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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第36話 仮開放初日

 八月中旬の朝は、夜の湿り気をまだ石畳に残していた。


 尾路町の港へ向かう坂道では、新聞配達の自転車が一台、ブレーキを鳴らして曲がっていく。軒先の朝顔は、海から吹き上がる風に葉を揺らし、淡名島の稜線は薄い青の向こうで、まだ眠っているように見えた。


 祐は交通案内所を開けるより先に、淡名渡船待合所の前へ来ていた。腕時計は六時二十四分を指している。仮開放は七時から十時まで。たった三時間。けれど、その三時間のために、何枚もの表を作り、何度も床へ膝をつき、何人もの名前を記録した。


 入口の横には、新しい板が掛けられている。


 淡名渡船待合所 本日仮開放


 開放時間 七時から十時まで


 荒天時は閉鎖


 名札棚は係員立ち会いのもとで閲覧


 祐は掲示の四隅を指で押さえた。昨夜、裕子が「曲がっている」と言って貼り直した板は、朝になっても曲がっていない。裕子本人が見れば、まだ一ミリ右と言いそうだったが、祐の目にはまっすぐだった。


 鍵束が鳴る。


 振り返ると、文香が道具箱を抱えて立っていた。紺の袖口に、淡い糸くずが一本ついている。祐が言う前に、文香は自分でそれを取った。


 「早いですね」


 「鍵」


 文香は短く答え、手の中の鍵を持ち上げた。昨日、鍵管理表の最初の欄に文香の名前が入り、今日の朝七時から十時までの担当として、祐の名前がその下に並んでいる。二人の字は似ていない。けれど同じ欄の中に収まっていた。


 文香が鍵を差し込む。少し重い音がして、扉が内側へ開いた。


 待合所の中には、古い木の匂いと、畳の新しい匂いが混じっていた。倉敷の職人から届いた畳座布団は、長椅子の上に三枚。壮翔が昨夜、座り心地を確かめると言って何度も位置を変えたせいで、最後は裕子が紙に寸法を書き、祐がそれを床に貼った。


 それでも今見ると、左端の一枚だけ、ほんの少しずれている。


 祐が直そうとしたとき、外から大きな足音がした。


 「触るな、そこは風の通り道を考えた角度だ」


 壮翔だった。肩から布袋を下げ、片手に水筒を三本、もう片方に折りたたみ椅子を二脚持っている。首にはなぜか手ぬぐいが二枚巻かれていた。


 「座布団に角度ってあります?」


 「ある。人は座る時、無意識に海を見たい」


 「昨日、裕子さんに直されてましたよね」


 「最終的に俺の思想が一ミリだけ残った」


 祐が答えに迷っていると、文香が畳座布団の角を指先で押した。


 「直す」


 「ほら、文香ちゃんも直すって」


 「糸が出てる」


 壮翔は黙ってうなずいた。祐は笑いをこらえながら、開放前確認表へ丸をつけた。


 六時四十分になるころ、裕子が息を切らして現れた。手には来訪者名簿、苦情箱、筆記具、予備の紙札、そして赤い付箋が入った袋を抱えている。肩から下げた鞄の口が開き、定規が一本飛び出していた。


 「掲示、見ました」


 「曲がってます?」


 「曲がってないのが悔しい」


 裕子はそれだけ言うと、机の上に名簿を置き、苦情箱を入口から少し離れた棚へ移した。


 「ここ。入口の正面だと、苦情を書きに来た人が全員に見られます」


 祐はすぐに確認表へ書き込む。苦情箱の位置変更。理由、記入者の視線保護。


 裕子はその文字を見て、少しだけ目を細めた。


 「そういうところは早いんですね」


 「案内所で怒られ慣れているので」


 「胸を張らないでください」


 外で、明純の声が響いた。


 「おはようございまーす、淡名渡船待合所、七時から開きます。まだ中には入れません。入れませんってば、壮翔さんの宿じゃないですから」


 続いて、愛衣子の慌てた声が重なる。


 「明純さん、声は少し落として。漁師さんの朝の作業中です」


 「あ、はい。おはようございます、少し小さめで、七時から開きます」


 裕子が窓の方を見た。


 「小さめの声で、あの大きさ」


 「明純にしては半分です」


 壮翔が真顔で言った。


 七時五分前、信清が港側の戸口から入ってきた。濃い色の帽子のつばを指で上げ、海を見る。手には小さな温度計と、潮位を記録するための紙がある。


 「風は東寄り。十時までは問題ない。午後は少し上がる」


 「閉鎖判断、掲示に入れています」


 祐が答えると、信清は掲示と窓の外を交互に見た。


 「掲示は字を見るためじゃない。迷った時に、戻るためにある」


 祐はその言葉を、今日のメモの余白に書いた。戻るための掲示。進祐に出す報告にも使える。


 七時ちょうど。


 文香が入口の戸を少し大きく開けた。


 その音が、開場の合図になった。


 最初に入ってきたのは、千代だった。蜜柑を小さな籠に入れ、腕に古い団扇を挟んでいる。足元はゆっくりだったが、待合所の敷居をまたぐ時だけ、少しだけ早くなった。


 「おはようございます」


 祐が声をかけると、千代は入口で立ち止まり、室内を見回した。名札棚。畳座布団。白い紙札。蝶の標本箱。窓辺の団扇。どれも昨日までと同じものなのに、人を迎える朝の光を受けると、少し違って見える。


 「まあ」


 千代はそれだけ言い、籠を裕子に差し出した。


 「蜜柑、まだ酸っぱいけどね。置いといて」


 「差し入れ記録に書きます。数は」


 「数えるの?」


 「食べ物は揉めます」


 裕子がきっぱり言うと、壮翔が視線をそらした。


 「なぜ俺を見る」


 「前例が歩いているからです」


 千代が声を立てて笑った。笑い声に誘われるように、次の船を待つ島の男性が入ってくる。帽子を胸の前で持ち、名札棚を見て、すぐには近づかない。文香が棚の前に座ったまま、顔だけを上げた。


 「見ますか」


 「……ええかな」


 「係がつきます」


 文香は棚の鍵を開けず、まず祐の方を見た。祐は同意確認用紙を持って近づいた。男性は自分の名前を書き、公開範囲の説明を聞き、少し震える指で一枚の名札を指した。


 「これ、兄貴のや」


 声が、そこで細くなった。


 明純が何か言いかけた。すぐに愛衣子が袖を引いた。明純は口を閉じ、水の入った紙コップをそっと机の端へ置いた。


 男性はそれを見て、目尻だけで礼をした。


 祐は名札を取り出さず、文香へ確認する。文香は薄い布の下に指を入れ、支えるようにして棚から一枚を出した。名札の角には、診療所で聞いた頃と同じ形式の縫い目がある。八重の手の可能性がある縫い目だった。


 男性は名札に触れなかった。


 「ここに置いとって。兄貴、島へ帰れんままやったけん」


 文香がうなずく。


 「保管で記録します」


 「頼みます」


 祐は返却簿に、保管希望と書いた。声にしない願いが、またひとつ棚へ戻った。


 八時前になると、待合所は思ったよりにぎわった。といっても、人であふれるほどではない。船を待つ人、名札を見に来た人、白い紙札に行き先を書く人、ただ涼みに来た人。淡名島へ渡る前に座布団へ腰を下ろした旅人が、窓辺の団扇を手に取り、遠慮がちにあおいだ。


 「団扇、使っていいですか」


 旅人の女性が尋ねる。


 明純が一歩前に出た。


 「どうぞ。戻す場所は窓辺の竹籠です。船酔いしそうな時は、無理に船室の奥へ入らず、船員さんに声をかけてください」


 祐は思わず顔を上げた。


 昨日の練習では、明純は団扇の説明を三倍の長さで話していた。今の言い方は短く、必要な分だけだった。


 愛衣子が隣で小さく丸を作る。明純は得意げに胸を張りかけ、すぐに旅人の足元に目を落とした。


 「荷物、ここに置けます。通路は空けてください」


 裕子が遠くから赤い付箋を持ったまま言った。


 「今のはいいです」


 明純がにやっと笑う。


 「褒められた」


 「調子に乗ったら取り消します」


 「はい」


 壮翔はその横で、畳座布団の位置を直そうとしていた。裕子の視線が飛ぶ。


 「触らない」


 「人の流れを見て微調整を」


 「触らない」


 「はい」


 それでも壮翔は、座ろうとした年配の女性の杖が倒れないよう、椅子の脚元にそっと手を添えた。声は大きいが、そういう動きだけは早い。文香は名札棚から顔を上げ、その手元を見ていた。


 九時を過ぎたころ、港から小さな台車が近づいてきた。台車の上には、包みが二つ載っている。ひとつは畳縁の布で包まれた細長い箱。もうひとつは、茶色の紙封筒だった。


 配達員が伝票を差し出す。


 「淡名渡船待合所さん宛てです」


 「さん?」


 裕子が眉を上げる。


 「宛名がそうなってます」


 祐が受け取り欄へ署名した。送り主は倉敷の畳職人。箱の中には、小さな畳座布団の追加分が二枚入っていた。畳の裏に、短い手紙が挟まれている。


 船酔いで泣いた子どもが座れるように。あの時、団扇で背中をあおいでもらった礼です。


 文香は手紙を両手で持った。母の名前は書かれていない。けれど、八重が誰かの背中をあおいだ記憶は、確かにここへ戻ってきた。


 茶色の封筒は、高松のうどん屋からだった。中には出汁の取り方と、開放の日に間に合わなかったことを詫びる一筆が入っていた。最後に、待合所で食べ物を出す時は衛生管理を忘れないように、と書かれている。


 「ほら、食べ物は管理が大事」


 裕子が勝ち誇った顔をする。


 「じゃこ天の件を永遠に言われる」


 壮翔が空を仰ぐ。


 「永遠ではありません。最低一年です」


 進祐の声が入口からした。


 一同が振り返る。進祐は書類鞄を片手に、開放時間の掲示を見上げていた。休日用の軽い服装ではなく、いつものように襟のあるシャツを着ている。


 「仮開放の初日なので、状況を見に来ました」


 「抜き打ちですか」


 壮翔が言う。


 「掲示通りの時間に来ています」


 「真面目な抜き打ちだ」


 裕子が壮翔の足を踏んだ。


 進祐は室内をゆっくり見た。入口の段差、名簿の位置、苦情箱、名札棚、窓の開け方、日よけ布、温度計、団扇の籠、床の補修箇所。褒める言葉はない。ただ、見落としがないかを拾う目だった。


 祐は少し背筋を伸ばした。


 「来訪者は現在二十三名。名札閲覧は四件、保管希望の確認が一件。苦情はまだありません」


 「まだ、が大事です」


 進祐は苦情箱を見た。


 「入口正面から外したんですね」


 「裕子さんの判断です」


 「良いと思います」


 裕子が一瞬だけ、赤い付箋を落としそうになった。


 進祐は名札棚の前に座る文香へ目を向けた。


 「鍵は」


 「私が持っています。開ける時は祐さんか裕子さんが記録します」


 「閲覧者が多い時は」


 「一組ずつ」


 「拒否があった名札は」


 「非公開箱。展示しません」


 文香の返事は短い。けれど、迷いはなかった。進祐はうなずき、返却簿へ視線を落とした。


 「続けられる形に近づいています」


 それは、進祐にしては充分すぎるほどの言葉だった。


 十時五分前、信清が外から戻ってきた。


 「風が上がる。閉める時間や」


 まだ待合所に残っていた旅人が、名残惜しそうに白い紙札を見上げた。明純がすぐに声を出す。


 「本日の開放は十時までです。次回の開放予定は入口の掲示をご確認ください。船に乗る方は、足元に気をつけて港へ進んでください」


 昨日よりも、ずっと短い案内だった。


 愛衣子は名簿を閉じ、来訪者数を数える。裕子は苦情箱を確認し、空であることを記録した。壮翔は畳座布団を一枚ずつ持ち上げ、忘れ物がないか見る。文香は名札棚の鍵を閉め、指で一度だけ鍵穴を押さえた。


 最後に千代が入口で振り返った。


 「また来るけえね」


 文香は立ったまま、少し頭を下げた。


 「はい」


 その声は、港の音に紛れそうなほど小さかった。それでも千代には届いた。千代は満足そうに笑い、蜜柑の籠だけを残して坂道へ戻っていった。


 戸を閉めると、待合所の中は急に静かになった。


 祐は来訪者名簿の数字を確認し、返却簿の横へ置く。二十八名。名札閲覧五件。保管希望一件。写真希望なし。苦情なし。忘れ物なし。体調不良なし。閉鎖時刻、十時二分。


 たった三時間の数字だった。


 けれど、閉鎖予定の貼り紙だけが残っていた場所に、人が座り、名前を確かめ、団扇を使い、また来ると言って帰った。その事実は、数字の欄からは少しはみ出している。


 裕子が窓を閉めながら言った。


 「浮かれないでください。初日は珍しさで来ます。次からが本番です」


 「はい」


 祐はうなずく。


 壮翔が蜜柑の籠をのぞいた。


 「では、浮かれずに一個だけ」


 「差し入れ記録を書いてから」


 「蜜柑にまで台帳が」


 「食べた人の名前も書きます」


 「俺を信じろ」


 「前例が歩いています」


 明純が吹き出し、愛衣子も笑った。信清は窓の外へ目を向け、風で白くなり始めた波を見ている。進祐は何も言わず、掲示の角を軽く押さえてから外へ出た。


 文香は名札棚の前に残った。


 祐が近づくと、文香は小さく息を吐いた。


 「開いたね」


 「三時間だけです」


 「うん」


 文香はそれ以上言わなかった。けれど、指先は棚の鍵を握ったまま離れない。


 祐は、閉鎖予定の貼り紙がはがされた壁を見る。そこにはまだ、古い紙の跡が四角く残っていた。消えない跡。貼り直された掲示。揺れる団扇。畳の匂い。白い紙札。


 終わったのではない。


 始まったのでもない。


 今日から、続けるかどうかを毎朝試される。


 祐は管理表の次の欄に、明日の開放準備と書いた。


 文香がその文字を見て、短く言う。


 「字、曲がってる」


 「裕子さんみたいなことを」


 「第一印象が肝心だから」


 祐はペンを持ち直し、字の下にまっすぐ線を引いた。


 窓の外で、淡名島へ向かう船がゆっくり離れていく。誰かが船の上から団扇を振った。待合所の中で、千代が置いていった蜜柑の匂いが、古い木の匂いに少しずつ混じった。


 仮開放初日の朝は、十時を過ぎても、まだ戸口のあたりに残っていた。



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