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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第39話 愛衣子の成長表

 進祐の再審査から二日後、淡名渡船待合所の窓には、雨上がりの潮が薄く白い膜を残していた。


 朝の開放時間が終わり、祐が利用者名簿を閉じた時、入口の引き戸が半分だけ開いた。すき間から、紺色のファイルが先に入ってきた。つぎに、抱えきれないほどの紙束。最後に、愛衣子の額が見えた。


 「持てます。持てますけど、持てているだけで、前が見えていません」


 本人がそう言うより早く、紙束の上から鉛筆が転がり落ちた。祐が拾おうとすると、別の紙が一枚、船を出す前の旗のようにひらひらと落ちた。


 そこには、太い字で、こう書かれていた。


 名札返却聞き取り表・失敗込み。


 裕子が帳簿の上から顔を上げた。


 「最後の五文字、わざわざ大きく書く必要あった?」


 「あります。成功だけだと、次に同じところで転びます」


 愛衣子はそう答え、待合所の中央の長椅子に紙束を置いた。長椅子がぎしりと鳴る。壮翔が奥から顔を出し、紙の厚みを見て、すぐに自分の腹を押さえた。


 「紙でベンチが沈むなら、俺が座ったせいじゃないことが証明されたな」


 「昨日、あんたが座ったせいで畳座布団がずれた記録なら残ってる」


 裕子が即座に言い返すと、壮翔は壁際の団扇を手に取り、何事もなかったように名札棚の前をあおぎ始めた。文香が棚の布を直しながら、団扇の風が名札に当たりすぎない位置へ半歩ずれた。壮翔も、団扇を持つ手を少し下げた。


 祐は、愛衣子の一番上の表を見た。


 行には、日付、聞き取り先、相手との関係、使った手がかり、最初にかけた言葉、相手の反応、失敗した点、次に変えた点、公開の可否、名札の扱いが並んでいた。


 欄の数だけなら、裕子が作る役所向けの表に負けていない。ただ、愛衣子の表は、ところどころ字が濃くなったり、斜めに曲がったりしていた。電話で断られた欄には、鉛筆の跡が何度も消され、紙の表面が少し毛羽立っている。


 「全部、自分で?」


 祐がたずねると、愛衣子は首を縦に振った。


 「最初は、返せた人の数だけまとめるつもりでした。でも、それだと、返せなかった人のところで何をしたか、何をしなかったかが消えます」


 待合所の外で、船のロープが支柱に当たる音がした。窓辺のベージュの灯りはまだ点いていなかったが、朝の光が名札棚の布を淡く照らしている。


 愛衣子は、表の一枚をめくった。


 「鞆の浦で、私、励まそうとしました。『今からでも戻れますよ』って言いそうになりました」


 「言わなかった」


 文香が短く言う。


 愛衣子は小さく笑った。


 「祐さんが黙っていたので、私も黙りました。でも、黙った理由がその時は分かっていませんでした。あとで考えて、戻れない人もいるし、戻らないことでやっと立っている人もいるって、表に書きました」


 表の欄には、赤ではなく、薄い茶色の線が引かれていた。そこに、小さな字で「励ます前に、相手がどこを見ているか見る」とある。


 裕子が身を乗り出した。


 「この『相手がどこを見ているか』は、項目として残した方がいい。手元を見る、海を見る、名札を見る、付き添いを見る。聞き取りの入り口が変わる」


 「じゃあ、次の版で列を増やします」


 「増やしすぎると、現場で誰も書けない」


 「減らします」


 「今、増やすって言ったばかりでしょう」


 二人のやりとりに、壮翔が団扇の陰で肩を揺らした。


 文香は、修繕台に置いていた小さな布箱を開けた。中には、名札の端を補強した時に残った淡い帆布の切れ端が入っている。文香はその一枚を選び、愛衣子のファイルの表紙に置いた。


 「貼る?」


 「いいんですか」


 「表紙、角が弱い」


 文香はそれ以上言わず、糊を薄く伸ばした紙を差し出した。愛衣子は両手でファイルを押さえた。祐は、表紙に貼られる布を見ながら、最初に時刻表の裏から出てきた名札の束を思い出した。あの時の布も、こんなふうに端がやわらかくほつれていた。


 愛衣子のファイルは、思い出をまとめるための飾りではない。次に誰かへ声をかける時、どのくらい距離を置くかを測るための道具だった。


 祐は二枚目の表を手に取った。


 下関で、名前を出されたくないと告げた男性の欄は、聞き取り先も住所も黒い紙で伏せられていた。見出しにも、個人名はない。


 匿名希望・写真のみ。


 使った手がかりの欄には、「団扇裏の地図、本人が反応した道筋」とだけ書かれている。拒否の理由の欄は空白だった。かわりに、次に変えた点の欄に、「理由を聞かない。削除方法を先に説明する」とあった。


 祐は表から目を上げた。


 「ここ、よく空白にしましたね」


 愛衣子は、少しだけ口を結んだ。


 「書きたくなりました。どうして嫌なのか分かれば、次に役立つと思って。でも、たぶん、それをこちらの役に立てるのも違う気がして」


 裕子が腕を組んだ。


 「理由は相手のもの。手順はこっちのもの。分けて正解」


 褒め言葉に聞こえにくい言い方だったが、愛衣子は背筋を伸ばした。裕子は自分の湯飲みに手を伸ばし、熱さを確かめてから、わざとらしく咳払いをした。


 「あと、ここの漢字、違う」


 「やっぱりそこは直されるんですね」


 「直すに決まってる」


 裕子は赤鉛筆を取り出した。最初の頃なら、その赤は愛衣子の肩をすくませたかもしれない。今の愛衣子は、赤鉛筆の先が紙へ落ちるのを、逃げずに見ていた。


 待合所の引き戸が開き、明純が顔を出した。片手に紙袋、もう片手に白い紙札の束を持っている。袋からは、商店街のパン屋の甘い匂いがした。


 「差し入れ。あ、何これ。すごい。反省会?」


 「反省だけじゃないです。次に同じ失敗をしないための表です」


 「じゃあ、俺も書く」


 明純は紙袋を壮翔へ渡し、長椅子の端に腰を下ろした。壮翔は袋の中をのぞき込み、裕子に見られていることに気づくと、口を開けたまま固まった。


 「数、数えてから食べて」


 「信用が薄皮あんパンより薄い」


 「じゃこ天事件のせいでしょう」


 明純は笑いながら、白い紙札の裏に鉛筆を走らせた。だが、三行ほど書いたところで手が止まる。


 「仮開放初日の案内、俺、泣いてる人に『大丈夫ですか』って三回聞いたんだよな」


 祐は、明純の横に座った。


 「三回聞いたんですか」


 「だって、何か言わないとと思って。そうしたら、その人、もっと困った顔をして」


 明純は鉛筆の頭でこめかみをかいた。


 「二日目から、水を置いて、少し離れた。そしたら、その人、自分で名札棚の前まで行って、しばらく座ってから帰った」


 愛衣子がファイルを開き、新しい行を指で示した。


 「それ、書きましょう。泣いている人への声かけ。声をかけない案内」


 「声をかけない案内って、変じゃない?」


 「変じゃないです。必要です」


 文香が言った。短い声だったが、待合所の木の壁に、まっすぐ当たった。


 明純は、白い紙札ではなく、愛衣子の表へ書くことになった。字は大きく、ところどころ線が曲がった。裕子が横から枠を引き直そうとしたが、愛衣子がそっと手で止めた。


 「これは、このままで。明純さんの字だって分かった方が、案内係の手引きに使えます」


 裕子は一瞬だけ眉を上げた。それから赤鉛筆を置いた。


 「じゃあ、誤字だけ」


 「そこはやっぱり直すんですね」


 「直す」


 祐は、ファイルの厚みを手で測った。今までの名札返却簿は、誰に返したか、どこに保管したか、公開してよいかを記録するものだった。愛衣子の表は、その前に人がどこで立ち止まり、どこで言葉を飲み込み、どこで間違えたかを書いている。


 記録としては、少し不格好だった。


 だからこそ、現場に近かった。


 外から信清が入ってきた。長靴の底に、港の湿った砂がついている。彼は入口で靴底を丁寧にこすり、置いてあった温度計を見てから、窓の外へ目を向けた。


 「昼から風が変わる。今日の閉鎖は早めじゃな」


 祐は閉鎖基準表を取ろうとしたが、信清の視線が長椅子の紙束へ移った。


 「なんなら、また役所へ出す書類か」


 「愛衣子さんの聞き取り表です。失敗も入っています」


 信清は「ほう」と言い、濡れた帽子を脱いだ。


 「失敗が入っとるなら、使える」


 愛衣子は顔を上げた。


 「そうですか」


 「海の記録も、晴れの日だけ書いとったら役に立たん。どの風で船を止めたか、どの波で迷ったかを書かんと、次に若い船長が困る」


 信清は表の端を指で押さえた。太い指が、匿名希望の欄には触れないよう少しずれた。


 「この黒い紙は、はがれんようにしとき」


 「はい」


 「はがれそうになったら、文香に頼み」


 文香はうなずき、すでに黒い紙の角を見ていた。


 壮翔がパンの袋を開けた。今度は、ちゃんと全員の前で数えている。


 「薄皮あんパン、八個。ここにいるのが八人。平和だ」


 「祐くん、甘いの苦手でしょ」


 裕子が言うと、壮翔の目が一瞬輝いた。


 「そうなのか、祐。無理は体に悪いぞ」


 「食べます」


 「信頼関係が崩れる音がした」


 「じゃこ天で一回崩していますから」


 明純が笑い、愛衣子もつられて笑った。文香は一番端のあんパンを取り、紙皿に載せて名札棚から離れた場所へ置いた。粉が布へ落ちないように、皿の下に古新聞を敷く。壮翔がそれを見て、残りの皿も同じように並べ始めた。


 笑いながらも、誰かの手が少しずつ、待合所を守る位置へ動く。


 祐は、愛衣子の表を一枚ずつ見ていった。


 今治の欄には、「母の話を希望の材料として渡さない」とあった。文香が黙った時、祐が何も言わなかったことを、愛衣子はあとから書き足していた。


 高松の欄には、「湯気の向こうの表情は急がない」とある。裕子が言葉をこらえた時のことだ。


 小豆島の欄には、「一緒に食べる前に、箸を並べて待つ」とある。文香と裕子の帰りの船で聞いた話を、愛衣子なりに聞き取ったのだろう。


 仮開放初日の欄には、「案内は、声より先に水と椅子」と書かれている。明純が今書いた行の下に、愛衣子の小さな字が続いた。


 祐は、表の最後の余白に鉛筆を置いた。


 「これ、名札返却の手引きにできます」


 愛衣子は、あんパンを持ったまま固まった。


 「これをですか。失敗だらけです」


 「だからです」


 祐は、言葉を選んだ。


 「きれいな手順だけだと、初めて関わる人は、間違えた時に隠します。隠すと、相手を二度傷つけることがあります。愛衣子さんの表には、間違えた後の戻り方があります」


 窓の外で、白い雲がゆっくり動いている。潮の上を渡る風が、団扇の柄に当たり、軽く揺らした。


 愛衣子は、手元のあんパンを紙皿へ戻した。


 「私、最初、褒められる数を増やしたかったんだと思います」


 誰もすぐには答えなかった。


 「名札を返せた、話を聞けた、よく走ったって言われると、嬉しくて。だから、断られた時、相手のせいにしたくなりました。せっかく行ったのにって」


 愛衣子は、ファイルの表紙に貼られた淡い布を指でなぞった。


 「でも、名札を返すのは、私が褒められるためじゃなかったです」


 文香が、黒い紙の角へ小さく糊を足した。裕子は赤鉛筆を閉じ、明純は自分の字を見直し、信清は窓の外の風をもう一度見た。壮翔は、あんパンの袋をきちんと畳んでいる。


 祐は、何も言わずに続きを待った。


 「次に誰かを傷つけないようにするためなら、失敗も置いておける気がします」


 その声は、港に集まる人を呼ぶ時のように弾んではいなかった。けれど、長椅子に置かれた紙束の上で、まっすぐに残った。


 裕子が、赤鉛筆で表紙の右上に小さく書いた。


 淡名渡船待合所 名札返却・聞き取り手引き 第一版。


 「第一版ってことは、直す前提ですか」


 愛衣子がたずねると、裕子は当然のようにうなずいた。


 「直さない手引きなんて怖いでしょ」


 明純が自分の行を指差した。


 「じゃあ、俺の失敗も正式採用?」


 「誤字を直してから」


 「やっぱりそこか」


 壮翔が、こっそり表の最後に何かを書こうとしていた。裕子が即座に紙を押さえる。


 「何を書いたの」


 「じゃこ天紛失時の初動対応」


 「いらない」


 「いや、食べ物の数が合わない時、人は不安になる。待合所の安全運用として――」


 「消す」


 裕子が赤鉛筆ではなく消しゴムを持ったので、壮翔は両手を上げた。明純が笑いすぎて白い紙札を落とし、信清が拾ってやる。文香は、消された跡を見て、紙が破れないように下敷きを差し込んだ。


 祐は、その光景を見ながら、表の一番下へ一行だけ書き足した。


 聞き取りをした人も、間違える。間違えたら、隠さず、戻る線を引く。


 愛衣子がその文字を読んだ。少し迷ってから、祐の鉛筆を借り、隣に小さく書く。


 戻る線は、相手のところへ無理に引かない。


 祐は、うなずいた。


 風が強くなり、窓際の紙札の板がかたんと鳴った。信清が時計を見る。


 「今日は、あと三十分で閉めよう」


 祐は閉鎖札を出し、明純が外にいる来訪者へ声をかけに行った。愛衣子はファイルを胸に抱え、入口までついていく。以前なら、彼女は真っ先に説明しようとしただろう。今は、明純が話している間、相手の視線と足元を見ている。


 港から来た老夫婦が、少し残念そうに待合所を見た。明純は大きな声を出さず、閉鎖理由と次の開放時間を伝えた。愛衣子は横から、駅までの屋根のある道を案内表で示した。


 老夫婦の女性が、名札棚へ一度だけ目を向ける。


 「また来ます」


 愛衣子は、すぐに名札の話を出さなかった。


 「お待ちしています」


 そう言って、案内表を渡した。


 老夫婦が石畳を駅の方へ歩いていく。明純が引き戸を半分閉め、愛衣子はファイルを開いて、新しい行を書いた。


 閉鎖時の案内。残念そうな人へ、理由と次の道を先に渡す。名札の話は追いかけない。


 祐は、その行を横から見ていた。


 表は、また一行増えた。


 けれど、待合所の中は重くならなかった。失敗を書いても、ここでは誰かが笑いに変える。誤字を直す。布を貼る。風を読む。消しゴムをかける。必要なら、黒い紙で伏せる。


 愛衣子は、ファイルを閉じ、表紙の淡い布を掌で押さえた。


 「次、少しだけ怖くなくなりました」


 文香が鍵を取り出し、名札棚の前に立った。


 「怖いままでも、いい」


 愛衣子は、少し考えてからうなずいた。


 「はい。怖いまま、手順を見ます」


 閉鎖札が入口にかかる。信清が窓を閉め、裕子が赤鉛筆を筆箱へ戻し、壮翔があんパンの空き袋を持って外へ出た。明純は紙札の板を壁から少し離して、湿気がこもらないようにした。


 祐は最後に、愛衣子の手引きを受付机の引き出しへ入れた。鍵はかけない。次に案内に立つ人が、いつでも取り出せる場所に置く。


 潮の匂いを含んだ風が、閉じた窓を一度だけ鳴らした。


 名札返却簿には、返せた名前が残る。


 愛衣子の成長表には、返せなかった時の立ち止まり方が残る。


 淡名渡船待合所は、その両方を机の中に置いたまま、昼の閉鎖時間へ入っていった。



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