第37話 騒がせる白い紙札
仮開放の初日から三日目の朝、淡名渡船待合所の入口には、白い紙札が風に揺れていた。
裕子が用意した細長い札は、もともと長椅子の横に置いた小さな板へ、十枚ほど結ばれるはずだった。名前ではなく、行き先を書く。個人の住所や連絡先は書かない。誰かの名札を真似ない。そういう決まりを、裕子は赤い縁取りの紙に大きく書き、祐が読みやすい高さへ貼った。
ところが、午前七時半を過ぎるころには、白い札は板の上だけで収まらなくなっていた。
「淡名島へ朝の船で行く」
「祖母の蜜柑畑を見に行く」
「海を見てから帰る」
「高松から来ました。出汁の匂いを持って帰ります」
「門司港へ、手紙を出しに行く」
そんな短い言葉が、鉛筆、万年筆、子どもの太い色鉛筆で書かれていた。紙札の端に通した淡い糸が、窓から入る風に合わせて、かさかさと鳴る。名札棚の前に座っていた文香は、その音を聞きながら、修繕用の小ばさみを止めた。
「増えた」
文香の声に、祐は来訪者名簿から顔を上げた。
「昨日の倍ですね」
「倍どころじゃないです」
裕子は入口の外から、紙札を両手で抱えるようにして戻ってきた。結んではいけない港の手すりに、誰かが三枚も結んでいたらしい。赤いペンを耳に挟み、額には薄く汗が滲んでいる。
「注意書きを読まない人間は、なぜ注意書きの前を堂々と通過できるんでしょうか」
「裕子さん、朝から哲学ですか」
壮翔が畳座布団を抱えたまま言うと、裕子は手すりから外した紙札を一枚、彼の胸元へ突きつけた。
「これはあなたの字ですか」
紙札には、「じゃこ天を食べるために来る」と書いてあった。
壮翔は一瞬だけ天井を見た。
「筆跡というものは、海風で変わることがあります」
「名前を書いてないだけで、あなたです」
「行き先を書いたまでです」
「行き先が食欲になっているんです」
明純が掃除用のほうきを持ったまま笑い出した。愛衣子は受付の机で新しい紙札を並べていたが、笑いをこらえようとして、札の束を少し斜めに崩した。文香は何も言わず、壮翔の紙札だけを裏返し、空の箱へ入れた。
「非公開?」
壮翔が小声で尋ねる。
「保留」
「保留がいちばん怖いな」
祐は笑いそうになりながらも、入口の状況を見に出た。朝の港は、仮開放初日よりも少し落ち着いている。来訪者の数は多くない。けれど、白い紙札が、待合所の外へ気持ちだけ先に走り出していた。
紙札の板は、もとは宿の廃材で壮翔が作ったものだった。長椅子の背と同じ高さで、横幅は一メートルほど。表面を削り、ささくれを取って、下に小さな台をつけてある。裕子は「許可した覚えはありません」と言いながら、寸法を測り、倒れないように重しを置いた。文香は紙札に使う糸を、古い名札の色に似すぎないよう、ほんの少しだけ淡い青へ寄せた。
商店街の人たちが、名札を土産物にする案を引っ込め、代わりに「来た人が自分の行き先を残せるもの」として始めたものだった。
祐は、その案を悪くないと思っていた。
待合所は、過去の名札だけを抱える場所ではない。これから船に乗る人、島から帰る人、駅まで歩く人が、それぞれ一枚だけ、行き先を置いていける。名前を書かず、誰かを探すためにも使わない。その線を守れれば、白い紙札は名札棚の隣で、ちょうどいい風を起こすはずだった。
けれど、ちょうどいい風は、放っておくとすぐ強くなる。
港の手すりに結ばれていた三枚のうち一枚は、ただの行き先ではなかった。
裕子がそれを受付の机に置いた時、文香の指が止まった。
白い札の真ん中に、個人の名前が書かれていた。さらに、その人へ会いたいという言葉も続いていた。悪意のある字ではない。むしろ、迷いながら何度も書き直したような薄い鉛筆の跡がある。
だからこそ、放っておけなかった。
「外します」
裕子が言うより先に、文香が立ち上がった。
祐は受付の椅子から、非公開箱を取る。拒否された名札を守るために用意した箱は、名札棚の下段に置かれていた。名前はつけていない。蓋の内側にだけ、裕子の字で「本人の同意なしに見せない」と書かれている。
文香は紙札を両手で持ち、しばらく見つめた。視線の動きは、文字の上をなぞっているようで、文字の向こう側を見ているようでもあった。
「書いた人を責めない」
文香が言った。
裕子は赤いペンを持った手を下ろす。
「でも、掲示はしません」
「うん」
文香は紙札を封筒へ入れた。糸は切らず、結び目をほどいて、札と一緒に収める。折らない。破らない。見せない。
祐は管理簿へ時刻を書く。
七時四十二分。白い紙札一枚、個人名あり。掲示せず。非公開箱へ移動。記入者不明。注意書き見直し。
愛衣子が横から覗き込み、口を結んだ。
「悪いことをしたかったわけじゃ、ないですよね」
「たぶんね」
祐はペンを置いた。
「会いたい気持ちが、先に紙へ出たんだと思う」
明純は入口の外を見ていた。いつもなら軽い言葉を挟むところだが、その朝は黙っていた。港のほうでは、船を待つ人が二人、手すりにもたれている。紙札を結んだ人がその中にいるのかは分からない。
「じゃあ、どう言えばいいんですか」
明純が尋ねた。
「書いちゃだめ、だけじゃ足りない気がします」
裕子が、注意書きの紙をはがした。赤い縁取りの紙は、糊の跡を少し残して、入口の柱から離れた。
「足りませんでした。私の書き方だと、禁止だけが前へ出ています」
「裕子さんが自分で言った」
壮翔が驚いた顔をすると、裕子は視線だけで黙らせた。
「明純、あなたならどう書きますか。賑やかな声を小さくする練習です」
「え、俺ですか」
「あなたが集めた人たちが、いちばん読みます」
明純は、ほうきを壁へ立てかけ、受付の机の前に座った。愛衣子が鉛筆を渡す。祐は紙の束を出した。文香は非公開箱の蓋を閉め、鍵をかける。信清は窓の外から戻ってきて、濡れた靴跡を見つけると、何も言わず雑巾を取った。
待合所の中に、鉛筆の先が紙をこする音がした。
明純は最初、「名前を書かないでください」と書いた。すぐに消した。次に「だれかを探す紙ではありません」と書き、首をかしげた。
「冷たいですかね」
「冷たいというより、入口で叱られている気分になります」
愛衣子が言った。
裕子は腕を組む。
「入口で叱る必要はあります。けれど、戻ってこられなくしてはいけません」
文香が短く言う。
「船に乗る前に読むから」
その一言で、明純の鉛筆が止まった。
待合所に来る人は、必ず何かの途中にいる。船へ乗る前。島から帰ったあと。誰かに会う前。誰にも会わずに帰る前。注意書きは、その途中の足を止める。ならば、読む人の足を折る言葉ではなく、少し向きを変える言葉でなければならない。
明純は、新しい紙へゆっくり書いた。
白い紙札には、あなたの行き先だけを書いてください。
だれかの名前を書きたいときは、受付へ声をかけてください。
会いたい気持ちは、見せる前に、一度ここで預かります。
裕子はそれを読んで、赤ペンを持ち直した。
「最後の一文、少し長いです」
「そこですか」
「でも、残します」
赤い線は引かれなかった。
祐は新しい注意書きを入口の柱へ貼った。高さは、子どもが背伸びをしなくても読める位置にした。信清が斜めになっていると指摘し、文香が一歩下がって見た。
「右、少し上」
「第一印象が」
祐が言いかけると、文香は目だけで笑った。
「肝心」
午前八時を過ぎると、商店街から白い紙札の噂を聞いた人たちが少しずつやって来た。祐は受付で、紙札の決まりを説明する。愛衣子は、書き終えた人へ結ぶ場所を案内した。明純は、港の手すりへ向かう子どもを見つけると、走らずに歩いて近づき、「こっちの板が船を待つ場所」と言って、待合所の中へ戻した。
子どもは紙札を握りしめていた。
「ここじゃだめなん?」
「手すりは船の人が使うけん。こっちに結んだら、風でよく揺れるよ」
「ほんま?」
「俺がさっき揺らして確認した」
「それ、だめじゃないん?」
「確認です」
子どもは笑い、明純と一緒に紙札の板へ戻ってきた。書かれていたのは、「ばあちゃんの家でそうめんを食べる」だった。明純は札の端を持ち、子どもが結びやすいように板の高さを少し下げる。子どもは舌を出しながら結び目を作り、最後に満足そうに紙を指で弾いた。
白い紙札が、また一枚増えた。
文香は、その様子を名札棚の横から見ていた。古い布名札と新しい紙札は、同じものではない。布名札は、子どもたちの名前を預かった。白い紙札は、今日の行き先を預かる。どちらにも、勝手に触れていいものと、そうではないものの境目がある。
境目は、紙に線を引くだけでは守れない。
その日、午前九時少し前に、一人の女性が待合所の入口で足を止めた。白い帽子をかぶり、手に小さな土産袋を持っている。観光客のようにも、帰省客のようにも見えた。女性は紙札の板を見て、それから受付の祐へ近づいた。
「あの、名前を書いてしまったら、だめなんですよね」
声は、港の風に少し押されていた。
祐は立ち上がった。
「掲示する紙には、個人のお名前は書かない決まりにしています。どなたかを探したい場合は、内容を預かって、公開しない形で確認します」
女性は、土産袋の持ち手を握り直した。
「探したいというほどではないんです。ただ、昔、ここで一緒に船を待っていた子の名前を、急に思い出して」
文香が、修繕台から顔を上げた。
裕子は受付の横へ来る。赤ペンは持っていない。
「公開しない紙があります」
裕子は、普段より少しゆっくり言った。
「そこへ書いていただくことはできます。ただし、そのお名前の方へこちらから連絡を取るかどうかは、記録を確認してから判断します。相手の同意なしに掲示はしません」
女性はうなずいた。
「それでいいです。見えるところに出したかったわけじゃないんです。忘れたくなかっただけで」
祐は、非公開用の紙を出した。白い紙札より少し厚い、ベージュがかった紙だった。文香が母の封筒に似すぎないよう選んだもので、机の引き出しに数枚だけ入れてある。
女性はその紙へ、名前と、記憶の断片を書いた。
夏の朝。団扇。船酔い。白い靴下。雨で濡れた名札。
最後に、「会えなくても、ここで一度思い出したかった」と記した。
裕子は紙を封筒へ入れ、封をした。祐は預かり番号と時刻を管理簿に書く。文香は封筒の角を、指でそっと押さえた。
「預かりました」
その一言を聞いた女性は、肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。紙札のほうには、何を書いたらいいでしょう」
明純がすぐに口を開きかけ、途中で止まった。祐を見て、文香を見て、それから女性へ向き直る。
「今日、どこへ向かうかでいいと思います」
女性は少し考え、「海を見てから、父の墓へ」と書いた。
その札は、板の真ん中あたりに結ばれた。風が吹くたび、隣の「ばあちゃんの家でそうめんを食べる」と軽く触れ合う。
重い行き先と、軽い行き先が、同じ板で揺れていた。
祐はそれを見て、待合所らしいと思った。
午前十時の閉鎖時刻が近づくと、紙札は三十七枚になっていた。昨日の倍を超えている。港の手すりへ結ばれたものは、その後一枚もなかった。代わりに、紙札の板の前で少し悩む人が増えた。祐は、その悩む時間を急がせなかった。
信清が入口の戸を半分閉める準備をしながら言う。
「風、昼から強うなる。紙札、外へ飛ばんようにしとけ」
「紐を増やします」
壮翔が道具箱を持ち上げた。
裕子がすぐに言う。
「勝手に板を増設しないでください」
「まだ言ってない」
「顔が言いました」
「顔の自由を奪われた」
愛衣子が笑いながら、紙札の枚数を記録する。明純は板の前にしゃがみ、結び目がゆるい札を直していた。子どもの札、観光客の札、島の人の札。全部を同じ強さで締めると紙が破れる。緩すぎると飛んでいく。明純は何度も指先で確かめながら、結び目を直している。
文香は名札棚の前で、古い布名札を一枚、薄紙へ包んだ。その手元の横で、白い紙札が風に揺れる。
「騒がしいですね」
祐が言うと、文香は紙から目を離さずに答えた。
「でも、破れてない」
その言葉に、祐は紙札の板を見た。
騒がしい。けれど、壊れてはいない。広がりすぎかけたものを、裕子が止め、明純が言葉を作り、祐が記録し、文香が預かり、信清が風を見て、壮翔が板を支え、愛衣子が次へ残した。
たぶん、場所を続けるとは、こういうことだった。
誰かがよいと思って始めたものが、少しはみ出す。はみ出した分を叱るだけではなく、戻ってこられる線を作る。その線を、次の日も分かるように書き残す。
閉鎖時刻を二分過ぎて、最後の来訪者が出ていった。裕子は入口の注意書きをもう一度読み、赤ペンで小さく一字だけ直した。
「会いたい気持ちは、見せる前に、一度ここで預かります。」
句点が少し濃くなった。
壮翔がそれを見て言う。
「句点まで厳しい」
「終わりが曖昧だと困ります」
「俺の人生にも句点を」
「あなたは読点が多すぎます」
明純が声を上げて笑った。愛衣子は記録表に「注意書き改定」と書き、祐へ見せる。祐はその下に「個人名のある紙札は非公開箱へ移動。希望者には非公開用紙を案内」と追記した。
文香は非公開箱の鍵を閉めたあと、白い紙札の板の前に立った。
「海を見てから、父の墓へ」
その札が、風で一度だけ裏返り、また表へ戻る。
文香は指先で札には触れず、ただ見ていた。
祐が横に立つと、文香は小さく言った。
「名前じゃなくても、重いものはある」
「ありますね」
「だから、軽く扱わない」
「はい」
文香はうなずき、名札棚へ戻った。祐は入口の外へ出る。港の手すりには、もう白い札は結ばれていない。海の向こうの淡名島は、夏の光を受けて少し白く見えた。
待合所の中では、紙札の板がかさかさと鳴っている。
騒がせる力は、迷惑にもなる。けれど、行き場を用意すれば、誰かの今日の一歩を支える音にもなる。
祐は管理表の端へ、明日の準備を書き足した。
紙札用の板、補強。
非公開用紙、五枚追加。
注意書き、入口と受付に一枚ずつ。
それから少し迷い、最後にもう一行を書く。
白い紙札は、行き先を預かるもの。
文香が後ろから覗き込んだ。
「字、今日はまっすぐ」
「昨日、言われましたから」
「じゃあ、明日も」
短い言葉だった。
けれど祐には、それが明日もここを開けるという返事に聞こえた。
港で船の汽笛が鳴る。白い紙札が、一斉に小さく揺れた。誰の名前も呼ばないまま、それぞれの行き先だけを抱えて、待合所の風の中に残っていた。




