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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第45話 海を渡る団扇

 翌年の初夏、淡名渡船待合所の朝は、窓を開ける音から始まった。


 七時にはまだ少し早かった。けれど、海はもう明るく、尾路町の石畳には夜の湿り気だけが薄く残っていた。港へ下りる坂の途中で、祐は肩に掛けた案内鞄を持ち直した。鞄の中には、今日の渡船時刻表、淡名島へ渡る人へ渡す地図、白い紙札の補充、そして昨日の夜に文香が束ねた新しい名札が入っている。


 待合所の戸を開けると、木の匂いと、畳座布団の乾いた匂いが混ざっていた。


 十一月に一年間の継続運用が決まってから、淡名渡船待合所は何度も冬の風を受け、春の黄砂で窓を白くし、雨の日には閉鎖札を玄関に掛けられた。閉鎖札を掛けた日は、文香が名札棚の鍵を確認し、信清が海を見て、祐が交通案内所の掲示を替えた。開けられない朝も、待合所がなくなったわけではなかった。


 開けるべき朝に、きちんと開く。


 それが、ここを残すための約束だった。


 祐は棚の上の古い団扇を見た。竹の縁は文香の手で直され、裏の鉛筆の地図は薄くなりすぎないよう、薄紙をかけてあった。その横に、今年のために作った新しい団扇が並んでいる。白い面に淡い青の線で尾路町の港と淡名島の船着き場が描かれ、端には小さく、淡名渡船待合所、とだけ書かれていた。


 観光地の名前を大きく並べるのではなく、待つ場所の名前を小さく入れる。


 それは裕子が最後まで譲らなかった。


 「土産物じゃありません。使うものです」


 そう言って、商店街の印刷屋に三回も刷り直しを頼んだ。印刷屋は二回目までは苦笑いし、三回目には「裕子さんの赤字は、もう版木みたいなもんじゃ」と言った。


 祐は団扇を一枚手に取り、軽くあおいだ。まだ朝の空気は涼しく、団扇の風は少し早い。けれど、昼にはこの小さな風が誰かの額を冷ますはずだった。


 戸口のほうで、足音がした。


 「早い」


 文香だった。生成りの作業着の袖を肘まで上げ、片手に裁縫箱、もう片方に名札用の布を入れた平たい箱を持っている。髪は低い位置で束ねられ、前髪の端に、朝の湿気が少しだけ残っていた。


 「おはよう」


 「おはよう」


 短いやり取りのあと、文香はまっすぐ名札棚の前へ行った。標本箱の下の引き出しに鍵を差し込み、一度だけ中を確かめる。


 祐は、何も言わずに見ていた。


 その引き出しには、文香の幼い頃の名札がある。母の八重が縫った跡と、子どもの文香がほどこうとした跡が重なった、淡い布の名札だ。返却簿にはもう記録されている。返却先は淡名渡船待合所。希望は保管。理由は、ここから歩き直すため。


 文香は引き出しを閉め、鍵を抜いた。


 「大丈夫?」


 祐がたずねると、文香は棚の上の団扇を一本だけまっすぐに直した。


 「うん」


 それだけだった。


 その返事の中に、昨年の七月上旬から今朝までの潮の満ち引きが入っているようで、祐はうなずいた。


 外から、にぎやかな声が近づいてきた。


 「おはようございまーす。朝の淡名渡船待合所、空気が新鮮、床は平ら、長椅子は俺の汗と涙の結晶です」


 壮翔が、宿の宿泊客らしい夫婦と、小学生くらいの男の子を連れて入ってきた。肩には水筒を二本ぶら下げ、手にはなぜか座布団を抱えている。


 祐は眉を上げた。


 「それ、宿の座布団じゃない?」


 「違います。宿から一時的に旅立った座布団です」


 「戻るの?」


 「夕方には、たぶん」


 文香が無言で手を出した。


 壮翔は、座布団をその手に置いた。


 「はい。戻します」


 宿泊客の夫婦が笑った。男の子は棚に並ぶ名札を見て、目を丸くした。


 「これ、ぜんぶ名前?」


 文香はしゃがみ、男の子の目の高さに合わせた。


 「昔の名札」


 「つけていいの?」


 「だめ」


 返事が早かったので、男の子は一瞬固まった。壮翔があわてて間に入る。


 「こっちは昔の大事な名札。今日つけるのは、こっちです」


 文香は平たい箱を開けた。そこには、新しい名札が並んでいた。白すぎず、少しだけ海の光を含んだ布。端には薄い糸が丁寧に渡され、表面にはまだ名前が書かれていない。


 男の子は恐る恐るのぞき込んだ。


 「ぼくの名前、書いていい?」


 「本人と、家の人がいいなら」


 文香はそう言って、祐を見た。


 祐は案内鞄から新しい同意用紙を出した。昨年の名札返却で使った書式より、ずっと短い。子どもが今日の渡船の間だけ身につける名札であること、帰りに持ち帰るか、待合所の見本箱に置くかを選べること、名前を展示しないことが書かれている。


 宿泊客の母親が用紙を読み、男の子にたずねた。


 「どうする?」


 「つけたい」


 「帰りに持って帰る?」


 男の子は、少し考えてから首を振った。


 「ここに置く。次に来たとき、あるか見る」


 祐は、その言葉を聞いて胸の奥が少しだけ温かくなった。


 返す名札から、置いていく名札へ。


 過去だけでいっぱいだった棚の前に、これからの小さな約束が生まれている。


 文香は名札に男の子の名前を書いた。文字は大きすぎず、小さすぎず、布の余白を残している。男の子の首にひもを掛ける時、文香の指先は、昨年七月に初めて名札の束へ触れた時と同じくらい静かだった。


 けれど、その静けさの向きは違っていた。


 捨てられないものを抱えていた手が、今は、これから出かける子どもの首に、軽い布を掛けている。


 「似合う?」


 男の子が尋ねると、文香は少しだけ考えた。


 「船に乗れそう」


 「かっこいいってこと?」


 「たぶん」


 壮翔が「最大級の褒め言葉です」と胸を張り、裕子の声が外から飛んだ。


 「勝手に翻訳しない!」


 裕子が、分厚いファイルと小さな菓子箱を抱えて入ってきた。夏用の日よけ布の点検表、清掃記録、苦情箱の鍵、紙札の回収袋。相変わらず荷物は多く、声は港の朝よりよく通る。


 「祐、今日の利用者名簿。明純さんが持ってくる分と合わせてください。文香さん、名札見本箱の説明文、昨日のままだと『持ち帰り可』の位置が下すぎます。壮翔さん、その座布団は宿から持ち出し禁止です」


 壮翔は両手を上げた。


 「今、返還の意思を示しました」


 「意思じゃなくて物を戻してください」


 男の子が笑い、母親が口元を押さえた。


 裕子は一瞬だけ表情を緩めたが、すぐにファイルを開いた。


 「今日は初夏の利用確認も兼ねています。いいですか。暑くなったら窓を開けるだけでは足りません。日よけ布、団扇、水、休憩椅子、閉鎖判断。どれか一つ抜けたら、ここはただの古い小屋です」


 「古い小屋に戻さないための朝礼ですね」


 祐が言うと、裕子はうなずいた。


 「朝礼ではありません。確認です」


 「はい」


 そこへ、外から子どもたちの声が重なった。


 「団扇、もうもらえる?」

 「名札、どこで書くん?」

 「船、まだ?」


 明純が、三人の子どもと二人の中学生を連れて入ってきた。去年なら、ただ賑やかに連れてきて港を騒がせていたかもしれない。今朝の明純は、入口で一度立ち止まり、靴の泥を落とす場所を指さし、棚に触らないことを先に言った。


 「はい、ここから声は半分。船の音が聞こえなくなると信清さんに怒られます。団扇は一人一本、帰りに戻すか、持ち帰りたい人は裕子さんに言ってください。名札を書く人は文香さんの前に並んで。泣きたくなった人は、こっちの椅子。理由は聞かない椅子です」


 裕子が片眉を上げた。


 「その名前、誰がつけたんですか」


 「壮翔さんです」


 「却下」


 「でも、意味は合ってます」


 文香が小さく言った。


 裕子は口を開きかけ、閉じた。


 「……名前はあとで直します」


 明純はにやりと笑い、子どもたちに団扇を配り始めた。かつて港を騒がせた声は、今も明るい。けれど、待合所の中では少しだけ抑え、外の石畳では少し広げ、船着き場では船員の動きに合わせて退く。その加減を、明純はもう自分の足で覚えていた。


 愛衣子は、少し遅れてやってきた。手には薄い冊子を抱えている。


 「聞き取りの見本、印刷できました」


 表紙には、淡名渡船待合所 名札と紙札の聞き取り手順、とある。中には、名札を返したい時の確認、残したい時の手続き、話したくないと言われた時の返答、公開範囲の確認、手紙を預かる時の封の扱いまで、昨年の失敗と学びが順にまとめられていた。


 祐は冊子を受け取り、ページをめくった。


 「見やすいね」


 「前より、余白を増やしました。急いで読むものじゃないので」


 愛衣子はそう言って、少し照れたように笑った。


 文香が冊子の角に指を置く。


 「布、貼った?」


 「貼りました。文香さんがくれた端切れです」


 「いい」


 愛衣子は、その一言で十分という顔をした。


 外で汽笛が鳴った。


 一便目が港へ入ってくる。


 信清が船着き場から戻ってきた。帽子のつばに朝の光を受け、手には潮位と風向きを書いた小さな紙を持っている。


 「午前は開けられる。昼前から南の風が強くなる。昼便のあと、様子見じゃ」


 祐はすぐに掲示の横へその紙を貼った。


 「閉鎖の可能性、書きます」


 「書いてくれ。今日は子どもが多いけぇ、早めに言うたほうがええ」


 信清は待合所の中を見回した。名札をつけた男の子、団扇を持つ子どもたち、白い紙札の前で行き先を書こうとしている中学生、畳座布団に座る宿泊客。にぎやかではあるが、出口は塞がっていない。水の置き場も、荷物の置き場も、泣いた人が何も言わず座れる椅子もある。


 信清は文香の前に置かれた新しい名札を見た。


 「よう似合う季節になったのう」


 文香は名札のひもを整えながら、うなずいた。


 「うん」


 進祐は、七時半ちょうどに来た。


 手には今年度の見直し資料。顔には、ほめるつもりがあるのかないのか分からない表情。壮翔はその姿を見た瞬間、背筋を伸ばした。


 「祐さん、おはようございます」


 「そっちは祐。私は進祐です」


 「知っています。確認です」


 裕子が「その確認はいりません」と即座に言った。


 進祐は資料を机へ置き、待合所の中を歩いた。床板の張り替え箇所、残した古い板の番号、名札棚の鍵管理表、団扇の本数、紙札板の固定、日よけ布の結び目。大きな町の図面を見る人の目で、小さな釘の位置まで見ている。


 「去年より、荷物置き場が一つ増えましたね」


 「子どもが名札を書く時、親御さんの鞄が床に出るので」


 祐が答えた。


 「良いです。通路が塞がらない」


 壮翔が小声で「ほめた」と言い、裕子にファイルで軽く叩かれた。


 進祐は名札棚の前で足を止めた。


 文香は、作業を止めずに会釈した。


 「今年の新しい名札は、展示しません。希望者だけ、見本箱に名前なしで一枚残します」


 「確認済みですか」


 「はい」


 文香は用紙を一枚差し出した。進祐は目を通し、頷いた。


 「十分です」


 その短い言葉に、祐は一年分の机の重みを感じた。説明会の日、進祐は完全な存続を認めなかった。三か月の仮開放、一年間の継続運用、そして今朝の見直し。感情だけでは通れなかった道を、記録と手順と人の手が少しずつ平らにしてきた。


 待合所の外では、一便目の乗客が降り、入れ替わりに淡名島へ向かう人たちが桟橋へ並び始めた。


 千代が、蜜柑の葉を入れた小さな籠を持ってやってきた。


 「今年は実がまだじゃけど、葉っぱだけ先に持ってきた」


 「葉っぱだけで差し入れになるんですか」


 壮翔が言うと、千代は籠を押しつけた。


 「口が動く人には香りで十分」


 「名言みたいに怒られた」


 子どもたちが笑った。


 千代は棚の名札を見上げた。自分の名札は、待合所に残すと決めたまま、そこにある。昨年より色が落ち着いたようにも見えるが、文香の手で端が守られている。


 「まだ、ここにおった」


 千代がつぶやくと、文香が静かに答えた。


 「います」


 それだけで、千代は満足そうにうなずいた。


 やがて、子どもたちが新しい名札を首に下げ、団扇を握り、外へ出ていった。祐は一人ずつ確認した。ひもが長すぎないか、船に乗る時に引っかからないか、名前が外から見えすぎないよう上着で隠せるか。


 男の子が振り返った。


 「お兄さん、この名札、船の中で外したらだめ?」


 「外してもいいよ。でも、落とさないように膝の上」


 「風で飛んだら?」


 「追いかけない。船の人に言う」


 「海に落ちたら?」


 「泣いていい」


 男の子は真剣な顔でうなずいた。


 「じゃあ、落とさない」


 祐は笑った。


 「それが一番」


 船へ向かう列が動き出した。明純が先頭で手を振り、愛衣子が最後尾で人数を数え、信清が桟橋の端で風を見ている。裕子は「団扇は顔に近づけすぎない」と妙に細かい注意をし、壮翔は宿泊客に「この待合所の長椅子はですね」と話し始め、文香に背中をつつかれて黙った。


 祐は少し後ろに残り、待合所の戸を半分だけ閉めた。開けたままでは風が強い。閉めすぎると中の空気がこもる。半分の開き具合は、冬の間に何度も試して決めた。


 文香が隣に来た。


 「行かないの?」


 「一便目は見送る。二便目で案内所に戻る」


 「忙しい」


 「去年よりは、迷わない」


 「ほんと?」


 文香が少しだけ目を細めた。


 祐は鞄の肩ひもを持ち直した。


 「ほんと。たぶん」


 「たぶん」


 「大事な余白です」


 文香は返事をしなかった。けれど、口元がほんの少し動いた。


 海へ出る船のエンジン音が、待合所の床を低く震わせた。子どもたちは団扇を振り、明純が大きく振り返し、裕子が「船の中では振らない!」と声を飛ばす。信清がその声に苦笑し、進祐が資料へ何かを書き込んだ。


 祐は、棚の中の名札を思った。


 千代の名札。鞆の浦から一度戻ってきた名札。倉敷の畳職人が受け取った名札の写し。高松から届いた出汁の手紙。下関で現物を残すことになった名札。非公開箱に入った、呼ばれたくない名前。文香の引き出しの名札。


 どれも、同じ返し方ではなかった。


 だから、ここは続いている。


 同じ形を押しつけなかったから、待合所の棚には人の距離が残っている。


 船が岸を離れた。


 淡名島へ向かう白い航跡が、朝の水面に伸びる。団扇を持った子どもたちの手が、船の窓の向こうで小さく揺れた。祐は手を振り返した。


 文香も、少しだけ手を上げた。


 その手の動きは短かったが、船の中の男の子には見えたらしい。男の子は、首から下げた名札を片手で押さえ、もう片方の手で大きく振り返した。


 「落とさんでね」


 文香が、届かないくらいの声で言った。


 祐は隣で聞いていた。


 「聞こえたかな」


 「聞こえなくていい」


 「じゃあ、なんで言ったの」


 文香は船を見たまま、少し間を置いた。


 「言いたかった」


 祐は、その答えを胸の中でゆっくり受け取った。


 去年の七月、文香は「捨てないで」とだけ言った。祐はその短い言葉を聞き落とさなかった。そこから、名札の束、団扇の地図、ベージュの封筒、蝶の標本箱、八重の手紙、床板、紙札、閉鎖基準、返却簿の最後の空欄まで、数えきれない朝と夜がつながった。


 今日、文香は、船の中の子どもへ、聞こえなくてもいい言葉を海へ投げた。


 祐には、それが待合所の答えのように思えた。


 呼びたい人の名前を呼ぶ。


 呼ばれたくない人には手を伸ばしすぎない。


 聞こえないかもしれない言葉でも、渡したい時には、風に乗せる。


 船が淡名島のほうへ小さくなっていく。


 裕子が後ろから二人に近づいた。


 「感動しているところ申し訳ないんですが、二便目前に紙札の回収箱を直します。昨日、壮翔さんが斜めに置きました」


 「斜めには意味があるんです」


 壮翔が待合所の中から言った。


 「意味より水平です」


 「水平は大事です」


 進祐が資料を見たまま加わり、壮翔は天井を仰いだ。


 「行政まで水平派」


 明純が桟橋から戻りながら笑った。


 「斜め派、少数ですね」


 「私は記録派です」


 愛衣子が冊子を抱えて言い、裕子が「では記録してください。紙札板、水平へ修正」と返した。


 笑いが待合所へ戻ってきた。


 祐は戸を開け、文香と中へ戻った。中では、千代が畳座布団に腰を下ろし、蜜柑の葉を団扇であおいで香りを広げている。宿泊客の夫婦は白い紙札に今日の行き先を書き、進祐は紙札板の角度を測っている。壮翔はその横で「俺の感性が」と小さく嘆き、裕子に無視されていた。


 文香は机に戻り、名札箱のふたを開けた。


 祐は記録用紙に日付を書いた。


 翌年初夏。晴れ。午前、南の風やや強くなる見込み。


 その下に、今日最初の名札の記録を書き込む。


 新しい名札一枚。本人希望により、帰りまで着用。帰港後、見本箱へ保管予定。展示名なし。


 文香が横からのぞいた。


 「字」


 「曲がってない」


 「少し」


 「少しは味」


 「記録に味はいらない」


 裕子が遠くから「同感です」と言った。


 祐は書き直した。


 文香は満足したように、次の名札を手に取った。布の端を指で整え、ひもを通す。何度も見た手の動きだった。破れた過去を直す時も、新しい名前を待つ時も、文香の指先は急がない。


 祐は、その横顔を見た。


 「文香」


 「なに」


 「二便目のあと、案内所に戻るけど、夕方また来る」


 「うん」


 「閉める時、鍵、見るから」


 「うん」


 「それと」


 文香が顔を上げた。


 祐は、言葉を選びかけて、やめた。選びすぎると、この場所に合わない気がした。待合所で大事だった言葉は、いつも少し短かった。


 「名前、呼んでいい?」


 文香は、瞬きを一度した。


 棚の古い名札、机の新しい名札、標本箱の蝶、ベージュの封筒を思わせる説明文、白い紙札、団扇。全部が朝の光の中で静かに見ている。


 文香は、手元の布を置いた。


 「もう呼んでる」


 「そうだけど」


 「いい」


 それだけ言って、文香はまた名札へ目を落とした。


 祐は笑った。


 「文香」


 「うん」


 返事は短かった。


 けれど、待合所の中でいちばん長く続く音のように聞こえた。


 外で、次の便を待つ人の足音が増えた。紙札板の前に新しい旅人が立ち、団扇を手に取る。千代が席を詰め、壮翔が荷物置き場を作り、裕子が注意書きをまっすぐに直し、信清が海を見て、進祐が見直し資料の端に小さく丸をつける。愛衣子は中学生に聞き取り冊子を見せ、明純は子どもたちへ「団扇は武器じゃありません」と言って笑わせている。


 祐は、交通案内所へ戻る時刻を確認しながら、もう一度待合所の中を見た。


 ここは、劇的に生まれ変わった場所ではない。


 古い床は古いまま残ったところがある。雨の日には閉める。夏の昼には暑い。名札には、返せたものも、返せなかったものも、返さないと決めたものもある。母の手紙は飾られない。全部を明るく見せることもしない。


 それでも、朝が来れば戸を開ける。


 誰かが船を待つ。


 名前を呼ぶ。


 返事がある。


 時には返事がなくても、椅子がある。


 祐は、そのくらいの確かさが好きだった。


 淡名島から、さっきの一便目が小さく見えた。海を渡った団扇が、向こうの桟橋でまた揺れているのかもしれない。


 文香は新しい名札を一枚、机の中央へ置いた。


 まだ何も書かれていない布だった。


 祐は記録用紙の次の欄を開けておいた。


 待合所には、まだ、という空白がある。


 そこへ、外から子どもの声が飛び込んできた。


 「名札、まだある?」


 文香が顔を上げた。


 祐も、裕子も、壮翔も、信清も、愛衣子も、進祐も、明純も、千代も、その声のほうを見た。


 文香は、ほんの少しだけ笑った。


 「ある」


 朝の風が、棚の団扇を一枚揺らした。


 海を渡った風は、戻ってきたのではない。


 次の誰かへ、渡っていくところだった。


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