第13話 鞆の浦、夕凪の名札
翌朝、尾路町交通案内所のカウンターに、祐は三枚の紙を並べた。
一枚目は、名札返却簿の写し。二枚目は、鞆の浦までの乗り継ぎ表。三枚目は、昨夜、文香が白い紙に書いた「名前は、急がない」という一文だった。
愛衣子はその三枚目を両手で持ち、首をかしげた。
「これ、今日の合言葉ですか」
「合言葉にすると急ぐ人が出るから、目印くらいで」
「目印……」
愛衣子は真面目に頷き、紙の右上に小さな丸を描いた。そこへ壮翔が現れ、朝からなぜか笊を抱えていた。中には、蜜柑でも魚でもなく、宿の朝食で余った丸いパンが入っている。
「旅には腹ごしらえ。鞆の浦まで行くんだろ。港町から港町へ、パンが似合う」
「どちらかというと握り飯です」
裕子が奥から出てきて、パンの個数を数えた。
「六個あるはずのものが、五個しかありません」
「一個は毒見だ」
「誰に頼まれて」
「俺の胃袋に」
裕子の視線が、壁の古い時刻表より鋭くなった。壮翔は笊を祐へ押しつけるように渡し、咳払いをした。
「まあ、道中で愛衣子が走り出したら、口に入れて止めろ」
「走りませんよ」
愛衣子は即答したが、肩にかけた鞄の紐を握る指が、もう前へ行きたがっていた。
今回の名札は、淡い水色の布地に、黒い糸で「津里」と縫われていた。名札の端には、船酔いした子どもが握りしめたような皺が残り、裏には薄く、鞆の浦の旅館名らしき墨の跡があった。真部から聞いた倉敷の畳職人とは別に、淡名島の祖母宅へ夏だけ通っていた子どもが、鞆の浦にいるらしい。前日の夕方、古い旅館へ電話を入れると、女将が「津里なら、うちの番頭をしている人の旧姓です」と教えてくれた。
ただし、会えるかどうかは当日にならないと分からない、とも言われた。
祐は返却簿に「本人確認は現地で」「現物は見せるだけ」「返却希望は聞いた後」と書き足した。愛衣子はその横へ、鉛筆で小さく「励ましすぎない」と書いた。
「昨日から、これを三回書いてます」
「三回書いて覚えられるなら、かなり早い」
「祐さんは、どうやって覚えたんですか」
祐は少し考え、カウンターの端に置いた古い切符鋏を見た。
「怒られて、黙られて、見送られて、やっと」
「時間かかりますね」
「かかった」
愛衣子は、その返事を聞いて安心したように鞄を肩へかけ直した。
七月中旬の尾路町駅は、朝の湿気を屋根の下に溜めていた。ホームのベンチには、観光の夫婦が帽子を並べている。祐は時刻表を確認し、愛衣子は乗り継ぎの紙を握り、壮翔のパンを二個、鞄の底へ押し込んだ。
列車は山裾を縫うように走った。窓の外で、海は見えたり隠れたりした。住宅の屋根、畑の支柱、短いトンネル、再び光る水面。愛衣子は窓に頬を近づけ、景色が変わるたびに何か言いかけた。祐はその横で、名札を入れた箱を膝に置いていた。箱には文香が巻いたベージュの紙紐がかかっている。
「文香さん、来たかったでしょうか」
「来たかったと思う」
「じゃあ、どうして」
「今日は修繕の手を止めると、待合所に残る名札のほうが遅れる。そう言ってた」
愛衣子は頷き、窓の向こうへ視線を戻した。
「文香さん、言葉は短いのに、手はずっと話してますよね」
「そう見えるなら、ちゃんと見てる」
祐が言うと、愛衣子は口を閉じた。褒められて飛び跳ねる代わりに、膝の上で乗り継ぎ表の角をそろえた。その動きが少しだけ文香に似ていて、祐は笑いそうになるのをこらえた。
福山でバスへ乗り換えると、車内は海へ向かう人と、町へ戻る人の匂いが混じっていた。汗、日焼け止め、乾いた畳、鞄の中のパン。愛衣子は一度だけ、隣の席の老婦人に「鞆の浦は、どの停留所が」と聞きかけ、祐のほうを見た。
祐は小さく頷いた。
愛衣子は老婦人へ声をかけ、相手が聞き返す速度に合わせて、少しゆっくり話した。老婦人は丁寧に道を教えてくれ、最後に「港へ行くなら、帰りのバスは早めに見なさい」と付け加えた。
「ありがとうございます」
愛衣子は深く頭を下げた。バスが揺れ、鞄の中でパンが潰れる音がした。
鞆の浦へ着くと、潮の匂いが尾路町より濃く感じられた。細い道の先に海があり、古い家並みの隙間から、船の白い腹がちらりと見える。瓦屋根の陰は濃く、石段には昼の熱がもう溜まり始めていた。どこかの家から、干した魚を返す音がする。遠くで、子どもが氷の旗を見つけて声を上げた。
旅館「汐見屋」は、港から少し上がった坂の途中にあった。実在する店ではない。木の格子戸に、手で磨かれた黒い艶があり、入口の脇には小さな鉢植えが三つ並んでいる。玄関には、昼前の静かな風が通っていた。
「いらっしゃいませ」
出てきた女将は、電話の声と同じく落ち着いていた。祐が名乗り、返却簿と身分確認の紙を出すと、女将はすぐに奥へ声をかけた。
「津里さん、尾路町の方が来られましたよ」
奥から出てきた男性は、五十代半ばくらいに見えた。白いシャツの袖を肘まで折り、手には布巾を持っている。日焼けした顔に、笑う前の皺があった。ただ、その皺は祐の箱を見た途端、少し硬くなった。
「尾路町……」
「淡名島の渡船待合所で見つかった名札について、確認に伺いました。急な押しかけにならないよう、昨日、女将さんへお電話しています」
「聞いてます。どうぞ」
津里は座敷へ案内してくれた。畳の縁がすり減っているのに、部屋全体はきちんと整っている。窓の外には港が見え、干潮の船底が少しだけ顔を出していた。
祐は箱を置き、すぐには開けなかった。
「まず、確認したいことがあります。名札を見たくない場合は、このまま持ち帰ります。名前や昔のことをこちらから外へ出すこともありません」
津里は布巾を膝の上で四つに折った。
「そこまで、重たいものですか」
「重たいかどうかを、こちらで決めないようにしています」
愛衣子は、祐の横で黙っていた。膝の上の手が少しだけ動いたが、何も言わない。
津里は窓の外を見た。港の向こうで、小さな船がゆっくり向きを変えている。
「見せてください」
祐はベージュの紙紐をほどき、文香が薄紙で包んだ名札を取り出した。名札は畳の上へ直接置かず、白い紙の上にのせた。淡い水色の布地は、海の色ではなく、長い時間を吸った空の色に近かった。
津里の指が、布巾の上で止まった。
「……うちの字じゃ」
「ご本人のものでしょうか」
津里はすぐに頷かなかった。喉の奥で、何かを飲み込むような間があった。
「たぶん、私です。小学校の三年から五年まで、夏だけ祖母のところに行ってました。淡名島の北側、蜜柑畑の近くです。母が忙しい人で、夏休みだけ預けられて」
祐は返却簿に、日付と場所だけを書いた。愛衣子は何も書かず、津里の声を見ていた。
「この名札、失くしたと思っていました。祖母に作ってもらったのに、最後の年、どこかへ置いたまま戻ってしまった」
「最後の年、ですか」
愛衣子が思わず聞いた。声は少しだけ前へ出たが、すぐに引いた。
津里は愛衣子を見て、柔らかく笑った。
「その聞き方なら、大丈夫です」
愛衣子の耳が赤くなった。
津里は、名札の端にある皺を見た。
「父の仕事の都合で、急にこちらへ戻ることになったんです。祖母にはまた来ると言いました。友だちにも、また来ると。けれど次の年、祖母が倒れて、島の家は親戚が畑ごと手放しました。私は戻れなくなった。戻れなくなっただけなら、まだよかったんですが、別れも言わなかった」
窓の外で、潮が満ち始める音は聞こえなかった。ただ、船のロープが柱に当たる乾いた音だけが、間を置いて鳴った。
愛衣子は、唇を結んだ。励ます言葉が喉まで来ているのが、祐には横顔で分かった。きっと「今からでも」「きっと待ってます」「大丈夫です」のどれかだった。そのどれも、今の津里には少し速い。
愛衣子は膝の上の指を握り直し、言葉を引っ込めた。
津里は、そんな愛衣子を見て、また少し笑った。
「言いかけましたね」
「はい」
「言わないでくれて、助かりました」
愛衣子は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「すみません」
「謝られるほどではありません。私も、若い頃は何でもすぐ言いました。旅館で働くようになって、言葉を置く場所を少し覚えました」
祐は名札の横へ、三種類の選択肢を書いた紙を置いた。
「この名札は、津里さんへお返しできます。しばらく待合所に置いてからお渡しすることもできます。写しだけを作って現物を保管することもできます。もちろん、今日は決めなくても大丈夫です」
津里は紙を見た。指先が、「しばらく待合所に置く」の欄で止まった。
「一度、あそこへ戻してもらえますか」
「淡名渡船待合所へ、ですか」
「はい。夏の間だけでも。あの場所へ置いたまま逃げたようなものだから、まず戻してやりたい。そのあと、私が取りに行きます。祖母の墓参りも、もう何年もしていない」
祐は返却簿に、津里の希望を丁寧に書いた。
愛衣子が、ようやく口を開いた。
「その時、道、調べます。港から蜜柑畑のほうまで。バスが少ないなら、歩く道も、休む場所も」
津里は愛衣子の顔を見た。
「それは、ありがたいです」
愛衣子は少しだけ笑った。励ます言葉ではなく、次の一歩を示す言葉が相手に届いたことを、足元で確かめるような笑いだった。
女将がお茶を運んできた。湯呑みから上がる湯気に、畳と潮の匂いが混じった。壮翔のパンは鞄の底で平たくなっていたが、愛衣子が一つ取り出して見ると、形は悪いものの食べられそうだった。
「それは」
津里が目を丸くする。
「尾路町の宿の人が持たせてくれました。少し、潰れました」
「少しではないですね」
女将が笑った。津里も笑い、祐はようやく箱の蓋を少しずらしたまま息を吐いた。
昼過ぎ、津里は旅館の玄関まで二人を見送ってくれた。名札は、そのまま祐の箱に戻された。津里の同意書には、現物を淡名渡船待合所で一か月保管し、その後、本人来訪時に返却希望と記されている。公開するのは名字だけ、写真撮影は不可。祐はその条件を二重線で囲った。
港へ下りる道で、愛衣子は何度も後ろを振り返った。
「何か、もっと聞けたんじゃないかって思います」
「聞けたかもしれない」
「聞かないほうがよかったことも、ありますよね」
「ある」
祐は、港の石段に腰を下ろした。夕方にはまだ早かったが、海の上の風は少しだけ落ち着いていた。観光客の足音が遠ざかり、船の影が水面で揺れる。
愛衣子は隣に座り、鞄から潰れたパンを一つ出した。二つに割ろうとして、形がいびつに裂けた。
「すみません、これ、半分が大きいです」
「大きいほうをどうぞ」
「こういう時は、祐さんが大きいほうを取ってください。私、今日は言葉を一個飲み込んだので」
祐は小さいほうを受け取り、笑った。
「それなら、愛衣子さんが大きいほうでいい」
愛衣子はパンを噛み、しばらく海を見ていた。
「急いで行く足は、役に立つと思ってました。相手のところまで早く行けるから」
「役に立つ」
「でも、着いたあとに耳が追いつかないと、だめなんですね」
祐は、津里の旅館の二階窓に揺れる簾を見上げた。光が薄くなり始め、港の色が少しずつ柔らかくなっている。
「急ぐ足と、待つ耳は、同じくらい必要だと思う」
愛衣子は、その言葉を覚えるために、乗り継ぎ表の裏へ書いた。鉛筆の先が少し折れて、文字が太くなった。
「待つ耳」
愛衣子は声に出して読み、照れたように紙をしまった。
帰りのバスを待つころ、港には夕凪が近づいていた。昼間は石畳を押していた風が弱まり、船の旗が眠たそうに垂れている。海は動いているのに、表面だけがしばらく止まったように見えた。
祐は名札の箱を膝に置いた。箱の中で、津里の淡い水色の布は、鞆の浦の潮を少しだけ吸ったように思えた。
尾路町へ戻ると、淡名渡船待合所には夕方の斜めの光が入っていた。文香は修繕台に向かい、白い紙の端を切りそろえていた。裕子はその横で、説明文の文字数を数えている。壮翔は長椅子に座り、なぜか自分の膝の上に座布団を三枚重ねていた。
「尻だけ貴族」
裕子が言った。
「座り心地の研究です」
「研究なら記録を出してください」
「尻の感想を?」
「結構です」
祐が箱を置くと、文香の手が止まった。
「会えた」
「会えた。本人確認も取れた。一か月、ここで保管。その後、本人が取りに来る希望」
文香は頷き、名札を受け取った。白い紙の上に津里の名札を置き、皺の端を指で確かめる。指先はいつもと同じく静かだったが、名札の声を聞いているようにゆっくり動いた。
愛衣子は、文香の横へ乗り継ぎ表の裏を差し出した。
「これ、今日の反省です」
紙には、太い鉛筆の字で、こう書かれていた。
急ぐ足と、待つ耳。
文香はそれを見て、短く言った。
「いい」
愛衣子の顔が、ぱっと明るくなった。明るくなりすぎて、すぐに口を押さえた。待つ耳、と書いたばかりの手前、大きな声を出すのを自分で止めたらしい。
裕子がその様子を見て、赤いペンで紙の端へ丸をつけた。
「その調子で、明日の聞き取り手順に入れてください」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
壮翔が座布団の上で手を上げた。
「俺のパンは役に立った?」
愛衣子は少し考えた。
「潰れていました」
「役に立ったかどうかを聞いてる」
「話題にはなりました」
「それは、だいたい役に立ったということだ」
裕子がため息をつき、文香がほんの少し笑った。
祐は返却簿を開き、津里の欄へ今日の記録を写した。保管希望。公開は名字のみ。写真不可。一か月後、本人来訪予定。祖母の墓参りの道順を確認すること。
最後の一行を書いたところで、窓の外から船の汽笛が聞こえた。夕便が戻ってきたのだ。待合所の床に、淡い水色の影が伸びる。名札棚の中で、返されたもの、残されたもの、これから返すものが並んでいる。
愛衣子は棚の前に立ち、しばらく黙って名札を見ていた。昨日までなら、すぐに次の行き先を聞いただろう。今日は、津里の名札が棚に馴染むまで待っていた。
文香が白い紙を一枚、棚の下へ差し込んだ。
津里さんの名札は、一か月ここで船を待ちます。
小さな字だった。目立つ案内ではない。けれど、祐にはその文字が、夕凪の港に置かれた椅子のように見えた。
急がない名前が、また一枚、待合所へ戻ってきた。




