第9話 色褪せた景色だけが、焼きついて…
潮紙堂の戸口に風が当たるたび、白い紙で包まれた名札の端が、ほんの少しだけ震えた。
祐はその震えを目で追いながら、文香が次に何を言うのかを待っていた。昨日の朝、文香は八重という名前を初めて声に出した。今治へ行くとも言った。けれど、出発の時刻をすぐに決めようとはしなかった。祐も時刻表を開かなかった。
名前を呼んだ翌日に、すぐ船へ乗れる人ばかりではない。
文香は修繕台の上を片づけていた。針を小さな紙包みへ戻し、霧吹きの水を捨て、糊を溶いた皿に布をかぶせる。その手元はいつも通り静かだったが、ベージュの封筒だけは棚へしまわず、机の右端に置いたままだった。
「今治の前に、寄りたいところがあります」
文香が言った。
祐は鞄から案内所の小さなノートを出した。
「どこですか」
「写真館」
尾路町の写真館は、商店街の西の端にあった。看板には「有島写真場」と金色の文字が残っているが、色はほとんど抜け、雨の日には黒い木枠のほうが目立つ。店先には証明写真の見本が三枚だけ貼られていて、一番古いものは角が反り、写っている青年の髪型だけが時代を引きずっていた。
文香は店の前で足を止めた。
祐は戸を開けようとして、文香の手が封筒を入れた鞄の上で止まっていることに気づいた。
「先に入りますか」
「一緒で」
「はい」
戸を引くと、鈴が細い音で鳴った。店内は外より暗く、乾いた紙と古い木箱の匂いがした。壁には港祭りの写真、卒業式の集合写真、渡船を背景にした家族写真が並んでいる。どの写真も額の中で少しずつ黄ばんでいたが、写っている人たちは、今にも名前を呼ばれそうな顔でこちらを見ていた。
奥から出てきた店主は、白い手袋を片方だけはめていた。七十を少し過ぎたくらいだろうか。細い目を祐に向け、次に文香を見て、手袋をしていない方の手で眼鏡を押し上げた。
「潮紙堂の文香さんじゃな。額の裏打ちか」
「今日は写真です」
「写真は、直せるものと直せんものがある」
店主は先にそう言ってから、カウンターの上に広げていた布を畳んだ。
祐は名刺を出し、淡名渡船待合所で見つかった名札の返却調査をしていること、個人名の公開は本人や家族の同意があるものに限ること、写真も勝手に複写しないことを説明した。裕子に言われて作った確認用紙を一枚添えると、店主はそれをじっくり読んだ。
「裕子さんの字じゃな」
「分かりますか」
「赤字が痛い」
祐は返事に困り、文香が少しだけ目を伏せた。笑ったのかどうかは分からなかったが、口元がほんのわずかに緩んだ。
店主は奥の棚から、茶色い紙箱を三つ持ってきた。箱の側面には「淡名渡船」「通学」「昭和末」と鉛筆で書かれている。
「水をかぶった年があってな。商店街の低いところまで泥が来た。大半は捨てるしかなかったが、乾かして残したものもある。顔は消えても、並び方や持ち物が残る写真がある」
文香の指が、箱のふたへ伸びた。けれど店主が白い手袋を差し出すまで、触れなかった。
「えらい。紙は急に触られるのを嫌う」
文香は手袋を受け取り、右手だけにはめた。
最初の箱には、待合所の前に並んだ子どもたちの写真が入っていた。半袖、麦わら帽子、肩から下げた水筒。胸には名札。どれも小さく、文字までは読めない。けれど、名札の布が服の色から浮き上がるように写っていた。
祐は写真を一枚ずつ台紙の上に置き、日付のあるものから番号を振った。店主は古い撮影簿をめくり、文香は画面の端を見ていた。中心にいる子どもではなく、端に写る柱、長椅子、棚、壁の掲示を見ている。
「これ」
文香が一枚を指した。
写真の左端、待合所の戸のそばに、若い女性が立っていた。顔のあたりは光が抜けて白くなり、目鼻は分からない。けれど足元には、四角い裁縫箱が置かれている。箱のふたには貝ボタンのような丸い留め具が見え、取っ手には細い布が巻かれていた。
文香の息が、短く止まった。
祐は写真へ顔を近づけた。女性は子どもたちの列から少し離れ、しゃがみかけた姿勢をしている。手元には、何か白い布を持っているように見えた。
「八重さん、ですか」
声を落として聞くと、文香はすぐには答えなかった。
店主が撮影簿をたどり、指を止める。
「この日は、淡名小の通学船を撮った日じゃ。撮影者は先代。備考に……名札直しの女、とある」
「名前は」
「書いとらん。先代は、名前を聞き忘れることが多かった。顔を撮っとるくせに、名前を書かん。困った人じゃった」
店主は苦笑したが、文香は笑わなかった。白く抜けた顔を見つめたまま、手袋の指先で写真の外側の台紙を押さえていた。
「色褪せた景色だけが、焼きついて……肝心な顔は、波にさらわれたみたいに薄くなることがある」
店主は、誰に向けるでもなく言った。
祐はその言葉をノートへ書きかけて、やめた。今は記録に閉じ込めるより、空気の中へ置いておいたほうがいい言葉に思えた。
文香は写真の中の裁縫箱を見ていた。
「祖母の家に、似た箱がありました」
「まだありますか」
「ありません。私が中学生の時、湿気でだめになって」
文香は言葉を切り、唇を結んだ。
「捨てました」
その一言だけで、店内の暗さが少し深くなった。
祐は、捨てたことを責める言葉も、残念でしたねという言葉も出さなかった。文香の横に立ち、写真の中の箱を見た。貝ボタンの留め具は、小さな月のように白く光っている。
店主は二つ目の箱を開けた。今度は待合所の中を写した写真が多かった。長椅子に座る子ども、窓際で団扇を持つ少年、船酔いでうつむく少女、棚に掛けられた名札。壁には古い時刻表があり、その下に小さな標本箱が写っていた。
「蝶」
文香が言う前に、店の入口から声がした。
明純だった。息を切らし、手には紙袋を持っている。
「祐さん、裕子さんがこれを渡せって。写真館へ行くなら、同意書の予備を持っていけって。あと、勝手に複写するなって。あと、壮翔さんを写真館に近づけるなって」
「最後のはなぜですか」
「古いカメラを分解しそうだからだと思います」
店主が、店の奥へちらりと目をやった。そこには蛇腹の古いカメラが置かれている。
「近づけんでくれ」
「努力します」
明純は紙袋を祐に渡すと、台紙の上の写真へ顔を近づけた。
「これ、待合所の標本箱ですよね。今のより、位置が低い。子どもの目線に合わせてあったんですかね」
祐は写真を見直した。たしかに、現在の標本箱跡は壁の上の方にある。けれど写真の中の箱は、長椅子に座った子どもの顔の高さに取り付けられていた。
文香は標本箱の下の小さな紙札を見ている。
「字が、見えません」
店主は奥から小さな拡大鏡を持ってきた。
「読めるほど残っとるかどうか」
拡大鏡の丸い光の中に、かすれた文字が浮かんだ。全部は読めない。ただ、「海を」「わたる」「戻るとは」という切れ端だけが見えた。
文香の指が、写真の外で止まった。
「母の字に、似ています」
明純は何か明るいことを言いかけたらしく、口を開いた。けれど祐が目で止める前に、自分で閉じた。紙袋を胸に抱き、少し後ろへ下がる。
写真館の鈴がまた鳴った。
「おるか」
今度は信清だった。濡れてもいない帽子を脱ぎ、入口で靴の裏をこすってから入ってくる。港からまっすぐ来たらしく、袖に潮の匂いがあった。
「港で明純が走っとるのを見た。何かやらかしたかと思ってな」
「まだです」
明純が胸を張る。
「まだ、は要らん」
信清は祐から事情を聞き、写真を覗き込んだ。船の形、桟橋の柱、子どもたちの服装、壁の時刻表。祐には見えていなかったものを、一つずつ拾う。
「この船は、先代の瑞穂丸じゃ。エンジン音が重くて、朝の一便は島中に響いた。時刻表の書き方からすると、昭和の終わりより少し前じゃないか」
店主が撮影簿をめくり直す。
「日付は七月二十日。年のところだけ、インクが流れとる」
「瑞穂丸なら、この年か、その翌年までだ。船底を替える前の形じゃ」
信清はそう言い、写真の端を指さした。
「それから、この子。頬に手を当てとるじゃろ。船酔いじゃない。歯が痛い顔だ」
明純が思わず笑いそうになり、すぐに真面目な顔へ戻した。
「歯が痛い顔って、分かるんですか」
「漁師は魚の顔だけ見とるわけじゃない」
信清は淡々と言った。
店主が撮影簿の余白を見て、ああと声を出す。
「この日の午後、真部医院で集合写真を撮っとる。歯医者の真部先生が、通学船の子らを診た日じゃ。待合所から何人か連れて行ったと、先代が書いとる」
「真部医院」
祐はノートを開いた。
「今もありますか」
「診療所は代替わりして、島の坂の途中に残っとる。歯科は週に何日かだけじゃが、真部先生の息子さんが診とるはずじゃ」
文香は写真から目を離さないまま言った。
「名札の持ち主が、分かるかもしれません」
「この写真だけでは決めません」
祐が言うと、文香は頷いた。
「はい」
その返事は早かった。文香はもう、写真の中に母を見つけたからといって、すべてを母の話へ寄せようとはしていなかった。名札は名札の持ち主に戻す。母の足跡は母の足跡として追う。その二つを、同じ箱へ押し込まない。昨日、白い紙で別々に包んだ手つきが、ここでも続いていた。
店主は三つ目の箱を開ける前に、祐へ確認用紙を返した。
「写真の複写は、今日はせん。見るだけなら、わしが立ち会う。必要なものは、写っとる人の確認を取ってからじゃ」
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、湿気取りを持ってきてくれ。古い写真は、思い出より湿気に弱い」
「裕子さんに言ったら、予算表が飛んできます」
「それなら、飛んでくる前に値段を書いておく」
店主は小さなメモに数字を書き始めた。裕子の赤字に負けないよう、最初から項目を分けている。
明純が入口の方を見た。
「壮翔さん、外にいます」
祐が振り向くと、ガラス戸の向こうに壮翔の顔が半分だけ見えていた。両手を背中に回し、何も触っていないことを全身で主張している。
「入れないでください」
店主と祐の声が重なった。
文香が、ほんの少しだけ息を漏らした。今度は祐にも分かった。笑っていた。
店主は、待合所の集合写真を一枚ずつ薄紙に挟み直した。文香は白い手袋を外し、丁寧に返す。写真の中の八重らしき女性は、最後まで顔を見せなかった。白く抜けたまま、子どもたちの端に立ち、裁縫箱を足元に置いていた。
それでも、そこにいたことは分かった。
祐はノートへ、写真の番号、撮影日、写っている場所、確認が必要な人物、標本箱の位置、真部医院の手がかりを書いた。最後に、文香が口にした言葉を小さく添える。
裁縫箱。
母ではなく、まず箱の名前を書いた。母という大きな字で覆ってしまうと、文香が見つけた細い手がかりまで隠れてしまいそうだったからだ。
写真館を出ると、午後の商店街には魚を焼く匂いと、洗濯物の乾く匂いが混じっていた。壮翔は店の外で待ちくたびれたらしく、向かいのベンチに座り、何もしていない顔で古いカメラの広告を眺めていた。
「俺は触ってない」
「まだ何も聞いてません」
「第一印象が肝心だからね」
「その言い方で台無しです」
明純が噴き出し、信清が帽子をかぶり直した。
文香は笑わなかった。けれど、さっきまで鞄の上で固まっていた手は、少しだけ下がっていた。封筒を守る手から、歩くための手に戻っているように見えた。
港へ向かう途中、祐は待合所の屋根を見た。古いトタンは日を受け、淡い灰色に光っている。あの中の標本箱は、今の高さでは少し上すぎる。子どもが見上げる場所にあるのか、子どもの目線に戻すのか。そんな小さな位置まで、これから考えなければならない。
文香が立ち止まった。
「祐さん」
「はい」
「写真の顔、見えませんでした」
「はい」
「でも、箱は見えました」
祐は頷いた。
「箱から追えます」
「蝶も」
「真部医院も」
文香は港の方を向いた。海は、午前より少し明るくなっている。向かいの淡名島の緑は、薄い靄の向こうで、にじむように見えた。
「母の顔を、探しに行くわけじゃないです」
「はい」
「名札の持ち主を、探します」
祐はノートを閉じた。
「明日、真部医院へ確認に行きましょう。診療時間を調べて、迷惑にならない時間に」
「お願いします」
短い返事だった。けれどそこには、昨日までのように、扉を閉める響きはなかった。
待合所へ戻ると、窓際の団扇が一枚、風で倒れていた。祐が拾うより先に、文香が手を伸ばす。団扇の竹の骨を確かめ、破れていないことを見て、壁へ立てかけた。
名札棚には、晒し布が静かにかかっている。裏返しの名札は、今日も表へ返されないままだ。
祐は写真館で見た標本箱の高さを思い出し、壁に残る古い釘穴を見上げた。上の穴と下の穴。大人が飾った位置と、子どもが見た位置。その違いが、待合所の過去を少しだけ語っているようだった。
文香は名札棚の前に座り、鞄からベージュの封筒を出さなかった。代わりに、白い紙包みの上へ手を置く。
「色は、消えますね」
「はい」
「でも、残るものもありますね」
祐は写真の中の裁縫箱を思い浮かべた。顔は薄れ、名前は書かれていない。それでも、足元の箱、子どもの胸の名札、壁の蝶は残っていた。
「残ったものから、順番に確認します」
文香は頷いた。
外で、信清が明日の船の時間を確かめている声がした。明純は壮翔に、写真館へ近づいてはいけない理由を三つ数えさせている。壮翔は二つ目で詰まり、裕子がいないのに叱られたような顔をしていた。
祐は返却簿を開き、新しい手がかりの欄を作った。
写真館。
標本箱。
真部医院。
そして、裁縫箱。
色褪せた景色は、すべてを教えてはくれない。けれど、見落とさない人の前では、かすかな輪郭を残してくれる。
文香は晒し布の端を直し、名札棚の前で小さく息を吐いた。
海からの風が、待合所の床を低く撫でた。




