表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/45

第6話 熱放射の午後

 翌日の尾路町は、朝から空の色が濃かった。


 雨上がりの石畳は乾ききらないまま白く光り、港へ下りる坂の途中では、家々の軒先に吊られた洗濯物が、海からの風を受けてゆっくり膨らんでいた。潮の匂いの奥に、濡れた木が温まる匂いが混じる。祐は交通案内所のカウンターで渡船の時刻を尋ねる夫婦に道順を伝えながら、無意識に窓の外を見た。


 淡名渡船待合所の屋根が、朝の光を受けて鈍く照り返している。


 昨日、千代から預かった青い蜜柑は、案内所の奥の机に置いてあった。食べるには早いと言われた通り、指で触れると皮が硬く、香りだけが強い。文香は朝一番に潮紙堂へ戻り、名札の包み紙を替えると言っていた。祐は仮保管票を封筒に入れ、今日の確認欄へ「棚の右奥」と書き足した。


 裕子が横からその文字を見た。


 「悪い子が隠せる場所、って何」


 「千代さんの証言です」


 「証言なら仕方ないけど、待合所に『悪い子用収納』なんて書いたら進祐さんに突き返されるからね」


 「書きません」


 「壮翔さんなら書く」


 その名を出しただけで、二人は同時に港の方を見た。坂の下から、木材を担いだ壮翔が、やけに得意げな足取りで上がってくるのが見えた。肩には白い布、反対の手には細長い竹。後ろから明純が、何本もの紐を抱えて追いかけている。


 「ほら、もう書く人が来た」


 裕子は伝票を束ね、赤ペンを胸ポケットに差した。


 「今日の確認は暑さです。床の傷みも見るけど、まず温度。昨日、雨で分からなかった分を測る。数字がないと、待合所を残したいって話は進まない」


 「分かってます」


 祐は温度計を二つ、湿度計を一つ、長いメジャーと記録用紙を鞄に入れた。案内所の入口では、先ほど道を聞いた老夫婦が、港へ向かってゆっくり歩いている。夫のほうは帽子を被っていたが、妻は薄い日傘だけだった。祐は一度声をかけ、商店街の影を通る道をもう一度案内した。


 「待合所で休めますかね」


 夫が額の汗を拭きながら尋ねた。


 祐はすぐに「はい」と言えなかった。


 「長椅子はあります。ただ、今日は中の温度を確認します。暑ければ、港の売店の横に日陰があります」


 「昔の待合所は涼しかった気がするんだけどねえ」


 妻がそう言って笑った。祐は曖昧に笑い返した。昔、涼しかったのかもしれない。けれど今の屋根と壁が、今の七月の午後に人を守れるとは限らない。


 港へ着く頃、空はさらに白くなっていた。海面はきらきらと光り、遠くの島影の輪郭が熱で少し揺れている。淡名渡船待合所の戸を開けた瞬間、祐は思わず一歩止まった。


 中の空気が、重い。


 閉じ込められた熱が、古い木の匂いと一緒に胸へ押し寄せてきた。昨日の雨で湿った床が、朝から照りつけた屋根の熱を受け、じわじわと蒸している。長椅子の上に置いてあった団扇を持ち上げると、竹の骨までぬるかった。


 信清はすでに来ていた。壁際にしゃがみ、手の甲で床板を触っている。小さな温度計が三つ、窓辺、長椅子、壁の下に置かれていた。


 「外より中のほうが、逃げ場がないな」


 信清は声を荒げずに言った。祐が窓を開けると、海からの風が入ったが、すぐ屋根の下の熱に絡め取られる。風はあるのに、涼しくならない。


 「屋根ですか」


 「屋根と、壁と、床。昼を越えたら、もっと溜まる。年寄りや子どもを座らせるなら、これではいかん」


 祐は記録用紙を取り出した。八時五十五分。外気温二十九度。待合所内三十二度。壁面近く三十四度。床板三十三度。手書きの数字が並ぶたび、古い待合所の弱さが、感情では逃げられない形になる。


 文香は名札を入れた箱を抱えて入ってきた。薄い灰色の上着を着て、首の後ろに汗をかいている。箱を日陰に置く前に、窓から差し込む光を見て、すぐ場所を変えた。


 「布が焼けます」


 「名札、持ってこないほうがよかったですか」


 「今日は、様子を見るだけにします」


 文香は箱の蓋を少し開け、包み紙の中を確かめた。千代の名札は、白い薄紙にくるまれている。その横に、まだ裏返しのままの名札が一枚あった。祐は視線を向けかけ、やめた。文香はその動きに気づいたようだったが、何も言わなかった。


 外で、竹が壁に当たる音がした。


 「日よけ部隊、到着!」


 壮翔が声を張った。明純が紐の束に絡まりかけながら戸口に立つ。後ろから愛衣子も走ってきて、手には商店街から借りた小さな風鈴がいくつも入った紙袋を持っている。


 「商店街の金物屋さんが、使ってない風鈴を貸してくれました。音があれば、涼しく感じるかもしれないって」


 「感じるだけでは審査を通らない」


 裕子の声が、明純の背中越しに飛んできた。彼女は白い帽子を目深にかぶり、脇に資料板を抱えている。


 「でも、感じることも利用者には必要。数字と体感、両方取る。壮翔さん、その竹、どこに打つつもり」


 「壁のここに釘を二本」


 「却下。壁を傷めて暑さ対策の前に修繕費を増やす気ですか」


 「じゃあ、俺の宿から持ってきた自立式の物干しを使う」


 「最初からそれを言って」


 壮翔は口を尖らせたが、すぐ外へ戻って白い布を広げた。待合所の前に立てた竹の支柱へ、布を斜めに張る。見た目は少し不格好だったが、入口に落ちていた直射日光が、ふっと薄くなった。明純が歓声を上げ、風鈴を窓の内側へ吊るそうとして、文香に止められる。


 「名札の上は、湿気が落ちます」


 「あ、じゃあこっち」


 「戸の開閉に当たります」


 「じゃあ、どこなら」


 文香は天井の梁を見上げ、古い釘跡のある場所を指した。


 「あそこなら、前にも何か掛けていた跡があります」


 明純は椅子に上がろうとして、信清に肩を押さえられた。


 「椅子がぐらつく。脚立を使え」


 「はい」


 明純は素直に降りた。千代の話を聞いたばかりの祐には、その短いやり取りが妙に大事なものに思えた。昔の子どもは椅子に乗って棚の奥へ名札を隠した。今の待合所では、誰かが先に危ないと言える。残すとは、古い危うさまでそのまま置くことではない。


 十時を過ぎると、待合所の中はさらに暑くなった。白い布で入口の日差しは和らいだが、屋根の下に溜まった熱は簡単には抜けない。祐は壁際の温度計を見て、眉を寄せた。


 「三十六度」


 裕子がすぐ記録した。


 「壁面近く十時十二分、三十六度。長椅子は?」


 「三十四度です」


 「座面も測って」


 祐は非接触の小さな温度計を長椅子へ向けた。数字は三十五度を超えていた。木の椅子が、ひんやりした逃げ場ではなく、体温に近い熱を抱えている。


 その時、入口から先ほどの老夫婦が顔を出した。船まで少し時間があるらしい。夫の帽子の縁には汗が溜まり、妻は日傘を閉じたところで、頬が赤くなっていた。


 「中で少し座っても?」


 祐は反射的に長椅子を見た。座れる。けれど、長く座らせていい状態ではない。


 「こちらへ。入口の布の下のほうが風が通ります。椅子は熱を持っているので、これを敷きます」


 文香が自分の鞄から白い布を出し、長椅子の端に二つ折りで置いた。壮翔は宿から持ってきたらしい小さな丸椅子をすぐ日陰へ出し、明純が売店で買った水を差し出した。


 「お代は」


 「調査協力ということで」


 明純が胸を張ると、裕子が横から財布を出した。


 「水代は私が払います。明純くん、あとで領収書」


 「領収書、もらってないです」


 「今からもらってきて」


 明純は水の入った袋を置き、慌てて売店へ走った。老夫婦はその背中を見て笑った。笑いながらも、妻は団扇で首元をあおいでいる。団扇の風は頼りないが、あるのとないのでは表情が違った。


 「昔は、ここで船を待ったものよ」


 妻が言った。


 「窓がもっと開いた気がするんだけどね」


 信清が窓枠を見た。


 「上の小窓が固まっとる。ここが開けば、熱が抜けるかもしれん」


 「直せますか」


 祐が尋ねると、信清はすぐに頷かず、木枠の傷みを指で確かめた。


 「無理に開けると割れる。大工に見てもらったほうがええ」


 「費用」


 裕子が短く言った。


 「分かってます」


 祐は記録用紙に、小窓の固着、換気不足、要見積と書いた。すると文香が、名札箱を見ながら小さく言った。


 「紙の吊り飾りを作れば、風の流れは見えます」


 「風を増やすんじゃなくて、見えるようにする?」


 「はい。どこが動いて、どこが止まっているか。紙なら軽いので」


 裕子は一瞬、意外そうに目を開いたが、すぐ資料板へ書いた。


 「風の可視化。試作、潮紙堂。費用、紙代少額。いいです」


 「まだ、やるとは」


 「今やるって顔をしていました」


 文香は否定しなかった。箱から名札を出す代わりに、鞄の底から細い和紙を数枚取り出す。細く切り、糸を通し、窓辺と入口の間に吊るす。白く細い紙は、最初ほとんど動かなかった。ところが入口の布を少し持ち上げると、一本だけ、かすかに揺れた。


 「ここだけ通る」


 文香の指が、空気の道をなぞった。


 壮翔は布の角度を変えた。信清は外から戸の開き具合を調整した。祐は温度計を持ったまま、紙の揺れと数字を見比べる。大きな変化ではない。三十六度が急に二十八度になるわけではなかった。それでも、長椅子の端に座っていた老夫婦の妻が、少しだけ肩の力を抜いた。


 「風が来たね」


 その一言を、祐は記録の欄外に書いた。


 昼に近づくにつれ、港の音は少し遠くなった。暑さの中では、人の声も船のエンジンも薄く伸びる。明純が領収書をもらって戻ってきた頃、愛衣子は紙袋から風鈴を一つだけ出し、文香の示した梁へ吊るした。ガラスが揺れる音は、小さく、涼しいというより、暑さの中で誰かが起きている合図のようだった。


 「全部吊るしたら、うるさいですね」


 愛衣子が言った。


 「一つでいい」


 文香が答えた。


 「一つで、ここに風があると分かるので」


 愛衣子は残りの風鈴を紙袋に戻した。思いついたものを全部置くのではなく、必要な分だけ置く。その動きは、本人が気づかないほど自然だった。


 正午前、進祐が来た。白いシャツの袖をまくり、首には薄いタオルをかけている。祐とは遠縁だが、港に立つと顔つきが少し似ていると、壮翔が前に言っていた。今日はその壮翔が、開口一番に失敗した。


 「祐、待ってたぞ」


 「俺はここです」


 祐が手を上げると、壮翔は進祐を見て、祐を見て、真顔で言った。


 「暑さのせいで二人に増えた」


 「その冗談を資料に書いたら、減点します」


 進祐は淡々と返した。裕子が吹き出しかけ、咳払いでごまかす。


 進祐は待合所の中へ入り、まず温度計を見た。次に、入口の白い布、小窓、長椅子、名札箱、風を示す紙の吊り飾り、風鈴の位置を順に確認する。ほめない。けれど、見落とさない。


 「この暑さで開放時間を広く取るのは無理です」


 「はい」


 祐はすぐ頷いた。


 「朝の短時間なら、日よけと換気、給水案内、体調不良時の避難先をセットにすれば検討できる。昼以降は閉める前提で考えたほうがいい」


 裕子が記録した。


 「開放候補、朝七時から十時。七月から九月は延長なし。熱中症警戒の基準を別紙に」


 「あと、屋根の熱対策。白い布だけでは臨時対応です。固定しない日よけ、風の抜ける小窓の修繕、座面の温度確認、利用者への水分案内。感傷の展示より先に、ここです」


 進祐の言葉は厳しかった。けれど、取り壊しのために切り捨てる言葉ではなかった。どうすれば人を入れられるか、その条件を探す声だった。


 祐は自分のノートに、太く線を引いた。


 思い出より先に、座れる温度。


 文香がその文字を横から見て、小さく頷いた。名札を守る棚も、人が倒れては意味がない。母が縫ったかもしれない名札も、千代が残したいと言った棚も、暑さで誰かが具合を悪くすれば、待合所ごと信用を失う。


 進祐が帰った後、老夫婦は無事に渡船へ乗った。妻は船に乗る前、入口の団扇を手に取り、祐へ返しながら言った。


 「ここ、残るといいわね。でも、暑い日は無理しないほうがいいわ」


 「はい」


 「昔より、夏が強いもの」


 その言葉は、祐の胸に残った。古い場所を残すなら、昔のままでは足りない。昔の風を探しながら、今の夏に合わせなければならない。


 午後一時、待合所の中は三十八度近くまで上がった。祐たちは予定を切り上げ、名札箱を潮紙堂へ戻すことにした。文香は箱を抱え、入口で一度振り返った。白い紙の吊り飾りは、ほとんど動かない。風鈴も黙っている。暑さの中で、待合所は眠っているようだった。


 「昼は、閉める」


 文香が言った。


 「はい。朝と夕方だけ、様子を見ながら」


 「名札も、人も」


 「守るために」


 文香は短く頷いた。


 裕子は待合所の戸に仮の張り紙を貼った。「本日は温度確認のため、午後の滞在はご遠慮ください。港売店横の日陰をご利用ください」。文面は少し硬かったが、赤字で「水分補給」と大きく足されている。


 明純は売店横へ案内矢印を置き、愛衣子は案内所へ持ち帰るための改善点を読み上げた。


 「日よけ、換気、水、椅子の温度、閉鎖時間、風の流れ、風鈴は一つ」


 「風鈴は絶対に必要なの?」


 裕子が眉を上げる。


 「一つなら」


 文香が言った。


 裕子は少しだけ口元を緩めた。


 「では、一つなら」


 壮翔は白い布を畳みながら、汗だくの顔で言った。


 「なあ、暑い中で人に来てもらうなら、何か食べ物もいるんじゃないか。冷たい水だけじゃ寂しい。港で待つなら、こう、じゃこ天とか」


 「また食べ物で釣る気ですか」


 裕子がすぐ返す。


 「釣るんじゃない。場を整えるんだ。胃袋から」


 「胃袋は交通動線ではありません」


 「いや、動線の最後は胃袋だろう」


 祐は笑いながら、記録用紙を鞄にしまった。暑さの確認だけで、待合所を残す道はまた少し険しくなった。けれど、必要な線も見えた。白い布の角度。小窓の修繕。水の置き場所。昼は閉める判断。風を知らせる紙。風鈴は一つ。


 待合所の戸を閉めると、トタン屋根が午後の日差しを受けて、また鈍く光った。祐は鍵をかけ、張り紙の端を押さえた。中に残った熱はすぐには消えない。だが、次に開ける時には、ただ懐かしいだけの場所ではなく、人が座って帰れる場所に近づける。


 港の向こうから、渡船の汽笛が短く鳴った。


 壮翔は白い布を肩に担ぎ、まだ言っている。


 「じゃこ天なら、手も汚れにくい。いや、少し汚れるか。そこがいい」


 「よくない」


 裕子の声が、暑い坂道にまっすぐ響いた。


 文香は名札箱を抱え、祐の横を歩いた。箱の中の布名札は、白い薄紙に包まれ、熱から遠ざけられている。祐は青い蜜柑の香りを思い出した。酸っぱくて、まだ食べられない実。それでも、そこにあるだけで、港の空気を少し変える。


 待合所も同じかもしれない。


 今はまだ、人を長く休ませるには暑すぎる。けれど、捨てるには早い。直す場所が分かり、守る順番が分かり、怒る人と笑う人と黙って手を動かす人がいる。


 祐は案内所へ戻ったら、進祐へ出す資料の一行目にこう書こうと思った。


 淡名渡船待合所は、夏の昼に開けてはいけない。


 その下に、もう一行。


 だからこそ、朝の風を入れる準備が必要である。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ