第34話 裕子、謝りに行く
翌朝、裕子は商店街の共同掲示板の前で、手帳を開いたまま立ち止まっていた。
淡名渡船待合所へ向かう道は、朝のうちはまだ石畳に影が残っている。魚屋の発泡箱から溶けた氷の水が細く流れ、乾物屋の軒先では、干した小魚が薄い銀色に光っていた。仮開放が始まってから、港へ向かう人の足取りは少しだけ変わった。立ち止まって時刻表を眺める人、団扇を借りて戻しに来る人、長椅子の話をする人。目立つほどではない。けれど、閉まったシャッターの前をただ通り過ぎていた頃とは違う。
そのぶん、商店街の人たちも待合所を見る目を変え始めていた。
裕子の手帳には、朝から同じ一文が何度も書かれている。
あの時は、言い方がよくありませんでした。
その下には、線で消した文がいくつも並んでいた。
売り物にしようとしたこと自体は理解できます。
名札を軽く扱ったように見えて腹が立ちました。
腹が立ったのは私の都合です。
どれも途中で止まっている。裕子は手帳を閉じ、もう一度開き、また閉じた。
「紙がかわいそう」
背後から声がして、裕子は振り返った。文香が紙袋を抱えて立っている。紙袋の口から、細く切った白い紙と、淡い生成りの糸が少し見えていた。
「何が」
「消されすぎ」
「練習よ。謝罪は下書きが必要なの」
文香は、裕子の手帳へ視線を落とし、すぐに目を戻した。
「本番、短くていい」
「あなたが言うと、重みがあるわね」
「長いと、逃げ道がなくなる」
裕子は手帳を胸に押し当てた。文香はもう先を歩き出している。朝の光が、文香の横顔に斜めに当たっていた。裕子はその背中を追いかけながら、商店街の端にある雑貨店「浜木綿屋」の看板を見た。
浜木綿屋は、観光客向けの手拭い、古い絵葉書、船の形をした箸置き、港の猫を描いた小皿を置く小さな店だった。店主の里枝は、以前、淡い名札に似せた飾りを売り出したいと提案した人である。名札風の布札に来訪者が名前を書き、店先に掛ける。そうすれば、待合所の話題が広がる。商店街にも人が回る。
裕子は、その場で言った。
「人の名札を見世物にする気ですか」
言い終わってから、里枝の顔色が変わったことに気づいた。けれど、その時の裕子は止まれなかった。模倣という言葉が頭に浮かんだ瞬間、文香が修繕台の前で名札へ針を入れる手が浮かび、口の中に熱いものが上がってきた。
正しい線引きだったと思う。名札を売り物にしない。それは、今でも変わらない。
ただ、線を引く時に、相手の立つ場所まで削った。
浜木綿屋の戸は半分だけ開いていた。中から、紙を切る小さな音がする。裕子が戸の前で立ち止まると、文香が紙袋を持ち替えた。
「入る?」
「入るわよ」
「声、大きい」
「まだ何も言ってない」
文香はうなずきもしなかった。けれど、その無言が妙に落ち着いた。裕子は一度息を吸い、戸を開けた。
店の中は、乾いた木の匂いがした。壁には尾路町の古い港を描いた絵葉書が並び、窓際には、貝殻を入れた小瓶が置かれている。里枝は奥の台で値札を切っていた。裕子たちに気づくと、手を止めた。
「おはようございます」
裕子は頭を下げた。深く下げすぎて、鼻先が手帳に当たる。文香が横で少しだけ紙袋を持ち上げた。支えるでもなく、急かすでもない。ただ、そこにいる。
「先日は、言い方がよくありませんでした」
手帳に書いた一文は、思ったよりも短く出た。
里枝は、切りかけの値札を指先で押さえた。
「言い方だけ?」
裕子は口を開きかけた。反射的に、こちらの正しさを並べそうになった。名札は個人の記憶で、商いの飾りではなく、公開範囲を確認しなければならず、文香が何枚も湿気を抜いて、糸を直して、非公開箱まで作っている。
言えることは山ほどある。
その山を、裕子は舌の奥で押さえた。
「言い方だけではありません。里枝さんが、商店街へ人を戻そうとしていたことを、私が切り捨てました」
店の外で、台車の車輪が石畳をこする音がした。里枝は目を伏せ、値札から指を離した。
「待合所が少し賑わってきたでしょう。うちの前も、人は通るんです。でもね、通るだけなんですよ。みんな港を見て、写真を撮って、船に乗る。店の中には入らない。うちだけじゃない。隣の履物屋さんも、向かいの茶舗も、昼過ぎには誰も来ない日がある」
裕子はうなずいた。
里枝は言葉を続けた。
「名札を売り物にしたいわけじゃなかった、と言ったら嘘になります。売れたら助かるもの。でも、それだけでもなかった。待合所に行った人が、商店街でも何か残してくれたら、道がつながると思ったんです」
裕子の手帳を握る手に力が入った。名札を守るための言葉で、商店街の不安を黙らせたのだと、ようやく腹の底で分かった。
「申し訳ありません」
今度は、手帳を見なかった。
里枝はすぐには答えなかった。窓の外で、通学途中の子どもが走っていく。ランドセルの横で、水筒が揺れていた。
「謝られると、こちらも困りますね」
「困ってください。私も困っています」
文香が、そこで紙袋を台の上に置いた。
「別の形、考えた」
里枝が紙袋をのぞき込む。中には、手のひらより少し小さい白い紙片が入っていた。どれも角を丸く切ってあり、上の端に小さな穴が開けられている。その穴には、淡い生成りの糸が一本通る予定だった。
「名札ではありません」
裕子は言った。
「名札に似せません。布にも寄せません。名前も書きません。来訪した人が、これから向かう場所や、待合所で一息ついた感想を一言だけ書く紙札です。個人名、住所、連絡先、学校名は書かない決まりにします。掛ける場所も、待合所ではなく、商店街側に専用の板を一枚作る。一定期間で外して、公開できるものだけ台紙へ貼り、あとは回収します」
里枝は一枚取り、指先で紙の端を撫でた。
「白いのね」
「文香さんが、色をつけない方がいいと言いました」
「名札の代わりじゃないから」
文香は短く言った。
里枝は少し笑った。
「でも、糸はつけるの」
「紙が飛ぶ」
「実用ね」
「それと、少しだけ、つながる」
文香の声はいつも通り小さかった。けれど裕子には、その一言が紙札の中心を決めたように聞こえた。
里枝は白い紙札を台に置き、戸棚から古い木の板を出した。以前、絵葉書を飾るために使っていた板らしい。釘穴がいくつもあり、少し反っている。
「これ、使えるかしら」
裕子はすぐに寸法を測りたくなった。けれど、文香が先に板を手に取った。
「反り、少し。削れば平気」
「待合所には置かないわよ」
「置かない」
「港の手すりにも結ばせない」
「結ばせない」
「個人名を書いたら外す」
「外す」
文香の返事が続くたび、里枝の口元が緩んだ。裕子は手帳を開き、規則案を書き出した。
一、紙札に個人名を書かない。
二、行き先、感想、船を待つ間の一言まで。
三、掲示は商店街の専用板のみ。
四、毎週水曜に回収。
五、個人名、連絡先、学校名、病院名などが書かれたものは掲示しない。
六、回収後の扱いは商店街と待合所管理簿に記録。
書きながら、裕子は少しだけ笑った。
「結局、規則だらけね」
「裕子さんの仕事」
文香が白い紙札へ糸を通しながら言った。
里枝は奥から小さな箱を持ってきた。中には、生成り、淡い水色、薄い茶色の糸が入っている。
「これ、使って。昔、手拭いのタグに使っていた糸です。もう同じ商品は作っていないから、余っています」
文香は糸を見て、少しだけ目を細めた。
「淡い色で統一します。目立ちすぎないように」
「目立たないと、お客さんが見ないんじゃない?」
里枝が言うと、裕子は手帳を閉じた。
「見つけた人が、少し近づけば読めるくらいにしましょう。遠くから叫ぶような飾りにしない。待合所がそういう場所なので」
里枝はしばらく黙り、それから台の上の白い紙札を一枚、窓の光に透かした。
「叫ばなくても、人は来るかしら」
裕子はすぐに答えられなかった。
その時、店の戸が勢いよく開いた。
「裕子さん、謝罪の進み具合はいかがでしょうか」
壮翔が顔を出した。片手に、なぜか大きな団扇を持っている。後ろには祐が立っていて、止めるのに間に合わなかった顔をしていた。
「出ていって」
「まだ何もしてない」
「今ので十分です」
壮翔は胸を押さえた。
「この命に代えても、場を和ませようと」
「その命を軽く使わないで」
里枝が吹き出した。文香は糸を通す手を止めず、祐は入口で申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。待合所の日よけ布の見本を見に来ると言って、ここへ」
「日よけ布?」
裕子が聞き返すと、里枝は店の奥を指差した。
「実は、昔仕入れた生成りの帆布が残っているんです。棚の奥で眠っているだけだから、日よけに使えるなら、仕入れ値で出します。模様はありません。無地です。名札にも似ていません」
最後の一言で、裕子は小さく息を詰めた。里枝の声には棘が少しだけ残っていた。残っていて当然だと思った。
「ありがとうございます。費用表に入れます。無理のない金額にしてください。寄付扱いにすると、あとで里枝さんの負担だけが大きくなります」
「そこまで考えるのね」
「考えます。あとで揉めると、待合所も商店街も疲れます」
祐が入口から口を挟んだ。
「交通案内所の掲示にも、商店街の紙札板を載せられます。『待合所の名札とは別です』と明記して。船を待つ時間に、商店街を歩ける動線として」
裕子は祐を見た。
「先に言ってください」
「今、言いました」
「もっと早く」
「すみません」
壮翔が団扇で自分をあおぎながら、店内を見回した。
「じゃあ、紙札板の横に椅子も置きましょう。人は座ると財布の紐が」
「黙って」
「まだ最後まで言ってない」
「言わなくても分かるから」
里枝は笑いながら、奥の棚から帆布を引っ張り出した。布は巻かれたまま年月を過ごしていたらしく、端に少し埃が乗っている。文香がすぐに手を伸ばし、布の折り目を確かめた。
「洗える。日よけにできる」
「待合所の窓、何間だったかしら」
「南側が二間弱。西側は短いです」
裕子が即答すると、壮翔が拍手した。
「さすが、寸法の女王」
「その呼び方をしたら、帆布代をあなたの宿の帳面に載せます」
「謹んで撤回します」
里枝は帆布を台に置き、裕子の前へ紙札を一枚差し出した。
「試しに書いてみます?」
裕子はペンを受け取った。白い紙札は薄いが、書くには十分な厚みがある。名札とは違う。誰かの名前を背負わない紙。けれど、待つ時間の小さな行き先を預かる紙。
何を書くか迷った。
文香が横からのぞき込む。
「謝りに来ました、は?」
「掲示できないでしょう」
「できる」
「できません」
祐が微笑んだ。
「行き先なら、待合所へ戻る、でしょうか」
裕子は少し考え、紙札に書いた。
帰りに、長椅子を拭く。
壮翔が首をかしげた。
「それ、行き先?」
「私の行き先です」
里枝は紙札を受け取り、専用板になる予定の木板へ仮に当てた。
「いいじゃない。地味で」
「褒めていますか」
「半分」
裕子はうなずいた。半分なら上等だった。
その日の昼、浜木綿屋の奥の作業台は、紙札作りの場になった。文香は紙の端を揃え、淡い糸を通す。裕子は規則案を清書し、祐は商店街から待合所までの案内文を作る。里枝は帆布の長さを測り、壮翔は木板を磨こうとして、削りすぎる前に祐に止められた。
途中で、茶舗の主人がのぞきに来た。
「何を始めたんです」
裕子は説明しようとして、里枝に視線を送った。里枝は少し驚いた顔をしたあと、紙札を一枚持ち上げた。
「名札ではない紙札です。待合所へ行った人が、商店街でも一言残せるようにします。名前は書かせません」
茶舗の主人は顎に手を当てた。
「うちの店先にも置けますか」
裕子は反射的に断りそうになり、息を止めた。広げすぎれば管理できない。だが、切り捨てればまた同じことになる。
「最初は一枚だけです。浜木綿屋の横に専用板を置きます。二週間見て、管理できるなら増やすか考えます」
「固いなあ」
「固いから、続きます」
茶舗の主人は笑って、冷たい番茶の入った水筒を差し入れてくれた。
午後になると、紙札は百枚ほどできた。淡い糸の端が、箱の中で小さく揺れている。名札の布とは違う白さだった。何も背負っていない白さで、だからこそ、これから書かれる一言を待っているように見えた。
裕子は規則案の最後に、もう一行足した。
待合所の名札と混同しないよう、説明文を必ず掲示する。
文香がそれを読んだ。
「大事」
「あなたの名札を、誰かの遊び道具にしないために」
「私のだけじゃない」
「そうね」
裕子はペンを置いた。
「みんなの、ね」
文香は小さくうなずいた。糸を通し終えた紙札を箱に入れ、蓋を閉じる。その動きは、名札を棚に戻す時より少し軽かった。似ているようで違う。裕子はその違いを、今度は見落とさなかった。
夕方、出来上がった木板を持って、全員で商店街の入口へ出た。浜木綿屋の横の壁は、港へ向かう人からも見え、店の邪魔にもならない。壮翔が位置を高くしすぎ、明純が通りかかって「子どもが読めません」と言い、裕子がすぐに低く直させた。
明純は紙札の箱を見て目を輝かせた。
「これ、絶対みんな書きますよ」
「書きすぎたら困るの」
「困るくらい来たら、うれしいじゃないですか」
「うれしいことほど、手順が必要」
明純は少し考え、それからうなずいた。
「じゃあ、案内係に、個人名を書かない説明も入れます」
「声を大きくしすぎないで」
「はい」
返事は軽かったが、明純はすぐに自分のメモ帳を出した。裕子はその様子を見て、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
板の上には、見本として裕子の紙札が一枚だけ掛けられた。
帰りに、長椅子を拭く。
里枝はそれを眺め、ぽつりと言った。
「これ、商店街の宣伝にはならないわね」
「なりません」
「でも、待合所へ行く人が、帰りにここを見たら、少し笑うかもしれない」
「それなら十分です」
裕子はそう言ってから、言葉を足した。
「人が笑って、少し止まれば、店の戸も見ます。たぶん」
「たぶん、なのね」
「確約はできません」
「会計の人らしい」
里枝は笑い、裕子も少しだけ笑った。
港から夕便の汽笛が聞こえた。待合所の窓辺には、帆布を合わせるための寸法メモが貼られている。あの布が日よけになれば、熱放射の午後に座る人の背中を少し守れる。浜木綿屋の棚の奥で眠っていた布が、待合所の暑さを和らげる。
つながる、という言葉を、裕子は簡単に使いたくなかった。けれど、白い紙札の糸が風で揺れるのを見ていると、店と港の間に細い線が一本渡ったように思えた。
祐が裕子の横に立った。
「言えましたね」
「下書きの半分も言えなかった」
「必要な分は言えていました」
「あなた、たまにそういう腹立つ言い方をするわね」
「すみません」
文香が紙札の箱を抱え直し、裕子を見た。
「戻る?」
「長椅子を拭くって書いたからね」
壮翔が大げさに団扇を掲げた。
「では、我々もこの命に代えて」
「あなたは帆布を運んで」
「はい」
全員が待合所へ向かって歩き出す。商店街の石畳は夕方の光を受け、ところどころ金色に見えた。裕子は途中で一度だけ振り返った。浜木綿屋の横に掛かった白い紙札は、まだ一枚だけだ。名札棚の重みとは違う。蝶の標本箱の静けさとも違う。
ただ、これから誰かが船を待つあいだに、行き先を一言だけ書く。
尾路町へ来ました。
淡名島へ渡ります。
団扇を返しに行きます。
もしかすると、そんな短い言葉が増える。増えすぎれば、また困る。困ったら、また規則を直す。叱りすぎたら、謝りに行く。
裕子は手帳を開き、最後の欄に書いた。
名札を守るために、商店街を遠ざけない。
ペン先を止めると、文香が横から見た。
「長い」
「分かってる」
「でも、いる」
裕子は手帳を閉じた。待合所の長椅子を拭くための布巾が、鞄の中で少し湿っている。朝の自分なら、それを忘れて別の誰かに任せたかもしれない。
けれど、紙札に書いてしまった。
帰りに、長椅子を拭く。
だから裕子は、港へ向かう足を少し速めた。




