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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第5話 渡船一便目の約束

 翌朝、港の空はまだ薄い灰色だった。


 尾路町の石畳には夜露が残り、坂の下へ向かう祐の靴音だけが、家々の雨戸の間を小さく跳ねた。胸ポケットには、昨日のうちに書き直した仮保管票が入っている。左手の鞄には、淡い名札を一枚、薄い紙で包み、曲がらないように板で挟んで入れていた。


 名札の表には、かすれた墨で「みやもと」と読める跡があった。下の名は、海風と時間に削られている。文香は夜のうちに布の端を整えたが、読めない字を無理に読ませようとはしなかった。祐の記録表には、持ち主候補として「淡名島北側、蜜柑畑、宮本千代」とだけ書かれている。


 渡船乗り場の桟橋には、信清が先に立っていた。濃紺の帽子を深くかぶり、海の向こうを見ている。船がまだ着いていないのに、彼の足元にはロープが整えられ、濡れた木板の危ないところには古い麻袋が敷かれていた。


 「一便目に乗るなら、急がんでいい。急ぐ人ほど、ここで足を取られる」


 信清は祐の足元を見てから言った。


 「おはようございます」


 「おはよう。文香は」


 祐が振り返ると、坂の途中から文香が下りてきた。肩からかけた布鞄が、歩くたびに膝へ当たる。中には霧吹き、和紙、綿手袋、小さな裁縫箱が入っているはずだった。文香は挨拶の代わりに軽く頭を下げ、祐の鞄へ視線を落とした。


 「濡れてませんか」


 「大丈夫。板で挟んである」


 「なら、いいです」


 それだけ言って、文香は桟橋の端に立った。海からの風が前髪を揺らす。祐は、その横顔が昨日より少し白く見えるのは、朝の光のせいだけではないと思った。


 向こうから淡名島行きの小船が来た。船体は白く、側面の塗装はところどころ剥げている。それでも舳先は波を割り、迷いなく桟橋へ寄ってきた。エンジン音が近づくにつれ、尾路町の背後で開き始めた店のシャッターの音が遠くなる。


 信清は船長に短く声をかけ、乗り込む人を一人ずつ見た。買い物袋を下げた島の女性、釣り竿を持った男性、眠そうな中学生。祐と文香が最後に乗ると、信清も船室の入口に腰を下ろした。


 「昼過ぎに雨が来る」


 船が桟橋を離れる前、信清がぽつりと言った。


 「天気予報では夕方からでしたけど」


 「雲の腹が重い。西のほうが白くにじんどる。帰りは十一時台にしとけ」


 祐はノートを出し、帰りの便に丸をつけた。文香は船室の窓から海面を見ている。波はまだ穏やかで、尾道水道の水は薄く鉛色に光っていた。船が動き出すと、港の杭についた貝殻が朝の水をはじき、かすかな音を立てた。


 淡名島までは長い時間ではない。けれど、渡っているあいだだけ、尾路町の時計とは別の針が動くように感じる。祐はいつもそう思う。駅の発車時刻やバスの到着時刻なら、数字で追える。だが船には、風の都合、波の都合、人の足元の都合がある。


 文香が鞄から白い布を取り出した。昨日、名札を包んでいたものとは別の、やわらかな布だった。


 「見せる前に、これを下に敷きます」


 「直接、手渡さない?」


 「相手が触りたいと言うまで」


 祐は頷いた。名札は返しに行くものだと思っていた。けれど文香の言い方だと、まず名札がそこにあることを、相手の前に置くのだ。受け取るかどうかは、そのあとで決まる。


 船室の前方で、中学生が欠伸をした。首から下げた新しい通学用の札が、制服の胸で揺れている。印刷された名前はくっきりしていて、古い布名札とは違う。文香もそれに気づいたのか、目を細めた。


 「今の札は、濡れても読めますね」


 「昔のほうがいい?」


 「読めなくなるから、困ります」


 祐が笑うと、文香はまじめな顔のままだった。


 「でも、読めなくなったから、隠れていた時間も残ります」


 船の揺れに合わせて、文香の声が少しだけ途切れた。祐は返事を急がなかった。信清がこちらを見た気配がしたが、何も言わなかった。


 淡名島の桟橋に着くと、潮の匂いに蜜柑の葉の青い匂いが混じった。港の待合小屋は尾路町側よりも小さく、壁には手書きの時刻表が貼られている。坂道はすぐに始まり、石垣の上から蜜柑の枝が道路へせり出していた。


 「宮本さんの畑は北側の中腹だ」


 信清が港の脇に停めてあった軽トラックの荷台へ、漁具を載せながら言った。


 「歩くと二十分。途中で左に曲がるな。左へ曲がると、山羊に追われる」


 「山羊ですか」


 「紐が長い」


 祐が真顔でノートへ書きそうになると、信清は少しだけ口元を緩めた。


 「そこは書かんでいい」


 文香が、ほんの短く息を漏らした。笑ったと気づくには小さすぎる音だったが、祐には聞こえた。


 坂を上るにつれ、港の音は背中のほうへ落ちていった。舗装された道の端には、朝露を含んだ草が伸びている。蜜柑畑は段々になっていて、石垣の隙間から小さな花が顔を出していた。まだ青い実が葉の陰に隠れ、ところどころに白い防鳥テープが揺れている。


 文香は歩くのが速くない。けれど、息を乱しても立ち止まらなかった。祐は、時々振り返って距離を確かめた。文香がそれに気づくと、目だけで先へ行くように示した。


 「急ぎません」


 祐が言うと、文香は鞄の紐を握り直した。


 「名札が急いでないので」


 坂の上から、鳥の声が落ちてきた。そのすぐあと、畑の中から女性の声がした。


 「信清さんの言うた人らかね」


 石垣の上に、麦わら帽子をかぶった老女が立っていた。腰は少し曲がっているが、手に持った剪定ばさみはぴたりと閉じられている。顔には深い皺があり、目だけが子どものように早く動いた。


 「宮本千代さんですか」


 祐が名乗り、尾路町交通案内所から来たこと、淡名渡船待合所で古い名札が見つかったこと、本人確認ができるまで誰のものとも決めないことを順に説明した。千代は剪定ばさみを腰の籠へ入れ、畑の脇に置かれた木箱へ二人を座らせた。


 「まあ、水でも飲みんさい。坂で干からびるけえ」


 差し出されたコップの水は、少しだけ鉄の匂いがした。文香は両手で受け取って、小さく頭を下げる。


 祐は同意を得てから、鞄を開けた。板で挟んだ包みを出し、文香が白い布を木箱の上へ敷く。風で布の端が浮くと、文香は裁縫箱から小さな重しを出して押さえた。その重しは貝殻の形をしていた。


 千代は、その手つきを見てから言った。


 「大事そうにしてくれるんじゃね」


 「大事かどうかは、まだ分かりません」


 文香が答えた。


 「でも、粗末にはしません」


 千代は目を細めた。祐は包みを開け、淡い名札を布の上へ置いた。朝の光を受けると、布は灰色にも薄い橙にも見えた。縫い目はところどころ擦り切れ、墨の字は「みやもと」だけがかろうじて読める。


 千代はしばらく黙っていた。祐は、名前を急がせないように息を抑えた。蜜柑の葉が風に擦れ、下の港から船のエンジン音がかすかに上ってくる。


 やがて千代が、噴き出すように笑った。


 「ああ、これじゃ。これ、わたしじゃ」


 文香の指が、布の端から少し離れた。


 「覚えていらっしゃいますか」


 祐が尋ねると、千代は頷きながら、また笑った。


 「覚えとるも何も、隠したんよ。失くしたんじゃない。隠したん」


 「隠した?」


 「三年生の時じゃったかね。雨の日に船の中で遊んどって、名札の紐をほどいてしもうた。母さんに叱られると思うて、待合所の棚の奥に押し込んだんよ。明日、取ろう思うて。ほしたら次の日には忘れた」


 千代は膝を叩いて笑った。文香は名札を見たまま、瞬きだけをした。


 「お母さまには」


 「叱られた。そりゃもう。名札がないなら、あんたは誰の子か分からん、と言われてね。わたしも腹を立てて、宮本の子に決まっとる、と言い返した」


 千代は畑の向こうを見た。笑いの残っていた口元が、少しだけ静かになる。


 「あの頃は、名札がないと船でよその子と混じるけえね。先生も船長も、名前を見て数えよった。今思えば、命綱みたいなもんじゃった」


 祐はその言葉をノートに書いた。命綱。大げさではない。船に乗る子どもたちを、待合所と船と家へつなぐ細い布だった。


 千代は手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 「触ってもええかね」


 「はい」


 文香は綿手袋を差し出そうとしたが、千代は自分の手を見て笑った。


 「畑の手じゃ。汚れるね」


 「洗ってからなら」


 文香はそう言って、鞄から小さな濡れ布巾を出した。千代は目を丸くした後、また笑った。


 「あんた、用意がええね」


 「汚れたら、布が困ります」


 「わたしじゃなくて、布が困るんか」


 「はい」


 千代は声を立てて笑った。その笑いにつられて、祐も少し笑った。文香は表情を変えないまま、千代の手に布巾を渡した。


 手を拭いた千代は、人差し指の腹で名札の端に触れた。ほんの一瞬だった。それだけで、畑の空気が変わったように祐には思えた。千代の指は、土を掘り、枝を切り、箱を運んできた手だった。その手が、子どもの頃の自分が隠した布に触れている。


 「小さいねえ」


 千代は言った。


 「こんな小さいもんで、わたしは毎朝、船に乗っとったんか」


 祐は、返却希望の欄が入った用紙を出した。現物を受け取る。待合所で保管する。写真だけ受け取る。写しを作る。非公開にする。裕子が赤字で整え、愛衣子が読みやすい言葉へ直した紙だった。


 「千代さん、この名札をどうされたいか、選べます。今決めなくてもかまいません」


 「持って帰れ言われると思うとった」


 「持って帰ることもできます」


 「いや」


 千代はすぐに首を横に振った。


 「これは、待合所に戻してやって」


 文香が顔を上げた。


 「戻す、ですか」


 「わたしの家には、今のわたしの物がようけある。畑の道具、夫の写真、孫が描いた下手な蜜柑の絵。そこへこれを置いたら、たぶん、ただの古い布になる。でも、あの待合所にあったら、三年生のわたしが、まだ棚の奥で息をしとる気がする」


 千代は、畑の下に見える海を指さした。


 「あそこで船を待っとったわたしを、全部持って帰らんでもええんよ。置いてきた場所があるなら、そこにいてもらえばええ」


 祐は用紙の「保管希望」に印をつけた。ただし、本人確認を終え、展示の可否を別に確認する必要がある。祐が説明すると、千代はうんうんと頷いた。


 「名前は出してええ。笑い話じゃけえ。けど、母さんに叱られたところは、ちょっと短めにしといて」


 「分かりました」


 「いや、やっぱり入れてええか。母さん、もう怒りにも来られんけえ」


 千代はそう言って、空になったコップを木箱の端へ置いた。笑っているのに、目尻の皺の奥だけが濡れているように見えた。


 文香は名札を包み直す前に、千代へ尋ねた。


 「棚の、どのあたりでしたか」


 「右の奥。子どもの背じゃ届きにくいところ。だから椅子に乗った。椅子がぐらぐらして、怖かったのを覚えとる」


 「名札台ではなく、棚ですか」


 「そうそう。壁に板があってね、普段はそこへ掛けるんじゃけど、隠すなら棚の奥じゃ。悪い子の知恵よ」


 祐は、待合所に残っていた棚跡の写真を思い出した。壁の画びょう跡だけでは足りない。名札を掛けた板と、隠された棚は別にあったのだ。


 「ほかに、同じように隠した子はいましたか」


 「いたかもしれんね。船に乗る子は、だいたい一度は何か隠す。点の悪い答案とか、食べ残した握り飯とか、家に持って帰りとうないものをね」


 千代は、ふと思い出したように文香を見た。


 「あんた、潮紙堂の子じゃろ」


 文香の肩が、わずかに動いた。


 「はい」


 「八重さんの身内かね」


 祐はペンを止めた。風が蜜柑の葉を揺らし、白い防鳥テープが細く鳴った。


 文香は、すぐには答えなかった。千代も急がせなかった。畑の中に、鋏で枝を切るような静けさが落ちた。


 「娘です」


 文香は短く言った。


 千代は、深く頷いた。


 「そうか。目元が似とる。八重さんは、子どもの名札をよう直してくれた。わたしのは隠したままじゃったけど、紐が切れた子のは、その日のうちに縫ってくれたよ」


 「母が」


 「うん。船が出るまでの短い間にね。糸を口で切って、指でぎゅっと押さえて。あれは早かった」


 文香は包み紙の端を押さえたまま、動かなかった。祐は何か言おうとして、やめた。ここで希望の形にまとめてはいけない。八重が誰かに優しかったことと、文香のもとへ戻らなかったことは、別々に重い。


 千代は畑の端へ歩き、小さな蜜柑を二つ取って戻ってきた。まだ青みが残る、早すぎる実だった。


 「食べるには酸い。持って帰って、待合所に置いとき。匂いだけはええけえ」


 祐が受け取ると、手の中に青い香りが広がった。


 「それから、棚を直すなら、右の奥は空けといて。悪い子が何か隠せる場所も、少しは要る」


 「本当に隠されたら、裕子さんに怒られます」


 「怒られる場所も、子どもには要るんよ」


 千代はさらりと言った。その言葉は、畑の土に水が染みるように、祐の中へ入ってきた。


 帰り道、文香は蜜柑畑の坂を下りながら、何度も布鞄の中を確かめた。名札は包み直され、仮保管票には千代の署名と保管希望の印がある。祐はその隣を、少し距離を置いて歩いた。


 「残す返し方もあるんですね」


 祐が言うと、文香は前を見たまま頷いた。


 「持ち帰るだけが、返すことではないので」


 「千代さんの名札、待合所に戻したら、あの人はまた来ますかね」


 「来なくても」


 文香は足を止め、坂の下の海を見た。


 「戻したことは、残ります」


 港へ着くと、信清が言った通り、西の空は白くにじんでいた。十一時台の船は、少しだけ揺れた。船室には、朝の中学生はいなかった。代わりに、買い物帰りの女性が紙袋を膝に抱え、眠そうに窓へ寄りかかっている。


 祐はノートを開き、今日の欄を埋めた。


 宮本千代。本人確認済み。現物は淡名渡船待合所で保管希望。名前の公開可。笑い話として紹介可。ただし、母親に叱られた話は本人確認後、文面を見せること。棚の右奥に隠した記憶あり。名札台とは別に棚があった可能性。


 その下に、祐は少し迷ってから書いた。


 残す返し方。


 文香は横からその文字を見ていた。何も言わなかったが、否定もしなかった。


 尾路町側の桟橋へ近づくと、待合所の屋根が見えた。古いトタンは朝よりも鈍い色をしていて、雨を待つように沈んでいる。取り壊し予定の紙が貼られている建物に、名札を戻してほしいと言った人がいる。その事実は、祐の鞄の中で、青い蜜柑の香りと一緒に静かに重くなっていた。


 桟橋に降りると、裕子が腕を組んで待っていた。後ろには壮翔がいて、なぜか大きな籠を抱えている。


 「遅い。十一時台って言っても、十一時台の前半と後半があるでしょう」


 「信清さんの予想で、雨が早まるって」


 「それは正しい。今から資料を乾いた場所へ移す。で、成果は」


 祐が仮保管票を差し出す前に、壮翔が籠を掲げた。


 「見ろ、名札棚に置くための小物入れだ。悪い子が何か隠せる余地もある、深さ十二センチ」


 「誰がそんな余地を頼んだの」


 裕子の声が港に響いた。文香が、鞄を抱えたまま、ほんの少しだけ口元を動かした。


 祐はその小さな動きを見て、今日の返却は成功と呼ぶにはまだ早いと思った。名札は千代の家には戻らなかった。けれど、待合所へ戻る理由を一つ得た。


 雨の最初の粒が、桟橋の板に落ちた。祐は鞄を胸に抱え、文香は白い布の端を確かめた。二人は走らず、急ぎすぎず、古い待合所へ向かった。


 その中にはまだ、右の奥に空けるべき棚の場所が残っている。



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