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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第8話 もう泣かないと決めた

 浜乃屋のじゃこ天の匂いは、翌朝になっても淡名渡船待合所の柱に薄く残っていた。


 祐が交通案内所へ出勤する前に寄ると、長椅子の下には、昨日の子どもたちが落としていった色鉛筆の削りかすがひとつ、床板の溝へ入っていた。紙皿は洗われ、団扇は窓際に立てかけられ、名札棚には文香が掛けた白い晒し布がかかっている。誰かが騒いだ後の場所は、たいてい少し荒れる。けれどその朝の待合所には、荒れたというより、誰かがもう一度来るために息を整えているような気配があった。


 祐は記録袋を机に置き、昨日の聞き取り用紙を一枚ずつ確認した。千代が教えてくれた蜜柑畑の家、浜乃屋の主人が覚えていた通学船の座席順、子どもたちが描いた船酔いじゃこ天。欄外に壮翔の油じみが残っている用紙だけは、裕子が赤い線で囲み、上に「保管価値なし。ただし戒めとして一時保存」と書いていた。


 祐は笑いかけて、ふと手を止めた。


 名札棚の晒し布の端が、ほんの少しだけ膨らんでいる。昨日までは平らだった場所だ。布を勝手にめくるわけにはいかない。祐は記録袋を抱え直し、潮紙堂へ向かった。


 尾路町の朝は、坂道から先に白くなる。石段の隙間に落ちた雨の名残が、光を受けて細い線になっていた。港から上がってくる風は、まだ冷たい。惣菜屋の前では揚げ油の鍋が洗われ、魚屋の軒先では氷が木箱に移されている。祐が潮紙堂の前まで来ると、戸は半分だけ開いていた。


 「文香さん」


 声をかけても返事はなかった。


 店内には、古紙を湿らせたような匂いがした。修繕台の上に霧吹き、細い針、糊を溶いた小皿、白い布、そして裏返しの名札が置かれている。文香は台の前に座り、肩を動かさないまま、その名札を見ていた。


 表ではなく、裏だった。


 名札の四隅は、潮でふくらみ、乾いて固くなっている。端の縫い目は二種類あった。古い縫い目は細かく、糸の間隔が揃っている。後から誰かがほどこうとした跡は、ところどころ乱れ、布地が爪で傷ついたように毛羽立っていた。


 祐は入口で止まった。


 「入ってもいいですか」


 文香は、名札から目を離さずに頷いた。


 祐は靴音を小さくして入った。昨日の聞き取り用紙を出そうとしたが、文香の手元を見て、鞄へ戻した。


 「お湯、沸かします」


 文香は返事をしなかった。


 潮紙堂の奥には、小さな流しと薬缶があった。祐は勝手を知らない場所で物音を立てないよう、蛇口を細くひねった。薬缶に水を入れ、コンロへ置く。火がつく音が、店の奥で小さく鳴った。


 その音で、文香の指が名札へ触れた。


 薄く残った文字は、表からでは読めない。裏から見ると、赤い糸が布地を縫い止めた跡の内側に、ひらがなの丸みがかすかに残っていた。


 ふみ。


 祐は読めてしまったことを口にしなかった。


 文香の指が、名札の角で止まる。針を持ったまま、刺す場所を決められないでいる。いつもの文香なら、破れた紙へ触れる前に湿り具合を確かめ、布なら糸の流れを見て、迷わず一針目を入れる。今日は、その一針目がいつまでも始まらない。


 薬缶の湯が鳴るまで、店の中には紙の匂いと、港から遠く上がってくる汽笛だけがあった。


 文香の目は名札を見ていたが、そこには今の潮紙堂ではない景色が映っているようだった。


    *


 幼い文香の名札は、首にかけると胸の真ん中で跳ねた。


 七月の朝だった。淡名島の道には、干した網の匂いと、祖母が握った塩むすびの匂いが混じっていた。文香は、祖母に手を引かれながら坂を下り、何度も振り返った。母は、家の縁側で荷物をまとめていた。ベージュの封筒の束と、小さな裁縫箱と、風呂敷ひとつ。それだけで遠くへ行けるのか、子どもの文香には分からなかった。


 「すぐ戻るん」


 母はそう言った。


 声は明るかった。けれど文香が覚えているのは、声より手元だった。母は風呂敷の結び目を二度結び直し、三度目でようやく指を離した。爪の横に、赤い糸の短い切れ端がついていた。


 渡船待合所には、朝の子どもたちがいた。大きな声で走り回る子、船に酔う前から青い顔をしている子、団扇の柄を剣のように振って叱られている子。文香はその中で、母の風呂敷だけを見ていた。


 母は、待合所の柱の横でしゃがみ、文香の名札を指で直した。


 「ここ、ほつれとる。戻ったら、新しいの縫うけえ」


 「今日?」


 「うん。戻ったら」


 母はそう言って、文香の額にかかった髪を耳の後ろへ寄せた。文香はその手をつかもうとしたが、母の手はもう風呂敷を持っていた。


 船が来た。


 桟橋の板が、船の腹に押されて低く鳴る。誰かが「気いつけて」と言い、誰かが「昼までに戻るんか」と聞いた。母は曖昧に笑い、船へ乗った。


 文香は走った。


 祖母の手が一度離れた。名札が胸で跳ねる。団扇を持った子どもの肩にぶつかり、誰かの弁当包みを踏みそうになり、待合所の入口の段差につまずいた。それでも桟橋へ出ようとした。


 祖母が後ろから抱きとめた。


 「危ない」


 短い声だった。叱る声ではなかった。けれど腕には、文香を絶対に海へ出さない力があった。


 母は船の上で振り返った。


 文香は、泣いた。喉の奥が痛くなるほど泣いた。船の音より大きく泣いたつもりだった。けれど母は戻らなかった。船はゆっくり桟橋を離れ、母の風呂敷のベージュ色が、船室の影にまぎれて見えなくなった。


 文香は名札を握った。


 布が汗で湿り、赤い糸が指に食い込んだ。涙で字がにじむと思った。濡らしてしまえば、母が縫い直しに戻ってくるのではないかと思った。けれど祖母は何も言わず、文香の手から名札をそっと外した。


 待合所の中へ戻ると、子どもたちの声はまだあった。船に乗り遅れた蜜柑の箱、誰かが忘れた麦わら帽子、壁の時刻表、窓辺の団扇。文香はその全部が、自分を見ているように感じた。


 泣くと、みんなが見る。


 泣くと、母が帰らなかったことが、もっと大きくなる。


 泣くと、祖母の手がさらに強くなる。


 だから文香は、名札を棚の奥へ押し込んだ。自分の名前が見えなくなるよう、裏返しにして置いた。


 もう泣かないと決めた。


 その決め方が子どもには少し大きすぎて、胸の内側に硬い石のように残った。


    *


 薬缶が小さく鳴った。


 文香は瞬きをした。指先の針が、名札に触れないまま宙で止まっていた。


 祐は湯を湯呑みに注いだ。茶葉の場所が分からず、ただの白湯になった。湯呑みを修繕台の端へ置くと、文香はようやく針を下ろした。


 「お茶じゃありません」


 「知ってる」


 「場所が分からなくて」


 「左の棚」


 祐は左の棚を開けた。茶筒が三つ並んでいる。どれか分からず、振り返った。


 「緑の」


 「全部、緑です」


 文香は少しだけ目を伏せた。笑ったのか、疲れたのか、判断できないほど短い動きだった。


 「奥」


 祐は一番奥の茶筒を取り、急須を探した。戸棚の下から出てきた急須には、小さな欠けがあった。文香が直した跡なのか、割れ目に白い線が入っている。


 茶を入れ直す頃、店の外で箒の音がした。


 祐が戸口を見ると、裕子が店先を掃いていた。いつものように勢いよく店へ入ってくるのではなく、敷居から一歩離れた場所で、黙って落ち葉を集めている。商店街の広報紙を抱えたままなので、掃くたびに紙の角が腕に当たり、うまく動けていない。


 「裕子さん」


 祐が呼ぶと、裕子は顔を上げた。


 「通りかかっただけ」


 「箒を持って通りかかったんですか」


 「通りかかった先に箒があったの」


 壮翔ならここで必ず余計なことを言う。けれど祐は言わなかった。裕子は店の中を見ず、落ち葉をちりとりへ寄せた。


 「昨日、私、文香にきついこと言ったから」


 声は、店の中へ届くか届かないかの大きさだった。


 「黙っていると誰かが勝手に決める、って。あれ、私が勝手に決める側の言い方だった」


 文香の手が止まった。


 裕子は敷居の外に新しい布巾を置いた。白く、まだ糊の硬さが残っている。


 「使うか捨てるかは、そっちで決めて。領収書はいらない。私物」


 それだけ言うと、裕子はちりとりを持って商店街の方へ歩いていった。数歩進んだところで、広報紙の束を落とし、慌てて拾う。角がそろわず、何度も叩いている。


 文香は布巾を見た。


 「置き逃げ」


 「お礼を言われるのが苦手なんでしょうか」


 「怒る方が得意」


 文香はそう言って、布巾を取りに立った。戸口まで歩いた足取りは、少しだけ重かった。布巾を修繕台の横へ置くと、名札の下に敷かれた古い晒しを外し、新しい布巾を半分に折った。


 祐は聞き取り用紙を出さないまま、湯呑みを二つ並べた。


 「昨日、待合所の名札棚の布が、少し膨らんでいました」


 文香は湯呑みを持った。


 「見ましたか」


 「めくってません」


 「そう」


 短い返事のあと、湯気が二人の間に上がった。


 文香は白湯ではなくなった茶を一口飲み、名札へ目を落とした。


 「棚の奥にありました」


 「文香さんのものですか」


 「たぶん」


 「たぶん、で記録しますか」


 「まだ」


 祐は頷いた。


 「空欄にしておきます」


 文香は湯呑みを置いた。その音は、思ったよりはっきり響いた。


 「空欄、嫌いじゃないんですか」


 「案内表では困ります。でも、名札は人のものなので」


 「困るのに」


 「困るから、空けておきます」


 文香は名札の端を布巾の上に戻した。針を持たず、指で布地を押さえる。


 「子どもの時、母を追って船着き場まで走りました」


 祐は湯呑みに触れたまま、黙っていた。


 「祖母に止められました。危ないから。母は、戻ったら新しい名札を縫うと言いました。でも戻りませんでした」


 店の外を、台車の音が通った。惣菜屋の主人が誰かに「今日はじゃこ天少なめ」と言っている。昨日の壮翔の顔が浮かび、祐は一瞬だけ現実へ引き戻されそうになったが、口を閉じた。


 文香は続けた。


 「泣いたら、みんなが見ました」


 その言い方は、誰かを責めるものではなかった。ただ、幼い子どもが見られることに耐えられなかったと、出来事だけを置く声だった。


 「だから、もう泣かないと決めました」


 祐は、決めたという言葉の硬さを聞いた。守るために作った壁が、守ったものと一緒に本人を閉じ込めてきたように聞こえた。


 「名札を裏返しにしたのは、私です」


 文香は、名札の裏を軽く押した。


 「名前が見えると、誰かに呼ばれると思ったから」


 「呼ばれたくなかったんですね」


 「呼ばれたかった」


 文香はすぐに言い直さなかった。言ってから、言葉をしまう場所を探すように、名札の端をなぞった。


 「でも、呼ばれても、母じゃないので」


 祐は胸の奥が重くなるのを感じた。慰めの言葉はいくつも浮かんだ。母にも事情があったのかもしれない。きっと忘れていない。探せば何か分かる。どれも、今ここで言うと、文香の名札を勝手に表へ返す手のように思えた。


 だから言わなかった。


 店の中で、急須の蓋がかすかに鳴った。外の風が戸の隙間を通ったのだ。


 文香は、修繕台の引き出しを開けた。中からベージュの封筒を出す。以前、潮紙堂で見た、あの消印の封筒だった。紙の端には薄い折れ跡があり、何度も触れたことが分かる。


 「母の名前」


 文香は封筒を机に置いた。


 「八重です」


 祐は初めて、その名前を聞いた。


 八重。


 紙に書けば二文字なのに、文香の口から出たその名前は、港から戻らない船の影、祖母の腕、裏返しの名札、ベージュの封筒、全部を連れていた。


 「八重さん」


 祐が復唱すると、文香は目を伏せた。嫌がってはいない。ただ、自分以外の口から母の名が出たことに、体が少し遅れて反応したようだった。


 「この封筒、何年も気になっていました」


 「開けていないんですよね」


 「はい」


 「開けるかどうかも、文香さんが決めてください」


 「祐さんは、知りたくないですか」


 「知りたいです」


 祐は正直に言った。


 「でも、文香さんより先に知りたいわけじゃありません」


 文香は封筒を持ち上げた。光に透かすようにして、何も見えない紙を見た。


 「今治の消印です」


 「はい」


 「母は、裁縫箱を持って船に乗りました」


 「名札の縫い方と関係があるかもしれません」


 「それを言われるのが、怖かったです」


 祐は息を止めた。


 文香は封筒を胸に寄せず、机に戻した。逃げるようにしまうのでもなく、飾るように置くのでもない。そこに置いたまま、向き合っている。


 「母が、私を置いて行っただけじゃなかったと分かったら」


 言葉が途切れた。


 湯呑みの茶は、もう少し冷めている。


 「怒っていた私が、間違っていたみたいになる」


 祐は首を横に振った。


 「間違いにはならないと思います」


 文香は祐を見た。


 「戻らなかったことは、戻らなかったことです」


 祐は、待合所の返却簿を思い浮かべた。返す、残す、写しを作る。どれも一つだけが正解ではない。母のことも、きっと同じようにはっきり切り分けられない。


 「八重さんが何かを残していたとしても、文香さんが待った時間は消えません」


 文香は何も言わなかった。


 外から、誰かの声がした。


 「祐ー、ここにおるんかー」


 壮翔だった。声だけで戸口の空気がゆるむ。次の瞬間、敷居のところに顔を出し、店の中を見て、妙に小さな声になった。


 「……おるな」


 「何ですか」


 祐が立ち上がると、壮翔は両手を上げた。片手には紙袋を持っている。


 「昨日の残りのじゃこ天を、浜乃屋さんが一枚くれた。俺は食ってない。ここに証人がいる」


 そう言って、後ろに立っていた明純を指した。明純は困った顔で頷いた。


 「本当に食べてません。店を出るまでは」


 「おい、そこは最後まで保証しろ」


 文香が紙袋を見た。


 「隔離」


 「まだ何もしてないのに」


 「予防」


 壮翔は紙袋を胸に抱えた。


 「この命に代えても守ると言いたいが、今それを言うとまた怒られる気がする」


 「分かっているなら言わないでください」


 裕子の声が外から飛んだ。通り過ぎたはずなのに戻ってきている。手には広報紙の束、肩には箒。まるで潮紙堂の前を掃くために一日を始めた人のようだった。


 壮翔は目を丸くした。


 「裕子、ずっといたのか」


 「通りかかっただけ」


 「往復で?」


 「商店街は往復できるの」


 文香は紙袋を受け取り、修繕台から離れた棚へ置いた。


 「そこなら、食べられません」


 「俺を何だと思っとる」


 「二歩では足りない人」


 祐は思わず笑った。明純がつられて笑い、裕子は口元を押さえた。壮翔だけが心外そうに眉を上げる。


 笑いは長く続かなかった。けれど、店の中で固まっていた空気の角が、少し削れた。


 文香は名札を新しい布巾で包み直した。針はまだ入れない。修繕を始めるには、布地を戻すより先に、自分の中で置き場所を決める時間が必要なのだろう。


 祐は鞄から、昨日の聞き取り用紙を一枚だけ出した。浜乃屋の主人が話してくれた、八重が破れた名札を縫い直していたという記録だ。文香へ渡す前に、個人名の欄を指で隠した。


 「昨日、聞き取りで出た話です。公開する前に、関係する人へ確認します」


 文香は用紙を受け取った。


 そこには、八重が船酔いした子に団扇を渡し、ほつれた名札をその場で仮縫いした、と書かれている。浜乃屋の主人の記憶は曖昧で、年も名前も正確ではない。ただ、赤い糸が印象に残っていたとあった。


 文香は長く読んだ。


 「母は、手が早かったんです」


 「見たことがあるんですか」


 「少しだけ」


 文香は自分の指先を見た。


 「私は、遅いです」


 祐は修繕台の上の紙や布を見た。文香の直したものは、急いで直された跡がない。破れ目の周りに紙の息が残り、布の端が無理に引っ張られていない。


 「待ってくれる直し方だと思います」


 文香は顔を上げなかった。


 「そういう言い方、案内所で習うんですか」


 「失敗してから覚えます」


 「便利」


 「便利ではありません」


 壮翔が横から口を挟んだ。


 「じゃあ俺のじゃこ天を守る心も、待ってくれる食べ方と言える」


 「言えない」


 文香、裕子、祐、明純の四人分の声が重なった。壮翔は紙袋から離された棚を見つめ、深く息をついた。


 「息ぴったりじゃないか」


 裕子は広報紙の束を抱え直した。


 「文香、店先の掃除、終わったから。あと、その布巾、糊が強かったら一回洗って」


 「はい」


 「それと」


 裕子は言いかけて、唇を結んだ。いつものように畳みかけるのではなく、言葉を選ぶ間があった。


 「次に私が言い過ぎたら、紙に書いて返して。口で言わなくていいから」


 文香は少し考えた。


 「赤字で?」


 「そこは黒でお願い」


 明純が笑い、壮翔が「赤字を返される側になる裕子、見たい」と言って、すぐに裕子に睨まれた。


 店先のやりとりが落ち着くと、祐は名札を記録するための仮欄を作った。持ち主は未確定。状態は要確認。希望は未記入。備考欄には、文香本人の意思確認まで非公開、とだけ書いた。


 文香はその紙を見て、頷いた。


 「空欄、多いですね」


 「はい」


 「祐さん、嫌でしょう」


 「少し」


 「顔に出ています」


 「すみません」


 「でも、それでいいです」


 文香はベージュの封筒を名札の隣へ置いた。封筒と名札は、似た色ではない。けれどどちらも、長い間しまわれていたものの色をしていた。


 「今治、行きますか」


 祐はすぐには答えなかった。文香が頼んでいるのか、確認しているのか、まだ分からなかったからだ。


 「文香さんが行くなら、案内表を作ります」


 「私が行かないなら」


 「待ちます」


 文香は湯呑みを持ち、冷めた茶を飲んだ。


 「行きます」


 その声は大きくなかった。けれど朝の潮紙堂に、はっきり置かれた。


 壮翔が紙袋へ近づこうとして、明純に袖をつかまれる。裕子が広報紙を丸めて牽制する。祐は記録用紙を鞄へしまい、潮紙堂の戸口から港の方を見た。


 淡名渡船待合所の屋根が、坂の下に少しだけ見える。あの中に、名札棚がある。裏返しにされた子どもの名前が、長い間、誰にも呼ばれないように眠っていた場所だ。


 文香は修繕台の前に戻り、針を針山へ刺した。今日は縫わないのだと、祐は分かった。直すことと、急いで針を入れることは同じではない。


 外では、船の汽笛が一度鳴った。


 母が乗った船と同じ音ではない。けれど、海の町では、似た音が何度も朝を連れてくる。


 文香は名札と封筒を、それぞれ別の白い紙で包んだ。ひとつに重ねなかった。母のことと、自分の名札のことを、同じ箱へ押し込まないための手つきだった。


 祐はその手つきを見て、返却簿の新しい欄を思いついた。


 今は決めない。


 そう書ける欄が、名札にも人にも必要だ。


 文香は戸口に立つ裕子へ、布巾を少し持ち上げて見せた。


 「使います」


 裕子は一度だけ頷き、すぐ顔をそらした。


 「領収書、いらないから」


 「はい」


 壮翔が小声で祐にささやく。


 「じゃこ天の領収書は」


 「今は黙ってください」


 「はい」


 珍しく素直な返事だった。


 潮紙堂の朝は、何かが解決した朝ではなかった。母は戻っていない。名札はまだ縫われていない。封筒の中身も、まだ分からない。文香が決めた「もう泣かない」は、今日だけでほどけるものではない。


 それでも、名前はひとつ、声に出された。


 八重。


 そして、裏返しの名札は、勝手に表へ返されなかった。


 祐は、それだけで十分に進んだのだと思った。待合所へ戻ったら、名札棚の布を整えよう。めくらず、急がず、そこにあると分かる形で。


 港の風が、潮紙堂の戸を少し鳴らした。


 文香はその音を聞き、名札を包んだ白い紙の端を、指でまっすぐにそろえた。



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