第31話 小豆島の紙片
朝一番の待合所は、まだ誰の声も吸い込んでいなかった。
祐が鍵を開けるより先に、文香は名札棚の前へ立っていた。胸ポケットには、昨日と同じベージュの封筒が入っている。封筒の角は指で何度も確かめられたせいで、少し丸くなっていた。けれど、待合所の説明文へその手紙を出すつもりがないことは、祐にも分かった。
窓の外では、信清が港のほうを見ている。雲は薄く、海面の色は朝の光を受けて浅い銀色に揺れていた。壮翔は長椅子の端に座り、畳座布団の厚みを尻で測っている。裕子は机の上へ鍵管理表を広げ、赤ペンの芯を出したり引っ込めたりしていた。
「文香、今日、小豆島でしょ」
裕子が紙から顔を上げずに言った。
「はい」
「連絡先、船の時刻、訪問先、全部ここ。店の人には、名札の現物を見せる前に用途を説明。母親の話を聞く時も、展示に使うかどうかは別。勝手に感動して持ち帰らない」
「持ち帰るのは、紙片の写しだけです」
「紙片そのものを見つけた場合は?」
「相手の許可を取って、写真。譲られる場合も、受領書」
「よし」
裕子はようやく顔を上げた。褒めるでもなく、安心するでもなく、赤ペンの尻で表の左上を軽く叩く。文香はその音に合わせて、小さく頷いた。
祐は二人の間に、まだ少しだけ残っていた角を見た。鋭くぶつかるほどではない。触れれば音がする程度の角だった。昨日までなら、裕子はその角で文香の沈黙をこじ開けようとしたかもしれない。文香はその角を見ないふりで避けたかもしれない。
けれど今朝、裕子は手順を渡し、文香は受け取った。
「祐は来ないの」
壮翔が座布団から腰を上げずに聞いた。
「今日は待合所と案内所。進祐さんが午前中に来る。昨日の説明文と名札棚の配置を見たいって」
「じゃあ、俺が行こうか」
「壮翔さんは、行き先の前に船の中で何か食べるでしょう」
文香が淡々と言うと、壮翔は胸を押さえた。
「信用がない」
「昨日、倉庫の蜜柑を一個食べました」
「一個じゃなくて半分だよ。もう半分は明純が」
明純は窓際で紙札板を拭きながら、手だけを上げた。
「俺は、証拠隠滅のために食べました」
「余計悪い」
裕子の声が飛び、待合所に薄い笑いが広がった。文香の口元は変わらなかったが、出発用の布鞄を肩へ掛ける動きが、少しだけ軽く見えた。
祐は港まで二人を送った。
小豆島行きの便へ乗り継ぐには、尾路町から一度本土側の港へ出て、そこからフェリーに乗る。七月の朝の桟橋は、まだ照りつける前の涼しさを残していた。観光客のスーツケースがコロコロと鳴り、発券所の窓から紙の切符が滑り出る。海の向こうは、どこも少しだけ白く霞んでいた。
裕子は切符を受け取ると、文香へ一枚渡した。
「船酔いは?」
「平気です」
「本当に?」
「酔う前に黙ります」
「いつもじゃない」
文香は返事をしなかった。かわりに、切符の端を折らないよう財布へ入れた。
祐は二人に、小さな封筒を渡した。名札返却用の同意書、撮影許可の用紙、訪問先の地図、予備のメモ用紙が入っている。
「何かあったら、すぐ連絡をください」
「祐」
裕子が眉を上げる。
「私を誰だと思ってるの」
「だから言ってます」
「どういう意味」
「連絡をもらえないと、あとで赤字で全部直されるので」
裕子はしばらく祐を見た。それから、封筒を文香の鞄へ入れ直した。
「戻ったら、赤字は半分にしておく」
「ありがとうございます」
「半分は入れるから」
「分かっています」
乗船案内の声が響いた。文香は祐へ短く会釈し、船へ向かう。裕子はその半歩後ろを歩き、階段の段差で文香の鞄が揺れた時だけ、何も言わず手を添えた。
祐は桟橋から二人を見送った。
フェリーの白い船体が岸を離れる。水が押され、桟橋の柱に軽くぶつかった。文香は甲板には出ず、窓際の席に座った。裕子はその向かいで、すぐに資料を広げる。遠くから見ても、紙を出す角度がまっすぐだった。
船が小さくなるまで、祐はそこに立っていた。
小豆島の港へ着いたのは、昼前だった。
フェリーを降りると、潮の匂いに、醤油の蔵から流れてきたような深い香りが混じっていた。港前の道には、オリーブの葉が風に裏返り、銀色の光をちらちらと返している。文香はしばらく足を止めた。淡名島の蜜柑畑とも、尾路町の坂とも違う匂いだった。
裕子は腕時計を見た。
「工房までバスで二十分。昼を挟むと相手の休憩時間に入るから、先に挨拶だけする」
「はい」
「お腹は?」
「平気です」
「平気は禁止。空腹で人の話を聞くと、返事が短くなる」
文香は裕子を見た。
「いつもです」
「自覚があるなら、なおさら何か食べる」
裕子は港の売店で小さな巻き寿司を二つ買った。ひとつを文香へ渡し、自分は包みを開けずにバス停の時刻表を読む。
「食べないんですか」
「工房の人に会う前に、海苔を歯につけたくない」
「私には渡しました」
「あなたは、海苔がついても黙っていられるでしょう」
文香は巻き寿司を見下ろした。返す言葉が見つからず、一口だけ食べる。酢飯の甘さと、薄く煮た椎茸の味がした。海苔が歯についたかどうかは分からなかったが、裕子は見ないふりをした。
バスは海沿いをしばらく走り、古い石垣のある道で山側へ折れた。車窓の向こうに、白い壁の蔵と細い水路が見える。夏草が道端まで伸び、カーブのたびに葉先が窓へ近づいた。
紙工房は、古い醤油蔵を直した建物だった。入口の引き戸には「島紙房」と小さな札が掛かっている。中へ入ると、湿った紙と糊の匂いがした。大きな作業机の上には、繊維の筋が見える紙が何枚も干されている。奥で水音がし、誰かが刷毛を洗っていた。
「尾路町の淡名渡船待合所のことでお約束していた者です」
裕子が名乗ると、奥から白髪の女性が出てきた。背筋の伸びた人で、手の甲に細い紙の繊維がいくつもついている。
「遠いところを。八重さんのことですね」
その名が出た途端、文香の手が鞄の紐を握った。
女性はそれに気づいたのか、すぐに続けず、手を洗うための布を畳んだ。
「こちらへ。日が当たらない部屋に残してあります」
案内された部屋は、作業場より少し暗かった。棚には和紙の見本、古い帳面、包み紙の端切れが並んでいる。女性は一番下の引き出しを開け、薄い箱を取り出した。箱の表には、鉛筆で「名札包み」と書かれている。
文香はその文字を見て、息を止めた。
「この字は」
「八重さんです。うちで長く働いたわけではありません。二か月ほどでした。けれど、よく紙の端を拾っては、布を包む練習をしていました」
女性は箱を机に置き、蓋を開けた。
中には、指二本ほどの細長い紙片が何枚も入っていた。淡い茶色、灰色がかった白、海の砂を薄く溶かしたような色。角は揃っていない。けれど、どの紙片にも、折り筋がきちんとついていた。
裕子はすぐに声を出さなかった。用紙を広げかけた手を止め、文香のほうを見る。
文香は一枚の紙片へ指を近づけ、触れる前に止めた。
「触っても」
「どうぞ。手は、そちらの布で軽く拭いてから」
文香は言われた通り、手を拭いた。濡れているわけではないのに、指先を丁寧に布へ押し当てる。それから一枚だけ、紙片を持ち上げた。
紙は思ったより柔らかかった。折り目に沿って開くと、内側に小さな字が現れた。
名札は、布だけで渡さないこと。
潮を吸った布は、急に乾かすと固くなる。
紙で一度呼吸をゆるめてから、糸を見ること。
文香は黙って、その三行を読んだ。
母の字だった。
門司港の手紙と同じ、右上が少しだけ上がる字。けれど、こちらは誰かに謝るための字ではない。作業の手順を、自分の手が忘れないように書き留めた字だった。
「八重さんは、子どもの名札だと言っていました」
女性が椅子へ腰掛けた。
「潮を吸って、汗を吸って、雨に濡れて、それでも毎朝首に掛けるものだから、強いだけではだめだと。直しすぎると、その子が使っていた時間まで消えると言っていました」
裕子が少しだけ眉を動かした。
「直しすぎると、消える」
「ええ。紙を選ぶ時も、きれいな白は嫌がりました。目立たない色がいい。布の古さを邪魔しない色がいい、と」
文香は紙片を机へ戻した。
「ベージュ」
声は、吐息に近かった。
女性はうなずいた。
「そう言っていました。白ではなく、茶色でもなく。夕方の壁の色に近い、と」
文香の胸ポケットの封筒が、わずかに膨らんで見えた。
裕子は今度こそ用紙を出した。けれど、いつものように急いで項目を読み上げない。女性へ向き直り、一枚ずつ紙を揃えた。
「確認させてください。この紙片は、こちらの工房に保管されていたものですね。撮影して、淡名渡船待合所の資料として、折り方と手順の一部を紹介することは可能でしょうか。八重さん個人の手紙ではなく、作業メモとして扱います。全文公開ではなく、必要な部分だけ。現物は、こちらに残すか、尾路町で預かるか、工房のご希望を優先します」
文香は裕子を見た。
裕子の声は、商店街で相手を切る時の声ではなかった。逃げ道を塞がないよう、机の端へ手を置いている。赤ペンは出していない。
女性はしばらく考えた。
「現物は、ここに置かせてください。八重さんがここで覚えたことでもありますから。ただ、写しは持っていってください。名札のための紙ですもの。待合所で使われるなら、そのほうが紙も喜びます」
「ありがとうございます」
裕子は深く頭を下げた。
文香も遅れて頭を下げた。髪が頬に落ち、表情が見えなくなる。
女性は箱の奥から、別の紙片を取り出した。
「これだけ、少し違うんです」
それは折り方の手順ではなく、短い文章だった。紙片の端が欠け、文字も途中で切れている。
――文香が、紙を好きにならなくてもいい。
そこまでしか読めなかった。
次の行は、欠けた部分に呑まれている。紙片の下側には、水に濡れた跡があり、墨が薄く広がっていた。
文香はその紙片から目を離さなかった。
裕子が、声を落とす。
「写真、撮る?」
文香は首を横に振った。
「これは、撮らない」
「分かった」
「でも、見たことは、覚えておく」
「うん」
裕子はそれ以上聞かなかった。
工房の女性も、何も言わず紙片を箱へ戻した。ただ、蓋を閉める前に、少しだけ時間を置いた。文香が最後まで見られるように。
見学を終えると、女性が工房の隅で紙の包み方を実演してくれた。薄い紙を名札の幅より少し大きく切り、布を包む前に、紙の繊維の向きを確かめる。折り目は強くつけすぎない。糸が引っかかるところへ、紙を押しつけない。包むというより、待つ形に近かった。
文香は手元をじっと見た。
「やってみますか」
女性が紙を一枚差し出した。
文香は受け取り、机の前へ座った。名札の代わりに、細く切った布を置く。右手の中指で紙の端を押さえ、左手で布の歪みを見る。折り筋を入れる前に、一度だけ息を吐く。
裕子は黙って立っていた。何かを記録しようとして、メモ帳を開き、すぐ閉じた。
文香の手つきは、最初から迷わなかった。
けれど、最後の角を折るところで、少し止まった。
「ここは」
女性が手を出しかける。
文香は首を小さく振った。
「いえ」
紙の角を、ほんの少しだけ緩く折った。きっちり閉じるのではなく、空気の通り道を残すように。
女性が目を細めた。
「八重さんも、そこだけ緩くしました」
文香は返事をしなかった。
その沈黙の中で、裕子が鞄から団扇を出した。待合所の古いものではなく、港で配られていた薄い団扇だ。絵柄は小豆島のオリーブ。裕子はそれで文香の背中側へ風を送った。
「暑いから」
文香は紙から目を離さないまま言った。
「ありがとうございます」
「礼は、写しの整理で返して」
「はい」
「あと、昼を食べる」
「はい」
「海苔、まだついてる」
文香の手が止まった。
女性が小さく笑い、裕子は真顔で鏡代わりの金属板を差し出した。文香は金属板を見て、確かに歯に黒い点がついているのを確認した。潮紙堂でも見せたことのないような速さで口元を押さえる。
「言わなくていいです」
「今言わないと、工房の人にずっと優しく見守られる」
「もう見守られました」
女性は笑いをこらえきれず、肩を揺らした。
「大丈夫。八重さんも、よく昼に海苔をつけていました」
文香は布鞄からハンカチを出し、背中を向けた。裕子はその背中へ、また団扇で風を送る。
工房を出たのは、午後の光が少し傾き始めた頃だった。
二人は港へ戻る前に、海が見える細い坂で昼を取った。売店で買った素麺の小さな弁当と、冷たい茶。裕子は今度は自分も食べた。文香は箸を持ち、海の向こうを見ながら、しばらく蓋を開けない。
「食べなさい」
「はい」
「母親の字を見た後でも、昼は食べる」
「命令ですか」
「確認」
文香は蓋を開けた。細い麺が、透明なつゆの中で静かにほどける。
風が坂の下から上がってきた。オリーブの葉が揺れ、その向こうに、フェリーの白い線が見える。文香は箸で麺を少し持ち上げ、また戻した。
「同じ机に、座りたかった」
裕子は、茶の蓋を閉める手を止めた。
文香は海を見ている。
「怒っているのは、変わりません。でも、あの紙片を書いている時の母を、横で見たかったです。紙を選ぶ時に、何を見ていたのか。角を緩くする時に、何を思っていたのか。聞きたかった」
裕子は、すぐに答えなかった。
潮の音は、ここまで届かない。代わりに、下の道を通るバスの音と、遠くの工房で水を流す音が聞こえた。
「私は」
裕子が言った。
「母親のことは分からない。八重さんのことも、文香の気持ちも、分かったふりはしない」
「はい」
「でも、今日見た紙片は、待合所で使える。あれは、誰かを泣かせるための展示じゃなくて、名札を傷めないための手順にできる」
文香は頷いた。
「それがいいです」
「手紙は?」
「出しません」
「紙片の欠けた文章は?」
「出しません」
「折り方は?」
「出します」
「八重さんの名前は?」
文香は少しだけ考えた。
「小さく。母としてではなく、名札を包む方法を残した人として」
裕子は茶を一口飲んだ。
「その文、祐が長くするわね」
「赤で切ってください」
「半分にする」
「お願いします」
二人は同じタイミングで素麺を食べた。文香の箸の先が、つゆの中で少し震えていた。裕子は見えていないふりをして、自分の弁当の椎茸を文香の皿へ一つ移した。
「食べないんですか」
「甘い椎茸は苦手」
「嘘ですか」
「本当のような嘘」
文香は椎茸を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
帰りの船では、裕子が窓際に座り、文香が向かいに座った。机の上には、工房から預かった写しの封筒がある。封筒の色は、母のものより少し薄い。表には裕子の字で「小豆島・紙包み写し」と書かれていた。
文香はその字を見て言った。
「裕子さんの字、角があります」
「読めればいい」
「赤字に似ています」
「そういう字なの」
「でも、まっすぐです」
裕子は窓の外へ顔を向けた。
「急に褒めないで」
「褒めていません」
「なお悪い」
船は波を切って進んだ。窓に海の光が反射し、封筒の上をゆっくり横切る。文香は鞄から小さなノートを出した。潮紙堂で使っている修繕メモではなく、今回の名札返却用に祐が渡した予備のメモ用紙だった。
そこへ、工房で見た手順を書き写す。
潮を吸った布は、急に乾かさない。
紙は白すぎないもの。
角は閉じきらない。
名札を直しすぎない。
最後の行で、手が止まる。
文香は少し考え、こう書いた。
人に見せる記憶と、見せない記憶を分ける。
裕子が横から覗きかけて、すぐ視線を戻した。
「見てもいいです」
「後で見る。船酔いする」
「酔うんですか」
「資料を読むとね」
「いつも読んでいます」
「だから、いつも機嫌が悪いのかも」
文香は返事をしなかった。けれど、ノートの端を指で押さえたまま、窓の外へ少しだけ顔を向けた。
夕方、二人が尾路町へ戻ると、待合所の前で祐が照明の位置を直していた。壮翔は脚立を押さえる役のはずなのに、片手でじゃこ天を持っている。明純がその横で紙札板を支え、愛衣子が利用者名簿の新しい欄を作っていた。信清は港から戻ってきたばかりで、雨具を肩に掛けている。
「おかえり」
祐が脚立の上から言った。
「ただいま」
文香の返事は短い。けれど、祐はその声の中に、朝と違う温度を感じた。
裕子は封筒を机に置いた。
「小豆島の紙片の写し。現物は工房保管。展示は手順の一部だけ。個人的な文章は非公開。八重さんの名前は小さく。祐、長く書かない」
「まだ何も書いてない」
「これから長く書く顔をしてる」
壮翔がじゃこ天を口に入れながら頷いた。
「祐くんの顔は、今、だいたい四百字」
「壮翔さん、脚立」
祐が言うと、脚立がわずかに揺れた。全員の視線が壮翔に集まる。壮翔は慌てて両手で脚立を押さえ、じゃこ天を口の中へ隠した。
「この命に代えても」
「言わなくていい」
裕子の声が、待合所にまっすぐ走った。
文香は名札棚の前へ行き、鞄から小豆島の封筒を取り出した。母のベージュの封筒と、今日の薄い封筒。二つを並べず、片方は胸ポケットへ、片方は机の上へ置く。
祐は脚立を下りた。
「説明文、今夜少し作るよ。紙包みの手順として」
「はい」
「八重さんのことは、文香さんが決めた範囲で」
「はい」
「欠けた文章は」
「出しません」
「分かった」
祐はそれ以上聞かなかった。
文香は机の上の写しを一枚開いた。紙片に残された折り筋が、写真の中でも薄く見える。白すぎない紙。閉じきらない角。直しすぎないという手順。
窓の外で、夕便の汽笛が鳴った。
信清が閉鎖時刻の紙を確認し、明純が紙札板を中へ入れ、愛衣子が机の上の鉛筆を数える。裕子は写しの封筒へ受領番号を振り、壮翔は脚立を畳むついでにまた椅子の位置を動かして叱られた。
文香は、その騒がしさの中で紙片を見つめていた。
母の手紙は、まだ胸ポケットにある。
小豆島の紙片は、机の上にある。
どちらも同じ人が残したものだ。けれど、同じ場所には置かない。
文香は薄い写しを名札棚の横へ運び、仮置き用の小さな箱に収めた。箱の蓋を閉める前に、紙の端へ指を添える。触れるというより、そこにあることを確かめるだけの動きだった。
「明日から、名札を包む時に使います」
祐は頷いた。
「待合所の手順に入れよう」
「説明文は、短く」
「努力します」
裕子が赤ペンを持ち上げた。
「努力じゃ足りない」
文香は、今度は少しだけ笑った。
それは、声にならない笑いだった。誰かを許した笑いでも、悲しみが消えた笑いでもない。ただ、同じ作業机に座りたかったという思いを抱えたまま、今ここにある机へ向き直るための、小さな息だった。
待合所の灯りが点く。
ベージュに近い光が、名札棚と、紙片の写しと、長椅子の畳座布団を静かに照らした。外の海は夕方の色へ変わり、船の跡がゆっくりほどけていく。
文香は名札棚の鍵を閉め、鍵管理表へ時刻を書いた。
その文字は短く、まっすぐで、少しだけ母の字に似ていた。




