だけが、割れるような頭痛と一緒に押し寄せてくる。
俺はそうしたものを振り払い、次の死体へ、また次の死体へと手を伸ばした。
そのうちに、何も感じなくなった。感じないほうが楽だった。やめる機会なら何度もあったのに、そのたびに楽なほうを選んだ。
あの日、俺は職場の人間ごとこの世界へ呼ばれた。
最初に奪ったのは、その中の一人の力だった。「俺は不死身だ」と笑っていた男だ。
そいつはその力を一度も使えないまま、傷がふさがる間もない一撃で死んだ。手足を失って床を這っていた俺は、そいつの死体にすがりつき、そいつの力で生き延びた。
あのときから、俺はずっと死体に触れ続けてきた。
盗みや人殺しで食っている連中を狩り、その死体から奪った。救えたはずの人間をわざと見送ったこともある。生きていられるより、死んでくれたほうが都合がよかったからだ。目の前で誰かが息を引き取るのを、俺は手を貸しもせずに待っていた。俺のほうへ伸ばされた指が地面に落ちるまで、ただ見ていた。
人は俺のことをこう呼んだ。
――死体漁り。
最初にそう呼んだのは、同じ日にこの世界へ来た職場の先輩だった。腹を抱えて笑う声は今でも耳の奥に残っている。それからも見知らぬ人間から同じ言葉を投げつけられた。
俺は否定しなかった。その通りだと、自分でも思っていたからだ。
この世界に来る前の俺は、工場の夜勤で毎晩同じ作業を繰り返していた。
自分は正しいことを言っているのに、誰も聞こうとしない。そう思って周りの人間を見下していた。できる人間と、できない人間がいる。自分は前のほうにいるはずだと、本気で信じていた。
この世界に来て、その物差しはもっと単純になった。役に立つ力を持っているか、いないか。俺は出会う人間をそうやって量るようになった。力を持っていれば奪う相手で、持っていなければ、いないのと同じだった。
そんな俺に、謝った人間がいた。
同じ日に呼ばれ、死にかけていた同僚だ。ろくに口をきいたこともない相手が、最後の息で俺に詫びた。それから長いあいだ、人から向けられた優しさとして思い出せるのはその言葉だけだった。
息が絶えるのを待って、俺はその言葉ごと、そいつの力を奪った。
同じ響きの言葉を、俺はもう一度聞くことになった。今度はこいつの口から。
少女が小さく身じろぎした。
寝返りを打った拍子に毛布がずれて、細い肩があらわになる。窓の隙間からは夜の冷えが容赦なく入りこんでくる。毛布をかけ直してやろうとして、伸ばした手が途中で止まった。
この手で、触れていいのか。
しばらく迷ってから、俺は毛布の端だけをそっとつまみ、肩まで引き上げた。少女は目を覚まさなかった。ただ口元だけが、ほんの少しゆるんだように見えた。
今日、俺は初めてこいつの名前を呼んだ。
二年あまり同じ道を歩いてきた。そのあいだ俺は、こいつの名前に興味すら持たなかった。呼ぶときは「おい」で足りたし、それで困ることもなかった。名前を知ったのさえ、つい最近のことだ。
口にしてみると、たったそれだけのことがひどく難しかった。喉の奥がつかえて、声がうまく出なかった。
それでもこいつは笑って返事をした。
こいつは、よく笑う。
どんなにひどい目に遭っても、たいていは笑っていた。何度殺されても起き上がって、また笑ってみせた。起き上がったあと、こいつの指がしばらく震えていることにも、俺は気づいていた。
それがどれほど痛いことなのか、俺は長いあいだ考えようともしなかった。どうせ死なないのだから構わない。そう決めつけておけば、それ以上のことを考えずに済んだからだ。
死体から奪った力の中には、人の痛みを消せるものさえあった。それなのに、こいつのために使ったことはない。
何も感じなくなったはずの胸の奥が、今夜はやけに騒がしい。
流れこんできた誰かの最期が、ひとつずつ遅れて重さを持ちはじめている。見ないようにしてきた顔が、目を閉じるたびに浮かんでくる。
これからは、それを振り払わずに抱えていくのだろう。
髪を切ったところで、何かが変わるわけではない。
奪ったものは返せないし、殺した人間は生き返らない。俺が積み上げてきたものは、この先もずっと俺の後ろについてくる。
俺を恨んでいる人間は、きっと数えきれない。行く先々でその誰かと顔を合わせることになる。罵られるかもしれないし、刃を向けられるかもしれない。許されることは、たぶんない。
それでも、ここから先は違う生き方をすると決めた。
次に目の前で誰かが息を引き取りかけていたら、今度は待たずに手を伸ばす。
ランプの火がまたひとつ小さく揺れた。
油はもう残り少ない。火が消えたら、この部屋は真っ暗になる。それでも俺は、新しい油を足そうとは思わなかった。暗がりの中でこいつの寝息を聞いていられれば、それで十分だった。
窓の外ではまだ風が鳴っている。俺の髪を今日さらっていったのと、同じ風だ。
俺はもう一度、眠る少女の顔を見た。それから、ずっと目を背けてきたものにようやく目を向けた。
――俺は、死体漁りだった。




