第35話 文香の名札
朝の待合所は、昨日の紙札の白さをまだ知らない顔をしていた。
港へ降りる坂道の石垣には、雨のあとに残った水が細い筋になって光っている。潮は引きかけで、桟橋の柱には濃い線がいくつも残っていた。淡名島へ向かう一便目はまだ出ていない。船のエンジン音が遠くで低く試されるたび、待合所の古いガラスがわずかに震えた。
文香はいつもの鍵束を持って、淡名渡船待合所の扉を開けた。
木の扉は、下の角が少しだけ床に擦れる。補修で張り替えた床板は乾いた音を返し、残した古い板は、足を置く場所によって音が違った。文香はそれを耳で確かめながら、名札棚の前まで行く。棚の上には、祐が昨夜置いた小さな紙があった。
今日の確認。
非公開箱の封筒、鍵管理表、白い紙札の予備、標本箱の湿度。
几帳面な文字だった。最後の行だけ、少し余白が広い。
文香さんの名札は、急がなくていいです。
文香はその行を見て、しばらく動かなかった。
祐は急かさない。急かされないことが、かえって胸の奥を押すことがある。誰かに「今日決めなくていい」と言われると、今日まで決めずに置いてきた時間が、棚の奥から音もなく出てくる。
非公開箱は、名札棚の一番下にあった。
厚めの木箱で、裕子が「鍵付きのものを使って」と言い、壮翔が「秘密のおやつ箱みたい」と言い、全員に無視された箱だ。文香は鍵を差し込む。金具がかちりと鳴った。その音は小さかったが、朝の待合所では、桟橋の鎖よりもはっきり聞こえた。
中には、返却を望まれなかった名札、公開しない希望が書かれた封筒、本人確認がまだ終わっていない布片が、紙で包まれて並んでいる。どれも名前が見えないよう、裕子の字で番号が振られていた。
文香は一番奥に入れた薄い封筒を取った。
封筒には、番号がない。
自分のものだから、番号を振らなかった。いいえ、振れなかった。そう言い直す声が、胸の中で静かに上がった。
封を開くと、淡い色の布が出てきた。海に長く晒されたわけではない。待合所の棚と、祖母の箪笥と、潮紙堂の引き出しを渡ってきた布の色だ。もともとは薄桃だったのか、白だったのか、もう判別できない。名札の角には、子どもの指で無理に糸を引いた跡がある。縫い目の片側だけが乱れ、片側は、今治で見た帆布の縫い方に似ていた。
八重の縫い目。
文香は布を畳の上に置いた。指先で押さえると、名札は平らに見えた。けれど、角のほつれはまだ残っている。自分で直せる。そう分かっているのに、針を持つ気になれなかった。
直したら、母が縫った跡の乱れも、自分がほどこうとした跡も、少しだけ見えにくくなる。
それが惜しいのか、怖いのか、文香にはまだ分からなかった。
扉の外で足音が止まった。
「開いていますか」
祐の声だった。
「開いてる」
文香が答えると、祐は一拍置いてから入ってきた。片手に薄いファイル、もう片手に湯気の立つ紙コップを二つ持っている。コーヒーではなく、麦茶を温めたものだ。潮紙堂で夜まで作業した翌朝、文香が冷たいものを飲まないことを、祐はいつのまにか覚えていた。
祐は名札を見て、足を止めた。
すぐに何かを言わなかった。紙コップを長椅子の端に置き、ファイルを畳の手前に置く。そこに座るか迷ったように膝を曲げかけ、結局、少し離れた場所に腰を下ろした。
「記録欄、持ってきました」
「うん」
「選択肢も」
祐はファイルを開いた。そこには、いつもの返却簿とは別に、文香のためだけに書かれた紙が挟まっていた。
一、本人へ返却。
二、本人が所持。
三、待合所で保管。
四、待合所で非公開保管。
五、写しだけ作る。
六、まだ決めない。
六番目の欄だけ、線が少し長かった。
「六番、ずるい」
文香が言うと、祐は少し首をかしげた。
「ずるいですか」
「逃げ道」
「必要です」
祐は、静かにそう言った。
文香は名札を見下ろした。逃げ道があると、人はそこへ逃げる。そう思っていた。だから、母がいなくなった日の自分にも、泣かないという細い道を一つだけ作った。泣くことをやめれば、祖母を困らせずにすむ。泣くことをやめれば、待合所へ来ても、誰からも可哀そうだという目で見られずにすむ。泣くことをやめれば、母を待っている自分を、誰にも見せずにすむ。
逃げ道だったのかもしれない。
それでも、その道を通って、今日まで来た。
「これ」
文香は名札の左下を指した。
「ここ、私がほどいた」
祐は近づきすぎず、少し身を乗り出して見た。
「どうしてですか」
問い方が、責めていなかった。だから文香は、答えられた。
「母が戻ったら、新しいのを縫うって言ったから。古いのがあったら、戻らない気がした」
言ってから、自分でも子どもじみていると思った。けれど、祐は笑わなかった。ノートを開こうともせず、手を膝に置いたまま聞いていた。
「戻ってほしかったんですね」
「うん」
「それで、残ってほしくなかった」
「うん」
「でも、捨てなかった」
文香は名札から目を離せなかった。
捨てなかったのは祖母だ。そう言えば済む。けれど、祖母が亡くなったあと、箪笥の奥からこの名札を見つけた時、自分は潮紙堂の一番湿気の少ない引き出しにしまった。見たくないものを、傷まない場所へ入れた。その動きに、もう答えは少し出ていたのかもしれない。
「捨てたくなかった」
文香がそう言うと、祐はただうなずいた。
外で、壮翔の声がした。
「開いてる? いや、開いているなら返事を待たずに入るのが人情」
「待って」
文香が言う前に、祐が扉へ向かって声を出した。
「今は待ってください」
扉の向こうで、足音がぴたりと止まる。
「お、祐くんが珍しく命令した。これは中で重大な作業が進んでいるな。じゃあ俺はこの命に代えても外で待つ」
「命はいらないので、帆布を畳んでください」
「はい」
壮翔の声が遠ざかり、代わりに裕子の声がした。
「勝手に聞くな。帆布は角をそろえて」
「そろえてるよ」
「斜め」
いつものやり取りが扉の外でほどけていく。文香は少し息を吐いた。誰かが外でふざけている。それだけで、中の沈黙が深くなりすぎずにすむ。
祐はファイルの端に、もう一枚の紙を置いた。
「修繕する場合の記録です。どこを残して、どこを直すか」
そこには、名札の図が描かれていた。角、縫い目、紐を通す穴、裏側の汚れ。ひとつひとつに小さな空欄がある。文香がいつも他人の名札へ作ってきた修繕記録と同じだ。
同じに扱われることが、少し悔しかった。
同じに扱われることが、少し助かった。
「母の縫い目は残す」
文香は言った。
祐がペンを取る。
「はい」
「私がほどいたところも、残す」
「はい」
「紐だけ替える。今の紐だと、棚に掛けた時に切れる」
「紐を交換。古い紐は保管」
祐が復唱しながら書く。その声は、駅で乗り換えを案内する時と似ていた。行き先を押しつけず、次の足場だけを示す声だ。
文香は紙コップの麦茶を取った。ぬるくなりかけている。唇に触れると、朝の待合所に似た薄い温度がした。
「祐」
「はい」
「この名札、返却先は、私?」
祐はすぐに答えなかった。ノートへ何かを書こうとして、ペンを止める。
「文香さんが決める欄です」
「それは分かってる」
「でしたら、僕は書きません」
少しだけ、文香は笑った。
「頑固」
「そうですか」
「うん」
扉が控えめに二度叩かれた。
「入っていい?」
裕子だった。
文香は名札を紙の上に置いたまま、扉を見た。祐が立ち上がりかける。文香は首を振った。
「いい」
裕子は扉を開け、すぐに名札に気づいた。いつものように何か言いそうな顔をして、唇を閉じる。手には、白い布巾と赤い鉛筆を持っていた。
「長椅子、拭きに来ただけ」
「昨日の紙札」
「書いたから」
裕子は照れ隠しのように言い、長椅子を拭き始めた。けれど、布巾を動かす音がいつもよりゆっくりだった。拭きながら、視線だけが名札へ一度落ちる。何か言えばよかったのか、言わない方がよかったのか、決めかねる人の手つきだった。
文香は名札を持ち上げた。
「母の縫い目」
裕子は布巾を止めた。
「うん」
「私がほどいた跡」
「うん」
「どっちも残す」
裕子はしばらく黙り、赤い鉛筆を布巾の上に置いた。
「その方がいい」
短い返事だった。文香はうなずいた。
壮翔と明純、愛衣子は、そのあと少し時間を置いて入ってきた。壮翔は入るなり何か大げさなことを言いかけ、裕子に手のひらで止められる。明純は声を落としすぎて、逆に不自然なささやき声になった。
「おはようございます」
「ふつうでいい」
文香が言うと、明純は背筋を伸ばした。
「はい。ふつうのおはようございます」
愛衣子は小さな箱を持っていた。昨日の床下整理で余った、貝ボタンを入れた箱だ。
「これ、標本箱の下に置く小箱と同じ紙で、仕切りを作ってみました。名札の古い紐を入れるなら、湿気を少し避けられると思って」
言い終えてから、愛衣子は自分が踏み込みすぎたのではないかと目を伏せた。文香は小箱を受け取る。中には、薄い紙で作られた仕切りが二つあった。母が小豆島で残した折り方に似ている。
「使う」
愛衣子の顔が明るくなりかけ、すぐに落ち着いた。
「はい」
信清は少し遅れて来た。桟橋で船長と話していたのだろう。肩に潮の匂いがついている。彼は名札を見ると、帽子を脱いだ。
「それは、文香のか」
「うん」
「そうか」
それだけ言って、信清は標本箱の湿度計を見た。余計な言葉を足さない人の沈黙は、朝の海に似ていた。近いのに、押してこない。
全員がそろうと、待合所は急に狭くなった。けれど、不思議と苦しくはなかった。長椅子、名札棚、標本箱、白い紙札の予備、帆布の束。どれも、この数週間で少しずつ場所を決めてきたものだ。文香の名札だけが、まだどこにも属していなかった。
祐が返却簿を開く。
文香はペンを取った。いつも使う細い黒ペンではなく、裕子が用意した公的な記録用のペンだ。少し太い。手に重みがある。
氏名欄。
文香は自分の名前を書いた。文字の一画目が少し震えた。祐は見ないふりをした。裕子は本当に見ないで、長椅子の脚を拭いていた。壮翔は息を止めすぎて咳をし、明純に背中を叩かれた。
返却先。
ペン先が止まる。
自分へ、と書けば、持ち帰れる。潮紙堂の引き出しへ戻せる。母の手紙と一緒に、誰にも見せずにしまっておける。非公開保管、と書けば、待合所に置いたまま、誰にも見せずにすむ。それも悪くない。
けれど、この待合所は、母を待った場所だけではなくなった。
千代が笑った場所。畳職人が座布団を送ると約束した場所。うどん屋の湯気の手紙が届いた場所。下関の男性が写真だけを選んだあと、それを尊重できるようになった場所。裕子が謝りに行き、白い紙札を作った場所。明純が声の大きさを覚え、信清が船を止める言葉を持ち、壮翔が毛布を運ぶ場所。
母のためだけではない。
文香は、返却先の欄にゆっくり書いた。
淡名渡船待合所。
希望。
保管。
理由。
ここで手が止まった。
言葉にすると、軽くなるものがある。けれど、書かなければ誰かが別の言葉を当てる。母を許したから。母を忘れたいから。かわいそうな思い出を乗り越えたから。そういう言葉は、どれも違った。
文香は息を吸った。
ここから歩き直すため。
書き終えると、待合所の外で一便目の汽笛が鳴った。
誰も拍手しなかった。壮翔だけが一度手を上げかけ、裕子に肩を押さえられた。祐は返却簿を閉じず、そのまま乾くのを待った。
「展示は?」
裕子が聞いた。仕事の声だった。だから文香も答えやすかった。
「しない」
「保管場所は?」
「標本箱の下。引き出しの奥。鍵は私」
「公開説明は?」
「私の名札があることだけ。文字は見せない」
裕子はうなずき、赤い鉛筆で別紙に短く書いた。文香はその紙を見て、少し肩の力が抜けた。決めるとは、全部を外へ出すことではない。見せない場所を、自分で決めることでもある。
名札の紐を替える作業は、昼前に始まった。
文香は修繕台を待合所の窓辺へ運び、白い布を敷いた。祐が記録係として横に座る。裕子は費用表を直すふりをしながら、こちらを見ないようにしている。壮翔は外で帆布を畳み直し、今度は本当に角がそろっていた。明純は来訪者に「今は名札の修繕中なので、棚には触れないでください」と声を抑えて案内する。愛衣子は古い紐を入れる小箱を開け、信清は窓の外から風が強くなりすぎないか見ている。
針を布へ通す。
母の縫い目には触れない。子どもの文香がほどいた跡にも触れない。その少し外側に、今の文香の糸を置く。
針が一目進むたび、幼い日の足音が遠ざかるわけではなかった。母の背中が薄くなるわけでもない。祖母の手の温度が戻るわけでもない。
ただ、待合所の床に落ちた朝の光の中で、布の上に新しい糸が一本ずつ加わっていく。
八重の糸。
子どもの文香がほどいた跡。
今の文香の糸。
それらは、仲よく並んでいるわけではなかった。まっすぐでもない。少しずつ距離を取り、時々近づき、ほつれを避けながら、名札の端を支えている。
「文香さん」
祐が小さく呼んだ。
「何」
「写真、撮りますか。記録用に」
文香は針を止めた。名札の文字を外へ出すことになる。けれど、記録用で公開しない写真なら、後で修繕の状態を確認できる。
「文字は写さない。縫い目だけ」
「はい」
祐は角度を変え、縫い目だけを撮った。画面を文香に見せる。そこには、名札の一部だけが映っていた。名前は読めない。ただ、三つの時間が、同じ布の上にあることだけが分かる。
「それでいい」
文香は作業を続けた。
紐を替え終えた頃、外の白い紙札板に最初の来訪者が立っていた。高松から来た若い夫婦が、船を待つ間に一枚書いている。個人名はない。ただ、「淡名島へ、風を見に」と書かれていた。明純が少し離れた場所で見守り、書き終えた紙札を板の低い位置に掛けるよう案内している。
文香は名札を手のひらに乗せた。
首から下げるには、少し軽い。長くしまわれていた布の重みは、手に乗せると軽すぎる。軽いのに、なかなか離せなかった。
「持ち帰ってもいいんですよ」
祐が言った。
「持ち帰らない」
「はい」
「でも、見せない」
「はい」
「ここに置く」
「はい」
その返事が、同意書の確認みたいで、文香は少しだけ笑った。
「案内所の人みたい」
「案内所の人です」
「そうだった」
祐も少し笑った。
標本箱の下の引き出しを開ける。蝶の標本は上段で、薄い光を受けている。八重の説明札には、季節ごとに別の命が道を継ぐ、と書かれている。文香はその下に、小さな紙箱を置いた。愛衣子の仕切りに古い紐を入れ、修繕記録を畳み、名札をその横へ置く。
引き出しを閉める前に、文香は一度だけ名札へ指を触れた。
母を許したわけではない。
母を忘れたわけでもない。
泣かなかった子どもの自分を、褒めるわけでも叱るわけでもない。
ただ、その子が握っていた布を、今の自分がここへ置く。
鍵を回す。
かちり、と音がした。
待合所の外では、船が淡名島へ向かって出ていく。波が岸壁に当たり、団扇が一枚、窓辺でかすかに揺れた。
壮翔が外から顔を出した。
「終わった?」
「終わった」
文香が答えると、壮翔は胸を張った。
「では、終わった記念にじゃこ天を」
「何で毎回食べ物なの」
裕子の声が飛ぶ。
「腹が減るから」
「理由が雑」
明純が笑い、愛衣子も口元を押さえた。信清は何も言わず、窓の外を見ている。祐は返却簿を閉じ、表紙を指で軽く押さえた。
文香は名札棚の前に座った。
そこは、昔、母を待った場所だった。祖母の手を振りほどきたくて、でも振りほどけなかった場所だった。もう泣かないと決めた場所だった。
今は、誰かの名札を預かる場所でもある。
窓から入った風が、白い紙札を揺らした。港へ来た人の短い行き先が、光の中で小さく揺れている。
祐が名前を呼ぶ。
「文香さん」
「何」
「鍵管理表、次の欄もお願いします」
感動的な言葉ではなかった。拍子抜けするほど、いつもの仕事だった。
文香は鍵束を手に取り、管理表を引き寄せる。
「書く」
ペンを持つ手は、もう震えていなかった。
待合所の朝は、少しずつ昼へ移っていく。海の匂い、古い木の音、帆布のこすれる音、裕子の注意、壮翔の空腹、明純の案内、愛衣子の小箱、信清の潮を見る横顔、祐のノート。
その全部の中に、文香の名札はしまわれた。
見せるためではない。
消さないために。




