第7話 この命に代えても、じゃこ天
翌朝、尾路町の商店街には、夜の熱がまだ少しだけ残っていた。魚屋の前に並ぶ発泡箱から氷の水が細く流れ、石畳の目地へ入り込んで、昨日の待合所の床よりずっと涼しげに光っている。祐は交通案内所の前で開店準備をしながら、前日の温度確認の記録を読み返していた。
朝七時から十時。日よけ。換気。給水。体調不良時の避難先。椅子の座面温度。風を見せる紙。
書けば書くほど、淡名渡船待合所を残すには、懐かしいという言葉より、地味な準備のほうが多いと分かる。祐はそこに、もう一つだけ欄を足した。
聞き取りに来てもらうきっかけ。
名札の持ち主を探すには、待合所を知る人に話を聞かなければならない。だが、古い名札の話を聞かせてほしいとだけ頼んでも、誰もがすぐに足を止めてくれるわけではない。顔をしかめる人もいる。覚えていないと手を振る人もいる。思い出したくない人もいる。
その欄を見つけた裕子が、案内所の奥から顔を出した。
「何ですか、これは」
「昨日、壮翔さんが言っていたじゃこ天の話。人を集める口実になるかと思って」
「胃袋の欄を公式資料に作らないでください」
「まだ公式資料じゃないです」
「油断すると、あの人は何でも公式にします」
その言葉の終わりに合わせるように、商店街の向こうから、壮翔が両手に紙袋を下げて現れた。肩には白い布、首にはタオル。顔だけなら徹夜の修繕帰りのようだが、紙袋から漂う香ばしい匂いが、すべてを別の方向へ押し流していた。
「おはよう、港の未来を担う諸君」
「朝から言葉が大きい」
裕子が即座に切った。
壮翔は気にせず、紙袋を案内所の机に置いた。
「商店街の浜乃屋さんから預かってきた。じゃこ天、二十枚。正確には二十枚だった。出発時点では」
「今、なぜ過去形にしました」
裕子の手が、領収書へ伸びた。祐も紙袋の口を覗く。中には薄茶色のじゃこ天が重なり、まだ温かい油の匂いを立てていた。数え始めた裕子の眉間が、三枚目あたりで浅く寄り、十枚を越えたところで深くなった。
「十八枚」
「おかしいな」
「おかしいのは数ではなく、あなたです」
「この命に代えても守るつもりだった」
壮翔は胸に手を当てた。声だけは、島を救う船長のように低い。だが、口元に小さな油の艶がある。右頬には、魚のすり身らしき白い欠片までついていた。
裕子は無言でハンカチを差し出した。
「拭いてから言ってください」
壮翔は頬を触り、欠片を見つけ、祐のほうを見た。
「これは、味見だ」
「二枚分の?」
「品質確認は一回では危ない」
「あなたの危機管理だけ、やたら厳しいですね」
裕子の声が商店街にまっすぐ通った。通りがかった八百屋の主人が、笑いをかみ殺しながら蜜柑の箱を持ち上げる。祐は笑ってはいけないと思い、温度確認の資料へ視線を落としたが、紙の文字が少し揺れて見えた。
そこへ、潮紙堂のほうから文香が歩いてきた。紺の布袋を腕に掛け、名札箱を抱えている。文香は案内所の前で立ち止まり、机の上のじゃこ天を見た。次に壮翔の口元を見た。それから鞄の中を探り、白い紙皿を一枚取り出して、壮翔の前へそっと置いた。
「証拠用ですか」
祐が小声で聞くと、文香は短く答えた。
「隔離用です」
壮翔は紙皿を受け取り、少しだけ肩を落とした。
「俺が隔離されるのか」
「じゃこ天が」
「そこは俺でもよかった」
文香は答えなかった。名札箱を案内所の机の端に置き、紙袋から一枚だけじゃこ天を取り出す。油が名札へ移らないよう、紙を二重に敷いた。その動きがあまりに手早く、裕子は怒りの続きより先に、必要物品の欄へ「紙皿、油紙、手拭き」と書き足した。
祐はその様子を見て、欄の名前を変えた。
聞き取りに来てもらうきっかけ。
その下に、もう一行。
食べ物を扱う時は、名札と距離を取る。
「試食会にはしません」
祐が言うと、壮翔が目を丸くした。
「試食会じゃないのか」
「名札の聞き取りです。じゃこ天は、話し始めてもらうためのもの。食べるだけで帰られたら困ります」
「食べてから話せばいい」
「食べながら話すと、名前の上に油が飛びます」
文香が言った。
壮翔は紙皿の上のじゃこ天を見て、名札箱を見て、真剣な顔で頷いた。
「それは、よくない」
「急に分かるんですね」
裕子が言った。
「食べ物と布の距離は、大事だ」
「最初から大事にしてください」
午前八時半、淡名渡船待合所の前に小さな机が置かれた。机の上には名札返却の説明文、同意書、記録用紙、鉛筆、手拭き、油紙、そして紙皿に分けたじゃこ天が並ぶ。昨日作った白い布の日よけは、入口の上で控えめに揺れていた。文香の紙の吊り飾りは、風が通るたびに細く震える。風鈴は一つだけ。音が鳴ると、港の朝に小さな隙間ができた。
信清は船着き場のほうから来て、机の位置を見た。
「ここなら、船の乗り降りの邪魔にはならん」
「匂いは邪魔になりませんか」
裕子が尋ねる。
「腹には邪魔になるな」
信清は淡々と言った。
壮翔が勝ち誇った顔をしたが、信清は続けた。
「ただし、食べ過ぎると船で揺れる」
壮翔の顔が少しだけ曇った。
最初に足を止めたのは、港近くの金物店を営む老人だった。祐が説明文を差し出すと、老人は老眼鏡を鼻の上へずらし、布名札の写真を見た。
「これは、淡名小の通学札か」
「ご存じですか」
「知っとるも何も、わしの兄貴がこれを首から下げて船に乗っとった。わしはまだ小さくて、見送り専門じゃったが」
祐は記録用紙へ、氏名ではなく、まず話の内容を書いた。兄の名前を聞く前に、話す人がどこまで話したいかを見なければならない。
老人はじゃこ天を一切れ受け取り、口へ運ぶ前に笑った。
「昔は、こんな上等なもんは船では食えんかった。握り飯か、蜜柑か、たまに魚肉ソーセージじゃ」
「船の中で食べたんですか」
愛衣子が身を乗り出す。昨日までより少しだけ、声の出し方が慎重だった。相手の顔がほころんでいることを確かめてから、次の問いを置いている。
「食べると言うより、隠していた。先生に見つかるとうるさいけえな。待合所のあの長椅子の下に、蜜柑の皮を押し込んだやつがおって、あとで八重さんに叱られた」
文香の指が、名札箱の縁で止まった。
祐はその名を聞き返さなかった。文香の表情を見たからではない。ここで母の話へ急に寄せれば、老人の記憶も、文香の沈黙も、どちらも乱れてしまう。
老人は続けた。
「八重さんは、怒鳴らんかった。ただ、皮を拾って、ほれ、と手を出す。出した手に、皮を戻される。あれが一番きつい」
壮翔が自分の紙皿を見た。
「今の話、俺にも効くな」
「効いてください」
裕子が即答した。
愛衣子は付箋に「長椅子下、蜜柑の皮、八重」と書いた。裕子が横から「個人名公開確認」と赤字で足す。文香は紙皿を一枚取り、老人の前のじゃこ天の油が記録用紙へ染みないよう、そっと位置を変えた。
二人目は、渡船を待っていた女性だった。港の売店で働いているらしく、エプロンの腰紐をほどかないまま来た。名札の束を見ると、声が少し高くなる。
「この名字、見覚えがあります。たしか、うちの母の同級生にいたはず。淡名島から本土の中学へ通っていた子」
「お名前を伺ってもいいですか。ただし、こちらで勝手に公開はしません」
祐が言うと、女性はほっとしたように頷いた。
「それなら。母は、名前を出されるのを嫌がるかもしれんから」
「聞き取りだけで止めることもできます」
裕子が同意書を一枚取り出した。言い方は硬いが、紙の向きは相手が読みやすいように整えている。
女性はじゃこ天を手に取り、ふと笑った。
「母が言っていました。船が揺れる日は、誰かが団扇で背中をあおいでくれたって。船酔いした子が泣くと、待合所の人が『港で吐いたら掃除が大変だから、船の上でなくここで休みなさい』って。優しいのか厳しいのか分からない人だったって」
文香のまぶたが、ほんの少し下がった。
信清が海のほうを見たまま言った。
「優しいだけの人は、港では長く続かん。厳しいだけの人もな」
その言葉を、祐は記録欄の下に小さく書いた。八重という人の輪郭が、母としてだけでなく、待合所で子どもを見ていた大人として浮かんできていた。
明純は子どもたちを連れてきた。港の近くに住む小学生が三人、ランドセルではなく小さなリュックを背負い、興味津々で待合所を覗いている。
「昔の船の遊びを聞く係、連れてきました」
「勝手に係を増やさない」
裕子が言った。
「でも、聞き取り対象は大人だけじゃないです。今の子に、船で待つってどう見えるかも聞けます」
明純はそう言って、子どもたちへ紙を渡した。そこには「船を待つあいだ、何をしたいですか」と大きく書いてある。絵でも文字でもいいらしい。
祐は少し感心した。昨日、港を騒がせそうな勢いで走り回っていた明純が、今日は子どもの手に合う大きさの鉛筆まで用意している。
子どもの一人が、長椅子の絵を描いた。もう一人は、団扇を持った人を描いた。三人目は、なぜかじゃこ天に足を生やしている。
「これは?」
愛衣子が聞く。
「じゃこ天が船に乗り遅れるところ」
壮翔が絵を見て、胸を押さえた。
「悲劇だ」
「食べられずに済むので、じゃこ天側から見れば喜劇です」
裕子が言った。
笑い声が上がった。待合所の中に、昨日の熱とは違うものが満ちる。長椅子の傷、剥がれた掲示板、名札棚の跡、白い布、紙の吊り飾り。どれもまだ仮のままだが、人が立ち止まり、誰かの話を聞くには足りていた。
午前九時を過ぎると、通学船を使っていた世代の人が、噂を聞いて少しずつ集まった。誰かが誰かを呼び、じゃこ天の匂いがさらに誰かを引っ張ってくる。壮翔は胸を張ったが、裕子に睨まれるたび、紙皿の数を確認する係へ戻った。
「この名字は、たしか北の浜の家じゃ」
「いや、同じ名字が二軒あった。山側のほうに、背の高い子がいた」
「その子、船の中でいつも窓側に座っていたでしょう。酔いやすいから」
「八重さんが団扇であおいでいた子?」
断片が、付箋になって机の上へ増えていく。愛衣子は色を分けた。確かな証言、要確認、本人同意必要、公開不可の可能性。祐はそれを見て、彼女が昨日の暑さ対策の表から、分類のやり方を盗んだのだと分かった。
文香はあまり話さなかった。だが、証言の中に母の名が出るたび、指先がわずかに動く。名札を押さえる。油紙を替える。紙皿を遠ざける。机の端で揺れた付箋を貼り直す。泣くでも笑うでもなく、ひとつずつ形を整えている。
祐はその横で、証言した人へ確認を取った。
「この内容は、名前を出さずに記録してもよろしいですか」
「名前は出さんでええ。けど、あの長椅子の下に蜜柑の皮を隠したやつがいたことは残してくれ」
「はい。名前なしで、出来事として残します」
「出来事というほど立派なもんじゃないが」
「でも、待合所らしい話です」
老人は照れたように笑い、じゃこ天をもう一切れ取ろうとして、裕子の視線に気づいた。
「一人一切れか」
「聞き取り一件につき一切れです」
「じゃあ、もう一つ思い出そうかの」
「取引にしないでください」
裕子はそう言いながら、紙皿を半分だけ前へ出した。
十時前、日差しが強くなり始めた。昨日の温度確認通り、待合所の中の空気は少しずつ重くなる。信清が温度計を見て、祐へ目を向けた。
「ここまでだな」
「はい。今日は閉めます」
集まった人たちに閉鎖の案内をすると、少し残念そうな声が上がった。だが、祐は迷わなかった。朝だけ開けると決めたばかりの基準を、初日から曲げるわけにはいかない。
明純が子どもたちを日陰へ誘導し、愛衣子が聞き取り用紙を番号順に挟む。裕子はじゃこ天の残りを数えた。
「五枚」
壮翔がすぐに顔を上げる。
「余ったのか」
「浜乃屋さんへ返します」
「一度外へ出たじゃこ天を返すのは失礼だ」
「では、聞き取りに協力してくれた方へ配ります」
「俺も協力した」
「あなたは減らしました」
文香が紙皿を片づけながら、ぽつりと言った。
「でも、人は来ました」
裕子が手を止めた。壮翔も、妙にまじめな顔になる。
文香は名札箱の蓋を閉め、続けた。
「食べ物だけなら、ただの朝市です。でも、話す場所があったので」
祐は頷いた。
「じゃこ天は、きっかけ。机と記録と確認が、場所を作る」
「あと、油紙」
文香が言う。
「あと、油紙」
祐は繰り返した。
壮翔は少しだけ胸を張った。
「つまり、俺のじゃこ天作戦は成功だな」
「あなたの作戦ではなく、浜乃屋さんの協力と、文香さんの油紙と、祐の記録と、愛衣子の付箋と、明純の子ども係と、信清さんの閉鎖判断です」
裕子は一息で言った。
「俺は?」
「紙皿の見張り」
「重要だな」
「重要です。二枚消えていますから」
笑いがまた起きた。笑いながらも、祐は机の上の付箋を見ていた。今日だけで、名札の名字に関わる手がかりが七件。八重の待合所での姿に関わる証言が三件。団扇の話が二件。長椅子の下の蜜柑の皮が一件。
一件ずつは小さい。けれど、これまでただの布の束だった名札に、声が戻り始めている。
閉める前、文香は名札箱を持ったまま、待合所の奥へ行った。名札棚の跡が残る壁の前で立ち止まり、箱の蓋に手を置く。祐は少し離れて待った。
「母は、怒鳴らなかったそうです」
文香の声は、風鈴より小さかった。
「はい」
「それは、知りませんでした」
祐は、すぐに慰める言葉を探さなかった。文香は、母が優しかったと聞いて救われたいのではない。自分が知らなかった母の姿を、どう置けばいいのか分からず、箱の前に立っている。
「今日の記録、公開する時は、八重さんの名前を出さずにまとめますか」
文香は少し考えた。
「今は」
「はい」
「今は、名前なしで」
「分かりました」
祐は記録用紙の該当欄に、非公開、要再確認と書いた。
文香はその文字を見て、ほんの少し息を吐いた。母の名前を隠すことは、母を否定することではない。今日のところは、文香が抱えられる大きさに折りたたむということだ。
待合所の戸を閉め、鍵をかける頃には、日差しが石畳を白く照らしていた。白い布を外した壮翔が、最後の紙皿を手に持っている。
「これは、どうする」
紙皿の上には、少し冷めたじゃこ天が一枚だけ残っていた。
裕子が領収書を鞄にしまいながら言う。
「浜乃屋さんへ協力のお礼を言いに行って、その時に相談します」
「食べる相談か」
「お礼の相談です」
「お礼に食べるという形も」
「ありません」
明純が子どもたちの絵をまとめ、愛衣子が付箋の束を抱える。信清は船着き場へ戻る前に、祐へ言った。
「こういう日は、調子に乗りすぎんことだ。人が集まった次の日ほど、波が立つ」
「はい」
「でも、今日は悪くなかった」
信清はそれだけ言い、港へ歩いていった。
祐は待合所の張り紙を確認した。開放時間、暑熱時の閉鎖、聞き取りへの同意、名札へ触れないでほしいこと。昨日まで紙の上だけにあった決まりが、今日初めて、人の動きと一緒に働いた。
壮翔は紙皿を持ったまま、文香の横に並んだ。
「なあ、隔離されたじゃこ天は、最後どうなるんだ」
文香は歩きながら答えた。
「記録します」
「食べ物を?」
「二枚消えたので」
裕子が後ろで頷いた。
「再発防止欄に書きます」
「じゃこ天紛失防止規程ができるのか」
「あなたがいる限り必要です」
祐は笑いながら、今日の記録袋を胸に抱えた。中には、名札の手がかり、母の知らない一面、子どもが描いた船に乗り遅れるじゃこ天、そして人が話し始めるための匂いが入っている。
待合所を残す理由は、また少し増えた。
港の朝に、名前を呼ばれる前の声が集まる。誰かが覚えている小さな失敗。誰かが隠した蜜柑の皮。誰かがあおいだ団扇。誰かが口元に残した油。
全部を美しい話にする必要はない。笑われるものも、叱られるものも、黙って紙皿に隔離されるものも、待合所には似合っていた。
祐は案内所へ戻る道で、記録用紙の新しい項目を考えた。
食べ物は、人を集める。
その下に、赤字で裕子が書き足す顔まで浮かぶ。
ただし、壮翔からは二歩離すこと。




