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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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33/45

第33話 信清が信じた船長

 仮開放初日の前日、淡名渡船待合所は、朝から水を含んだ板の匂いがしていた。


 夜の間に降った雨は上がっていたが、港の石畳には雲の切れ目が細く映り、長椅子の脚には、乾ききらない潮の粒が白く残っている。祐は案内表を壁に貼る前に、紙の四隅をもう一度押さえた。端が浮くと、誰かの袖が引っかかる。袖が引っかかると、その人は足元を見る。足元を見ると、渡船の出る時間を見落とす。


 そんな順番まで考えるようになったのは、この待合所で名前を預かり始めてからだった。


 明純は入口に立ち、昨日書いた案内係のメモを口の中で読み返していた。声を出す前に相手を見る。荷物、歩く速さ、帰り道。何度もなぞられた鉛筆の線は少し薄くなっている。愛衣子は紙コップの数を数え、裕子は来訪者名簿の角をそろえた。壮翔は畳座布団の位置を、昨日とまったく同じように直したつもりで、昨日と違う場所へ動かしていた。


 「そこ、昨日は左から三枚目だった」


 裕子が顔を上げずに言った。


 「三枚目という数え方には、入口側か名札棚側かという重大な問題がある」


 「入口側」


 「はい」


 壮翔は座布団を持ち上げ、素直に戻した。言い返す口は動いているのに、手だけは早い。文香は名札棚の前で、退院後に返す予定の船長の名札を薄紙に包んでいた。布の端は何度も濡れて乾いたらしく、青い糸が白っぽくなっている。針を入れるとき、文香はいつもより少し呼吸を浅くした。


 信清は戸口の外にいた。桟橋の方を見ている。波は高くない。風も強くない。空は明るい。それなのに、信清の手は、腰に下げた古い手帳の表紙を押さえたまま動かなかった。


 祐はそれに気づき、案内表の画びょうを打つ手を止めた。


 「何か、ありますか」


 信清はすぐには答えなかった。沖へ目を向け、次に船着き場の小屋へ視線を移した。


 「一便目の船長が、まだ出てこん」


 その声は低く、待合所の中へ静かに入ってきた。


 明純が顔を上げた。


 「遅れてるだけじゃないですか」


 言ってから、明純は自分で口を押さえた。すぐに決めつけない。昨日のメモの二行目を思い出した顔だった。


 信清は怒らず、桟橋の時計を見た。


 「五分の遅れはある。十分快晴の朝なら、笑って待つ。けど、あの人が連絡なしに十分遅れることは、まずない」


 祐は交通案内所へ電話をかけた。渡船会社の事務所は、まだ詳しい状況をつかめていなかった。船は点検済み。燃料も問題なし。船長の家へ連絡しているところだという。


 待合所に、島へ渡る予定の人が三人入ってきた。淡名島の祖母へ会いに行く親子と、釣り竿を肩にかけた男性だった。親子の子どもは、首から新しい紙の名札を下げている。文香が昨日作った仮の名札だった。子どもは名札棚の古い布を見て、自分の札もそこへ掛けていいのかと目で尋ねていた。


 明純が一歩出た。


 「おはようございます。淡名行きの一便目は、いま確認中です。こちらの長椅子でお待ちください。お水、必要でしたらあります」


 声は少しだけ高かったが、言葉の順番は落ち着いていた。


 釣り竿の男性が眉を寄せた。


 「確認中って、出るんか出んのか、どっちや」


 明純の喉が小さく動いた。そこへ祐が横に立った。


 「現在、船長さんの体調と船の出航可否を確認しています。安全が確認できるまで、出航時刻は決められません。代替の便が出せるかも含めて、わかり次第ここへ掲示します」


 「急いどるんじゃ。向こうで人と待ち合わせしとる」


 「連絡先がわかるなら、島側へ遅れを伝えます」


 祐がそう言うと、男性は釣り竿を持ち替えた。怒りの向け先を少し失ったように、入口の外を見る。


 「船長が寝坊しただけなら、文句の一つも言わせてもらうけぇの」


 信清が、ゆっくり待合所へ入った。


 「寝坊で済むなら、わしが一緒に文句を言う」


 男性が信清を見た。信清は帽子を取らない。手帳を胸の前に持ち、釣り竿の先が人へ当たらないよう、そっと向きを変えた。


 「だが、体が悪いときに無理して舵を握ったら、船長だけじゃ済まん。あんたも、向こうで待っとる人も、船を出した会社も、みんな危ない。いまは、止めるほうが早いこともある」


 男性は何か言いかけた。けれど、信清の声が荒れていないせいで、怒鳴る拍子をつかめないようだった。


 電話が鳴った。


 祐が受話器を取る。事務所の声は、少し息が乱れていた。船長が自宅でめまいを訴え、家族が診療所へ連れて行った。命に関わる状態ではなさそうだが、今日の操船は無理。代わりの船長を呼ぶには、少なくとも一時間かかる。


 祐は聞いた内容を復唱し、時刻を確認してメモした。裕子がすぐに掲示用の紙を引き寄せる。祐が言葉を整える前に、裕子は見出しを書いた。


 「淡名行き一便目 船長体調不良のため遅延」


 そこで赤ペンが止まる。


 「体調不良、書いていい?」


 文香が名札を包む手を止めた。祐は首を振った。


 「細かくは書かないほうがいいです。乗務員交代のため、にしましょう」


 裕子はうなずき、紙を新しくした。


 「淡名行き一便目 乗務員交代のため遅延。次の案内は八時四十分」


 「代替便の見込みは、確認中」


 祐が足す。愛衣子は島側へ連絡する人の一覧を出し、明純は待合所にいる人の行き先を一人ずつ聞いた。釣り竿の男性の待ち合わせ相手には、信清が港の知人を通して伝えることになった。親子は祖母の家へ電話をかけ、子どもはほっとした顔で名札を握った。


 その間、壮翔は宿へ走った。戻ってきたときには、手に乾いたタオルと、冷たい麦茶の入った小さな保冷箱を持っている。


 「こういうときは、座る場所と飲むものがいる。俺の宿の宣伝はしてない。今のところ」


 「最後の一言で信用を下げないで」


 裕子が言いながらも、タオルを受け取った。


 待合所の空気は、ざわついていた。それでも、前のようにただ騒がしいのとは違った。声はそれぞれの役割へ流れていく。裕子は掲示を直し、愛衣子は連絡済みの欄へ印をつけ、明純は子どもへ団扇を渡し、文香は名札棚の鍵を確認した。祐は交通案内所と渡船会社、進祐へ同じ内容を伝えた。


 信清だけが、少し離れた長椅子に座った。


 祐は電話を置いたあと、その隣へ行った。


 「船長さん、信清さんの知っている方ですか」


 「知っとるどころじゃない」


 信清は、桟橋の先を見た。


 「あの人に、一度、引き上げてもらった」


 祐は黙って待った。


 信清の手帳の表紙には、海水で膨らんだ跡があった。角が丸くなり、黒い革が薄茶色に擦れている。


 「若い頃、わしは潮目を読み違えた。雨上がりで、水面だけ見れば穏やかだった。けど底の流れが変わっとった。小舟を出して、戻れんようになった。無線も調子が悪い。格好悪い話じゃ」


 信清はそこで息を吐いた。


 「そのとき、今日倒れた船長が、叱る前にロープを投げてくれた。岸に戻ってから、初めて怒鳴られた。先に助ける。あとで叱る。順番を間違えるなと言われた」


 祐の胸に、その言葉が静かに落ちた。


 待合所で名札を扱うときも、同じだった。先に守る。あとで聞く。先に休ませる。あとで記録する。先に閉じる。あとで説明する。


 「だから、わしはあの人を信じとる。寝坊なら寝坊で、あとで叱ればええ。体が悪いなら、今は船に乗せん。それが信じるいうことじゃ」


 信清は立ち上がった。


 「無理をさせるのは、信じるとは違う」


 八時四十分、渡船会社から代替の船長が向かっていると連絡が入った。出航予定は九時二十分。祐は掲示を更新し、明純が待っている人へ読み上げた。釣り竿の男性はまだ不満そうだったが、島側へ連絡が済んだと聞くと、長椅子に腰を下ろした。


 「麦茶、もらえるか」


 壮翔がすばやく紙コップを出した。


 「宿の宣伝は」


 「いらん」


 「はい」


 親子の子どもは、団扇で自分の名札をあおいでいた。文香がそっと近づき、札の糸が首に食い込まないよう、結び目を少しゆるめた。子どもは首をすくめて笑い、文香の手元を見た。


 「古い名札も、船に乗るの?」


 文香は名札棚を見た。そこには、退院後に返す予定の船長の名札が、薄紙に包まれたまま置かれている。


 「乗らない」


 短い返事に、子どもは少し首を傾げた。


 文香は言葉を足した。


 「ここで、待つ」


 子どもは納得したようにうなずいた。


 九時二十分、代替便が桟橋へ入った。船体が岸に寄ると、信清がロープを取った。いつもより少し強く結び、結び目を手のひらで押さえる。船長は別の人だったが、舵輪の前で帽子を軽く下げた。信清も帽子のつばを持ち上げる。


 釣り竿の男性が船へ乗る前、待合所を振り返った。


 「さっきは、悪かった」


 誰へ向けた言葉か分からないほど小さかった。けれど明純は声を張らずに答えた。


 「お気をつけて」


 船が出ると、水面に細い波が残った。その波は待合所の前まで来て、石段に触れて消えた。


 祐は遅延の記録を帳面へ書いた。乗務員交代。掲示時刻。次回案内時刻。島側への連絡。待合所で待機した人数。苦情一件。謝罪一件。麦茶の紙コップ七個。


 裕子が横からのぞき込んだ。


 「麦茶の数まで書くの」


 「次に必要になります」


 「壮翔さんが威張る材料にもなるけど」


 「そこは削ります」


 壮翔が保冷箱を抱えたまま、遠くで抗議の顔をした。


 昼前、診療所から連絡が入った。船長は大事には至らず、数日は休むことになったという。信清は短く返事をして、しばらく受話器を置かなかった。


 文香は包んでいた名札を、もう一度開いた。青い糸のほつれに針を入れ、今度は少しだけ強めに縫い留める。返す日は先になった。それでも、急ぐ必要はなかった。


 祐は名札返却簿の余白に、新しい欄を作った。


 船が出ない時の対応。


 信清がそれを見て、少し笑った。


 「物々しいな」


 「でも、今日、必要でした」


 「そうじゃな」


 信清は窓の外を見た。雲の切れ間から、淡名島の斜面が薄く光っている。船が出たあとも、待合所には人の気配が残っていた。誰かが座った長椅子のへこみ、紙コップの丸い跡、団扇の竹がこすれた音。出航できない時間も、ただの空白ではなかった。


 祐は、朝に書いた掲示を外さず、端に日付を入れて保管用の封筒へ入れた。


 「正式判断の資料に入れます」


 裕子がうなずいた。


 「船に乗る前だけじゃない。船が出ないときに、ここが何をしたか。そこ、数字にできる」


 明純は案内係のメモへ新しい一行を足した。


 船が遅れたら、怒っている人の用事を先に聞く。


 その下に、少し迷ってから、もう一行書く。


 無理に船を出すよう言わない。


 愛衣子がそれを見て、自分の成長表にも同じ項目を作ると言った。壮翔は「麦茶七個」と書いた紙を勝手に貼ろうとして、裕子に取り上げられた。


 文香は名札を包み直し、棚の奥へ置いた。鍵を閉める音が、朝よりも小さく響く。


 信清はその音を聞いてから、桟橋へ向かった。途中で一度だけ振り返り、待合所の入口を見た。


 「先に守る。あとで叱る」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


 祐はその言葉を、帳面には書かなかった。書かなくても、今日ここにいた全員の手順に入った気がした。


 淡名島へ向かう二便目の白い筋が、潮目の上でゆっくりほどけていく。待合所には、まだ船を待つ人のための団扇が、窓辺で静かに揺れていた。



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