第33話 信清が信じた船長
仮開放初日の前日、淡名渡船待合所は、朝から水を含んだ板の匂いがしていた。
夜の間に降った雨は上がっていたが、港の石畳には雲の切れ目が細く映り、長椅子の脚には、乾ききらない潮の粒が白く残っている。祐は案内表を壁に貼る前に、紙の四隅をもう一度押さえた。端が浮くと、誰かの袖が引っかかる。袖が引っかかると、その人は足元を見る。足元を見ると、渡船の出る時間を見落とす。
そんな順番まで考えるようになったのは、この待合所で名前を預かり始めてからだった。
明純は入口に立ち、昨日書いた案内係のメモを口の中で読み返していた。声を出す前に相手を見る。荷物、歩く速さ、帰り道。何度もなぞられた鉛筆の線は少し薄くなっている。愛衣子は紙コップの数を数え、裕子は来訪者名簿の角をそろえた。壮翔は畳座布団の位置を、昨日とまったく同じように直したつもりで、昨日と違う場所へ動かしていた。
「そこ、昨日は左から三枚目だった」
裕子が顔を上げずに言った。
「三枚目という数え方には、入口側か名札棚側かという重大な問題がある」
「入口側」
「はい」
壮翔は座布団を持ち上げ、素直に戻した。言い返す口は動いているのに、手だけは早い。文香は名札棚の前で、退院後に返す予定の船長の名札を薄紙に包んでいた。布の端は何度も濡れて乾いたらしく、青い糸が白っぽくなっている。針を入れるとき、文香はいつもより少し呼吸を浅くした。
信清は戸口の外にいた。桟橋の方を見ている。波は高くない。風も強くない。空は明るい。それなのに、信清の手は、腰に下げた古い手帳の表紙を押さえたまま動かなかった。
祐はそれに気づき、案内表の画びょうを打つ手を止めた。
「何か、ありますか」
信清はすぐには答えなかった。沖へ目を向け、次に船着き場の小屋へ視線を移した。
「一便目の船長が、まだ出てこん」
その声は低く、待合所の中へ静かに入ってきた。
明純が顔を上げた。
「遅れてるだけじゃないですか」
言ってから、明純は自分で口を押さえた。すぐに決めつけない。昨日のメモの二行目を思い出した顔だった。
信清は怒らず、桟橋の時計を見た。
「五分の遅れはある。十分快晴の朝なら、笑って待つ。けど、あの人が連絡なしに十分遅れることは、まずない」
祐は交通案内所へ電話をかけた。渡船会社の事務所は、まだ詳しい状況をつかめていなかった。船は点検済み。燃料も問題なし。船長の家へ連絡しているところだという。
待合所に、島へ渡る予定の人が三人入ってきた。淡名島の祖母へ会いに行く親子と、釣り竿を肩にかけた男性だった。親子の子どもは、首から新しい紙の名札を下げている。文香が昨日作った仮の名札だった。子どもは名札棚の古い布を見て、自分の札もそこへ掛けていいのかと目で尋ねていた。
明純が一歩出た。
「おはようございます。淡名行きの一便目は、いま確認中です。こちらの長椅子でお待ちください。お水、必要でしたらあります」
声は少しだけ高かったが、言葉の順番は落ち着いていた。
釣り竿の男性が眉を寄せた。
「確認中って、出るんか出んのか、どっちや」
明純の喉が小さく動いた。そこへ祐が横に立った。
「現在、船長さんの体調と船の出航可否を確認しています。安全が確認できるまで、出航時刻は決められません。代替の便が出せるかも含めて、わかり次第ここへ掲示します」
「急いどるんじゃ。向こうで人と待ち合わせしとる」
「連絡先がわかるなら、島側へ遅れを伝えます」
祐がそう言うと、男性は釣り竿を持ち替えた。怒りの向け先を少し失ったように、入口の外を見る。
「船長が寝坊しただけなら、文句の一つも言わせてもらうけぇの」
信清が、ゆっくり待合所へ入った。
「寝坊で済むなら、わしが一緒に文句を言う」
男性が信清を見た。信清は帽子を取らない。手帳を胸の前に持ち、釣り竿の先が人へ当たらないよう、そっと向きを変えた。
「だが、体が悪いときに無理して舵を握ったら、船長だけじゃ済まん。あんたも、向こうで待っとる人も、船を出した会社も、みんな危ない。いまは、止めるほうが早いこともある」
男性は何か言いかけた。けれど、信清の声が荒れていないせいで、怒鳴る拍子をつかめないようだった。
電話が鳴った。
祐が受話器を取る。事務所の声は、少し息が乱れていた。船長が自宅でめまいを訴え、家族が診療所へ連れて行った。命に関わる状態ではなさそうだが、今日の操船は無理。代わりの船長を呼ぶには、少なくとも一時間かかる。
祐は聞いた内容を復唱し、時刻を確認してメモした。裕子がすぐに掲示用の紙を引き寄せる。祐が言葉を整える前に、裕子は見出しを書いた。
「淡名行き一便目 船長体調不良のため遅延」
そこで赤ペンが止まる。
「体調不良、書いていい?」
文香が名札を包む手を止めた。祐は首を振った。
「細かくは書かないほうがいいです。乗務員交代のため、にしましょう」
裕子はうなずき、紙を新しくした。
「淡名行き一便目 乗務員交代のため遅延。次の案内は八時四十分」
「代替便の見込みは、確認中」
祐が足す。愛衣子は島側へ連絡する人の一覧を出し、明純は待合所にいる人の行き先を一人ずつ聞いた。釣り竿の男性の待ち合わせ相手には、信清が港の知人を通して伝えることになった。親子は祖母の家へ電話をかけ、子どもはほっとした顔で名札を握った。
その間、壮翔は宿へ走った。戻ってきたときには、手に乾いたタオルと、冷たい麦茶の入った小さな保冷箱を持っている。
「こういうときは、座る場所と飲むものがいる。俺の宿の宣伝はしてない。今のところ」
「最後の一言で信用を下げないで」
裕子が言いながらも、タオルを受け取った。
待合所の空気は、ざわついていた。それでも、前のようにただ騒がしいのとは違った。声はそれぞれの役割へ流れていく。裕子は掲示を直し、愛衣子は連絡済みの欄へ印をつけ、明純は子どもへ団扇を渡し、文香は名札棚の鍵を確認した。祐は交通案内所と渡船会社、進祐へ同じ内容を伝えた。
信清だけが、少し離れた長椅子に座った。
祐は電話を置いたあと、その隣へ行った。
「船長さん、信清さんの知っている方ですか」
「知っとるどころじゃない」
信清は、桟橋の先を見た。
「あの人に、一度、引き上げてもらった」
祐は黙って待った。
信清の手帳の表紙には、海水で膨らんだ跡があった。角が丸くなり、黒い革が薄茶色に擦れている。
「若い頃、わしは潮目を読み違えた。雨上がりで、水面だけ見れば穏やかだった。けど底の流れが変わっとった。小舟を出して、戻れんようになった。無線も調子が悪い。格好悪い話じゃ」
信清はそこで息を吐いた。
「そのとき、今日倒れた船長が、叱る前にロープを投げてくれた。岸に戻ってから、初めて怒鳴られた。先に助ける。あとで叱る。順番を間違えるなと言われた」
祐の胸に、その言葉が静かに落ちた。
待合所で名札を扱うときも、同じだった。先に守る。あとで聞く。先に休ませる。あとで記録する。先に閉じる。あとで説明する。
「だから、わしはあの人を信じとる。寝坊なら寝坊で、あとで叱ればええ。体が悪いなら、今は船に乗せん。それが信じるいうことじゃ」
信清は立ち上がった。
「無理をさせるのは、信じるとは違う」
八時四十分、渡船会社から代替の船長が向かっていると連絡が入った。出航予定は九時二十分。祐は掲示を更新し、明純が待っている人へ読み上げた。釣り竿の男性はまだ不満そうだったが、島側へ連絡が済んだと聞くと、長椅子に腰を下ろした。
「麦茶、もらえるか」
壮翔がすばやく紙コップを出した。
「宿の宣伝は」
「いらん」
「はい」
親子の子どもは、団扇で自分の名札をあおいでいた。文香がそっと近づき、札の糸が首に食い込まないよう、結び目を少しゆるめた。子どもは首をすくめて笑い、文香の手元を見た。
「古い名札も、船に乗るの?」
文香は名札棚を見た。そこには、退院後に返す予定の船長の名札が、薄紙に包まれたまま置かれている。
「乗らない」
短い返事に、子どもは少し首を傾げた。
文香は言葉を足した。
「ここで、待つ」
子どもは納得したようにうなずいた。
九時二十分、代替便が桟橋へ入った。船体が岸に寄ると、信清がロープを取った。いつもより少し強く結び、結び目を手のひらで押さえる。船長は別の人だったが、舵輪の前で帽子を軽く下げた。信清も帽子のつばを持ち上げる。
釣り竿の男性が船へ乗る前、待合所を振り返った。
「さっきは、悪かった」
誰へ向けた言葉か分からないほど小さかった。けれど明純は声を張らずに答えた。
「お気をつけて」
船が出ると、水面に細い波が残った。その波は待合所の前まで来て、石段に触れて消えた。
祐は遅延の記録を帳面へ書いた。乗務員交代。掲示時刻。次回案内時刻。島側への連絡。待合所で待機した人数。苦情一件。謝罪一件。麦茶の紙コップ七個。
裕子が横からのぞき込んだ。
「麦茶の数まで書くの」
「次に必要になります」
「壮翔さんが威張る材料にもなるけど」
「そこは削ります」
壮翔が保冷箱を抱えたまま、遠くで抗議の顔をした。
昼前、診療所から連絡が入った。船長は大事には至らず、数日は休むことになったという。信清は短く返事をして、しばらく受話器を置かなかった。
文香は包んでいた名札を、もう一度開いた。青い糸のほつれに針を入れ、今度は少しだけ強めに縫い留める。返す日は先になった。それでも、急ぐ必要はなかった。
祐は名札返却簿の余白に、新しい欄を作った。
船が出ない時の対応。
信清がそれを見て、少し笑った。
「物々しいな」
「でも、今日、必要でした」
「そうじゃな」
信清は窓の外を見た。雲の切れ間から、淡名島の斜面が薄く光っている。船が出たあとも、待合所には人の気配が残っていた。誰かが座った長椅子のへこみ、紙コップの丸い跡、団扇の竹がこすれた音。出航できない時間も、ただの空白ではなかった。
祐は、朝に書いた掲示を外さず、端に日付を入れて保管用の封筒へ入れた。
「正式判断の資料に入れます」
裕子がうなずいた。
「船に乗る前だけじゃない。船が出ないときに、ここが何をしたか。そこ、数字にできる」
明純は案内係のメモへ新しい一行を足した。
船が遅れたら、怒っている人の用事を先に聞く。
その下に、少し迷ってから、もう一行書く。
無理に船を出すよう言わない。
愛衣子がそれを見て、自分の成長表にも同じ項目を作ると言った。壮翔は「麦茶七個」と書いた紙を勝手に貼ろうとして、裕子に取り上げられた。
文香は名札を包み直し、棚の奥へ置いた。鍵を閉める音が、朝よりも小さく響く。
信清はその音を聞いてから、桟橋へ向かった。途中で一度だけ振り返り、待合所の入口を見た。
「先に守る。あとで叱る」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
祐はその言葉を、帳面には書かなかった。書かなくても、今日ここにいた全員の手順に入った気がした。
淡名島へ向かう二便目の白い筋が、潮目の上でゆっくりほどけていく。待合所には、まだ船を待つ人のための団扇が、窓辺で静かに揺れていた。




