第30話 尾道水道の夜
夕方の閉鎖時間を過ぎても、淡名渡船待合所の床には、昼間の熱が薄く残っていた。
祐は入口の鍵を閉める前に、もう一度だけ中を見回した。白い紙札の板は外して壁際へ立てかけ、名札棚には布を掛け、非公開箱の鍵は文香のポケットに移っている。長椅子の上には、裕子が畳んだ雑巾が三枚、角をそろえて置かれていた。窓の下の温度計は、夕方になってようやく二十九度まで下がっている。
港の外では、日が沈みきる前の海が鈍い銀色をしていた。尾道水道の向こう側に淡名島の影が横たわり、島の家々の窓に、ぽつぽつと灯りがともり始めている。昼のあいだは白く光っていた坂道も、いまは屋根の影を抱いて、石段の一枚一枚が湿ったように見えた。
壮翔は宿へ戻る客の迎えに行き、明純は子どもたちを商店街まで送り、愛衣子は裕子に連れられて返却簿の写しを片づけに行った。信清は最終便のロープを確かめると言って、桟橋へ向かった。
待合所に残ったのは、祐と文香だけだった。
文香は名札棚の前に立ち、布の端を指で押さえていた。押さえなくても落ちないはずの布だった。けれど彼女の指は、布の縁から離れなかった。
「帰る?」
祐が聞くと、文香は小さく首を横に振った。
「少し、歩く」
その声は、閉鎖後の待合所の中で聞くには短すぎた。けれど祐には、どの道を歩くつもりなのか分かった。港から商店街へ戻る平らな道ではなく、尾道水道を見下ろせる坂道だ。昼間から夕方へ変わる時刻に、海と町のあいだがいちばん静かになる場所だった。
祐は鍵を確認し、入口の札を裏返した。
本日の開放は終了しました。
明日の開放時間は、朝七時から十時までです。
札の下に、裕子の字で小さく「暑い日は水を持参」と追記されている。さらにその横に、壮翔が書いたらしいゆがんだ字で「じゃこ天は持参しないでください」とあり、裕子の赤い斜線で消されていた。
文香がその赤い斜線を見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「消しきれてない」
「裕子さんに言ったら、紙ごと貼り替えると思う」
「もったいない」
文香はそう言って、先に歩きだした。
港から坂へ向かう道は、昼間の人声が嘘のように細くなっていた。軒先の鉢植えには水が打たれ、濡れた土の匂いが潮の匂いに混じっている。路地の奥で、誰かが夕飯の鍋を火にかけたのか、薄い出汁の香りが風に乗った。遠くで自転車のベルが鳴り、それからすぐに、猫が石垣の上を渡る音だけが残る。
文香は歩くのが速くない。祐が少し前へ出ると追いかけないし、後ろに下がると待たない。ただ、自分の足幅で石段を上っていく。祐はその横に並ばず、半歩後ろを歩いた。
今日、名札を返さない人のための箱ができた。
その静かな箱は、文香が長く抱えていたものにも似ていた。母からの手紙を読んでも、誰かに見せず、展示にもせず、胸ポケットへしまった。怒りが消えないまま、それでも破らず、捨てず、濡らさずに持っている。
祐は、それを励ます言葉を探さなかった。探したところで、ふさわしい言葉が見つかるとは思えなかった。
坂の途中で、文香が立ち止まった。
古い寺の石垣が続く場所だった。夕方の光は石垣の隙間へ沈み、背の低い草の先だけを金色にしている。下を見れば、尾道水道に細い航跡が一本伸びていた。最終便の渡船が、島へ向かってゆっくり進んでいる。船の白い屋根が、波に揺れるたびに小さく光った。
文香は手すりに触れなかった。両手を前で重ね、親指の先で自分の爪を押している。
「祐さん」
「うん」
「手紙、読んだ」
祐は、驚かないように息を整えた。
「うん」
「読んだら、楽になると思ってた」
文香は海を見たまま言った。
「でも、ならなかった」
渡船の音が、坂の下から薄く届いた。エンジンの低い響きは、風の向きが変わるたびに近くなったり遠くなったりする。
「母は、戻れなかったって書いてた。戻らなかった、じゃなくて。体を壊したとか、船賃がなかったとか、祖母に頼んだとか。きれいに書いてあった」
祐は、黙って聞いた。
「だけど、子どもの私は、待った」
文香の声は震えなかった。
「待合所で。祖母に手を引かれて帰っても、次の朝また、船の音を聞いた。戻るって言ったから。新しい名札を縫うって言ったから」
祐は、石段の端に落ちている小さな貝殻を見た。誰かの靴底に運ばれて、坂の途中まで来てしまったのだろう。海から離れた場所で、白い欠けらだけが残っている。
「読んだら、母の事情は分かった。でも、待ってた子どもは、置いたまま」
文香は、そこで初めて祐のほうを見た。
「ひどい?」
「ひどくない」
返事はすぐに出た。急いだわけではなかった。ただ、迷う余地がなかった。
文香は祐の顔を見て、少し目を細めた。
「理由を知っても、怒ってる」
「怒っていいと思う」
「許せって言わない?」
「言わない」
「母は悪くなかったって、言わない?」
「言わない」
文香は、重ねていた手をほどいた。指の跡が、もう片方の親指の爪の横に薄く残っている。
「祐さんは、簡単に言わない」
「簡単に言ったら、文香さんが返事しなくなるから」
「それだけ?」
「それもある」
文香の口元が、また少しだけゆるんだ。
祐は手すりにもたれず、石段の端に立った。下から上がってくる風は、昼間の熱をまだ含んでいる。けれど海の上を渡ってきたぶん、町の路地よりも少し湿っていた。
「僕も、戻った理由を、ずっと祖母のせいにしてた」
文香は何も言わなかった。
祐は自分で言葉を続けた。
「尾路町に戻ってきたとき、周りには、祖母が足を悪くしたからって言ってた。案内所の仕事に移ったのも、家に近いほうがいいからって。でも、それだけじゃなかった」
坂の下で、軽トラックが低い音を立てて曲がった。荷台に積まれた発泡スチロールの箱がひとつ跳ね、運転席の男が手を伸ばして押さえる。
「前の会社では、旅行の手配をしてた。人数、日付、乗り換え、宿、食事。そういう表を作るのは得意だった。間違えないように、遅れないように、できるだけ安くなるように」
文香は海へ視線を戻した。
「向いてそう」
「そう言われてた」
「違った?」
「たぶん、途中までは違わなかった」
祐は、手帳を出そうとしてやめた。いま話すことを、すぐに紙へ逃がしたくなかった。
「ある日、家族連れの予定を組んだ。祖父母と、夫婦と、小学生の男の子。島をいくつか回る旅だった。乗り換え時間が短いほうが移動は早い。でも、歩く距離が少し長くなる。僕は、表のうえでいちばん無駄がない行程にした」
文香は祐のほうを見なかった。けれど、聞いていることは分かった。彼女は聞くとき、相手の顔より少し下を見る。逃がさないためではなく、急がせないための目線だった。
「当日、駅から電話が来た。祖父の方が、途中で足を痛めた。次の船に間に合わない。ホテルの夕食にも遅れる。僕は慌てて別の便を探したけど、最初にその人の歩く速さを考えなかった。予約の紙には、祖父母って書いてあった。杖の有無を聞けたはずなのに、聞かなかった」
祐は下唇を噛みそうになり、やめた。
「そのあと、謝った。別の案も作った。でも、その男の子が電話口で言ったんだ。おじいちゃんが悪いみたいになって、嫌だったって」
尾道水道の水面に、最終便の波が遅れて届いた。薄い筋が岸壁に当たり、夜に近い音を立てる。
「それから、表を見るたびに、人数しか見えていない気がした。名前を聞いても、名簿の欄を埋めているだけで、その人がどの速さで歩くか、どの席なら安心するか、何を言われたら黙ってしまうか、考える前に次の行程を作ってた」
文香は静かに言った。
「それで戻った?」
「戻った。祖母の足を理由にして」
「祖母さんは?」
「喜んでた。たぶん、僕の言い訳に気づいてたと思う。案内所の初日に、祖母が言ったんだ。『道を教えるなら、相手の靴を見なさい』って」
文香は視線を落とした。
祐の靴は、今日の床板補修の粉で白く汚れていた。文香の靴は、名札棚の前で何度も膝をついたせいか、つま先に油紙の細いくずがついている。
「いい言葉」
「でも、最初は意味が分からなかった。目的地を聞けば案内できると思ってたから」
「いまは?」
「少しは分かる。急いでいる人の靴と、帰りたくない人の靴は、違う」
文香は何も返さなかった。だが、靴のつま先を石段の端から少し引いた。
坂の上から、小さな子どもの笑い声が降りてきた。母親らしき声が「走らんの」と追いかける。二人の足音は途中の路地で曲がり、すぐに聞こえなくなった。
文香は海を見たまま、ぽつりと言った。
「私は、待ってる靴だった」
祐は、その言葉を繰り返さなかった。
「母が乗った船を、何度も見に行った。祖母が、夕飯が冷めるって言っても、潮紙堂の前まで戻ってから、また桟橋へ走った。名札を握ったまま。新しく縫ってもらうはずだったから、今の名札は古くなる前に捨てていいと思ってた」
文香は、自分の胸元に触れた。そこに名札はない。幼い文香の名札は、まだ棚の奥にも展示にも出ていない。鍵のかかった場所にも入っていない。ただ、彼女の中でほどけない糸のように残っている。
「だから、ほつれを見ると、直したくなる」
「うん」
「破れたまま置いておくと、待っていた時間まで破れた気がする」
祐は、手すり越しに海を見た。
下の桟橋で、信清が船長と話していた。遠くて声は届かない。けれど、信清の手が海のほうを示し、船長が頷くのが見えた。二人のあいだには、言葉よりも先に風向きや潮位を読む時間がある。
「直すことと、戻すことは違うのかもしれない」
祐が言うと、文香は横目で見た。
「どういう意味」
「文香さんは名札を直してる。でも、全部を昔に戻してるわけじゃない。布を足したり、裏から支えたり、戻せない部分は記録したりしてる。待っていた時間も、消えなくていいんじゃないかと思った」
文香は、しばらく黙った。
祐は言い過ぎたかと思った。けれど文香は怒らなかった。手すりの上に小さな虫が止まるのを見て、指で払わずに待った。虫は薄い羽を震わせて、石垣の草のほうへ飛んでいった。
「戻せない部分は、記録する」
文香が言った。
「うん」
「祐さん、すぐ記録にする」
「癖だから」
「悪くない」
その一言が、祐の胸の奥へ、ゆっくり落ちた。
悪くない。
文香が使うその言葉は、派手なほめ言葉よりずっと重い。修繕台で紙の端を撫でて、湿気の抜け方を見て、それからようやく言うときの言葉だ。
祐は少し笑った。
「ありがとう」
「まだ、ほめてない」
「分かってる」
「分かってない顔」
「そんな顔してる?」
「してる」
文香はそう言って、また海を向いた。
夕方の色は、すでに夜へ押されていた。海面の銀色は濃くなり、船の灯りだけが点のように揺れている。山側の家々からは、食器の触れる音、戸を閉める音、誰かを呼ぶ声が、細い路地を伝って降りてくる。
祐は、自分の手帳を開いた。
文香がちらりと見た。
「書くの」
「忘れたくないことだけ」
「私のこと?」
「文香さんが嫌なら書かない」
「嫌じゃない。名前は、書かないで」
「分かった」
祐はページの上に、日付と場所だけを書いた。
七月下旬、尾道水道を見下ろす坂。
それから少し考え、短く続けた。
戻せない部分は、消さずに支える。
文香はその文字を読んで、何も言わなかった。かわりに、胸ポケットからベージュの封筒を少しだけ出した。封筒の角は、何度も触れたために柔らかくなっている。紙の繊維が毛羽立ち、夕方の薄い光を吸っていた。
「母の手紙」
「うん」
「展示しない」
「うん」
「でも、なかったことにもしない」
祐は頷いた。
「うん」
「説明文を書く。母の手紙の中身じゃなくて、待つ人のこと。戻らない人のこと。見せない記憶のこと」
「文香さんの言葉で?」
「短く」
「短いほうが、届くこともある」
文香は封筒を胸ポケットへ戻した。
「裕子さんに、赤を入れられる」
「入ると思う」
「腹立つ」
「でも、読ませる?」
「読ませる」
その返事が早かったので、祐は笑った。
文香は少し眉を寄せたが、怒らなかった。
坂の下から、壮翔の声が聞こえた。
「おーい、祐ー、文香さーん! そこにいるなら返事してくださーい! 裕子さんが、消したはずのじゃこ天の文字が浮かび上がってきたって怒ってる!」
祐は手すりから身を乗り出しそうになり、すぐにやめた。文香は一度まばたきをしただけで、声のした方角を見ない。
「浮かび上がる?」
「たぶん、壮翔さんが濃く書きすぎたんだと思う」
「油性?」
「かもしれない」
「紙札じゃなくて、札本体?」
「……たぶん」
文香は、深く息を吸った。
祐は叱られる前の壮翔の顔を想像し、少しだけ同情した。けれど助けに行くほどの同情ではなかった。
坂の下から、今度は裕子の声が上がってきた。
「二人とも! 隠れてないで降りてきなさい! 壮翔が札を増やした!」
文香は目を閉じた。
「増やした?」
「複数形だったね」
「帰る」
そう言って、文香は石段を下り始めた。
祐は後を追った。上るときと同じように、文香は速くない。けれど、さっきより足取りが少しだけはっきりしていた。待っている靴ではなく、直すものを見つけた人の靴だった。
途中の路地で、文香が立ち止まった。
「祐さん」
「うん」
「許せなくても、歩ける?」
祐は少し考えた。
坂の下では、壮翔が何か言い訳をしている。裕子の声が重なり、明純が笑い、愛衣子が「閉鎖時間後に落ち込みます」と妙な宣言をしている。信清の低い声が、その全部を一度止めた。
待合所は、今日も騒がしい。
それでも、鍵のかかった棚の中には静けさがあり、見せない手紙があり、呼ばない名札がある。
「歩けると思う」
祐は答えた。
「たぶん、許すかどうかより先に、明日の鍵を開ける時間が来る」
文香は、少しだけ目を伏せた。
「そういう言い方、祐さんらしい」
「だめ?」
「悪くない」
今度は、祐も素直に受け取った。
坂を下りきると、待合所の前に全員が集まっていた。壮翔は問題の札を胸の前に隠している。裕子は赤ペンを手に持ち、明純は笑いをこらえきれず肩を震わせ、愛衣子は雑巾を握ったまま真剣な顔をしていた。信清は桟橋から戻ってきたばかりで、濡れたロープの匂いを連れている。
「何を書いたんですか」
祐が聞くと、壮翔は首を振った。
「違う。これはな、呼び込みじゃない。注意書きだ」
裕子が札を奪い取った。
そこには、大きな字でこう書かれていた。
じゃこ天は、数を数えてから食べましょう。
その下に、小さな字で「この命に代えても」と添えてある。
文香は札を見て、ほんの一秒だけ黙った。
それから、壮翔の手から赤ペンを取り上げた。裕子ではなく文香が動いたので、全員が息を止める。
文香は札の下の「この命に代えても」に、まっすぐな一本線を引いた。そして、その横に小さく書いた。
数を守る。
壮翔が目を丸くした。
「文香さん、それ採用?」
「注意書きとしては、不採用」
「えっ」
「でも、台所に貼るなら可」
明純が吹き出し、愛衣子が雑巾で口元を押さえた。裕子は笑わないように赤ペンのキャップを強く閉め、信清は顔を背けて咳払いをした。
祐も笑った。
笑いながら、さっき坂の上で文香が言った言葉を思い出していた。
読んでも、楽にならなかった。
許せないまま、歩けるか。
その問いへの答えは、長い説明にはならないのかもしれない。明日の鍵を開ける。名札棚の布を外す。団扇を戻す。床を拭く。非公開箱の鍵を確かめる。誰かが書いた変な札を、笑って直す。
そういう短い動作を重ねるうちに、歩いていることだけが先に分かる。
裕子が札を持ち上げた。
「これは宿の台所。待合所には貼らない。異論は」
「ありません」
壮翔が即答した。
「早いですね」
愛衣子が言うと、壮翔は胸を張った。
「人は成長するんだよ」
「じゃこ天の数で?」
明純が突っ込み、壮翔が返す前に、信清が待合所の扉を指した。
「鍵、閉めたか」
「閉めました」
祐が答える。
「明日の朝、風は?」
「弱い。昼から少し南が入る。暑くなる」
信清はそれだけ言って、空を見た。雲は低くない。けれど、夏の夜の湿気が、港の上にゆっくり降りてきている。
「水を多めに置きます」
愛衣子が言う。
「紙札の板は、朝に出す。個人名の注意書きも」
裕子が続ける。
「畳座布団、乾かしてから戻す」
壮翔が言い、文香が頷いた。
「名札棚は、私が開ける」
短い言葉が、夜の前の空気に並んだ。誰かが大きな誓いを立てたわけではない。けれど、明日の朝に誰が何をするのかは、はっきりしていた。
祐は手帳を閉じた。
海の向こうで、淡名島の灯りが増えていた。水道を渡る風が、閉鎖札の端を小さく揺らす。札の裏側には、明日の開放時間が静かに待っている。
文香が祐の横に立った。
「祐さん」
「うん」
「明日、早い?」
「七時前には来る」
「私も」
「名札棚?」
「それと、説明文」
祐は頷いた。
「裕子さんに見せる前に、読んでもいい?」
文香は少し考えた。
「赤を入れないなら」
「入れない」
「ほめすぎないなら」
「気をつける」
「長く言わないなら」
「それは、たぶん無理」
文香は横目で祐を見た。叱るような目ではなかった。
「努力して」
「します」
坂道の上から夜が降りてきて、港の輪郭をゆっくり薄くした。待合所の窓は暗く、中の名札棚も、長椅子も、団扇も見えない。それでも祐には、そこに置かれたものの位置が分かった。名札棚の一段目。標本箱の影。非公開箱の奥。畳座布団の端。裕子の赤ペンが置かれた机。壮翔が動かした椅子の脚。愛衣子が拭いた床板。明純が謝りに行くと決めた港の手すり。信清が示した閉鎖時刻の紙。
どれも、明日の朝また手で確かめるものだった。
祐は最後に一度だけ海を見た。
尾道水道の夜は、真っ暗ではない。船の灯り、島の窓、坂の家の台所、港の外灯。小さな光が、それぞれの場所で揺れている。ひとつで海を照らすほど強くはない。けれど、歩く人が足元を見失わないくらいには、そこにある。
文香は胸ポケットを手で押さえた。
ベージュの封筒は、そこにある。
展示されず、読まれず、けれど捨てられないまま、文香の歩幅に合わせて揺れている。
祐は、明日の欄に書くべきことをもう決めていた。
許せないままでも、鍵は開けられる。
その言葉を、文香の名前なしで記録する。
港の誰かが、遠くで「おやすみ」と言った。誰に向けた声なのか分からなかったが、文香が小さく返事をした。
「おやすみ」
祐も、それに続いた。
「おやすみなさい」
待合所の閉鎖札が、夜風に一度だけ鳴った。
明日の朝、また裏返されるための、軽い音だった。




