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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第43話 正式判断の日

 十一月中旬の朝、尾路町の港には、冬へ向かう前の光が低く差していた。


 淡名渡船待合所の窓ガラスは、夜の冷えをまだ残している。祐が鍵を開けると、木の戸はいつもより乾いた音で横へ滑った。夏の仮開放初日に聞こえた蝉の声はもうなく、代わりに、岸壁でロープを引く信清の息が白くほどけていた。


 今日、淡名渡船待合所を一年間続けて使うかどうかが決まる。


 祐はそう考えた瞬間、手帳を開く手に力が入った。けれど、手帳の一枚目に書かれているのは、大きな言葉ではない。開放日数、利用者数、閉鎖した日、清掃した人の名前、名札棚の点検時刻、苦情箱に入っていた紙の枚数。数字と短い記録が、罫線の上で静かに並んでいる。


 その横で、文香は名札棚の鍵を布で拭いていた。息を吹きかけるでもなく、磨き上げるでもなく、指紋を残さないように、布を一方向へ滑らせる。棚の中には、返却を終えた名札、保管を希望された名札、写真だけを渡した名札の写し、非公開箱に移された封筒が、それぞれの場所に収まっていた。


 祐が声をかけようとすると、文香の方が先に言った。


 「貸して」


 「何を?」


 「緊張」


 祐は一瞬、意味が分からずに文香を見た。文香は鍵を拭く手を止めず、目だけを少し上げる。


 「祐さんだけ持ってると、落とす」


 待合所の空気が、ほんの少しゆるんだ。


 祐は手帳を閉じた。


 「じゃあ、半分渡す。重いよ」


 「知ってる」


 文香は鍵を鍵管理表の上へ置き、細い鉛筆で時刻を書き入れた。


 七時二分。名札棚確認。異常なし。


 その文字は、いつものように小さい。けれど、今日の資料の中で、祐にはその一行がいちばん頼もしく見えた。


 表の駐輪場から、金属のかごがぶつかる音がした。振り返ると、裕子が大きな紙袋を二つ抱えて入ってきた。片方には費用負担表、もう片方には反対意見をまとめた紙が入っている。紙袋の口から赤い付箋が何枚も飛び出していた。


 「開いて。落ちる」


 言われる前に祐が机の上を空ける。裕子は紙袋を下ろすと、息を整える間もなく、一枚目の表を広げた。


 「修繕費。日よけ布。鍵の予備。清掃道具。畳座布団の追加分。標本箱の照明。あと、壮翔が勝手に買った木ねじ」


 最後の項目だけ、文字の色が濃い。


 祐が笑いかけると、裕子はすぐに睨んだ。


 「笑うところじゃない。請求先をどうするかで三分揉める」


 「三分で済むの?」


 「済ませる」


 その声に、外から壮翔が顔を出した。


 「俺の木ねじ、そんなに存在感ある?」


 「ある。無断購入として」


 「でもほら、長椅子の下のきしみが消えたろ」


 壮翔は長椅子の端を片手で押した。きしみは出ない。かわりに、床板が小さく鳴った。


 裕子の目が床へ落ちる。


 「そこは記録してある。次の小規模改修で張り替え候補」


 「褒める前に直す場所が出るの、仕事が途切れなくていいな」


 「あなたは口を閉じて毛布を畳んで」


 「はいはい」


 壮翔は笑いながら、壁際の毛布を畳み始めた。夏の暑熱対策で置いた水差しの棚は、今は温かい茶を置く台になっている。季節が変わっても、使う人の手が同じ場所へ届くように、待合所は少しずつ形を変えてきた。


 八時前になると、愛衣子と明純が走ってきた。


 明純は紙札用の板を抱え、愛衣子は成長表と聞き取り手順書を胸に抱いている。二人とも息を切らしていたが、入口の敷居を越える前に一度足を止めた。靴の裏の砂を落とし、声の大きさを下げる。


 「おはようございます」


 明純の声は、港まで響かない大きさだった。


 祐は、口元だけで笑った。


 「ちょうどいい声」


 明純は少しだけ胸を張り、すぐに紙札の板を壁へ立てかけた。


 「今日は子どもたち、見に来たいって言ってたんですけど、正式判断が終わるまでは待合所の前に集まらないように言ってあります。港が混むと、船の人が困るので」


 裕子が表から目を離さずに言った。


 「偉い」


 明純は驚いたように裕子を見た。


 「今、褒めました?」


 「一回だけ」


 「記録に残していいですか」


 「残すな」


 壮翔が毛布の影で笑い、文香が鍵管理表の余白へ小さく丸を一つ描いた。祐はそれを見つけたが、何も言わなかった。


 信清は八時半に戻ってきた。港の風を見てからでなければ、会議の席に座る気にならないと言っていたのだ。手には潮位表と、九月下旬の台風の夜に実際に使った閉鎖判断の記録がある。


 「今日は船は出る。昼前に少し風が上がるが、判断の時間までは問題ない」


 信清の声が届くと、待合所の中にいた全員が一度、窓の外を見た。海は灰色がかった青で、細かい皺を寄せている。派手な晴れではない。けれど、見通しはある。


 進祐は九時少し前に現れた。


 手にしているかばんは、いつものものより厚みがある。彼は入口で靴の砂を落とし、待合所の中を一巡した。名札棚、白い紙札の板、標本箱、畳座布団、温度計、閉鎖基準の掲示、鍵管理表。目だけで確認していく。その目は柔らかくならない。ただ、素通りもしない。


 壮翔が一歩出た。


 「進祐さん、今日は勝負服?」


 「町の担当者として普通の上着です」


 「祐、聞いたか。大人の勝負服は普通の上着らしい」


 「壮翔さん、毛布の角、揃ってない」


 「はい、祐まで裕子寄りになった」


 進祐は小さく咳払いをした。


 「会議室は十時からです。ここを最後に確認してから移動します。資料の順番は?」


 祐は机の上に並べた束を指で示した。


 「一つ目が仮開放の実績。二つ目が安全運用。三つ目が名札管理。四つ目が費用と協力者の分担。五つ目が反対意見と対応案です」


 「反対意見も出すんですね」


 裕子が顔を上げた。


 「出します。隠すと、あとで余計に大きくなります」


 進祐は頷いた。


 「では、その順で」


 その一言で、祐の胸の奥にあった重いものが、少しだけ形を変えた。認められたわけではない。けれど、聞かれる準備は整った。


 文香は名札棚の鍵を手に取った。


 「閉めます」


 全員が自然に棚の方を向いた。


 文香は一段目の名札を指先で確かめ、二段目の封筒の位置を直し、三段目の非公開箱に触れた。箱の蓋には、余計な文字はない。ただ、小さな白い布が一枚貼られている。誰かの名前を守るための箱だ。


 鍵がかかる音は、思ったより小さかった。


 祐はその音を聞いて、待合所の戸を閉める音と似ていると思った。閉じることは、終わらせることばかりではない。守って、次に開けるためでもある。


 十時、町の小さな会議室には、普段より多くの椅子が並べられていた。


 長机の向こうには、進祐、町の担当者二人、商店街の代表、船会社の担当、淡名島の自治会から来た千代、漁師の代表として信清の知人が座っている。壁際には、待合所の利用者から届いた手紙の写しが、公開許可のあるものだけ貼られていた。字の大きさも、紙の色もばらばらだ。けれど、そのばらばらさが、ひとつの場所を通った人の数を示していた。


 祐は前に立ち、資料の一枚目をめくった。


 喉が少し乾いている。


 隣に座った文香が、水差しを少しだけ前へ押した。祐は水を飲まず、コップの縁に触れるだけで息を整えた。


 「淡名渡船待合所の三か月仮開放について、報告します」


 自分の声が思ったより落ち着いて聞こえた。


 「開放日は八月中旬から十一月上旬まで、合計四十六日です。台風接近、強風、渡船欠航により閉鎖した日は七日。閉鎖判断は、掲示した基準に沿って行いました。利用者数は多い日で三十一人、少ない日で三人。平均は十二人です」


 数字だけを読むと、小さな場所だと思われるかもしれない。


 祐は次の紙をめくった。


 「ただし、利用者数には表れない使われ方があります。渡船の遅れの際に待機場所として使われた件数が十一件。高齢者の休憩利用が二十四件。道案内を受けて、駅方面または港方面へ向かった来訪者が三十九人。欠航時に別の交通手段を案内した件数が六件です」


 進祐の鉛筆が紙の上を動いた。


 商店街の代表が、腕を組んだまま言った。


 「それでも、店を一軒残すほど人が来ているわけじゃない」


 裕子がすぐに言い返そうとして、口を閉じた。かわりに、祐が頷く。


 「はい。淡名渡船待合所は、店ではありません。売上で残す場所ではなく、船を待つ人、船が出ない時に困る人、名前を預けた人が使う、小さな交通案内の補助場所です。町の人が毎日集まる広場でもありません。けれど、必要な時にあることで、困る人を減らせます」


 祐は、明純が作った案内用の小さな地図を出した。駅、バス停、渡船乗り場、待合所、坂道の休憩所、トイレの場所。線は太すぎず、迷いやすい角だけが赤く囲まれている。


 「初めて来た人が、ここで一度座って、次にどちらへ歩けばいいか分かる。その役割なら、現在の人の流れに合っています」


 進祐は鉛筆を止めた。


 「安全運用について、信清さん」


 信清はゆっくり立ち上がった。背広ではなく、いつもの上着だった。潮の匂いが、会議室の空気に少し混じる。


 「九月下旬の台風の夜、待合所は開けませんでした」


 その言葉に、壁際の数人が顔を上げる。


 「資料だけ守って、人を入れなかった。風が回り始める前に閉めた。あの時、もし開けていたら、帰れない人が出たかもしれん。閉める判断ができる場所なら、続けてもいい。開けることばかり考える場所なら、やめた方がいい」


 短い言葉だった。


 けれど、祐は資料を何枚も読むより、その一言が会議室の床へ沈んでいくのを感じた。


 船会社の担当が身を乗り出した。


 「閉鎖の連絡は、誰がどこへ出すんですか」


 信清は祐の方を見た。


 祐は次の紙を出した。


 「閉鎖判断者は、信清さんと船会社の当番者、町の交通担当の三者で確認します。掲示は待合所入口、交通案内所、商店街掲示板、渡船乗り場。電話連絡は、当番表にある三名が分担します。明純さんたち若い案内係には、荒天時の判断は任せません。案内と誘導のみです」


 明純は壁際で背筋を伸ばしていた。いつもならそこで何か言うところだが、今日は口を挟まない。両手で持った紙札の板を、膝の上にしっかり置いている。


 次は名札管理だった。


 文香は立ち上がる前に、机の上へ白い手袋を置いた。会議室に来る途中、ずっと手提げに入れていたものだ。


 「名札棚の管理について説明します」


 声は大きくない。後ろの席に届くぎりぎりの高さだった。それでも、誰も聞き返さなかった。


 「名札は、返却済み、保管希望、写しのみ希望、非公開の四つに分けています。本人または家族の確認が取れていないものは、展示しません。公開希望があるものも、氏名全体を掲示するか、名字だけにするか、一件ずつ確認しています」


 文香は小さな見本を出した。実物ではなく、説明用に作った布片である。そこには仮の名字だけが書かれていた。


 「触る時は手袋を使います。湿度が高い日は棚を開けません。写真を撮る時は、本人の許可を確認します。非公開箱は、鍵を二人で管理します」


 町の担当者が尋ねた。


 「非公開箱の中身は、町が確認できますか」


 裕子の肩がわずかに動いた。


 文香はすぐには答えず、祐の方を見た。祐も答えない。非公開箱の鍵を持つ文香が、ここでは自分の言葉で決めなければならない。


 「内容までは、確認できません」


 会議室の空気が少し硬くなった。


 文香は続けた。


 「ただし、件数、保管日、確認者、公開しない理由の分類は記録します。たとえば、本人拒否、確認未了、家族確認待ち。名前や中身を見なくても、管理が放置されていないことは分かるようにします」


 裕子が、補足用の紙を差し出した。


 「個人名を守るための手順です。見せないことを言い訳にして、誰かが勝手にしまい込まないよう、管理表だけは月一回提出します」


 町の担当者は紙を受け取り、しばらく読んだ。


 「分かりました。中身の確認は求めません。ただし、管理表の提出は条件に入れます」


 文香は小さく頭を下げた。


 その時、祐は強く拒まれた名札のことを思い出した。あの名前は、今日ここに出てこない。出てこないことが、守られた証拠になる。拍手されるような場面ではない。けれど、待合所を続けるなら、この沈黙を抱えていく必要がある。


 費用の話になると、裕子が前に出た。


 机の上に表を並べる速さは、誰よりも早い。声は相変わらず鋭いが、言葉の先が相手を切る形ではなく、道を作る形になっている。


 「町にお願いしたいのは、建物の最低限の安全補修と、鍵の管理費です。日よけ布の一部、清掃道具、便箋、紙札板、畳座布団の補修は、商店街と協力者で分担します。宿『縁側寝床』は毛布と一時避難の連絡先を出します。ただし、宿の宣伝に待合所の名札を使わない誓約を出します」


 壮翔が立ち上がり、紙を広げた。


 「読みます」


 裕子が眉を寄せる。


 「普通に読んで」


 「はい。私は、淡名渡船待合所に残る名札、団扇、標本箱、手紙、白い紙札を、自分の宿の客寄せとして使いません。宿から来るお客さんには、待合所は泊まる人の撮影場所ではなく、船を待つ人と名札を預けた人の場所だと説明します。以上」


 言い終えると、壮翔はなぜか胸に手を当てた。


 「この命に代えても――」


 「言わない」


 裕子と信清の声が同時に飛んだ。


 会議室に、小さな笑いが広がった。


 壮翔は口を閉じ、紙を両手で差し出した。ふざけているようで、字は丁寧だった。茶化す声より、最後に残る手の動きの方が、今日の彼をよく表していた。


 商店街の代表が、その誓約書を受け取りながら言った。


 「白い紙札は、うちの方で続けられる。個人名を書かない注意書きも、店頭に置く」


 裕子はすぐに頷いた。


 「ありがとうございます。注意書きの字は、赤すぎない色にします」


 「そこまで決めるのか」


 「赤すぎると怒られているように見えます」


 文香が、ほんの少しだけ目を細めた。裕子は気づかないふりをして、次の紙を出す。


 反対意見のまとめだった。


 祐はその紙を見て、喉の奥がまた少し乾くのを感じた。ここには、きれいな言葉だけが並んでいるわけではない。古いものに金を使うな。名前を飾るのは気味が悪い。観光客が増えると港が散らかる。誰かの思い出で町を動かすな。待合所より道路の穴を直せ。


 裕子は、一つも省かなかった。


 「反対意見は、全部で二十七件ありました。うち十二件は費用への不安。六件は個人情報への不安。五件は港の混雑。四件は、待合所を残す意味が分からないというものです」


 裕子は紙をめくる。


 「費用については、町の負担を安全補修に限定し、運用費を分担します。個人情報については、文香さんの説明どおり、公開範囲を確認し、非公開箱の管理表を提出します。港の混雑については、明純さんたち案内係が、集まる時間と場所を制限します。意味が分からないという意見については、利用記録と、欠航時の案内記録を公開します」


 商店街の代表が腕を組み直した。


 「反対した人のところへ、説明に行くのか」


 「行きます。けれど、説得しに行くわけではありません。どこが不安なのか聞きに行きます。納得しない人がいても、その意見は残します」


 裕子は、そこで一度だけ息を吸った。


 「前は、私は反対されると、潰しにいっていました。今も、言い返したくはなります。でも、待合所を残したいなら、戻ってこられる余白を残さないと続きません」


 祐は横顔を見た。裕子は祐の視線に気づき、眉だけで「見るな」と言った。


 進祐が資料を閉じた。


 「質疑は以上でよろしいですか」


 会議室の中が、しんとした。


 千代が、ゆっくり手を上げた。


 「一つ、ええですか」


 淡名島から来た千代は、蜜柑色の手ぬぐいを膝に置いていた。最初の名札を受け取らず、待合所に戻してほしいと言った人だ。


 「私らが子どもの頃、あの待合所は、船に乗る前に名札を直してもらう場所でした。いまの子には、そんな名札はいらんかもしれん。でも、船を待つ時間は、いまもある。船が出ん時の困り方も、いまもある。名前を呼んでもらえん寂しさも、いまもある」


 千代は手ぬぐいを畳み直した。


 「古い場所を、昔のまま置けとは言いません。腐った床は替えてください。暑い日は閉めてください。危ないなら、すぐ鍵をかけてください。でも、名前を雑に扱わん人たちが鍵を持つなら、もう一年、見てみたいです」


 その言葉のあと、誰もすぐには話さなかった。


 祐は、窓の外を見た。会議室から港は見えない。ただ、細い路地の向こうに、海の明るさだけがある。待合所の窓から見える海よりも遠い。それでも、そこに船がいることを知っている人には、見えない水面の気配が分かる。


 進祐が町の担当者たちと短く話し合った。


 紙がめくられる音、鉛筆が走る音、椅子が床をこする音。待つ時間は、渡船を待つ時と少し似ていた。出るか、出ないか。進むか、戻るか。答えが来るまで、人は荷物の紐を握り直す。


 やがて進祐が立ち上がった。


 「淡名渡船待合所について、町としての判断をお伝えします」


 祐の手が、膝の上で動かなくなった。


 「取り壊しは、現時点では行いません。小規模改修を行ったうえで、一年間の継続運用を認めます」


 誰も叫ばなかった。


 壮翔でさえ、口を開けたまま声を出さなかった。


 進祐は紙を見ながら続けた。


 「条件があります。開放時間は、当面、朝七時から十時まで。季節に応じて見直し。荒天時は閉鎖基準に従い、閉鎖判断を優先。名札棚の管理表は月一回提出。非公開箱の中身の確認は求めませんが、件数と分類は報告。港の混雑防止のため、白い紙札の掲示場所を待合所内の板に限定。商店街、船会社、交通案内所、潮紙堂、縁側寝床の役割分担を半年後に再確認。以上です」


 裕子がすぐに条件を書き始めた。


 信清は目を閉じて、短く息を吐いた。


 愛衣子は泣きそうな顔で成長表を抱きしめ、明純は声を出さないように唇を結んでいた。


 文香は、膝の上に置いていた鍵を握り直した。


 その手だけが、少し震えている。


 祐は、そっと言った。


 「文香さん」


 「うん」


 いつもの返事だった。


 けれど、その短い一音に、今朝受け取った半分の緊張が、静かに戻ってきた気がした。


 会議が終わると、壮翔が廊下へ出た瞬間に膝から崩れた。


 「勝った……」


 裕子が資料袋で背中を軽く叩く。


 「勝ってない。条件付きで続くだけ」


 「その言い方、勝った時より嬉しいな」


 「意味が分からない」


 「だって、明日も仕事があるってことだろ」


 裕子は一瞬だけ言葉を止め、それから資料袋を抱え直した。


 「そう。明日も掃除。あなたは朝七時集合」


 「早い」


 「続くって、そういうこと」


 壮翔は頭をかきながら笑った。


 待合所へ戻る道で、尾路町の商店街は昼前の匂いを立てていた。魚屋の前では水が流れ、パン屋の窓に湯気がつき、路地の奥から子どもたちの声が聞こえる。明純が駆け出しかけて、すぐに足を止めた。


 「言ってきてもいいですか。集まりすぎないように、場所は商店街の掲示板の前で」


 裕子が頷いた。


 「港へ走らせないで」


 「はい」


 明純は今度こそ走った。けれど、曲がり角で一度止まり、港側へ向かおうとしていた子どもに何か伝える。子どもは頷き、商店街の方へ向きを変えた。


 愛衣子は、手順書を開きながら歩いていた。


 「半年後の再確認、表に入れます。反対意見を聞きに行く日も、分けた方がいいですよね。いきなり全員で行ったら怖いし」


 祐は頷く。


 「二人ずつ。聞くだけの日と、説明する日を分けよう」


 「はい。失敗欄も作ります」


 「最初から?」


 「最初からです。たぶん失敗しますから」


 愛衣子はそう言って、少し笑った。その笑いは、落ち込む前に備える人の顔になっていた。


 待合所に戻ると、文香が一番に鍵を開けた。


 朝と同じ音がした。


 けれど、今度の音は、会議室の言葉を連れて戻ってきた。取り壊しではなく、小規模改修。一年間の継続運用。月一回の管理表。半年後の役割確認。どれも華やかな言葉ではない。だが、祐にはその一つ一つが、長椅子の脚のように、場所を支えるものに思えた。


 文香は名札棚の前に立ち、鍵を差し込んだまま動かなかった。


 祐は隣へ行った。


 「開ける?」


 「まだ」


 「うん」


 「聞こえたら、びっくりするかもしれない」


 祐は一瞬、棚の中の名札たちを思った。


 「何を?」


 「一年、ここにいていいって」


 文香は、鍵を回さなかった。棚を開けるかわりに、扉の木目へ額が触れないぎりぎりの距離で立っている。


 祐は何も言わず、棚の横の管理表を開いた。


 十一月中旬。正式判断。一年間の継続運用。条件あり。小規模改修予定。


 そこまで書いて、ペンが止まった。


 文香が横から見ている。


 「続き」


 「何を書く?」


 「明日、掃除」


 祐は笑いそうになりながら、言われた通りに書いた。


 明日、朝七時、掃除。鍵確認。白い紙札板の位置確認。


 それで十分だった。


 勝利の印も、派手な宣言もいらない。続く場所には、次の日の作業がある。


 夕方、商店街の掲示板には、明純の字で小さな知らせが貼られた。


 淡名渡船待合所は、一年間、続きます。

 港に集まりすぎないでください。

 明日の朝、掃除があります。


 最後の一行だけ、裕子が赤すぎない赤で書き足していた。


 壮翔はその前で腕を組み、しみじみと言った。


 「いい知らせなのに、掃除の圧が強い」


 「続くって、そういうことです」


 愛衣子が答えると、明純が笑った。


 「俺、明日は雑巾係です」


 「声の大きさ係も」


 「それ、係なんですか」


 「港まで響いたら減点」


 子どもたちが笑い、千代が蜜柑の箱を置き、信清が渡船の時間を告げに来た。進祐は掲示板の前でしばらく立ち止まり、貼り紙の端がめくれているのを指で押さえた。押さえたあと、何も言わずに役場の方へ戻っていく。


 祐はその背中を見ていた。


 大きな図面の中に、小さな待合所の幅が入った。役場の紙の上に、名札棚の寸法が残った。進祐の普通の上着は、夕方の薄い光の中で、少しだけくたびれて見えた。


 待合所に戻ると、文香は名札棚を開けていた。


 鍵は棚の横に置かれている。白い手袋をつけた指が、一枚一枚の位置を確かめていた。祐が近づくと、文香は一枚の名札の前で手を止めた。


 それは、文香自身の名札ではない。最初の返却で千代が待合所へ戻してほしいと言った名札だった。


 「聞こえたかな」


 祐が言うと、文香は首を傾けた。


 「聞こえなくても、明日もここにある」


 棚の中の名札は、何も答えない。


 それでも、布の淡い色は、夕方のベージュの灯りを受けて、朝より少しだけ温かく見えた。


 祐は、名札返却簿を閉じた。


 今日の最後の欄には、まだ空きがある。文香自身の名札の欄だ。


 祐はそこに触れなかった。


 正式判断の日が終わったからといって、すべての空欄が埋まるわけではない。むしろ、続くと決まったからこそ、急いで埋めなくてもいい空欄がある。


 外で汽笛が鳴った。


 文香が棚を閉める。鍵が回る。小さな音が、木の壁に吸い込まれる。


 祐が名前を呼ぶと、文香は振り返らずに返事をした。


 「うん」


 それから、少しだけ付け足した。


 「明日、早い」


 「七時」


 「壮翔さん、遅れる」


 「たぶん」


 「裕子さん、怒る」


 「確実に」


 文香の肩が、ほんの少し揺れた。


 海からの風が、戸の隙間を抜けて、白い紙札の板を小さく鳴らした。名札棚、団扇、標本箱、畳座布団、閉鎖基準の紙、鍵管理表。どれも、朝から急に立派になったわけではない。けれど、一年間ここにいていいと言われたことで、同じものが少し違って見える。


 祐は戸を閉める前に、待合所の中を振り返った。


 七月上旬、時刻表の裏から名札の束を見つけた時、この場所は終わりを待っているだけに見えた。


 今は違う。


 終わりを避けたのではない。古い板を替え、暑い日は閉め、荒れる日は鍵をかけ、見せない名前を守り、反対する声も紙に残しながら、明日の朝に開ける場所になった。


 文香が外へ出る。


 祐は鍵をかけ、管理表に時刻を書き入れた。


 十七時十二分。閉鎖確認。異常なし。


 その下に、少しだけ迷ってから、もう一行を足した。


 一年間、継続。


 ペン先を離すと、潮の匂いが夜の冷えに変わり始めていた。


 港の向こうで、淡名島の灯りが一つ、また一つと点いていく。祐は手帳を閉じ、文香と並んで坂道へ向かった。


 明日の朝、また鍵を開ける。


 その約束だけで、今日は十分だった。



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