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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第44話 名札返却簿の最後の空欄

 翌朝の港は、昨日の決定を知っているようで、知らないふりをしていた。


 七時前、淡名渡船待合所の戸の前には、夜の湿気を吸った落ち葉が三枚だけ貼りついていた。海は冬の入口らしく青みを深くし、淡名島へ向かう一便目の船は、岸壁の内側で白い息を吐くように排気を揺らしている。祐は鍵束を手の中で確かめ、名札棚、玄関、備品箱の順に小さな金属音を鳴らした。


 十七時十二分に閉めた場所を、七時ちょうどに開ける。


 昨夜、管理表に「一年間、継続」と書いたあと、祐は何度もその一行を思い出した。嬉しさより先に、手のひらの内側へ薄い緊張が残っていた。続いていいと言われた場所は、続かせなければならない場所でもある。


 木の戸を開けると、冷えた空気が床の上を低く流れた。畳座布団の縁は少し反っており、白い紙札の板には、昨夜の風で寄った糸くずがついている。標本箱のガラスには、細い曇りが一本走っていた。


 祐は手帳を開き、いつもの欄に書いた。


 七時〇〇分。開放。異常なし。棚確認前。


 書き終える前に、外から足音がした。


 文香だった。


 紺色の上着の袖口に、細い糸が一本ついている。潮紙堂からそのまま来たのか、手提げの中には白い手袋と薄い紙箱が入っていた。祐が「おはよう」と言うと、文香は小さくうなずき、床の端に置かれた箒を見た。


 「壮翔さん、まだ」


 「来てない」


 「裕子さんは」


 「たぶん、怒る準備をしてる」


 文香は靴を脱ぎ、棚の前に膝をついた。昨日の正式判断で一年間の継続が認められても、名札棚の中は何も増えていない。減ってもいない。淡い布、少し濃い布、文字がほとんど読めない布。修繕された糸の白さだけが、朝の光を細く拾っていた。


 祐は棚の扉を開ける前に、鍵管理表へ視線を落とした。昨日の最後の欄。十七時十二分。閉鎖確認。異常なし。一年間、継続。


 その下に、今日の最初の空欄がある。


 文香は手袋をはめ、棚の一段目から順に名札を確かめていった。指先は急がない。布の端を持ち上げ、糸の浮きを見て、裏に挟んだ紙が湿気を吸っていないかを確かめる。その動きは、昨日と同じだった。


 祐は、その同じ動きに少し救われた。


 大きな決定の翌日にも、やることは布を一枚ずつ見ることから始まる。


 外で、慌ただしい足音が近づいた。


 「間に合った! これは間に合ったと言える範囲!」


 壮翔が息を切らして戸口に現れた。片手には雑巾の束、もう片方には湯気の立つ紙袋がある。後ろから裕子が歩いてきて、壮翔の背中を見ただけで眉を上げた。


 「七時集合」


 「七時の港の空気を胸いっぱい吸ってから入ろうと思って」


 「遅刻」


 「三分は、風情」


 「遅刻」


 裕子は二度目の言葉で判を押すように言い、壮翔の紙袋を取り上げた。中から温かい饅頭が出てくる。明純がその後ろから顔を出し、両手で口を押さえた。


 「掃除前に食べると、裕子さんが」


 「言う前に雑巾」


 「はい」


 明純は自分で言いかけた注意を飲み込み、雑巾を二枚取った。愛衣子は手帳と鉛筆を持ち、白い紙札板の横に立っていた。紙札に個人名が書かれていないか、昨日決めた確認表を見ながら一枚ずつ目を通している。信清は戸口の外にいて、海を見ていた。


 「昼前までは、出せる」


 信清はそれだけ言い、壁にかかった閉鎖基準の紙を指で軽くたたいた。


 「午後は風が変わる。十四時で閉める用意をしとけ」


 裕子がすぐに赤くない赤の鉛筆で、掲示用の紙に書き込む。


 十四時閉鎖予定。風の状況により早まる場合あり。


 壮翔は饅頭の袋を見ながら、控えめに手を挙げた。


 「閉鎖前の糖分補給は」


 「掃除後」


 「はい」


 待合所に笑いが薄く広がった。


 文香だけは名札棚の前で手を止めていなかった。二段目、三段目、非公開箱の鍵、白い封筒の位置。順に確かめる。祐はその横へ行き、返却簿を開いた。


 分厚くなった返却簿は、最初の頃とは紙の重みが違う。最初に時刻表の裏から布名札の束を見つけた時、祐はまだ、名前を書き写せば進むと思っていた。けれど今、その紙には、返却、保管、写し希望、非公開、連絡不可、公開範囲確認済み、本人確認済み、家族確認待ち、という細かな記録が並んでいる。


 名前を呼ぶには、呼ぶ前に守る欄がある。


 祐はページをめくり、最後の空欄で手を止めた。


 文香の名札。


 名前欄だけが、ずっと空いているわけではない。祐は文香の名を知っている。棚の引き出しに収められている淡い名札が、文香自身のものだと知っている。母の八重が縫い、幼い文香がほどこうとし、その傷を今の文香が直しきらずに残した名札。


 それでも、返却簿の最後の欄は空いていた。


 祐はそこへペンを置かなかった。


 文香が顔を上げた。


 「そこ」


 祐はページから視線を動かさずに答えた。


 「まだ空けてる」


 「うん」


 「今日じゃなくてもいい」


 「今日」


 短い声だった。


 待合所の中の雑巾の音が、少しだけ遠くなった。裕子が窓枠を拭く手を止めたのが分かった。壮翔は饅頭の袋を開けかけた姿勢のまま固まり、明純は白い紙札を数える声を飲み込んだ。愛衣子は鉛筆を持ったまま、紙に何も書かなかった。


 文香は白い手袋を外した。


 「手袋、いらない」


 祐はうなずいた。


 文香は棚の下の引き出しを開けた。小さな鍵の音がして、薄い紙箱が出てくる。箱の蓋には、潮紙堂で使う紙と同じ、少しざらついたベージュの紙が貼られていた。母の封筒を思わせる色だが、今は文香自身が選んだ紙だった。


 蓋を開けると、淡い名札が一枚、薄紙に包まれていた。


 布は、完全には白くない。時間と海風と幼い指の力で、ところどころ灰色を帯びている。母の縫い目は角の一つに残り、ほどこうとした跡は裏側に小さく走っていた。文香はその名札を持ち上げ、膝の上に置いた。


 名札は、誰にも何も言わない。


 文香も、しばらく何も言わなかった。


 祐は返却簿を文香の前に置き、ペンを横に添えた。


 「代わりに書かない」


 「知ってる」


 文香はペンを取った。すぐには書かない。紙の上で一度、指先が止まる。裕子が窓際で、小さく息を吸った。壮翔がそれを聞いて、わざと大きく咳払いをしようとしたが、明純に肘で止められた。


 文香は、最初の欄に自分の名前を書いた。


 藤江文香。


 祐はその字を見た。潮紙堂の伝票に書かれる仕事の字よりも、少しだけ丸い。けれど弱くはない。紙の繊維へ、きちんと沈む字だった。


 返却先の欄で、文香のペンがまた止まった。


 外で汽笛が鳴る。七時十五分の便が、淡名島へ向けて岸壁を離れた。信清が戸口からその音を聞き、何も言わずに帽子のつばを指で押さえた。


 文香は返却先の欄に書いた。


 淡名渡船待合所。


 希望欄には、保管。


 理由欄で、文香は少しだけ唇を結んだ。


 祐は紙面から目をそらした。急がせる目を向けたくなかった。


 文香の手が動く。


 ここから歩き直すため。


 書き終えたあと、文香はペンを置かなかった。最後に、小さな文字で追記した。


 公開は、名札のみ。母の手紙は非公開。


 裕子が、窓際で大きくうなずいた。


 「必要な一行です」


 声が少しだけかすれていた。


 文香は返却簿を閉じず、祐へ向けた。


 「確認」


 祐はうなずき、欄を読み上げた。名前、返却先、希望、理由、公開範囲。読み終えるまで、文香は名札を膝の上に置いたままだった。


 「これで、いい?」


 祐が聞くと、文香は短く答えた。


 「いい」


 それは、誰かへ許しを渡す言葉ではなかった。


 母の八重を許した、という言葉でもない。幼い日の自分を叱る言葉でもない。待っていた時間を美しく飾る言葉でもない。


 ただ、ここに置くと決めた声だった。


 裕子が窓拭きの布巾を持ったまま、こちらへ来た。


 「確認印、押します」


 いつものように仕事の声に戻そうとしている。けれど、布巾を持つ手に少し力が入りすぎていた。文香はその手元を見て、名札を紙箱に戻す前に言った。


 「泣くなら、外」


 「泣いてません」


 「窓、濡れてる」


 「窓です」


 壮翔が我慢できずに吹き出した。明純も笑い、愛衣子が口元を手帳で隠した。裕子は文香を睨んだが、目尻が少し赤いせいで、いつもの鋭さが長続きしなかった。


 「確認印を押す人に、そういうことを言わない」


 「はい」


 「返事が軽い」


 「はい」


 同じ短い返事なのに、待合所の空気がやわらかくなる。


 裕子は返却簿の欄を確認し、印を押した。朱色の小さな丸が、文香の文字の横につく。手続きとしては、それだけだった。けれど祐は、その小さな丸が、名札を過去の箱から今の棚へ移す音のように感じた。


 壮翔が、今度は何も茶化さず、長椅子を直した。脚の下へ薄い木片を差し込み、がたつきを止める。いつもなら一言余計なことを言うはずなのに、今日は黙っている。その沈黙が不自然で、明純が小声で言った。


 「壮翔さん、具合悪いんですか」


 「悪くない。ただ、今しゃべると裕子さんに蹴られる予感がした」


 「正しい判断です」


 裕子が即答し、壮翔は胸を張った。


 「俺、成長してる」


 「その宣言が余計」


 今度は文香も、ほんの少し笑った。


 祐は紙箱を棚の下の引き出しへ戻すのを手伝わなかった。文香が自分で薄紙を重ね、蓋を閉め、引き出しに収める。鍵をかける。その一つ一つを、待合所の全員が大げさに見守らないようにしながら、見守っていた。


 鍵が回る。


 小さな音だった。


 その音で、祐はようやく息を吐いた。


 外では、千代が蜜柑の箱を抱えて坂を下りてきていた。昨日も置いていったのに、今日もまた箱を抱えている。信清が戸口で「毎日置いたら倉庫になる」と言うと、千代は「一年続くんじゃけ、一年分いるじゃろ」と笑った。


 裕子がすぐに首を振る。


 「いりません。置き場所、ありません。今日の分だけです」


 「じゃあ、今日の分」


 千代は箱を長椅子の下へ押し込み、文香の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。


 「書いたん?」


 文香はうなずいた。


 「書いた」


 「そう」


 千代はそれ以上聞かなかった。代わりに、箱から蜜柑を一つ取り、文香の前に置く。


 「すっぱいかもしれん」


 「平気」


 「すっぱい言うたら、祐さんにあげんさい」


 祐が「なぜ僕に」と言う前に、壮翔が手を伸ばした。


 「俺が引き受けます」


 裕子がその手を叩いた。


 「掃除後」


 「今日は掃除が強い」


 「続く場所ですから」


 愛衣子がまた同じように言うと、明純が「名言みたいに言うと掃除が逃げますよ」と雑巾を持ち上げた。


 掃除が再開された。


 祐は返却簿を棚の横の机へ置き、今日の利用者名簿を出した。文香の欄は埋まった。最後の空欄だった場所には、文字と印と、公開しないものを守る一行がある。


 それでも、物語が終わったような感じはしなかった。


 名札返却簿の最後の空欄が埋まったことで、待合所の中には、むしろ新しい空白が生まれた。明日来る人の名前、これから書かれる白い紙札、雨の日の閉鎖記録、来年の見直し資料、子どもたちが首から下げる新しい名札。


 祐は、今度の空白は怖くないと思った。


 文香が机の反対側に来た。


 「祐」


 「うん」


 「紙」


 「どの紙?」


 「新しい名札用」


 祐は棚から封筒を出した。仮開放初日にはまだ使う予定のなかった、新しい名札用の薄い布と紙の束。子どもたちが来年の初夏に使うかもしれない、と文香が言っていたものだ。


 文香はその束を受け取り、机の上に並べた。


 「見本、作る」


 「今日?」


 「今日」


 「掃除は?」


 文香は外を見た。


 壮翔が雑巾を持ったまま、なぜか長椅子の下に潜っている。裕子がその足を軽く蹴り、明純が笑いながら釘の落とし物がないか探している。愛衣子は清掃記録の欄に、窓、床、棚、紙札板、と丁寧に書いている。信清は午後の風を見ながら、閉鎖時刻の札を玄関にかけた。


 「終わる」


 文香はそう言った。


 祐は笑った。


 「たしかに」


 新しい名札用の布は、まだ何の名前も持っていない。白すぎず、少しだけ海の光を含んだ色をしている。文香はそれを手に取り、端のほつれを指で確かめた。


 祐は、返却簿の閉じた表紙へ手を置いた。


 七月上旬から続いた名札返却は、ここで一つ区切りがつく。けれど、名前を預かる机は、今日も開いている。


 文香が布を折る。


 祐はその横で、白紙の記録用紙に日付を書いた。


 十一月中旬。晴れ。午後、風強まる見込み。


 そして、その下に小さく書いた。


 新しい名札、見本作成。


 書き終えると、文香が布から目を上げた。


 「字、曲がってる」


 「え、そこ?」


 「大事」


 「はい」


 裕子が遠くから「大事です」と重ね、壮翔が長椅子の下から「俺もそう思ってました」と言い、明純が「見えてないでしょう」と返した。


 待合所は、朝からよく働き、よく笑い、少しだけ泣いたふりをした。


 文香の名札は、標本箱の下の引き出しにある。


 母の手紙は、誰にも見せない場所にある。


 返却簿の最後の空欄は、もう空欄ではない。


 祐は、窓の向こうの海を見た。淡名島へ向かう二便目の船が、ゆっくりと白い航跡を引いている。団扇の季節はもう過ぎたが、棚の上の古い団扇は、次の初夏を待つように静かに置かれていた。


 その初夏には、きっと新しい名札が並ぶ。


 過去を返し終えた場所に、これから通る子どもたちの名前が入ってくる。


 祐がそう思った時、文香が新しい布を一枚、机の中央へ置いた。


 「これ」


 「最初の見本?」


 「うん」


 「名前は?」


 文香は少し考え、まだ何も書かれていない布を指で押さえた。


 「まだ」


 その一言で十分だった。


 まだ、という空白がある。


 もう怖くない空白だった。



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