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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第12話 模倣の待合所

 翌朝、尾路町の商店街は、魚の匂いより先に糊の匂いがした。


 祐が交通案内所のシャッターを開ける前から、向かいの空き店舗で板を運ぶ音がしていた。板といっても、待合所の床板とは違う。表面だけ古びて見えるように薄い茶色を塗り、端をわざと擦った合板だった。雨に濡れた木が何十年も潮風を吸い込んだ色ではない。刷毛の跡が新しく、朝の光に妙につやつやしている。


 祐は鍵を回す手を止めた。


 空き店舗の前には、段ボールが積み上がっていた。箱の横に、太い黒字で「名札風しおり」「待合所風写真台」「潮待ち記念札」と書かれている。中から出てきたのは、淡い布名札によく似た小さな札だった。布ではなく、硬い紙に薄い青と白のまだら模様を印刷してある。角には穴が開けられ、麻紐が通されていた。


 祐は胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 似ている。


 けれど、似ているだけだった。


 「おはようございます。早いですね」


 店の中から、商店街の土産物店を営む木戸が顔を出した。五十代半ばの男で、いつも前掛けの紐を少し斜めに結んでいる。顔には悪びれたところがない。むしろ、新しい看板を見せる子どものように、額に汗を光らせていた。


 「祐くん、ちょうどよかった。見てくれ。淡名渡船待合所、商店街版だ」


 「商店街版」


 祐はその言葉を復唱した。


 「待合所へ行く前に、ここで気分を作ってもらうんだ。写真を撮って、名札風しおりに自分の名前を書いて、港へ行く。せっかく町の話題になっているんだから、流れを作らんとな」


 木戸は空き店舗の奥を指した。壁には、古い時刻表に似せた板が掛けられている。時刻の欄には船の便名ではなく、「恋」「再会」「思い出」「潮風」といった言葉が並んでいた。長椅子も置いてあるが、脚は細く、座面は軽い。古い長椅子が人の重さを受けて沈むあの音はしないだろう。


 祐は一歩だけ中へ入った。床には、待合所の名札棚を真似た木箱が置かれている。仕切りが小さく、紙札がぎっしり差し込めるようになっていた。入口近くの見本には、誰かが試し書きしたらしく、丸い字で「みか」「ゆう」「さき」と並んでいる。


 「これ、いつからですか」


 「来週の土曜に開けるつもりだ。説明会の前に人の目が集まれば、進祐さんも考えるだろう」


 木戸は得意げに言った。


 祐の耳に、昨日の文香の言葉が戻った。


 破れた場所を、責めない。


 祐は紙札の束を見た。どの札も同じ形で、同じ色で、同じ位置に穴がある。破れた場所はない。汚れもない。誰かが船に乗り遅れて握りしめた跡も、雨の朝に濡れた跡も、母親に叱られるのを怖がって棚に隠した折れ目もない。


 「祐」


 背後で、裕子の声がした。


 振り返ると、裕子が案内所の鍵束を片手に立っていた。いつもの赤ペンは胸ポケットから少しはみ出し、目はすでに店内の値札と見本を順に読んでいる。


 「何これ」


 木戸が笑った。


 「裕子ちゃんにも見てもらおうと思っていたんだ。どうだ、悪くないだろう。土産物は動かんと腐る。待合所が注目されているうちに、商店街も一緒に」


 「名札を売るんですか」


 「本物じゃない。名札風だよ。名前を書いて持って帰れる。旅の記念にちょうどいい」


 裕子の指が、赤ペンのキャップへ伸びた。祐は反射的に、その手元を見た。赤ペンが抜かれる時は、誰かの曖昧な言葉が切られる時だ。


 「本物じゃなければ、何を真似てもいいんですか」


 裕子の声は低かった。


 木戸の笑顔が少し固まる。


 「いや、そういう言い方はないだろう。町を盛り上げるためで」


 「盛り上げるために、まだ持ち主の同意も取っていない名札の形を使うんですか。展示ルールも決まっていないのに。説明会の前に、既成事実みたいに」


 「既成事実って。大げさな」


 裕子が一歩前へ出た。


 「大げさじゃありません。名札には名前があります。名前の形を真似て売るなら、扱い方を決める必要があります。少なくとも、祐たちが本人確認をして、公開範囲を分けている最中に」


 祐は裕子を止めなかった。けれど、その横顔を見て、前に文香へ向けてしまった鋭さと同じものが出ているのも分かった。木戸は反論しようとして、紙札の束を片手に握った。


 「じゃあ、商店街は黙って見ていろっていうのか。待合所を残すなら金も人も要る。客が来なきゃ、だれが日よけの布を買う。だれが掃除に出る。いい話だけで店は開かんぞ」


 裕子の口が開きかけた。


 「おはようございます」


 その声は短かった。


 祐と裕子が同時に振り向いた。文香が、潮紙堂の布袋を肩に掛けて立っていた。白いシャツの袖は肘まで折られ、指先には昨日の糸の跡が薄く残っている。文香は入口の見本札を一枚見て、店の奥の名札棚風の木箱へ視線を移した。


 顔色は変わらなかった。


 ただ、布袋の紐を握る手に、少しだけ力が入った。


 「文香さん、これは」


 祐が言いかけると、文香は紙札を一枚手に取った。印刷された淡い色を親指でなぞり、角の穴を確かめる。紙は厚く、表面がつるりとしていた。


 「濡れると、曲がります」


 木戸は一瞬、返事に困った。


 「え?」


 「この紙。港で雨に当たると、端から曲がります。紐の穴も裂けます」


 文香はそれだけ言って、札を戻した。


 裕子が眉を寄せた。祐には分かった。裕子は、文香が怒ると思っていたのだ。怒鳴らなくてもいい。嫌だと言うと思っていた。けれど文香は、まず紙の傷み方を見た。


 木戸は少し笑った。


 「さすが紙修繕の人だな。そこは改良できる。防水加工にすれば」


 「そういう話ではないです」


 文香は、今度ははっきり言った。


 店の奥で板を持っていた若い店員が、そっと動きを止めた。外を歩いていた魚屋の女性も、入口の前で足を緩める。商店街の朝の音が、少しずつこの空き店舗へ集まってきた。


 「似せたものは、強いです。きれいにできます。持ち帰れます。写真にも残ります」


 文香は紙札の束を見下ろした。


 「本物は、汚れています。名前が読めないものもあります。返せないものもあります。見せられないものもあります」


 木戸は前掛けの紐を触った。


 「だからこそ、きれいに見せて入り口を作るんだよ」


 「入り口に立つものが、奥のものより大きくなることがあります」


 文香の声は大きくない。けれど、通りに響く魚箱の音よりも、祐の耳にはっきり届いた。


 「名札を見に来た人が、これで分かった気になったら、待合所へ行かなくなります」


 「そんなことは」


 「あります」


 短い返事だった。


 裕子が黙った。祐も言葉を選んだ。文香の言葉は、怒りよりもずっと重かった。模倣されたものが本物を傷つける時、本物は声を上げにくい。古い名札は自分で「違う」と言えないからだ。


 その時、商店街の向こうから、場に似合わない足音が近づいてきた。重いものを引きずる音と、布がばさばさ揺れる音。


 「おお、始まってるな」


 壮翔だった。


 彼は、縁側寝床で使っていたらしい古い座布団を三枚抱え、肩にはなぜか蚊取り線香の缶を下げていた。


 「何を始めるつもりだったんですか」


 裕子の声が冷える。


 「いや、商店街に待合所っぽい場所ができるって聞いたから、座り心地の監修に」


 「頼んでいません」


 木戸が言うと、壮翔は真顔で店内を見回した。


 「これは駄目だ」


 全員が一瞬、黙った。


 裕子が目を細める。


 「まともなことを言う準備ですか」


 「似せるなら座り心地まで似せろ」


 裕子が目を閉じた。


 「準備不足でしたね」


 壮翔は構わず、店内の長椅子へ座った。軽い椅子が、ぎい、と薄い音を立てる。壮翔は腰を上げ、もう一度座った。


 「ほら。これは三分で尻が浮く。待合所の長椅子は、座ると一回だけ機嫌悪く鳴って、そのあと諦める。船を待つ椅子は諦め方が大事なんだ」


 木戸は眉をひそめた。


 「椅子の鳴り方まで商売に必要か」


 「必要だろう。船が欠航した時、人は椅子の上で怒ったり、諦めたり、うどんの汁をこぼしたりするんだから」


 「こぼさないでください」


 裕子が即座に言った。


 壮翔は名札棚風の木箱を覗き込む。


 「あと、この棚。札が多すぎる。名前がぎゅうぎゅうだ。人を押し込める棚はよくない」


 文香が、ほんの少しだけ壮翔を見た。褒めるわけではない。けれど、視線をそらさなかった。


 壮翔はそれに気づいたのか、ますます調子に乗った。


 「それから、時刻表に『恋』とか『再会』とか書くな。船は恋で動かない。たまにじゃこ天で遅れることはある」


 「ありません」


 「俺の中ではあった」


 「あなたの中の運行表は提出不可です」


 裕子の返しに、入口にいた魚屋の女性が吹き出した。店内の空気が少しだけ緩んだ。木戸も怒るきっかけを逃したように、前掛けの紐から手を離す。


 祐はその隙間に入った。


 「木戸さん。商店街が手伝ってくれるのは、ありがたいです。待合所を残すには、日よけの布も、清掃の手も、説明会で見せる町の協力も要ります」


 裕子が祐を見た。まだ不満は残っている。けれど、止めなかった。


 「でも、名札の形をそのまま使うのは、今はやめたいです。本物の名札は、まだ誰のものか確認している途中です。返してほしくない人もいるかもしれない。飾られたくない人もいるかもしれない。文香さんのお母さんのことも、公開できるものとできないものがあります」


 文香は何も言わなかった。ただ、紙札から手を離し、布袋の紐を緩めた。


 木戸は腕を組んだ。


 「じゃあ、商店街は何をすればいい」


 祐は店の外へ視線を向けた。朝の商店街を、通学の中学生が数人、港へ向かって歩いている。魚屋は氷を足し、豆腐屋は水を流し、シャッターを半分だけ上げた喫茶店から珈琲の匂いが出てきた。待合所とは違う。けれど、ここにも、船へ向かう人が一度息を整える場所がある。


 「待合所への道を分かりやすくする案内板なら、助かります。古い名札の説明は、本人確認と展示ルールが決まってから。名前を書ける札を作るなら、名札ではなく、旅の行き先を書く紙にしたほうがいいと思います」


 裕子がすぐに言った。


 「個人名は書かない。連絡先も書かない。回収期間を決める。保管場所を決める。写真撮影の範囲も書く」


 「ほら、すぐ堅くする」


 木戸が苦笑した。


 「堅くしないと、あとで折れます」


 裕子は赤ペンを抜いた。


 祐はその言葉を聞いて、少し驚いた。裕子の言い方は相変わらず硬い。けれど、相手を切るためではなく、折れないように支えるための硬さだった。


 文香が、店の隅に立てかけられた薄い板を見た。


 「案内板なら、紙を貼れます」


 木戸が顔を上げる。


 「紙?」


 「名札ではなく、道案内。港まで何分、日陰の道、階段の少ない道。渡船が出ない時の待つ場所」


 文香は言葉を区切りながら言った。


 「紙なら、直せます」


 祐は頷いた。


 「交通案内所で地図を作ります。商店街の店ごとに、休める場所や水を飲める場所も入れる。待合所風ではなく、待合所へちゃんと向かえる商店街の案内にするんです」


 壮翔が手を挙げた。


 「縁側寝床は、靴擦れした人の絆創膏係をやる」


 「それは宿の中で完結してください」


 「じゃあ、待合所へ行く前に座布団のありがたみを知る体験係」


 「却下」


 木戸は、まだ紙札の束を見ていた。せっかく作ったものを引っ込めるのは惜しいのだろう。段ボールの数を見れば、印刷代もかかっている。商売として動いた人に、「気持ちが違う」とだけ言うのは簡単だ。けれど、その費用を誰が引き受けるのかという話は残る。


 祐が口を開く前に、裕子が言った。


 「印刷済みの札、裏面を使えませんか」


 木戸が顔を上げた。


 「裏?」


 「表の名札風の面は使わない。裏に『港までの行き先メモ』を印刷し直すか、上から紙を貼る。旅人が自分で、行き先や乗る便を書いて持ち歩けるようにする。名前は書かない」


 「それだと見た目が地味だろう」


 「地味でいいです。道案内は目立ちすぎると邪魔です」


 木戸は唸った。


 文香が紙札を一枚取り、裏返した。何も印刷されていない白い面に、指先で四角を描く。


 「ここに、船の時刻。ここに、雨の時の場所。ここに、待合所の説明会の日」


 祐はその配置を見て、案内所のメモ帳を取り出した。


 「紙が小さいので、詳しい説明はQRコードじゃなくて、案内所と待合所に置く紙へ誘導したほうがいいですね。スマホを使わない人もいますから」


 裕子が頷く。


 「説明文は短く。『本物の名札は、持ち主の確認後に扱います』も入れる」


 木戸は前掛けの紐をほどきかけ、また結び直した。


 「名前を書けない土産か」


 「名前を書けないから、持ち主の名前を守れます」


 祐が言うと、木戸は黙った。


 沈黙の間に、商店街の音が戻ってきた。魚屋の女性が「氷、溶ける」と言って自分の店へ戻り、若い店員が持っていた板を壁へ立てかけ直す。通りの向こうから、淡名島行きの渡船を知らせる短い汽笛が聞こえた。


 木戸は、紙札の束を段ボールへ戻した。


 「来週の土曜は、開けない。少なくとも、名札風はやめる」


 裕子の肩から、少し力が抜けた。


 「ありがとうございます」


 「ただし、案内板にうちの店名は入れろ。休憩できる場所としてな。水は出す。買わなくてもいい。買ってくれたらもっといい」


 「店名は入れます。買えとは書きません」


 「そこは小さく書け」


 「書きません」


 裕子と木戸が睨み合い、壮翔が小さく拍手した。


 「商店街らしくなってきた」


 「あなたは座布団を片づけてください」


 「これは待合所の座り心地を守るために」


 文香が、壮翔の抱えている座布団を見た。


 「その座布団、湿気ています」


 壮翔は固まった。


 「え、そう?」


 「古い畳の匂いがします」


 「いい匂いだろう」


 「乾かしたほうがいいです」


 「はい」


 壮翔は、これ以上ないほど素直に座布団を抱え直した。裕子がその様子を見て、赤ペンの先で空中に小さな丸を描いた。珍しく採点が高いらしい。


 その日の午前は、案内所の仕事がほとんど進まなかった。


 祐は空き店舗の仮看板を外す手伝いをし、裕子は木戸から印刷代と残数を聞き取り、文香は使える紙と使えない紙を分けた。壮翔は座布団を干すと言って商店街のアーケード下に三枚並べ、通りすがりの人から「売り物か」と聞かれ、そのたびに「尻のための試験品」と答えて裕子に怒られた。


 昼前、進祐がやって来た。


 白い半袖シャツの胸ポケットには、町の施設点検表が差してある。額に汗を浮かべているのに、表情はいつものように読みにくい。彼は外された仮看板、積み直された紙札、祐のメモ、裕子の費用表、文香が分けた紙の山を順に見た。


 「何があった」


 壮翔が胸を張った。


 「待合所の魂を守る会議です」


 「正式名で言え」


 進祐が即座に返す。


 裕子が資料を差し出した。


 「商店街の空き店舗で、名札に似せた土産物売り場が準備されていました。本人確認と展示ルールの前に名札の形を使うのは危険なので、中止してもらいました。代わりに、港と待合所へ向かう案内板、行き先メモ、休憩場所の表示に変更する方向です」


 進祐は一枚ずつ紙をめくった。


 「中止で終わらせなかったのは、いい」


 裕子が一瞬だけ目を上げた。


 進祐は木戸に向き直る。


 「商店街が協力するなら、町としてもありがたい。ただ、名札の形、名前、写真、手紙、古い資料は、扱いを分ける必要がある。祐」


 「はい」


 「展示ルール案を作れ。公開可、非公開、現物返却、写しのみ、保管希望、連絡不可。この六つは最低限入れる。店が使える説明文も別に必要だ」


 裕子が素早くメモを取る。


 「木戸さんの空き店舗を待合所の模倣にするのではなく、待合所へ向かう案内拠点として扱うなら、説明会資料にも入れられる」


 進祐はそう言った。


 祐はその言葉を聞き、胸の中で何かが少し整うのを感じた。待合所を残す話は、古い建物を守るだけではなかった。そこへ向かう道、商店街の人、休む場所、案内する紙。周りのものがどう関わるかで、待合所の見え方は変わる。


 文香は、使える紙の山から一枚を取り、進祐へ見せた。


 「この紙なら、上から貼れます。名札の色を隠せます」


 「費用は」


 進祐が聞く。


 木戸が少し慌てて言った。


 「うちで持つ。いや、半分は。残りは、まあ、商店街に相談する」


 裕子が赤ペンを構える。


 「半分、残り、まあ、は数字にしてください」


 木戸は苦笑しながら両手を上げた。


 「分かった。今日中に出す」


 進祐は頷いた。


 「あと、写真撮影の範囲も決める。待合所の本物の名札棚は、許可が出るまで撮影不可。空き店舗の案内板は撮影可。ただし、名札に似せた表現は使わない」


 祐はメモを取りながら、店内の時刻表風の板を見た。恋、再会、思い出、潮風。木戸の考えた言葉は軽く見えたが、全部が悪意ではない。人に来てほしい、店に寄ってほしい、町が静かにしぼんでいくのを見たくない。その焦りが、きれいに印刷された模倣へ走らせたのだ。


 裕子もそれを分かっているのか、木戸へ向ける声が少しだけ変わった。


 「木戸さん。商店街が必要ないと言っているわけではありません」


 木戸は裕子を見た。


 「でも、名札を売るな、だろう」


 「はい。売らないでください」


 「はっきり言うな」


 「そこは曖昧にしません」


 裕子は赤ペンを胸ポケットへ戻した。


 「その代わり、案内板は一緒に作ります。説明会で、商店街が水と休憩場所を出すことも言います。待合所へ人を送り出す場所としてなら、必要です」


 木戸はしばらく黙り、やがて段ボールのふたを閉じた。


 「送り出す場所か」


 「はい」


 「店に長くいてもらうより、送り出すのか」


 「戻って来られるように送り出すんです」


 祐が言うと、木戸は笑った。


 「交通案内所らしい言い方だな」


 「職業病です」


 文香が、空き店舗の入口から商店街を見た。潮紙堂のほうへ続く細い道、港へ抜けるアーケード、日差しの強い坂道。人が歩く道は一つではない。名札を返す道も一つではない。


 「模倣は、悪いだけではないと思います」


 文香がぽつりと言った。


 全員が文香を見た。


 「直し方も、最初は真似ます。縫い目も、包み方も。母の縫い方も、私は見ていないのに、似ていました」


 文香は自分の指先を見た。


 「でも、真似たあと、何を守るかを決めないと、形だけ残ります」


 祐は、今治で見た帆布の端切れを思い出した。角を二度折り、力を逃がす縫い方。あれも誰かから誰かへ渡されたものだ。模倣そのものが悪いのではない。相手の名前を削って、自分の見せたい形だけにすることが怖いのだ。


 進祐が、短く言った。


 「その言葉、説明会資料に入れてもいいか」


 文香は少し考えた。


 「長くしないなら」


 「祐が短くする」


 祐は頷いた。


 壮翔が口を開いた。


 「つまり、俺が待合所の椅子を真似て、縁側寝床に置くのは」


 「却下」


 裕子と文香が同時に言った。


 壮翔は胸を押さえた。


 「二人で言うと効くな」


 明純が、いつの間にか入口に立っていた。手には中学生の聞き取りで使ったクリップボードを持っている。どうやら騒ぎを聞いて来たらしい。


 「何か手伝うことありますか」


 裕子がすぐに紙を渡した。


 「商店街の休憩場所を確認して。水が出せる店、椅子がある店、トイレを貸せる店。ただし、勝手に約束しない。店主の名前、条件、時間帯を聞く」


 明純は紙を受け取り、背筋を伸ばした。


 「勝手に約束しない、ですね」


 「前科がありますからね」


 「港を少しだけ騒がせた件は、反省しています」


 「少しだけではありません」


 明純は笑いながらも、すぐに一軒目へ向かった。勢いだけで走る足に、今日は紙と条件が一緒についている。


 昼過ぎ、空き店舗の前に新しい仮紙が貼られた。


 淡名渡船待合所へ向かう道案内、準備中。


 名前を預かる場所へ行く前に、道を確かめてください。


 祐が下書きし、裕子が「預かる」の字を太くし、文香が紙の端を折り返して貼った。木戸はその横に、自分の店の小さな印を押そうとして裕子に止められ、結局、裏面にだけ押した。壮翔は座布団を片づけるついでに、仮紙の下に小さな木箱を置こうとして、これも止められた。


 夕方、祐と文香は淡名渡船待合所へ向かった。


 商店街を抜けると、海風が少しだけ涼しくなっていた。待合所の長椅子は、壮翔の言った通り、座ると一度だけ機嫌悪く鳴り、そのあと静かになった。文香は名札棚の前に立ち、まだ修繕を待つ名札を一枚ずつ見た。


 「怒っていましたか」


 祐が聞くと、文香は少しだけ首をかしげた。


 「たぶん」


 「たぶん」


 「怒り方が、分かりませんでした」


 文香は、名札棚の木目を指でなぞった。


 「きれいに真似られると、私のほうが汚いものを守っているように見えます」


 祐は返事を急がなかった。


 窓の外で、渡船のロープが岸壁に触れ、短い音を立てる。夕方の港では、誰かが魚箱を洗い、誰かが自転車を押し、誰かが船の時刻を間違えて小走りになる。きれいな写真には残りにくい動きばかりだった。


 「汚いものを守っているんじゃないと思います」


 祐は言った。


 「汚れた時間ごと、預かっているんだと思います」


 文香は名札棚から手を離した。


 「長いです」


 「説明会用には短くします」


 「お願いします」


 文香は、修繕台に座った。今日、空き店舗から持ち帰った紙札の一枚を裏返し、白い面を上にする。そこへ鉛筆で細い線を引いた。名札の形ではない。港までの道を示す、短い矢印だった。


 祐は返却簿を開き、今日の記録を書いた。


 商店街空き店舗、名札風土産売り場案。本人確認前の模倣使用は中止。案内板、行き先メモ、休憩場所表示へ変更。展示ルール案を作成すること。


 その下に、少し迷ってからもう一行足した。


 形を真似る前に、名前との距離を決める。


 文香がその文字を読み、鉛筆を置いた。


 「そこは、いいです」


 短い言葉だった。けれど祐には、その短さの中に、今日一日のざらついたものが少しだけ収まったように聞こえた。


 待合所の外で、木戸が港へ向かって歩いてきた。片手には、空き店舗の仮紙と同じ白い紙を持っている。もう片方の手には、水筒が二本ぶら下がっていた。


 「水を置く場所、ここでいいか」


 木戸は照れたように言った。


 裕子が少し遅れて現れ、すぐに答えた。


 「直射日光が当たります。窓の反対側へ」


 「はいはい」


 「はいは一回」


 「はい」


 壮翔がその後ろから、乾かした座布団を抱えて来た。


 「座り心地の件は」


 「今日は置かない」


 信清の声が、海側からした。いつからいたのか、入口の柱にもたれて風を見ている。


 「湿気が戻る。置くなら晴れた日にしろ」


 壮翔は素直に座布団を抱え直した。


 「今日は全員、俺に厳しい」


 「今日だけではない」


 裕子が言い、木戸が笑った。文香も、ほんのわずかに口元を緩めた。


 夕方の待合所に、白い紙が一枚貼られた。


 淡名渡船待合所の名札は、持ち主の確認をしながら扱っています。


 名前を見たい方は、まず声をかけてください。


 勝手に写真を撮らないでください。


 白い紙は、まだ仮の説明だった。文香が貼った端はまっすぐではなく、少しだけ斜めだった。けれど、その斜めの角が、祐にはなぜか安心できた。人の手で貼ったものだと分かるからだ。


 名札棚の中で、淡い布が静かに並んでいる。外の空き店舗で生まれかけた模倣は、その日のうちに形を変えた。売り物になるはずだった紙は、港へ向かう人の手元で、道を示す紙になる。


 祐は長椅子に座った。椅子は一度だけ鳴り、そのあと、いつものように黙った。


 文香は修繕台で、白い紙に小さな矢印を描き続けている。裕子は横から文字数を数え、木戸は水筒の置き場所を何度も直し、壮翔は座布団を抱えたまま座る場所を探している。信清は海を見て、まだ閉めなくていいとだけ言った。


 模倣の待合所は、できなかった。


 代わりに、待合所へ向かう道が一本、商店街の中に増えた。


 祐は返却簿を閉じ、夕方の紙の匂いを吸った。名札の形は守られた。けれど、町の手まで拒まなかった。その綱渡りの細さを思うと、背中に少し汗が残った。


 文香が、白い紙を一枚、祐へ差し出した。


 紙の上には、港へ向かう短い矢印と、小さな字で一言だけ書かれていた。


 名前は、急がない。


 祐はそれを見て、頷いた。


 明日の案内板には、その言葉を入れようと思った。



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