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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第10話 あーんして、は聞き取りの合図

 翌朝、尾路町の港は、昨夜の湿り気をまだ引きずっていた。桟橋の板はところどころ濃い色になり、係留ロープから落ちる雫が、海面に小さな輪を描いている。待合所の窓には、夜のあいだに潮が薄く膜を張ったらしく、朝の光が白くにじんで見えた。


 祐は鍵を開ける前に、入口の脇へ置いてある温度計を見た。まだ七時を少し回ったところなのに、針は高めに寄っている。昨日までの熱が、床板の下に残っているのかもしれない。暑さを測るようになってから祐がつけ続けている温度記録は、最初はただの数字だった。けれど進祐へ出す資料を考えると、こういう朝の一行も、待合所を残せるかどうかの支えになる。


 文香は祐より先に来ていた。潮紙堂の道具箱を足元へ置き、名札棚の晒し布を外している。指先が一枚ずつ名札の端を確かめ、湿気で曲がった布を見つけると、小さな紙に印をつける。その動きには音が少ない。けれど、名札棚の前だけ空気が整っていくように見えた。


 「おはようございます」


 「おはようございます」


 文香は顔を上げずに返した。祐はその返事の短さに、もう焦らなくなっている。短いから遠いわけではない。名札を直す手が止まらない時は、むしろ彼女はその場所にいる。


 そこへ、商店街のほうから裕子が紙袋を抱えて入ってきた。髪を後ろでまとめ、額にかかった細い毛を指で払っている。紙袋の中からは、透明なクリアファイルが何枚も覗いていた。


 「真部医院へ行く前に確認。今日聞くのは、写真の標本箱、昔の診療記録じゃなくて本人の記憶、名札の持ち主の心当たり。この三つ。医療の記録に踏み込まない。名前が出たら、本人確認ができるまで外では話さない。ここ、声に出して」


 祐は手帳を開いた。


 「診療記録に踏み込まない。名前は確認まで外で話さない」


 裕子は文香を見た。


 文香は晒し布を畳みながら、同じ言葉を静かに繰り返した。


 「診療記録には、踏み込みません。名前は、外で話しません」


 「よし」


 裕子は頷くと、紙袋から三種類の同意書を取り出した。返却希望、保管希望、写し希望。右上には番号欄があり、名前の横には公開範囲を選ぶ小さな枠がある。まだ仮の様式だが、祐が昨夜考えた表よりずっと読みやすい。


 「愛衣子が朝五時に案を送ってきた。勢いだけは寝ないのね、あの子」


 「裕子さんも寝てませんよね」


 「黙って」


 裕子はすぐに言ったが、紙の端はきれいにそろっていた。眠らなかった人の雑さではない。何度も直した跡だけが、折り目に残っている。


 桟橋から船の汽笛が短く聞こえた。


 信清が入口に立っていた。帽子のつばを指で持ち上げ、空と海を順に見る。


 「昼前に南から風が上がる。医院へ行くなら午前のうちに戻れ。午後便は揺れる」


 「真部医院の受付には連絡済みです。診療の合間に十分だけ」


 祐が答えると、信清は頷いた。


 「十分なら、聞く順番を間違えるな。年寄りは昔話を始めると、港まで戻らん」


 「真部先生は、そんなに話す方なんですか」


 「子どもの口は五秒で開ける。大人の昔話は五十分開ける」


 裕子が渋い顔で時計を見た。


 「なおさら、私が行く」


 その一言で、祐は少しだけ背筋を伸ばした。裕子が同席してくれるなら、話が横へそれても戻せる。ただし、戻し方が強すぎないよう、祐が横で受け止める必要もある。


 文香は名札棚の下段から、一枚の布名札を取り出した。写真館の店主から聞いた標本箱の話、その足元に写っていた裁縫箱、そして写真の端に残っていた子どもたちの胸の名札。その中で、文字がかすれながらも「ま」と「べ」に見えるものが一枚あった。


 「これを」


 文香は名札を白い紙包みに入れ、祐へ渡した。


 「真部先生本人のものだと決めつけません。似ているだけです」


 「はい」


 祐は紙包みを鞄の内ポケットへ入れた。裕子がすぐに番号を記入する。


 「仮番号、十番。持ち出し者、祐。同行、文香、裕子。目的、本人確認ではなく記憶確認」


 「細かいですね」


 「細かくないと、後で誰かが泣く」


 裕子の声はいつものように切れ味があった。けれど文香はうつむかず、紙包みの角を指で一度だけ撫でた。


 船は、淡名島へ向けて静かに出た。尾路町の屋根が少しずつ後ろへ下がり、待合所の小さな窓が光を返す。文香は座席の端に腰掛け、鞄の上に両手を重ねていた。祐はその隣で、質問の順番を手帳に書く。


 一、標本箱を覚えているか。


 二、八重という女性を覚えているか。


 三、この名札に心当たりがあるか。


 四、倉敷の畳職人らしい友人について確認できるか。


 四番目は、まだ仮の欄だった。けれど写真に写っていた船酔いの子どもの話と、信清がぽつりと言った「昔、診療所の息子が船でよく背中をさすっていた」という記憶が、祐の中で細い糸になっていた。


 裕子は手帳を横から覗き込む。


 「四番、先に出さないで。相手が自分から言うまで待つ。誘導したって言われる」


 「分かってます」


 「分かってる顔じゃない。今、聞きたくてうずうずしてた」


 祐は手帳を閉じた。


 「顔に出ますか」


 「祐は、人に道を教える時は落ち着いてるけど、手がかりを見つけると靴が前に出る」


 文香が少しだけ祐の靴を見た。濡れた桟橋で滑らないよう、今日は底の厚い靴を履いている。文香は何も言わなかったが、視線が戻る時、口元がわずかに緩んだ。


 淡名島の診療所は、港から坂を少し上がったところにあった。白い壁に薄い青の看板がかかり、入口の横には島の子どもたちが描いた魚の絵が貼られている。待合室には畳の小上がりがあり、古い扇風機が首を振りながら、紙の予約札をかすかに揺らしていた。


 受付で名を告げると、奥から幼い泣き声が聞こえた。


 「いやだ、口あけない」


 続いて、少し高く、よく通る声がした。


 「あーんして。海のトンネル、見せて」


 裕子が眉を上げた。


 「歯医者でしたっけ」


 受付の女性が笑った。


 「真部先生、今は歯も診ますし、ちょっとした怪我も診ます。島で分けていたら、待つ人が増えますから」


 しばらくして、診察室の引き戸が開いた。白衣姿の男性が、小さな男の子へ丸いシールを渡している。七十に近い年齢だろうか。髪は白いが、背中はまっすぐで、目だけが少年のように動く。


 「よし。泣いた分だけ、帰りの坂は強く歩ける」


 男の子は涙を袖で拭き、母親に手を引かれて出ていった。真部は祐たちへ向き直ると、白衣の胸ポケットから老眼鏡を出した。


 「尾路町から来た方じゃね。写真館の話だろう」


 祐は立ち上がり、名刺を差し出した。文香は一歩後ろで頭を下げ、裕子はクリアファイルを胸に抱えたまま会釈する。


 「診療時間中に申し訳ありません。十分だけ、お時間をいただきます」


 「十分で昔話をしろとは、なかなかきつい」


 真部は笑い、待合室の端の丸椅子を三つ指差した。


 「けど、患者さんが途切れた今ならいい。座りなさい。口は開けなくていい」


 裕子が「開けません」と小さく返し、祐は咳払いで笑いを隠した。


 祐は手帳を開き、まず写真の複写を机の上へ置いた。写真館で許可を得て撮らせてもらった、待合所の前の集合写真だ。真部は老眼鏡をかけ、鼻先を写真へ近づける。


 「ああ、これは待合所の前じゃ。夏の終わりかの。子どものズボンが濡れとる。船から降りて、すぐ撮ったんじゃろう」


 「この標本箱に、覚えはありますか」


 祐が指で示すと、真部の目が少し細くなった。


 「蝶の箱か。あった。壁に高くかけてあったが、わしらは下から見上げておった。羽が青う見える日と、茶色に見える日があっての。光で変わるんじゃ」


 文香の手が、膝の上で軽く握られた。


 祐は次の質問へ移る。


 「八重さんという女性を覚えていらっしゃいますか」


 真部は写真から顔を上げず、しばらく黙った。扇風機の羽が、古い軸音を立てて首を振る。裕子が何か言いそうになったが、唇を閉じた。祐はその沈黙を待つ。


 「八重さんは、針箱を持っとった」


 やがて真部が言った。


 「海で濡れた名札の糸をほどいて、乾かして、縫い直す。子どもが走って転ぶと、膝より先に名札を見た。破れとると、親より怖い顔をした」


 文香は視線を落とした。怒っているのではない。言葉が入ってくる場所を、自分の中に探しているようだった。


 「写真の、この足元の箱は」


 「八重さんの裁縫箱じゃろう。中に、糸巻きがようけ入っとった。色は、白と紺と、あと薄い茶色。布に馴染む色を選ぶんじゃと言うとった」


 「ベージュですか」


 文香が初めて口を開いた。


 真部は顔を上げた。


 「そうじゃ。紙みたいな、乾いた麦みたいな色。お嬢さん、八重さんの身内かね」


 裕子の指がクリアファイルの縁を押さえた。祐は、ここで説明を広げすぎてはいけないと分かっていた。文香を見る。文香は短く息を吸った。


 「娘です」


 真部は老眼鏡を外した。何か大きな言葉を探すように口を開きかけ、結局、閉じた。


 「そうか」


 それだけだった。


 文香の肩が、ほんの少し下がった。長い慰めより、その短さのほうが、今の彼女には入っていきやすいように見えた。


 祐は白い紙包みを机の上に置いた。


 「この名札に、心当たりはありますか。真部先生のものだと決めて持ってきたわけではありません」


 「その言い方は大事じゃ」


 真部は紙包みを開く前に、裕子の方を見た。


 「あなたが言わせたかね」


 「本人が間違えた時に、私が怒る係です」


 「いい係じゃ」


 真部は笑い、名札をそっと開いた。布は文香が湿気を抜いて整えたものだから、かすれた字の形が少しだけ戻っている。「まべ」と読めるようにも見えた。けれど、真部はすぐに首を横へ振った。


 「これは、わしのではない」


 祐は手帳へ、本人名札ではない、と書き込む。


 「この縫い方は八重さんじゃが、字はわしの母の字ではない。わしの名札は、もっと雑じゃった。母が忙しくて、兄の古い布を切って作ったからの」


 「では、どなたのものか」


 真部は名札の端を指で押さえた。歯科用の器具を扱う指と同じで、余計な力が入っていない。


 「まべ、ではなく、まつべ、かもしれん」


 「まつべ」


 「松部。夏だけ島に来とった子がおった。船に弱くて、港へ着く頃には顔が紙みたいになった。わしは背中をさすってやるだけで、たいしたことはできんかった。八重さんが団扇であおいで、水を少しずつ飲ませとった」


 文香の視線が、机の写真の中の団扇へ向いた。


 「その方は、今も島に?」


 「いや。家ごと倉敷へ移った。畳屋に入ったと聞いた。畳の匂いなら船酔いしない、と本人が言うとったから、みんなで笑った」


 祐の手帳に、倉敷、畳、と文字が並ぶ。


 裕子がすぐに口を開いた。


 「その方のお名前や連絡先を、こちらで公開することはありません。もし真部先生が連絡できるなら、先方へ先に確認していただく形にしたいです」


 真部は頷いた。


 「それがええ。急に昔の名札が来たら、腰を抜かす者もおる。喜ぶとは限らん」


 「はい」


 祐は答えた。じゃこ天を囲んだ笑い声や、文香が涙をこらえた横顔が、同じ場所に重なる。名札は、ただ懐かしいだけの布ではない。誰かが忘れたふりをしてきた時間を、急に机の上へ置くものでもある。


 真部は受付の棚から、小さな茶封筒を出した。


 「古い予約票は見せられん。けれど、これなら渡せる。昔、通学船の子どもらへ出していた歯みがき当番の札じゃ。名前は入っておらん。裏に、当時の待合所の棚の絵を描いとる」


 裕子がすぐに封筒を受け取り、表を確認した。


 「個人名なし。診療記録なし。棚の参考図のみ。お借りして複写、原本返却でよろしいですか」


 「かたい人じゃ」


 「かたくしておかないと、柔らかいところが潰れます」


 真部は目尻を下げた。


 「八重さんも、そんなことを言いそうじゃ」


 文香が顔を上げた。


 「母が、ですか」


 「布は柔らかい。だから、縫い目はまっすぐにせにゃならん、と言うとった。子どもには分からん言い方じゃったけどな」


 文香は何も返さなかった。代わりに、鞄から小さな紙片を出し、真部の机の端に置いた。そこには、潮紙堂の連絡先と、名札返却の確認は本人の意思を優先するという短い文が書かれている。


 「松部さんへ、直接渡さず、まずこれを」


 「分かった」


 真部は紙片を胸ポケットに入れた。


 その時、待合室の入口から次の患者が顔を出した。小さな女の子が、母親のスカートにしがみついている。真部は椅子から立ち上がり、白衣の裾を払った。


 「さて、また口を開けてもらわにゃならん」


 女の子はもう泣きそうな顔をした。真部はしゃがみ込み、目の高さを合わせる。


 「あーんして。今日は海のトンネルじゃなくて、貝殻の門を見せて」


 女の子は少し迷ってから、ほんの少しだけ口を開けた。


 祐はその様子を見ながら、聞き取りも同じだと思った。無理にこじ開けてはいけない。相手が開けてもいいと思う幅を待ち、開いたところから、必要な分だけ見る。


 診療所を出ると、坂の上から海が見えた。風は信清の言った通り、少し強くなっている。港のほうで、船の旗が横へ流れていた。


 裕子は歩きながら、同意書の余白へ赤字を入れた。


 「公開範囲の欄、もう一つ増やす。『連絡のみ可』。現物も写真もまだ見たくない人がいる」


 「松部さんのためですか」


 「松部さんだけじゃない。これから出てくる人全部」


 祐は頷いた。


 文香は坂の途中で一度立ち止まり、診療所を振り返った。白い壁の上に、朝の光が当たっている。


 「母は、船酔いの子に団扇を」


 「真部先生は、そうおっしゃっていました」


 「私は、知らなかったです」


 「はい」


 「知らない母が、増えますね」


 祐はすぐに励まさなかった。文香の言葉は、喜びでも悲しみでも切れない場所にある。


 「増えた分だけ、文香さんが選んでください。持つものと、置くものと、まだ見ないもの」


 文香は海へ目を向けた。


 「今日は、置きます。真部先生の話は、名札返却簿へ。私の中へは、少しだけ」


 裕子が足を止めた。


 「その分け方、説明会でも使える」


 「説明会?」


 「人に見せる記憶と、見せない記憶を分ける。名札棚の横に書く。文香、文章にして」


 「今ですか」


 「今じゃなくていい。でも忘れないうちに」


 文香は少し困ったように眉を寄せた。けれど、断らなかった。


 港へ戻ると、信清が桟橋の柱にもたれていた。腕時計を見て、三人の足元を順に確認する。


 「戻れたな。午後は揺れるぞ」


 「倉敷へつながりました」


 祐が言うと、信清は短く息を吐いた。


 「松部か」


 「ご存じですか」


 「顔は覚えとらん。船べりをつかむ手だけ覚えとる。白うなって、それでも名札だけは握っとった」


 文香が鞄の上から手を重ねた。


 船が来るまでのあいだ、祐は桟橋の端で手帳を開いた。真部の証言、松部という名字、倉敷の畳屋、八重の団扇、棚の参考図、同意書の新しい欄。情報は増えたが、急いで走れば、誰かの心を踏む。


 裕子は海風に煽られそうになる書類を腕で押さえた。


 「祐。帰ったら愛衣子に連絡。新しい様式を作り直してもらう。明純には、倉敷行きが決まるまで誰にも話させない」


 「明純にだけ強めですね」


 「強めに言わないと、あの子は善意で港中へ広げる」


 その言い方に棘はあったが、祐はじゃこ天の場で明純が子どもたちの話を拾ったことも知っている。明純の声は人を呼ぶ。だからこそ、今はまだ扉を閉めておく必要があった。


 文香は、真部から借りた茶封筒を見つめた。


 「棚の絵、待合所へ戻ったら見てもいいですか」


 「もちろん」


 「標本箱の高さが、分かるかもしれません」


 「名札台の位置も」


 「それから」


 文香は言いかけて、少し黙った。


 「母が、どこに座っていたかも」


 祐は頷いた。


 船が桟橋へ寄り、綱が投げられる。信清がそれを受け、柱へ素早く巻きつけた。祐たちは船に乗り込む。海は朝よりざわつき、船底へ当たる波の音が大きくなっていた。


 尾路町へ戻る途中、文香は一度だけ、紙包みの名札を取り出した。真部のものではなかった名札。けれど、その間違いが、松部という名へ続く道を開いた。間違えたまま押しつけていたら、きっとこの道は閉じていた。


 「決めつけないの、大事ですね」


 文香が言った。


 裕子は窓の外を見たまま、返した。


 「今さら」


 祐は笑いそうになったが、裕子の横顔を見てやめた。彼女の手は、同意書の角をずっと押さえている。風で飛ばされないように。誰かの名前が、勝手に飛んでいかないように。


 待合所へ戻ると、午後の光が床板に斜めに入っていた。壮翔が入口で椅子の脚に布を巻いている。明純はその横で、何かを言いたくてうずうずしていたが、裕子に一瞥されると口を閉じた。


 「何か分かったんですか」


 「分かったことと、まだ言わないことがある」


 祐が答えると、明純は両手で自分の口を押さえた。


 「言わない練習します」


 「今すぐ始めて」


 裕子の声に、壮翔が吹き出した。


 文香は名札棚の前へ座り、真部から借りた茶封筒を開いた。中には、小さな棚の絵があった。歯みがき当番の札を掛けるために描かれたものらしいが、待合所の壁、長椅子、標本箱、そしてその下に置かれた細い台が、思いのほか丁寧に描かれている。


 標本箱は、今より少し低い位置にあった。子どもが椅子に座れば、ちょうど目の高さになる。


 文香は絵の端を見つめた。そこに、小さな三角形のようなものが描かれている。


 「団扇」


 祐が言うと、文香は頷いた。


 「ここに、置いていたんですね」


 名札棚の横。標本箱の下。子どもが船酔いで座り込んだ時、誰かがすぐ手に取れる場所。


 八重の姿は、写真の中では薄れていた。けれど、棚の絵の中には、彼女がどこへ手を伸ばしたのかが残っていた。


 祐は返却簿を開き、新しい行を書いた。


 仮番号十番。読み違いの可能性あり。真部本人の名札ではない。松部氏の可能性。倉敷方面。本人確認前のため非公開。連絡のみ可の欄を新設。


 その横に、文香が細い字で付け加えた。


 聞き取りは、開いた分だけ。


 裕子はその一文を読み、赤ペンを持ち上げた。祐は、また直されると思った。だが裕子は、句点の位置だけ小さく直して、ペンを置いた。


 「使える」


 文香は返事をしなかった。けれど、棚の絵の横に、団扇をそっと置いた。


 海からの風が窓を抜け、団扇の縁をわずかに揺らした。誰かに「あーんして」と言う時のように、無理に開かせるのではなく、開いた隙間へ光を入れる。


 祐はその日の記録に、診療所の名を書いた。


 真部医院。


 松部。


 倉敷。


 そして、名札を追う道は、島の外へまた一本伸びた。



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