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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第11話 今治の縫い目

 翌朝の尾路町は、雨上がりの匂いをまだ石畳の隙間に残していた。港へ向かう坂道の途中で、祐は鞄の中身をもう一度確かめた。返却簿の写し、ベージュの封筒の写真、団扇の裏に描かれていた地図の複写、そして真部医院で聞いた「松部」という名字のメモ。封筒そのものは文香が持っている。古い紙は光にも湿気にも弱いからと、薄い油紙に包み、さらに布袋へ入れていた。


 文香は港のベンチに座り、布袋を膝に置いていた。膝の上の手は動かない。けれど、親指だけが布袋の角をゆっくりなぞっている。何かを待っている時、彼女は目ではなく指先で時間を測るのだと、祐はこの数日で知った。


 信清は少し離れたところで、空と海を交互に見ていた。片手には小さな折り畳み傘、もう片方には港の売店で買った塩飴の袋がある。


 「昼過ぎまではもつ。夕方は西から風が変わる」


 「じゃあ、今治で長居はできませんね」


 「長居するなと言っても、紙を見たら文香さんは黙って長く見るだろう」


 文香が顔を上げた。


 「見ます」


 それだけ言って、また布袋へ視線を戻した。信清は口元だけで笑い、塩飴を一つ祐へ投げた。祐は受け取り損ね、飴は鞄の上で跳ねて桟橋の板に転がった。文香がすっと拾い、祐の手に置く。


 「受け取る練習も」


 「はい」


 祐が返すと、信清が低く笑った。


 尾路町から今治へ向かう道は、海の色を何度も変えた。船では波の白い筋が窓の下を走り、バスの窓からは造船所のクレーンが灰色の空へ腕を伸ばしていた。橋を渡る時、文香は布袋を胸に寄せた。祐は「大丈夫ですか」と聞きかけてやめた。大丈夫ではない時に大丈夫かと聞くと、人は大丈夫だと答えるしかなくなる。


 かわりに、返却簿を開いた。


 「今日は、封筒と同じ紙を扱っていた店を探します。証言が取れたら、八重さんの足取りとして記録する。ただし、文香さんが出したくない話は書かない」


 「名前は」


 文香が短く言った。


 「八重さんの名前ですか」


 「店で、出していいです」


 祐は頷き、記録欄に線を引いた。本人ではない。家族の記憶に関わる。公開はしない。調査用のみ。そう書いてから、文香へ見せる。文香は一度だけ目を通し、小さく頷いた。


 今治の港は、尾路町より風が太かった。海の匂いに、油、帆布、乾いた縄の匂いが混じっている。通りには船具を扱う店が点々とあり、軒先には太いロープ、救命具、作業手袋が並んでいた。祐が写真を見せるたび、店の人は紙を見て首をひねる。


 「うちは封筒より伝票が多いね」


 「この角の切り方、昔の包装紙じゃろう」


 「ベージュの紙なら、あそこの奥さんが詳しいかもしれん」


 三軒目の店で、白髪を後ろで束ねた男性が、通りの奥を指した。そこには「村上船具」と書かれた看板があり、戸口に干された帆布の端切れが、風に小さく揺れていた。


 店に入ると、鈴が鳴った。棚には針、糸、金具、帆布、古い木箱が隙間なく並び、奥の作業台では女性が紺色の布へ太い針を通していた。七十歳ほどだろうか。背筋がまっすぐで、針を引く動きが速い。彼女は顔を上げ、祐たちの靴の濡れ方を見て、入口の横にある布を指した。


 「そこ、滑るけん。拭いてから入りなさい」


 祐は慌てて靴底を拭いた。信清は最初からそのつもりだったように静かに拭き、文香は布袋を片手で支えながら、丁寧に足をそろえた。


 「尾路町から来ました。淡名渡船待合所に残っていた名札と、封筒についてお尋ねしたくて」


 祐が写真を出すと、女性の手が止まった。針は布を半分ほど貫いたところで、銀色の頭だけが光っている。


 「その紙、まだ残っとったん」


 文香の指が、布袋の口を押さえた。


 「ご存じですか」


 「紙は、うちで昔使っとった。帆布の端切れを包む時の紙よ。湿気を吸いにくいけん、船の人に喜ばれた」


 女性は針を抜き、作業台の引き出しを開けた。中から、日に焼けた紙束が出てくる。端の色、繊維の斑点、折り目のつき方。祐が写真と見比べるより先に、文香が小さく息を吸った。


 「同じです」


 声が、紙の上へ落ちるほど小さかった。


 女性は文香を見た。


 「あなた、八重さんの」


 文香はすぐには返事をしなかった。店の外を通る車の音が一台分過ぎていく。帆布の端切れが戸口で揺れ、作業台の金具が小さく鳴った。


 「娘です」


 その三文字を出すまでに、文香の喉は一度だけ動いた。


 女性は椅子を二つ引いた。


 「座りなさい。立ったまま聞く話じゃない」


 祐は礼を言い、文香が座るのを待った。信清は店の入口近くに立ったまま、通りの様子を見ている。人の話が重くなる時、彼は逃げ道を塞がない場所に立つ。


 女性は自分を村上千枝と名乗った。八重がこの店へ来たのは、二十年以上前。淡名島から今治へ渡り、船の帆布を縫う仕事を探していたという。最初は針の持ち方も頼りなく、太い糸を引くたびに指を赤くしていた。それでも、子どもの名札を海風に負けないようにしたいと、何度も端切れを買いに来た。


 「名札を、ですか」


 祐が聞くと、千枝は頷いた。


 「普通の布だと、潮で固くなる。洗うと字もにじむ。あの人は、帆布の裏に薄い布を重ねて、角だけ糸を変える縫い方を覚えたがっとった。子どもが走っても、引っかかっても、すぐ破れんように」


 文香は布袋を開けた。ベージュの封筒を油紙ごと出し、作業台に置く。千枝は直接触れず、手を少し浮かせて角の折り方を見た。


 「ああ、八重さんの折り方じゃ」


 「折り方で分かるんですか」


 「分かるよ。ここを二度折る。角が立たんように。船の棚に入れても、誰かの手を切らんように」


 文香の目が、封筒の角へ落ちた。角は丸く潰れているようで、実際には細い折り目が二重に入っていた。祐は今まで、古いから丸くなったのだと思っていた。違った。最初から、誰かの手を傷つけないために丸くされていた。


 千枝は引き出しの奥から、小さな木箱を出した。中には、練習用の端切れが何枚も入っている。名前は書かれていない。けれど、角の縫い目だけが残っていた。大きさは、待合所で見つけた淡い名札とほとんど同じだった。


 「八重さんが置いていったんですか」


 「失敗作だと言うてね。けど、私は捨てられんかった。失敗作は、その人がどこで諦めんかったか分かるけん」


 文香の指が、一枚の端切れの上で止まった。細い糸が、角だけ斜めに二度渡っている。文香が紙を修繕する時、破れ目の端を逃がすために入れる補強と似ていた。布と紙で素材は違う。けれど、力を一か所へ集めず、少しずつ逃がす考え方が同じだった。


 文香は触れなかった。ただ、指先を端切れの一センチ上に置いた。


 「私も、こうします」


 千枝は驚いた顔をせず、静かに頷いた。


 「じゃろうね」


 その言い方に、文香の肩がわずかに揺れた。泣いたわけではない。けれど、長く張っていた糸が、少しだけ緩むような動きだった。


 祐は何も言わなかった。ここで、八重さんは文香さんを思っていたんですね、と言うことはできた。言えば話は簡単になる。けれど簡単にした瞬間、文香が何年も抱えてきたものまで、薄い紙のように折りたたんでしまう気がした。


 千枝は茶を淹れ、湯呑みを三つ並べた。信清には少し大きい湯呑みを出す。信清は礼を言い、入口から一歩だけ中へ入った。


 「八重さんは、ここでどれくらい働いていたんですか」


 信清が尋ねると、千枝は棚の上の古い帳面を探した。祐は手伝おうとしたが、千枝は「順番がある」と言って自分で背表紙を追った。やがて、平成の初め頃の帳面が開かれる。


 「正式に雇ったわけじゃない。工房のほうへ紹介したんよ。港の向こうに、帆布の修繕をする小さい作業場があった。八重さんはそこで雑用をしながら、縫い方を覚えた」


 「工房は、今もありますか」


 祐が聞く前に、信清が少し顎を引いた。千枝の表情で、答えが見えたのだろう。


 「もうない。水害のあと、持ち主が店を閉めた。帳面では、八重さんの名前はそこまでしか追えん」


 千枝は古い電話帳のコピーも出してくれた。工房の名前、住所、閉鎖年。信清は手帳へ丁寧に写す。筆圧は強いが、線は乱れない。


 「そこから先は」


 文香が言った。


 「分からん」


 千枝はごまかさなかった。


 「ただ、一つ覚えとる。八重さんは、封筒を何枚も書き損じていた。娘へ出すと言うて。名前を書いて、消して、また書いて。最後には、出せんかったのか、別の町へ持っていったのか、私には分からん」


 文香は布袋の中の封筒を見た。


 母は手紙を書こうとした。けれど、それは帰ってこなかった理由にはならない。迎えに来なかった年月は、そのまま残る。祐は文香の横顔を見て、彼女がその二つを混ぜないように、必死で分けているのだと感じた。


 「封筒を見ても、いいですか」


 文香が言った。


 千枝は頷き、机の上を片づけた。文香は油紙を開き、ベージュの封筒を出す。封はまだ切られていない。文字は薄い。差出人はない。けれど宛名のない表面に、爪ほどの押し跡がいくつも残っていた。


 「書いて、消した跡」


 文香がつぶやく。


 千枝は、封筒の左下を指した。


 「ここ。八重さんは、紙を折る前に必ず親指で押さえる癖があった。紙が逃げんように。あなたもするんじゃない?」


 文香は答えなかった。かわりに、自分の左手の親指を見た。紙修繕をする人の爪は短く、指先は少し荒れている。その親指で、彼女はいつも紙の角を押さえていた。潮紙堂で名札を直す時も、返却簿の紙を押さえる時も。


 祐は、その指先を見ていた。血のつながりを美しく言い換えるためではない。姿を消した人が残したものが、文香の手の中で勝手に生き続けていた。そのことは、慰めにも、怒りの火種にもなる。


 「この端切れ、写真を撮ってもいいですか。待合所の記録に、縫い方として残したいんです」


 祐が聞くと、千枝は文香を見た。


 「娘さんがよければ」


 文香は少し考えた。


 「縫い方だけ。母の話は、まだ」


 「分かりました」


 祐はすぐに返した。カメラを出し、端切れの角だけを撮る。全体の箱も、八重の名前が出ないように撮った。裕子がいれば、個人情報の扱いをもう三回は確認しただろう。祐は心の中でその声を聞きながら、写真番号と説明を返却簿の別紙に書いた。


 信清は工房の閉鎖年をもう一度確認していた。


 「閉めたのは、八重さんが来てから三年後か」


 「そう。そこから先は、私も知らん。けど、小豆島の紙工房に似た封筒を送ったことがある。八重さんが紙の包み方を知りたいと言うて、紹介状を書いた」


 祐のペンが止まった。


 「小豆島」


 文香が短く復唱した。


 千枝は古い名刺入れを開いたが、紙工房の名刺は見つからなかった。かわりに、薄い紙片が一枚出てきた。そこには、島名と、紙を包む人の名字だけが書かれている。祐はそれを写し、原本は千枝へ返した。


 今治で途切れたと思った道は、別の島へ細く続いていた。けれど、その細さは、喜ぶにはまだ頼りない。文香はその紙片を見ても、表情を変えなかった。


 店を出る前、千枝は木箱から端切れを一枚取り、文香へ差し出した。


 「これは、あなたが持っときなさい」


 文香は手を引いた。


 「資料なら、待合所に」


 「資料じゃない。失敗作よ。八重さんが、何度もほどいた跡がある。娘さんが捨てたかったら捨てられるように、あなたへ渡す」


 祐は、その言い方に息を止めた。残すことだけが優しさではない。千枝はそれを知っている。


 文香はしばらく端切れを見ていた。やがて両手で受け取り、布袋ではなく、自分の胸ポケットへ入れた。


 「預かります」


 「預かるんじゃなくて、持つんよ」


 千枝の声は、針のようにまっすぐだった。


 帰り道、雨は降らなかった。けれど空は低く、海の上には灰色の帯が伸びていた。バスの窓に映る文香は、行きより少し疲れて見えた。胸ポケットの端切れが、薄く四角い形を作っている。


 信清は工房の閉鎖年を見ながら、祐へ小声で言った。


 「今治で終わりじゃなかったな」


 「はい。けど、急いで小豆島へ行く話にはしません」


 「そうしろ。海の道は、潮を見ずに急ぐと戻れん」


 祐は頷き、返却簿を閉じた。


 列車に乗り換えると、文香は窓際に座った。車内には学校帰りの生徒たちが数人いて、鞄につけた名札が揺れている。新しい布、濃い字、まっすぐな安全ピン。祐はそれを見て、淡名渡船待合所の棚に眠っている淡い名札を思い出した。


 文香は胸ポケットから端切れを出した。表面には、ほどかれた針穴がいくつも並んでいる。完全な縫い目ではない。失敗の跡だ。けれど、角だけは強く、布がほつれないように糸が逃がされていた。


 「似てます」


 文香が言った。


 「何がですか」


 「私の修繕と」


 祐は端切れを見た。針穴の列は、潮紙堂で文香が紙の裂け目へ入れる補強に似ている。まっすぐではなく、少し斜め。力が一か所に残らないように、次の場所へ渡していく縫い方。


 「母のものだと思うと、嫌です」


 文香は窓の外を見たまま言った。


 「でも、知らない人のものだと思うと、きれいです」


 祐は返事を探した。どちらかを選ばなくていい、と言いたかった。けれど、それは祐が決めることではない。


 「今は、両方でいいと思います」


 文香は何も言わなかった。拒まれたのか、届いたのかは分からない。ただ、端切れを胸ポケットへ戻す手つきは、行きの布袋を押さえる手より少しゆるかった。


 尾路町へ戻ると、待合所の窓が夕方の光を受けていた。壮翔が入口の前で、長椅子の脚に巻く布を広げている。裕子はその横で、領収書の束を睨んでいた。明純は二人の間に立ち、どちらへ味方すれば怒られにくいか、顔だけで迷っている。


 「おかえりなさい。収穫は?」


 裕子がすぐに聞いた。


 「紙の出所。八重さんが習った縫い方。今治の工房の閉鎖年。小豆島へ続くかもしれない紙工房の手がかり」


 祐が答えると、裕子は赤ペンを構えた。


 「かもしれない、は別欄」


 「分かっています」


 壮翔が身を乗り出した。


 「それで、涙の再会みたいな話は」


 文香が胸ポケットを押さえた。


 「ないです」


 「はい、ない。すみません」


 壮翔は両手を上げ、明純の後ろへ隠れた。明純は隠れられるほど大きくないので、二人とも裕子に見つかった。


 待合所の中へ入ると、名札棚の上に西日が細く差していた。祐は返却簿を開き、別紙を足した。今治、村上船具、ベージュの包装紙、帆布の端切れ、角を二度折る封筒、名札の補強縫い。八重の名前は、文香が許した範囲だけにした。小豆島の手がかりは未確認の欄へ入れる。


 文香は胸ポケットから端切れを出し、名札棚の前に置いた。飾るのではない。見せるのでもない。ただ、どこへ置けばいいかを確かめるように、棚の木目の上へ一度だけ置いた。


 端切れの角は、淡い名札の角と同じ向きに曲がっていた。


 「持ち帰ります」


 文香は言った。


 祐は頷いた。


 「記録には、縫い方だけ残します」


 「はい」


 文香は端切れをしまい、名札棚の一枚を取り出した。破れた角に、今治で見た縫い目と同じ逃がし方で糸を渡す。布は古く、少し力を入れれば裂けそうだった。それでも、文香の針は迷わず、強くしすぎず、弱くもせず、次の糸へ力を渡していく。


 裕子はその手元を見て、赤ペンのキャップを閉じた。壮翔は珍しく何も言わない。信清は入口から海を見て、夕方の風が変わるのを確かめている。明純は小声で「すごい」と言いかけ、祐に目で止められた。


 名札の角が補強されると、文香は糸を切った。小さな音だった。けれど祐には、今治から尾路町へ一本の糸が張られた音のように聞こえた。


 母の足取りは、まだ途切れている。戻らなかった理由も、全部は分からない。けれど、名札を長持ちさせる縫い方だけは、確かに待合所へ戻ってきた。


 祐はその日の記録に、最後の一行を書いた。


 今治の縫い目。角を守るため、力を逃がす。


 文香はその文字を読み、隣に細く書き足した。


 破れた場所を、責めない。


 西日の中で、淡い名札の糸が、ほんの少しだけ新しく光った。



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