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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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30/45

第30話 尾道水道の夜

 夕方の閉鎖時間を過ぎても、淡名渡船待合所の床には、昼間の熱が薄く残っていた。


 祐は入口の鍵を閉める前に、もう一度だけ中を見回した。白い紙札の板は外して壁際へ立てかけ、名札棚には布を掛け、非公開箱の鍵は文香のポケットに移っている。長椅子の上には、裕子が畳んだ雑巾が三枚、角をそろえて置かれていた。窓の下の温度計は、夕方になってようやく二十九度まで下がっている。


 港の外では、日が沈みきる前の海が鈍い銀色をしていた。尾道水道の向こう側に淡名島の影が横たわり、島の家々の窓に、ぽつぽつと灯りがともり始めている。昼のあいだは白く光っていた坂道も、いまは屋根の影を抱いて、石段の一枚一枚が湿ったように見えた。


 壮翔は宿へ戻る客の迎えに行き、明純は子どもたちを商店街まで送り、愛衣子は裕子に連れられて返却簿の写しを片づけに行った。信清は最終便のロープを確かめると言って、桟橋へ向かった。


 待合所に残ったのは、祐と文香だけだった。


 文香は名札棚の前に立ち、布の端を指で押さえていた。押さえなくても落ちないはずの布だった。けれど彼女の指は、布の縁から離れなかった。


 「帰る?」


 祐が聞くと、文香は小さく首を横に振った。


 「少し、歩く」


 その声は、閉鎖後の待合所の中で聞くには短すぎた。けれど祐には、どの道を歩くつもりなのか分かった。港から商店街へ戻る平らな道ではなく、尾道水道を見下ろせる坂道だ。昼間から夕方へ変わる時刻に、海と町のあいだがいちばん静かになる場所だった。


 祐は鍵を確認し、入口の札を裏返した。


 本日の開放は終了しました。


 明日の開放時間は、朝七時から十時までです。


 札の下に、裕子の字で小さく「暑い日は水を持参」と追記されている。さらにその横に、壮翔が書いたらしいゆがんだ字で「じゃこ天は持参しないでください」とあり、裕子の赤い斜線で消されていた。


 文香がその赤い斜線を見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 「消しきれてない」


 「裕子さんに言ったら、紙ごと貼り替えると思う」


 「もったいない」


 文香はそう言って、先に歩きだした。


 港から坂へ向かう道は、昼間の人声が嘘のように細くなっていた。軒先の鉢植えには水が打たれ、濡れた土の匂いが潮の匂いに混じっている。路地の奥で、誰かが夕飯の鍋を火にかけたのか、薄い出汁の香りが風に乗った。遠くで自転車のベルが鳴り、それからすぐに、猫が石垣の上を渡る音だけが残る。


 文香は歩くのが速くない。祐が少し前へ出ると追いかけないし、後ろに下がると待たない。ただ、自分の足幅で石段を上っていく。祐はその横に並ばず、半歩後ろを歩いた。


 今日、名札を返さない人のための箱ができた。


 その静かな箱は、文香が長く抱えていたものにも似ていた。母からの手紙を読んでも、誰かに見せず、展示にもせず、胸ポケットへしまった。怒りが消えないまま、それでも破らず、捨てず、濡らさずに持っている。


 祐は、それを励ます言葉を探さなかった。探したところで、ふさわしい言葉が見つかるとは思えなかった。


 坂の途中で、文香が立ち止まった。


 古い寺の石垣が続く場所だった。夕方の光は石垣の隙間へ沈み、背の低い草の先だけを金色にしている。下を見れば、尾道水道に細い航跡が一本伸びていた。最終便の渡船が、島へ向かってゆっくり進んでいる。船の白い屋根が、波に揺れるたびに小さく光った。


 文香は手すりに触れなかった。両手を前で重ね、親指の先で自分の爪を押している。


 「祐さん」


 「うん」


 「手紙、読んだ」


 祐は、驚かないように息を整えた。


 「うん」


 「読んだら、楽になると思ってた」


 文香は海を見たまま言った。


 「でも、ならなかった」


 渡船の音が、坂の下から薄く届いた。エンジンの低い響きは、風の向きが変わるたびに近くなったり遠くなったりする。


 「母は、戻れなかったって書いてた。戻らなかった、じゃなくて。体を壊したとか、船賃がなかったとか、祖母に頼んだとか。きれいに書いてあった」


 祐は、黙って聞いた。


 「だけど、子どもの私は、待った」


 文香の声は震えなかった。


 「待合所で。祖母に手を引かれて帰っても、次の朝また、船の音を聞いた。戻るって言ったから。新しい名札を縫うって言ったから」


 祐は、石段の端に落ちている小さな貝殻を見た。誰かの靴底に運ばれて、坂の途中まで来てしまったのだろう。海から離れた場所で、白い欠けらだけが残っている。


 「読んだら、母の事情は分かった。でも、待ってた子どもは、置いたまま」


 文香は、そこで初めて祐のほうを見た。


 「ひどい?」


 「ひどくない」


 返事はすぐに出た。急いだわけではなかった。ただ、迷う余地がなかった。


 文香は祐の顔を見て、少し目を細めた。


 「理由を知っても、怒ってる」


 「怒っていいと思う」


 「許せって言わない?」


 「言わない」


 「母は悪くなかったって、言わない?」


 「言わない」


 文香は、重ねていた手をほどいた。指の跡が、もう片方の親指の爪の横に薄く残っている。


 「祐さんは、簡単に言わない」


 「簡単に言ったら、文香さんが返事しなくなるから」


 「それだけ?」


 「それもある」


 文香の口元が、また少しだけゆるんだ。


 祐は手すりにもたれず、石段の端に立った。下から上がってくる風は、昼間の熱をまだ含んでいる。けれど海の上を渡ってきたぶん、町の路地よりも少し湿っていた。


 「僕も、戻った理由を、ずっと祖母のせいにしてた」


 文香は何も言わなかった。


 祐は自分で言葉を続けた。


 「尾路町に戻ってきたとき、周りには、祖母が足を悪くしたからって言ってた。案内所の仕事に移ったのも、家に近いほうがいいからって。でも、それだけじゃなかった」


 坂の下で、軽トラックが低い音を立てて曲がった。荷台に積まれた発泡スチロールの箱がひとつ跳ね、運転席の男が手を伸ばして押さえる。


 「前の会社では、旅行の手配をしてた。人数、日付、乗り換え、宿、食事。そういう表を作るのは得意だった。間違えないように、遅れないように、できるだけ安くなるように」


 文香は海へ視線を戻した。


 「向いてそう」


 「そう言われてた」


 「違った?」


 「たぶん、途中までは違わなかった」


 祐は、手帳を出そうとしてやめた。いま話すことを、すぐに紙へ逃がしたくなかった。


 「ある日、家族連れの予定を組んだ。祖父母と、夫婦と、小学生の男の子。島をいくつか回る旅だった。乗り換え時間が短いほうが移動は早い。でも、歩く距離が少し長くなる。僕は、表のうえでいちばん無駄がない行程にした」


 文香は祐のほうを見なかった。けれど、聞いていることは分かった。彼女は聞くとき、相手の顔より少し下を見る。逃がさないためではなく、急がせないための目線だった。


 「当日、駅から電話が来た。祖父の方が、途中で足を痛めた。次の船に間に合わない。ホテルの夕食にも遅れる。僕は慌てて別の便を探したけど、最初にその人の歩く速さを考えなかった。予約の紙には、祖父母って書いてあった。杖の有無を聞けたはずなのに、聞かなかった」


 祐は下唇を噛みそうになり、やめた。


 「そのあと、謝った。別の案も作った。でも、その男の子が電話口で言ったんだ。おじいちゃんが悪いみたいになって、嫌だったって」


 尾道水道の水面に、最終便の波が遅れて届いた。薄い筋が岸壁に当たり、夜に近い音を立てる。


 「それから、表を見るたびに、人数しか見えていない気がした。名前を聞いても、名簿の欄を埋めているだけで、その人がどの速さで歩くか、どの席なら安心するか、何を言われたら黙ってしまうか、考える前に次の行程を作ってた」


 文香は静かに言った。


 「それで戻った?」


 「戻った。祖母の足を理由にして」


 「祖母さんは?」


 「喜んでた。たぶん、僕の言い訳に気づいてたと思う。案内所の初日に、祖母が言ったんだ。『道を教えるなら、相手の靴を見なさい』って」


 文香は視線を落とした。


 祐の靴は、今日の床板補修の粉で白く汚れていた。文香の靴は、名札棚の前で何度も膝をついたせいか、つま先に油紙の細いくずがついている。


 「いい言葉」


 「でも、最初は意味が分からなかった。目的地を聞けば案内できると思ってたから」


 「いまは?」


 「少しは分かる。急いでいる人の靴と、帰りたくない人の靴は、違う」


 文香は何も返さなかった。だが、靴のつま先を石段の端から少し引いた。


 坂の上から、小さな子どもの笑い声が降りてきた。母親らしき声が「走らんの」と追いかける。二人の足音は途中の路地で曲がり、すぐに聞こえなくなった。


 文香は海を見たまま、ぽつりと言った。


 「私は、待ってる靴だった」


 祐は、その言葉を繰り返さなかった。


 「母が乗った船を、何度も見に行った。祖母が、夕飯が冷めるって言っても、潮紙堂の前まで戻ってから、また桟橋へ走った。名札を握ったまま。新しく縫ってもらうはずだったから、今の名札は古くなる前に捨てていいと思ってた」


 文香は、自分の胸元に触れた。そこに名札はない。幼い文香の名札は、まだ棚の奥にも展示にも出ていない。鍵のかかった場所にも入っていない。ただ、彼女の中でほどけない糸のように残っている。


 「だから、ほつれを見ると、直したくなる」


 「うん」


 「破れたまま置いておくと、待っていた時間まで破れた気がする」


 祐は、手すり越しに海を見た。


 下の桟橋で、信清が船長と話していた。遠くて声は届かない。けれど、信清の手が海のほうを示し、船長が頷くのが見えた。二人のあいだには、言葉よりも先に風向きや潮位を読む時間がある。


 「直すことと、戻すことは違うのかもしれない」


 祐が言うと、文香は横目で見た。


 「どういう意味」


 「文香さんは名札を直してる。でも、全部を昔に戻してるわけじゃない。布を足したり、裏から支えたり、戻せない部分は記録したりしてる。待っていた時間も、消えなくていいんじゃないかと思った」


 文香は、しばらく黙った。


 祐は言い過ぎたかと思った。けれど文香は怒らなかった。手すりの上に小さな虫が止まるのを見て、指で払わずに待った。虫は薄い羽を震わせて、石垣の草のほうへ飛んでいった。


 「戻せない部分は、記録する」


 文香が言った。


 「うん」


 「祐さん、すぐ記録にする」


 「癖だから」


 「悪くない」


 その一言が、祐の胸の奥へ、ゆっくり落ちた。


 悪くない。


 文香が使うその言葉は、派手なほめ言葉よりずっと重い。修繕台で紙の端を撫でて、湿気の抜け方を見て、それからようやく言うときの言葉だ。


 祐は少し笑った。


 「ありがとう」


 「まだ、ほめてない」


 「分かってる」


 「分かってない顔」


 「そんな顔してる?」


 「してる」


 文香はそう言って、また海を向いた。


 夕方の色は、すでに夜へ押されていた。海面の銀色は濃くなり、船の灯りだけが点のように揺れている。山側の家々からは、食器の触れる音、戸を閉める音、誰かを呼ぶ声が、細い路地を伝って降りてくる。


 祐は、自分の手帳を開いた。


 文香がちらりと見た。


 「書くの」


 「忘れたくないことだけ」


 「私のこと?」


 「文香さんが嫌なら書かない」


 「嫌じゃない。名前は、書かないで」


 「分かった」


 祐はページの上に、日付と場所だけを書いた。


 七月下旬、尾道水道を見下ろす坂。


 それから少し考え、短く続けた。


 戻せない部分は、消さずに支える。


 文香はその文字を読んで、何も言わなかった。かわりに、胸ポケットからベージュの封筒を少しだけ出した。封筒の角は、何度も触れたために柔らかくなっている。紙の繊維が毛羽立ち、夕方の薄い光を吸っていた。


 「母の手紙」


 「うん」


 「展示しない」


 「うん」


 「でも、なかったことにもしない」


 祐は頷いた。


 「うん」


 「説明文を書く。母の手紙の中身じゃなくて、待つ人のこと。戻らない人のこと。見せない記憶のこと」


 「文香さんの言葉で?」


 「短く」


 「短いほうが、届くこともある」


 文香は封筒を胸ポケットへ戻した。


 「裕子さんに、赤を入れられる」


 「入ると思う」


 「腹立つ」


 「でも、読ませる?」


 「読ませる」


 その返事が早かったので、祐は笑った。


 文香は少し眉を寄せたが、怒らなかった。


 坂の下から、壮翔の声が聞こえた。


 「おーい、祐ー、文香さーん! そこにいるなら返事してくださーい! 裕子さんが、消したはずのじゃこ天の文字が浮かび上がってきたって怒ってる!」


 祐は手すりから身を乗り出しそうになり、すぐにやめた。文香は一度まばたきをしただけで、声のした方角を見ない。


 「浮かび上がる?」


 「たぶん、壮翔さんが濃く書きすぎたんだと思う」


 「油性?」


 「かもしれない」


 「紙札じゃなくて、札本体?」


 「……たぶん」


 文香は、深く息を吸った。


 祐は叱られる前の壮翔の顔を想像し、少しだけ同情した。けれど助けに行くほどの同情ではなかった。


 坂の下から、今度は裕子の声が上がってきた。


 「二人とも! 隠れてないで降りてきなさい! 壮翔が札を増やした!」


 文香は目を閉じた。


 「増やした?」


 「複数形だったね」


 「帰る」


 そう言って、文香は石段を下り始めた。


 祐は後を追った。上るときと同じように、文香は速くない。けれど、さっきより足取りが少しだけはっきりしていた。待っている靴ではなく、直すものを見つけた人の靴だった。


 途中の路地で、文香が立ち止まった。


 「祐さん」


 「うん」


 「許せなくても、歩ける?」


 祐は少し考えた。


 坂の下では、壮翔が何か言い訳をしている。裕子の声が重なり、明純が笑い、愛衣子が「閉鎖時間後に落ち込みます」と妙な宣言をしている。信清の低い声が、その全部を一度止めた。


 待合所は、今日も騒がしい。


 それでも、鍵のかかった棚の中には静けさがあり、見せない手紙があり、呼ばない名札がある。


 「歩けると思う」


 祐は答えた。


 「たぶん、許すかどうかより先に、明日の鍵を開ける時間が来る」


 文香は、少しだけ目を伏せた。


 「そういう言い方、祐さんらしい」


 「だめ?」


 「悪くない」


 今度は、祐も素直に受け取った。


 坂を下りきると、待合所の前に全員が集まっていた。壮翔は問題の札を胸の前に隠している。裕子は赤ペンを手に持ち、明純は笑いをこらえきれず肩を震わせ、愛衣子は雑巾を握ったまま真剣な顔をしていた。信清は桟橋から戻ってきたばかりで、濡れたロープの匂いを連れている。


 「何を書いたんですか」


 祐が聞くと、壮翔は首を振った。


 「違う。これはな、呼び込みじゃない。注意書きだ」


 裕子が札を奪い取った。


 そこには、大きな字でこう書かれていた。


 じゃこ天は、数を数えてから食べましょう。


 その下に、小さな字で「この命に代えても」と添えてある。


 文香は札を見て、ほんの一秒だけ黙った。


 それから、壮翔の手から赤ペンを取り上げた。裕子ではなく文香が動いたので、全員が息を止める。


 文香は札の下の「この命に代えても」に、まっすぐな一本線を引いた。そして、その横に小さく書いた。


 数を守る。


 壮翔が目を丸くした。


 「文香さん、それ採用?」


 「注意書きとしては、不採用」


 「えっ」


 「でも、台所に貼るなら可」


 明純が吹き出し、愛衣子が雑巾で口元を押さえた。裕子は笑わないように赤ペンのキャップを強く閉め、信清は顔を背けて咳払いをした。


 祐も笑った。


 笑いながら、さっき坂の上で文香が言った言葉を思い出していた。


 読んでも、楽にならなかった。


 許せないまま、歩けるか。


 その問いへの答えは、長い説明にはならないのかもしれない。明日の鍵を開ける。名札棚の布を外す。団扇を戻す。床を拭く。非公開箱の鍵を確かめる。誰かが書いた変な札を、笑って直す。


 そういう短い動作を重ねるうちに、歩いていることだけが先に分かる。


 裕子が札を持ち上げた。


 「これは宿の台所。待合所には貼らない。異論は」


 「ありません」


 壮翔が即答した。


 「早いですね」


 愛衣子が言うと、壮翔は胸を張った。


 「人は成長するんだよ」


 「じゃこ天の数で?」


 明純が突っ込み、壮翔が返す前に、信清が待合所の扉を指した。


 「鍵、閉めたか」


 「閉めました」


 祐が答える。


 「明日の朝、風は?」


 「弱い。昼から少し南が入る。暑くなる」


 信清はそれだけ言って、空を見た。雲は低くない。けれど、夏の夜の湿気が、港の上にゆっくり降りてきている。


 「水を多めに置きます」


 愛衣子が言う。


 「紙札の板は、朝に出す。個人名の注意書きも」


 裕子が続ける。


 「畳座布団、乾かしてから戻す」


 壮翔が言い、文香が頷いた。


 「名札棚は、私が開ける」


 短い言葉が、夜の前の空気に並んだ。誰かが大きな誓いを立てたわけではない。けれど、明日の朝に誰が何をするのかは、はっきりしていた。


 祐は手帳を閉じた。


 海の向こうで、淡名島の灯りが増えていた。水道を渡る風が、閉鎖札の端を小さく揺らす。札の裏側には、明日の開放時間が静かに待っている。


 文香が祐の横に立った。


 「祐さん」


 「うん」


 「明日、早い?」


 「七時前には来る」


 「私も」


 「名札棚?」


 「それと、説明文」


 祐は頷いた。


 「裕子さんに見せる前に、読んでもいい?」


 文香は少し考えた。


 「赤を入れないなら」


 「入れない」


 「ほめすぎないなら」


 「気をつける」


 「長く言わないなら」


 「それは、たぶん無理」


 文香は横目で祐を見た。叱るような目ではなかった。


 「努力して」


 「します」


 坂道の上から夜が降りてきて、港の輪郭をゆっくり薄くした。待合所の窓は暗く、中の名札棚も、長椅子も、団扇も見えない。それでも祐には、そこに置かれたものの位置が分かった。名札棚の一段目。標本箱の影。非公開箱の奥。畳座布団の端。裕子の赤ペンが置かれた机。壮翔が動かした椅子の脚。愛衣子が拭いた床板。明純が謝りに行くと決めた港の手すり。信清が示した閉鎖時刻の紙。


 どれも、明日の朝また手で確かめるものだった。


 祐は最後に一度だけ海を見た。


 尾道水道の夜は、真っ暗ではない。船の灯り、島の窓、坂の家の台所、港の外灯。小さな光が、それぞれの場所で揺れている。ひとつで海を照らすほど強くはない。けれど、歩く人が足元を見失わないくらいには、そこにある。


 文香は胸ポケットを手で押さえた。


 ベージュの封筒は、そこにある。


 展示されず、読まれず、けれど捨てられないまま、文香の歩幅に合わせて揺れている。


 祐は、明日の欄に書くべきことをもう決めていた。


 許せないままでも、鍵は開けられる。


 その言葉を、文香の名前なしで記録する。


 港の誰かが、遠くで「おやすみ」と言った。誰に向けた声なのか分からなかったが、文香が小さく返事をした。


 「おやすみ」


 祐も、それに続いた。


 「おやすみなさい」


 待合所の閉鎖札が、夜風に一度だけ鳴った。


 明日の朝、また裏返されるための、軽い音だった。



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