第32話 明純の挑戦
仮開放まで、あと四日になった。
朝の淡名渡船待合所は、床板を張り替えた部分だけが少し明るかった。古い板は海風を含んで灰色に沈み、新しい板はまだ木の匂いを残している。その境目を踏むたび、祐は足の裏で、ここが過去だけでは立てない場所になったことを感じた。
名札棚の横には、小豆島から持ち帰った紙包みの手順を写した小さな紙が貼られている。裕子が赤字で直したため、文末は少しきつい。
「名札は勝手に開けない。包み直す時は記録簿へ書く。濡れた手で触らない。触る前に文香さんへ声をかける」
最後の一文だけ、文香が鉛筆で足していた。
「声をかけられない時は、無理をしない」
祐はそこを見て、少し笑った。
その下で、明純が両手を腰に当てて立っていた。いつもなら港へ向けて手を振り、通りがかりの人まで巻き込む声を出すところだが、今日は待合所の中央に立ったまま、畳座布団の位置、紙札板の高さ、冷水ポットの置き場を順番に見ている。
「祐さん」
「うん」
「仮開放初日の案内、僕がやります」
祐は、壁の閉鎖基準表から目を離した。
明純は胸を張った。胸を張りすぎて、首から下げた案内係の試作札が斜めに跳ねた。白い厚紙に、裕子の字で「案内」と書いてある。糸は文香が通した。糸の結び目がうなじに当たるのか、明純は時々そこを気にしている。
「初日の朝七時から十時まで?」
「はい」
「渡船の遅れが出た場合も?」
「はい」
「高齢の人に、島の北側まで歩きたいって言われたら?」
「えーと、元気よく送り出します」
裕子が帳面から顔を上げた。
「落第」
「まだ一問目ですよ」
「一問目で港の坂に人を転がす気?」
明純は胸を張ったまま、目だけを祐へ向けた。
祐は机の上に置いていた小さな地図を広げた。尾路町の駅、商店街、港、渡船乗り場、待合所、淡名島側の桟橋。太い線ではなく、歩道の狭さや日陰の有無まで書き込んだものだ。進祐が町の資料に入れるために作った図面の写しで、明純の手元にも同じものが渡されていた。
「元気よく送り出す前に、何を聞く?」
明純は地図を見つめた。
「行き先」
「それから」
「船の時間」
「それから」
「荷物の数」
「それから」
明純は口を結んだ。外から小さな船の音が聞こえる。信清が窓の外でロープを点検している。海は穏やかに見えるが、信清の手元はゆっくりではない。彼は波の高さではなく、風の向きに指先を向けていた。
「歩く速さ」
明純が言った。
祐は頷いた。
「それと、戻る方法」
「戻る方法」
「片道だけ案内すると、帰りに困る人が出る」
明純は案内係の札を握った。
「分かりました。往復で考える」
「言葉で覚えるより、今日やってみよう。午前中は関係者向けの練習にする。商店街の人、島の人、子どもたちに頼んで、実際に来てもらう」
「本番じゃないんですね」
「本番じゃないから、失敗できる」
壮翔が長椅子の下から顔を出した。椅子の脚に貼る滑り止めをつけていたらしい。片頬に木屑がついている。
「俺も失敗役をやる」
「壮翔さんは黙っていても失敗役です」
裕子の返事に、明純が吹き出した。
文香は名札棚の鍵を確認し、案内係用の小さな箱を机に置いた。中には鉛筆、メモ、絆創膏、白い紙札、名札に触らないための薄い紙片、そして小さな団扇が入っている。
「持って」
文香が箱を差し出す。
明純は両手で受け取った。
「重いですね」
「軽いと、忘れる」
文香の返事は短かったが、箱の底には滑り止めの布が貼られていた。持った時に落としにくいように、四隅は丸く切られている。
明純は箱を胸の高さに持ち直した。
「僕、忘れません」
裕子が赤ペンを耳に挟んだ。
「忘れた時のために、箱があるの」
その声に、明純は今度は笑わなかった。案内係の札が、胸の前で小さく揺れた。
九時になると、練習に呼ばれた人たちが、ぽつぽつと集まり始めた。
最初に来たのは、千代だった。蜜柑畑から持ってきた籠を片腕に提げ、もう片方の手で帽子を押さえている。今日は杖も持っていた。練習だと聞いて、わざと少しゆっくり歩いてきたのが分かる。
「おはようございます、千代さん!」
明純の声が、待合所の梁に跳ねた。
千代は笑って、耳の後ろへ手を当てた。
「元気じゃねえ。船まで届くわ」
祐は口を挟まなかった。
明純ははっとして、声を少し落とした。
「おはようございます。今日は、どちらまで行かれますか」
「本土の診療所へ。帰りは昼過ぎじゃ」
「診療所ですね。荷物は籠ひとつ。杖あり。歩く速さは……」
明純はそこで言葉を止めた。千代の膝を見る。杖の先を見る。畳座布団のある長椅子を見る。それから、冷水ポットへ目を向けた。
「船まで、僕が一緒に行きます。その前に、少し座りますか」
千代は満足そうに頷いた。
「それでええ」
明純は長椅子の端を指した。けれど、指した場所には日が当たり始めていた。真夏の午後に測った熱ほどではないが、窓から差す光は床を白くしている。
文香が、何も言わず団扇を机の端へ置いた。
明純はそれに気づき、椅子の反対側へ案内を変えた。
「こちらのほうが日陰です。団扇も使ってください」
千代は座り、団扇を受け取った。
「一つ覚えたねえ」
明純は照れて、案内札を指で弾きそうになった。裕子の視線が飛び、指は途中で止まった。
二人目は、壮翔だった。
彼は旅人のふりをして、やけに大きな鞄を二つ抱えて入ってきた。肩には釣り竿、首には手ぬぐい、手にはなぜか蓋つきの鍋を持っている。
「すみませーん。淡名島の北の端で、じゃこ天を探したいんですけど。あと、できれば今から三十分で戻りたいんですけど。あと、鍋は温かいままがいいんですけど」
裕子が眉間を押さえた。
「盛りすぎ」
祐は笑いをこらえた。
明純は、最初だけ明るく笑った。それから、地図を見た。
「今から三十分では、淡名島の北側までは難しいです。次の便に乗っても、現地で使える時間がほとんどありません」
「この鍋にかけても?」
「鍋では船は早くなりません」
千代が団扇の陰で笑った。
明純は続けた。
「北側へ行くなら、午後の便で戻る形になります。三十分だけなら、淡名島の桟橋近くで、海沿いを少し歩くくらいです。鞄が大きいので、荷物預かりができるか確認します」
壮翔は鍋を抱え直した。
「鍋は?」
「鍋も荷物です」
「中身は?」
「中身があるなら、なおさらです」
裕子が、赤ペンで何かを書き込んだ。
「鍋を持った旅人への対応、合格」
「それ、実際に来ます?」
「壮翔さんがいる限り、来る可能性はある」
明純は、笑いながらもメモに「大きな荷物、時間に無理がある時は代案」と書いた。字は少し斜めだったが、箱の中へ戻す時は丁寧だった。
三人目で、空気が変わった。
商店街の豆腐屋の小学生が、白い帽子をかぶったまま待合所に駆け込んできた。練習のために頼まれていた迷子役だ。けれど、勢いよく入ってきた後、目の前にいる大人の数に驚いたのか、本当に泣きそうな顔になった。
「お母さんが、いない」
声が小さかった。
明純は、いつもの調子で「大丈夫!」と言いかけた。口がその形になったまま、止まる。
祐は動かなかった。
文香は名札棚の前で、鍵を握ったまま見ている。裕子は赤ペンを置いた。壮翔も鍋を床に置いた。
明純は膝を曲げた。小学生の目の高さに近づく。
「名前、言える?」
子どもは首を横に振った。
明純は、案内箱から白い紙を出さなかった。名札を探そうともしなかった。代わりに、箱の中の小さな団扇を取った。
「暑かった?」
子どもは少しだけ頷いた。
「じゃあ、ここに座ろう。名前は、今は言わなくていい。帽子の色と、来た道を一緒に見よう」
子どもは長椅子に座った。
明純は冷水ポットへ行き、紙コップに水を少しだけ入れた。勢いよく渡さず、机に置く。
「飲めそうなら、どうぞ」
子どもは両手でコップを持った。
明純は、祐のほうを見た。
祐は頷いた。
「次は?」
「近くの大人へ確認します。お母さんが待合所の外にいるかもしれない。子どもだけで港のほうへ戻さない」
「うん」
裕子が帳面を開いた。
「迷子対応の連絡先、見て」
明純は掲示板の端に貼られた紙を見た。商店街連絡所、渡船乗り場、交通案内所、交番。順番が番号で振られている。昨日、裕子が番号を振り直したものだ。
「商店街連絡所へ電話します。名前を無理に聞かない。帽子、服の色、待機場所を伝える」
子どもは、その間にコップの水を半分飲んだ。
豆腐屋の母親役で来ていた愛衣子が、外から顔を出した。明純はすぐに子どもを立たせなかった。先に愛衣子へ目で合図し、子どもが驚かない速さで近づいてもらう。
「お母さん役、来ました」
愛衣子は役を忘れたように、ほっとした顔になった。
「上手だった」
子どもが、明純へ団扇を返した。
「本当に、ちょっと泣きそうになった」
明純は、その団扇を受け取る時、両手で持った。
「ごめん」
「ううん。水、ありがとう」
子どもが外へ出ると、待合所の中に、短い沈黙が残った。
壮翔が鍋を持ち上げる。
「鍋より難しいな」
「当たり前です」
裕子の声はいつもどおりだったが、赤ペンは止まっていた。
明純は案内箱の蓋を閉じ、また開けた。中身を一つずつ確認する。鉛筆、メモ、絆創膏、白い紙札、薄い紙片、団扇。さっきまで軽く見えていたものが、今はそれぞれ別の重さを持っているようだった。
「明るく言えば、大丈夫になると思ってました」
誰もすぐには返事をしなかった。
外で、渡船乗り場の放送が鳴った。潮の関係で、次の便が十分遅れるという知らせだった。練習のためではなく、本当の遅れだった。
信清が窓の外から顔を出した。
「風が変わった。十分、遅らせるそうじゃ」
待合所にいた人たちの目が、明純へ向いた。
明純は一瞬だけ固まった。
それから、掲示板の白い札を取り、渡船時刻の下へ「次便十分遅れ」と書いた。字は少し大きすぎた。裕子が近づき、黙って余白を指す。明純は一度深呼吸して、書き直した。
「千代さん、診療所の予約、時間に余裕ありますか」
「今日は早めに出たけん、大丈夫じゃ」
「壮翔さん、鍋は」
「冷める」
「蓋を開けないでください」
「案内が冷たい」
「鍋は温かく保てます」
待合所に笑いが戻った。
明純は次に、外で待っている人へ声をかけに行った。大きな声ではなく、風に消えない程度の声だった。
「次の船は十分遅れます。待合所の中は日陰があります。急ぎの方は、尾路町交通案内所へ連絡できます。荷物が多い方は、入口の段差に気をつけてください」
言い終わるたびに、相手の顔を見る。頷いた人にはそれ以上押さない。困った顔をした人には地図を出す。怒りかけた男性には、信清の説明を呼ぶ。
しばらくして、年配の男性が待合所へ入ってきた。片手に古い帽子を持ち、もう片方の手には、薄い封筒を握っている。祐はその封筒の色に目を留めた。ベージュではない。けれど、古い紙の色だった。
「ここに、名札があると聞いて」
男性の声は、海の音に押されるほど小さかった。
明純は、明るい声で迎えようとして、やめた。
「はい。名札の確認ですか。それとも、見に来られましたか」
「見に、来ただけじゃ。たぶん、わしのではない」
男性は名札棚を見た。目は棚に向いているが、手の封筒は強く握られている。明純は、すぐ文香を呼ばなかった。まず、長椅子を指す。
「座って見られます。名前を探す時は、こちらでお手伝いします。触る前に、文香さんへ声をかけます」
男性は小さく頷き、長椅子に腰を下ろした。
文香が静かに近づく。
「どの名札ですか」
「いや……名前を見たら、思い出すかもしれんと思って」
その言葉に、待合所の中の音が少し遠くなった。名札を返してほしい人ばかりではない。名札を見て、思い出せるか確かめに来る人もいる。
明純は、案内箱の中から薄い紙片を取り出した。名札を直接指で追わないためのものだ。文香が教えた通り、紙片の端を持ち、棚の前に立った。
「名字だけで探しますか」
男性は少し考えた。
「下の名前は、今日はええ」
「分かりました」
明純は、それ以上聞かなかった。
文香が棚の鍵を開け、祐が記録簿を横に置く。裕子が来訪目的の欄に「閲覧」と書いた。壮翔は鍋を抱えて静かにしている。信清は外の風を見ている。
男性は名札を三枚見たところで、首を横に振った。
「違うな」
「また、来られますか」
明純が聞いた。
男性は封筒を握り直した。
「分からん。来るかもしれんし、来んかもしれん」
「では、今日のことは、閲覧だけで記録します。お名前は、書かなくても大丈夫です」
裕子が、帳面へ小さく丸をつけた。
男性は立ち上がり、礼を言って出ていった。入口の段差で少し足を止めたため、明純は手を伸ばしかけた。けれど、男性は自分で足を上げた。明純は伸ばしかけた手を、入口の戸へ移し、戸を押さえた。
その背中が港へ向かって小さくなるまで、文香は棚の前に立っていた。
「今の、どうでしたか」
明純が聞いた。
祐は、答える前に男性の背中を見送った。
「案内は、明るい声を出すことじゃない」
明純は頷いた。
「相手の次の一歩を見つける仕事」
「うん。でも、もう少し言うなら、次の一歩を勝手に決めない仕事」
明純は、案内係の札を見下ろした。
札は白い。そこに「案内」と書かれているだけで、何をどこまでしていいかは書いていない。だから、さっきまで自分の声で埋めようとしていた。大丈夫、こっちです、任せてください。言えば相手が歩き出すと思っていた。
けれど、千代は日陰が必要だった。鍋を抱えた壮翔には、無理な時間を無理と言う必要があった。迷子役の子どもには、名前より水と椅子が先だった。封筒を持った男性には、名乗らなくてもいい場所が必要だった。
明純は、札の糸を指で整えた。
「僕、もう一回やります」
裕子が帳面を閉じた。
「その前に、反省点を書いて」
「今すぐですか」
「忘れる前」
明純は案内箱から鉛筆を出し、メモの一枚目に大きく書いた。
声を出す前に、相手を見る。
荷物、歩く速さ、帰り道。
名前を急がない。
泣いている人へ、理由を聞きすぎない。
怒っている人へ、一人で説明しない。
触る前に文香さん。
閉鎖と遅れは信清さん。
数字と記録は裕子さん。
椅子と毛布は壮翔さん。ただし勝手に動かす。
最後の一行を見て、壮翔が胸を押さえた。
「案内係の手順書に、俺だけ注意書きがある」
「必要です」
明純が真顔で言ったので、祐も文香も笑った。文香の笑いは声にならなかったが、名札棚の鍵を回す手が少しだけ軽かった。
昼前、練習が終わる頃には、明純の案内札は汗で少し曲がっていた。白い紙の端が湿り、文香の結んだ糸が首の後ろで少しずれている。
祐は、新しい札に替えようかと聞きかけて、やめた。
明純が自分で札を外し、机の上に置いた。指で紙の端を押さえ、曲がったところを伸ばす。
「これ、初日も使います」
裕子が目を細めた。
「汗染みあるけど」
「あるほうが、忘れないので」
文香が、札の裏へ薄い紙を一枚貼った。補強の紙は白すぎず、少しだけベージュに近かった。糊が乾くまで、札は机の上に置かれる。
明純はその横で、二枚目のメモを書いた。
明日の準備。時刻表を覚える。紙コップを足す。迷子対応の番号をもう一度読む。千代さん用に日陰の席を空ける。鍋は入口に置かせない。
祐はその字を見て、胸の奥が少し温かくなった。
明純は、誰かを集める声を持っている。その声は、港を騒がせもした。けれど今日、その声は少しだけ低くなり、相手が座る場所へ届くようになった。
外では、十分遅れた渡船がようやく桟橋を離れた。水面に白い筋が引かれ、すぐにほどける。千代が船の中から団扇を振った。明純は大きく振り返しかけ、途中で手を止めた。それから、周りに人がいないことを確かめて、小さく振った。
裕子がそれを見て、赤ペンを置いた。
「今のは、合格」
明純は振り返り、声を張りそうになった。
だが、待合所の中には、名札棚の前で古い布を見つめている人がいた。祐が記録簿を書いている。文香が紙包みを整えている。信清が風を読んでいる。壮翔が椅子を動かそうとして、愛衣子に止められている。
明純は口を閉じ、案内箱の蓋を静かに閉めた。
「ありがとうございます」
その声は小さかった。
けれど、待合所の中にいる人には、ちゃんと届いた。




