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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第38話 進祐の再審査

 進祐が再審査に来る日は、朝から港の空気がいつもより硬かった。


 淡名渡船待合所の戸は、七時ちょうどに開いた。祐は入口の鍵を回す前に、鍵管理表の今日の欄へ時刻を書き、署名を入れた。文香は名札棚の前に座り、昨日の湿気で少し反った白い紙札を一枚ずつ重しの下へ戻している。裕子は受付机の角を指でなぞり、埃がつかなかったことを確かめると、赤いファイルを机の中央へ置いた。


 「利用者数は少ないです」


 裕子は誰にともなく言った。


 「少ないって、何人から落ち込めばいいんだ」


 壮翔が長椅子の端に膝を乗せ、畳座布団の位置を直しながら聞く。


 「あなたが勝手に数えた『なんとなく来た人』は入りません」


 「なんとなく来た人こそ町の宝だろ」


 「記録に書ける宝にしてください」


 明純が受付の横で笑いそうになり、口を引き結んだ。愛衣子は案内表を両手で持ち、掲示板の高さを何度も見ている。紙の端はまっすぐ貼れていたが、本人はまだ納得していない顔をしていた。


 信清は外に立ち、海を見ていた。港の向こう、淡名島の稜線は朝の光で淡くにじみ、船のエンジン音が低く伸びている。風は弱い。けれど、沖の雲が少し厚い。


 「昼前に一度、風が回る」


 信清がそう言うと、祐は荒天時閉鎖基準の紙へ鉛筆で小さく印をつけた。


 進祐は、八時十五分の渡船が着く前に来た。


 紺色の薄い上着を腕にかけ、片手に書類ばさみを持っている。祐より少し広い歩幅で石畳を渡り、入口の手前で一度立ち止まった。看板、足元の段差、日よけ布、窓の開き具合、紙札の板、名札棚。その順番で目が動く。


 壮翔が胸を張った。


 「進祐さん、どうです。生まれ変わった淡名渡船待合所です」


 「まだ生まれ変わってはいません。仮開放中です」


 「この冷静さ、祐くんと名前を半分交換したほうがいい」


 「しません」


 進祐と祐が同時に答えたので、明純がとうとう笑った。


 進祐は靴底を入口のマットで拭き、待合所へ入った。最初に見たのは来訪者名簿だった。裕子がすぐ横へ立ち、説明を始める。


 「仮開放から今日まで、開放日は十二日。開放時間は朝七時から十時まで。実人数は六十八人、延べ人数は八十七人です。多くはありません。ただ、渡船待ちの高齢者、島から来た通院帰りの方、旅行者の休憩利用がありました。白い紙札は個人名を除いて三十一枚。個人名を書いたものは一枚、非公開箱へ移しました」


 進祐は数字を聞きながら、うなずきもしなかった。書類ばさみへ視線を落とし、来訪者名簿の列を指でたどる。


 「苦情は」


 「二件です。一件は紙札が港側へ広がりかけたこと。もう一件は、床板補修の日に入口付近で工具の音が大きかったことです。どちらも対応済み。再発防止策はこの紙です」


 裕子は赤いファイルの二枚目を開いた。紙札の板を増やした日、注意書きを入口と受付の二か所へ貼った日、工具を使う時間を開放時間外へ変更した日が、日付と担当者の名前つきで並んでいる。


 壮翔が横からのぞきこんだ。


 「工具音は俺の魂の音でもあったんですが」


 「魂は十時以降にお願いします」


 「営業時間外の魂」


 進祐は笑わなかったが、書類ばさみの角で紙をそろえる手が一瞬だけ止まった。


 次に彼は、名札棚の前へ移った。


 文香は立ち上がり、鍵管理表を差し出した。名札棚の鍵は、開放中だけ文香か祐が持つ。閉鎖後は潮紙堂の金庫へ戻す。非公開箱の鍵は別にして、本人確認の書類と一緒に保管する。文香はそれを長く説明しなかった。表の該当欄を指し、短く言う。


 「開けた日。閉めた日。触った人」


 進祐は表を見た。


 「名札を見たいと言われた場合は」


 「公開同意のあるものだけ、私が出します。触るのは持ち主か家族だけ。写真は同意欄を見てから」


 「急に感情的になった来訪者がいた場合は」


 文香は少しだけ祐を見た。


 祐が受付机から一枚の紙を持ってくる。『名札閲覧時の声かけ手順』と書かれた紙だった。泣き出した人へ無理に話しかけない。椅子を勧める。水を置く。本人が望まない限り、過去の話を聞き出さない。必要なら人の少ない時間帯に改めて案内する。


 進祐はそこまで読んで、文香へ紙を返した。


 「よく作りましたね」


 褒め言葉のようにも聞こえたが、進祐の声は平らだった。


 文香は表情を変えずに答える。


 「泣いた人がいたので」


 それ以上は言わなかった。


 八時十五分の渡船が着き、待合所に三人の来訪者が入ってきた。淡名島から来た老夫婦と、リュックを背負った旅行者だった。明純が一歩前へ出る。


 「おはようございます。こちら、船を待つ方も休めます。白い紙札はお名前を書かず、行き先だけでお願いします」


 言い終えると、明純は入口の段差へ目をやり、老夫婦の荷物の持ち方を見た。


 「段差、左側が低いです。荷物、ここ置けます」


 以前なら、もう二言三言明るく足していたかもしれない。今日は言わなかった。老婦人が腰を下ろしてから、明純は水の置き場を指差し、すぐに一歩引いた。


 進祐はその様子も書類ばさみに書きつける。


 愛衣子は旅行者に時刻表を見せた。駅まで歩く道、バスへ乗る場合の時刻、暑い時間帯に坂道を避ける道。祐が作った交通案内表に、愛衣子の付箋が重なっている。旅行者が「ここから鞆の浦へ行くには」と聞くと、愛衣子はすぐに答えず、相手の荷物と靴を見た。


 「今日中に着きたいですか。それとも、途中で尾路町の坂を歩く時間がありますか」


 祐は受付の後ろで、少しだけ目を細めた。


 進祐は案内表の前に立つ。


 「この表、駅にも置けますか」


 祐は思わず顔を上げた。


 「駅に、ですか」


 「駅から港へ来る人が迷うなら、ここに来る前の案内も必要です。反対に、ここで船が出ないと分かった人が駅へ戻る道もいる。今は待合所の中だけで完結していますが、町の交通案内として使える形にできます」


 裕子が赤いファイルを閉じかけた手を止めた。


 「正式な案内に入れるということですか」


 「補助的にです。大きな看板を立てる話ではありません。駅、交通案内所、淡名渡船待合所の三か所で、同じ表を使う。欠航時は、信清さんの閉鎖基準に合わせて、振替の案内も出す。ここを、ただ古い名札を置く場所ではなく、港の迷いを減らす場所として扱う」


 壮翔が小さく口笛を吹こうとして、裕子に睨まれ、息だけを飲み込んだ。


 祐の胸の奥で、何かが静かに鳴った。


 古い待合所を残したい。名札を捨てたくない。そう言うだけでは届かなかった場所へ、進祐の図面が細い道を引いている。船を待つ人、駅へ戻る人、島から通院する人、初めて尾路町へ来る人。その足元を支えるなら、待合所は思い出の箱だけではなくなる。


 「作り直します」


 祐は答えた。


 「駅から港、港から駅。バス停と日陰の場所、雨の日の回り道も入れます。欠航時の案内は、信清さんと確認してから」


 信清が戸口から入ってきた。


 「昼の便は出る。ただ、午後は早めに閉めたほうがいい」


 進祐はすぐに信清を見る。


 「基準の何番ですか」


 「風向きが南西へ回り始めて、午後から雨雲が厚くなる。今のところ閉鎖基準二の手前。十一時に再確認。無理に開ける日じゃない」


 祐は閉鎖基準の紙へ「十一時再確認」と書いた。愛衣子がその横に、来訪者への説明文を付箋で貼る。明純は入口に出す小さな札を用意した。


 進祐は三人の動きを見ていた。


 「判断した人、掲示した人、記録した人を分けてください」


 裕子がすぐにペンを取る。


 「なぜですか」


 「後で確認できるようにするためです。一人の勘だけで閉めたのではなく、基準に従って動いたことが分かる。責任を押しつけないためでもあります」


 信清は腕を組んだまま、短くうなずいた。


 「それはいい」


 文香は名札棚の前で、閉鎖時にかける布を出した。白ではなく、薄いベージュの布だった。母の封筒に似た色だが、文香はそれを説明しない。棚を隠すためではなく、光と湿気から守るために、ゆっくり広げる。


 進祐はその布の端を見た。


 「これは」


 「閉鎖時の保護布」


 「防湿は」


 「内側に油紙。直接触れない」


 「表示は」


 文香は小さな札を出した。


 『本日の名札閲覧は終了しました。記録をご希望の方は受付へお声がけください。』


 進祐はそれを読み、初めてはっきりうなずいた。


 その頃、壮翔は長椅子の下へ潜り込んでいた。


 「何をしているんですか」


 裕子の声が落ちた。


 「いや、進祐さんが厳しい目で見るから、椅子も緊張してるかと思って」


 「椅子は緊張しません」


 「でも少しぐらつく」


 壮翔は椅子の脚を押さえ、手元の小さな木片を見せた。畳座布団を置いたことで、人が座る位置が少し変わり、古い脚のひとつに負担がかかっていたらしい。


 進祐はしゃがみ込み、床と椅子の脚を見た。


 「修繕記録に入れてください。今日中に使わない判断でもいい」


 「座れます」


 壮翔が言い張る。


 信清が低く言った。


 「座れると、座らせていいは違う」


 壮翔は口を閉じた。少しだけ頬をふくらませたが、すぐに立ち上がり、椅子に『点検中』の紙を置いた。


 「この命に代えても、座らせません」


 「命を軽く添えないでください」


 裕子が言い、老夫婦が長椅子の反対側で笑った。


 進祐はその笑い声を聞きながら、入口の外へ出た。祐も後を追う。港には朝より強い光が落ち、白い紙札の板がかすかに鳴っている。駅の方から、スーツケースを引く音が近づいてきた。


 「残せるかどうかは、まだ決まりません」


 進祐は海を見たまま言った。


 「はい」


 「利用者数だけなら、もっと多い場所はあります。費用をかける理由としては弱い」


 「分かっています」


 「ただ、ここが閉まると困る場面はあります。船が止まった時、暑さで歩けない時、駅へ戻る道が分からない時。名札返却で町へ来た人が、ただ観光して帰るのではなく、島へ渡る前に気持ちを整える時。そういう使われ方は、数字だけでは見えにくい」


 祐は、待合所の中を見た。


 文香が名札棚に布をかけ、裕子が点検中の椅子を記録し、明純が来訪者に段差を案内し、愛衣子が時刻表の余白へ次の改定をメモしている。壮翔は椅子を直すため、どこからか工具箱を持ってきて、裕子に開放時間外まで待てと手で制されていた。信清は十一時の風を見るため、港の先へ歩いていく。


 大きな声で何かを勝ち取ったわけではない。


 けれど、閉じる理由を一つずつ減らし、開けるための手順を一つずつ増やしている。


 「駅と交通案内所に置く表、今日の夕方までに案を作ります」


 祐が言うと、進祐は書類ばさみを閉じた。


 「急がなくていいです。誤った案内は、ないより困ります」


 「はい。信清さんと渡船、バスの時刻を確認してから出します」


 「それなら見ます」


 その言い方は相変わらず硬かった。けれど、祐には、紙を受け取る準備ができている声に聞こえた。


 進祐は帰る前に、もう一度待合所の中を見回した。名札棚、白い紙札、点検中の椅子、赤いファイル、閉鎖基準、案内表。どれも小さい。派手なものはない。だが、それぞれに誰かの手が残っている。


 「次の審査では、交通案内としての役割も見ます」


 裕子がすぐに聞き返す。


 「資料項目を増やすということですか」


 「増えます」


 「……分かりました」


 裕子の返事は沈んだが、ペンを持つ手は速かった。


 壮翔が小声で言う。


 「裕子さんの仕事が増える音がした」


 「あなたの点検椅子も項目です」


 「俺の椅子が町政に」


 「町政ではありません。安全管理です」


 進祐が淡々と訂正し、今度は老夫婦だけでなく、明純まで吹き出した。


 十一時前、風が本当に少し回った。信清の判断で、午後の開放は見合わせになった。明純が入口へ閉鎖札を出し、愛衣子が来訪者へ理由を説明し、裕子が記録表へ時刻を書いた。祐は閉鎖判断の欄に、信清の名前、自分の記録、明純の掲示を分けて記入した。


 文香は名札棚にベージュの布をかけ、鍵を閉める。


 進祐はその一連の動きを最後まで見ていた。


 「今日は、開けたことより、閉めたことのほうが大事です」


 信清が帽子をかぶり直す。


 「海がそういう日じゃけえ」


 港に細い雨が落ち始めた。白い紙札の板は室内へ移され、団扇は窓辺から棚へ戻された。濡れた石畳を、進祐が駅の方へ歩いていく。


 祐は受付机に残り、交通案内表の余白へ新しい線を引いた。駅、バス停、港、待合所。そこに、雨の日の屋根、日陰のある道、欠航時に戻る道を加える。


 文香が横に来て、紙をのぞいた。


 「線、増えた」


 「増えました」


 「迷わない?」


 「迷うかもしれません」


 祐は鉛筆を持ち直した。


 「だから、迷った時に戻れる線も入れます」


 文香は少し考え、名札棚の鍵を掌の中で転がした。


 「ここも」


 「はい」


 「戻れる線にする」


 雨の匂いが、開いた窓の隙間から入ってきた。待合所は昼前に閉まったのに、誰も負けた顔をしていなかった。


 祐は新しい案内表の一番下へ、小さく書いた。


 淡名渡船待合所――船を待つ人、駅へ戻る人、名前を預ける人のための休憩所。


 書いてから、少しだけ消しゴムをかけた。言葉を整える余地はある。だが、線は引けた。


 外では雨粒が白い石畳を叩いている。名札棚の布は静かにかかり、紙札の板は室内の壁に立てかけられていた。進祐の再審査は、合格の判子を置いていかなかった。


 その代わり、待合所が町の中で働くための道を一本、増やしていった。



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