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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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23/45

第23話 進祐の大きな図面

 尾路町役場の三階にある小会議室は、海に背を向けていた。


 窓の外には、港へ下りていく細い道と、屋根の上をすべる朝の光が見える。けれど机の上に広げられている紙の上では、海は青い線でしかなかった。駅は四角、バス停は丸、渡船場は錨の印。淡名渡船待合所は、祐の手元の図面では小さな赤い点になっていた。


 赤い点。


 祐は、その点を見つめた。


 待合所の床板の軋みも、団扇の縁のささくれも、非公開箱へ布をかけた時の文香の指先も、図面の上では何も見えない。昨日の夜に焼いた鯵の匂いも、明純が魚屋に頭を下げた話も、愛衣子が返却ではない返し方を覚えたことも、赤い点の中に押し込められている。


 会議室の扉が開き、進祐が大きな筒を抱えて入ってきた。


 「おはようございます」


 祐が立ち上がると、進祐は片手を上げただけで、返事の代わりに筒を机へ置いた。茶色の筒は、祐の腕ほどの長さがある。役場の廊下で何度も角にぶつけたのか、端が少しへこんでいた。


 「それ、何ですか」


 「図面」


 「この紙でも足りませんか」


 「足りない。君の紙は、待合所から町を見ている」


 進祐は筒のふたを外し、中から何枚もの図面を取り出した。大きな紙が机の上で勢いよく広がり、裕子の用意した資料の端を押しのける。祐は慌ててクリップを押さえた。


 遅れて入ってきた裕子が、入口で足を止める。


 「大きすぎます」


 「町は大きい」


 「机は小さいです」


 進祐は表情を変えなかった。裕子は眉間を押さえながら、持っていた紙袋を椅子へ置いた。紙袋の中には、昨日修正した費用表と、反対意見を分類した一覧が入っている。


 さらに廊下から、慌ただしい足音が近づいた。


 「祐、進祐、どっちがどっちだっけ」


 壮翔が顔だけを先に出し、会議室の中を見回す。裕子は紙袋から赤ペンを取り出し、無言で掲げた。


 「今のは確認です。安全確認」


 「あなたの確認で、会議の安全が危ない」


 壮翔は両手を上げ、机の端にそっと腰を下ろそうとした。すぐに裕子が椅子を指した。壮翔は素直に椅子へ移り、今度は進祐の図面を見て口笛を吹いた。


 「町全部じゃないですか。待合所、どこです?」


 進祐は赤い点を指した。


 「ここだ」


 「小さい」


 「だから残す理由を、大きい図の中で説明しろと言っている」


 その声は叱っているようには聞こえなかった。ただ、逃げ道をひとつずつ閉じていく声だった。


 祐は、持ってきたノートを開いた。第1便の乗船人数、駅から港まで歩いた人の数、バスから渡船に乗り継いだ人の時刻、待合所で休んだ人の年齢層。これまで名札返却の記録とは別に、淡名渡船待合所が人の足をどう支えているかを、少しずつ書いてきた。


 進祐はそのノートを一瞥し、椅子に座った。


 「説明してくれ」


 祐は、赤い点の周りに指を置いた。


 「尾路駅から渡船場までは、観光案内の紙だと徒歩十二分です。でも、坂を下りて港へ向かう人の中には、二十分以上かかる方もいます。荷物がある人、杖を使う人、船の時刻が近づくと焦って早足になる人。淡名渡船待合所は、今は閉鎖予定の建物ですが、駅と船の間で、座って息を整えられる場所になります」


 進祐は、赤い点から駅までの道を指でなぞった。


 「それだけなら、ベンチを置けばいい」


 「はい。だから、ベンチでは足りない理由を出します」


 祐は別の紙を重ねた。淡名島行きの渡船が欠航した日の記録、急な雨の日に港で迷った観光客の聞き取り、信清が書いた風向きと潮位のメモ。台風接近時に待合所へ足止めされた人たちが、どこへ移ったかも表にした。


 「船が遅れた時、港の屋根の下だけでは人が集まりすぎます。待合所が開いていれば、船長の判断を待つ人を分散できます。信清さんの閉鎖基準に従えば、危ない時は開けません。開ける時と閉める時を分けることで、船が出ない時にも使える場所になります」


 「閉鎖する場所を、交通の補助に入れるのか」


 「閉鎖できるから入れます」


 進祐の目が、わずかに祐を見た。


 祐は息を吸った。


 「以前の自分なら、いつでも開けておくことを良いことのように書いていました。でも、信清さんが止める判断を作ってくれたので、今は違います。船が出る時の休憩所。船が遅れる時の案内所。荒れる時には、ここへ来ないで済むように知らせる印。そういう使い方なら、町の交通案内の中に置けます」


 壮翔が、感心したようにうなずいた。


 「つまり、開けたり閉めたりする赤い点」


 「言い方」


 裕子が即座に刺した。壮翔は口を閉じ、両手で自分の唇を押さえた。


 扉が静かに開いた。文香が、薄い布で包んだ細長い板を抱えて入ってきた。いつもより少し早足だったのか、髪の横に一筋だけ乱れがある。祐が椅子を引く前に、文香は机の端に板を置いた。


 「名札棚の寸法です」


 布をほどくと、古い名札台の残った部品と、新しい棚の図が出てきた。紙には、棚の幅、奥行き、引き出しの高さ、非公開箱を入れる段の寸法が細かく書かれている。文香の字は小さく、線はまっすぐだった。


 進祐はその紙を見た。


 「今日は交通動線の話だ」


 「はい」


 文香は短く答え、紙の一番下を指した。


 「ここが通路です」


 進祐は黙った。


 文香は、待合所の平面図を祐の交通図の横に置いた。入口から長椅子までの幅。車椅子や杖を使う人が通るための余白。標本箱を置く位置。名札棚の前に人が立っても、出口をふさがない距離。非公開箱の鍵を開ける時、見られたくない封筒が外から見えない角度。


 祐は、文香の図を見て、胸の中で何かが音を立てるのを感じた。


 彼女は、名札の棚だけを考えていたのではない。


 待合所に入ってきた人が、どこで立ち止まり、どこで振り返り、どこから外へ出るのか。その全部を、紙の上に置いていた。


 「名札棚を大きくすると、入口が狭くなります」


 文香は続けた。


 「だから、棚は壁に寄せます。説明文は棚の上ではなく、横にします。非公開箱は、見せるものではないので、標本箱の下には置きません」


 進祐の指が、文香の図の余白へ移った。


 「この幅は」


 「六十センチでは足りません。八十センチ欲しいです」


 「理由は」


 「畳座布団を置いた時、足を引く人がいます。そこへ名札を見る人が立つと、ぶつかります」


 文香は祐を見た。


 「倉敷の畳、届くので」


 「はい」


 祐は答えた。倉敷で約束された畳座布団は、まだ届いていない。けれど、文香の図面の中には、もうその場所が空けられていた。


 裕子が、進祐の図面と文香の図を見比べた。


 「つまり、町全体の図では赤い点でも、中は赤い点じゃないんです」


 「当たり前だ」


 進祐が言った。


 「当たり前を資料に入れないから、取り壊しの候補になる」


 会議室の空気が、少しだけ重くなった。


 祐は、その重さを嫌だとは思わなかった。これまで自分たちは、淡名渡船待合所が大切だと何度も言ってきた。名札を見つけ、団扇を直し、母の手紙を追い、拒む人の距離も守った。けれど、町の紙の上では、古い建物は古い建物だ。大切だと感じる人の胸の中だけでは、赤い点は残らない。


 進祐は、机の上に広がった大きな図面の一角を軽く叩いた。


 「八月上旬の説明会で、住民から必ず聞かれる。なぜ、あそこなのか。なぜ、ほかの空き店舗ではないのか。なぜ、港のベンチではないのか。なぜ、町が管理の手間を持つのか」


 「答えます」


 祐は言った。


 「では、今答えてくれ」


 進祐の返しは速かった。


 壮翔が、小さく「容赦ない」と漏らした。裕子の赤ペンが少しだけ持ち上がる。壮翔は自分で自分の口を押さえ直した。


 祐は図面を見た。


 駅から来る道。商店街の屋根。港のベンチ。渡船場。淡名島へ渡る航路。白い紙札を置く予定の板。信清が波を見る場所。裕子が苦情箱を置くと言った隅。愛衣子の聞き取り表。明純が騒がせて見つけた金具。文香の非公開箱。名札を受け取らずに残した千代の笑顔。下関の魚屋が写真だけを希望した夜。


 どれか一つでは、足りない。


 祐は、赤い点を指した。


 「あそこは、駅でも港でも島でもありません。だから必要です」


 進祐は黙って聞いた。


 「駅にいる人は、まだ海を見ていません。港にいる人は、船の時刻を気にしています。島に着いた人は、もう次の道を歩き始めています。淡名渡船待合所は、その間にあります。歩いてきた人が、船へ乗る前に息を整える。島から戻った人が、町へ入る前に荷物を持ち直す。欠航を知らされた人が、怒りを誰かへぶつける前に、座る。名札を見た人が、返すか残すか、すぐに決めずに考える。そういう間の場所です」


 裕子の赤ペンが止まった。


 祐は続けた。


 「港のベンチは風が強く、雨を避けられません。商店街の空き店舗は船の音が届きません。役場の窓口では、名札を前にして黙る時間を置きにくい。淡名渡船待合所は、船のすぐ近くにあって、でも乗り場の列から少し外れている。そこに意味があります」


 「費用は」


 「裕子さんの表で、床板の補修、日よけ、鍵管理、清掃用品、保険確認まで出します。全部を町に頼る形にはしません。商店街から布の提供、宿から毛布と清掃道具、潮紙堂から名札管理、漁師側から荒天時の判断協力、観光案内所から交通案内表。お金ではなく作業で分けられる部分も、一覧にしています」


 裕子が、すぐに紙袋から費用表を抜いた。


 「今朝、最新版にしました。勝手に数字を丸めている箇所があったので戻しています。壮翔さんの『だいたい木材』という項目は削除済みです」


 「だいたい木材は、便利な言葉なのに」


 「不便です」


 文香が短く言った。


 壮翔は肩を落としたが、少し笑っていた。


 進祐は費用表を受け取り、目だけで追った。指が何度か止まり、そのたび裕子が説明を足す。町が負担する額、商店街が協力する物品、個人名を表に出さない寄付の扱い、清掃当番が使う鍵の保管場所。裕子の声は相変わらず硬かったが、前より少しだけ、相手が返事をする余白があった。


 進祐は、次に文香の寸法図を手に取った。


 「この名札棚は、固定しないのか」


 「壁には傷を増やしません。床側で支えます。台風の時は布を外し、棚の前に板を当てます」


 「誰がする」


 「私と祐さん。荒天の判断は信清さんです」


 「祐は祐でも、どっちの祐ですか」


 壮翔が小声で言った瞬間、裕子の赤ペンが机を叩いた。乾いた音が会議室に響く。


 「すみません。今のは空気の確認です」


 「空気を壊しています」


 進祐が淡々と言ったので、祐は思わず吹き出しそうになった。文香も、ほんの少しだけ目を伏せた。笑ったのかどうかは分からない。けれど、肩の力が抜けたように見えた。


 進祐は、広げた大きな図面の余白に、文香の寸法図を重ねた。そして、持っていた鉛筆で赤い点の横に小さな四角を書いた。


 「名札保管棚」


 その文字は、進祐の図面の中では小さかった。けれど、祐には大きく見えた。


 進祐はさらに、駅から港までの道に細い線を書き足した。


 「徒歩案内補助」


 渡船場の横には、別の文字。


 「欠航時案内」


 待合所の上には、少し考えてから、こう書いた。


 「休憩・記録保管」


 裕子が、その文字をじっと見た。


 「記録保管だけだと、見せる記録に見えます」


 「では」


 「公開範囲確認済み記録保管」


 「長い」


 「長くても必要です」


 進祐は少しだけ眉を上げた。裕子は一歩も引かなかった。沈黙が落ちた後、進祐は鉛筆を動かし、文字を書き直した。


 「公開範囲確認済み記録」


 「保管が消えました」


 「棚の欄に入れる」


 「なら許可します」


 誰の図面なのか分からないやり取りに、壮翔が腹を抱えた。裕子は赤ペンを向けたが、今度は叩かなかった。


 祐は、そのやり取りを見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 初めて名札を見つけた日、文香は「捨てないで」と言っただけだった。あの一言は小さかった。けれど今、その一言から始まったものが、町全体の図面に線を引かせている。淡い名札は、もう箱の中で眠っているだけではない。駅から港へ歩く人の足元にも、船が止まった時の判断にも、非公開の封筒を守る鍵にも、つながっていた。


 進祐は、図面を丸めずに机の上へ置いたまま、祐を見た。


 「説明会では、この順で話す。最初に思い出を話すな」


 「はい」


 「交通の補助、休憩機能、荒天時の閉鎖基準、費用と役割分担、最後に名札だ」


 文香の指が、名札棚の図の端を押さえた。


 進祐はその指を見て、少しだけ言葉を置いた。


 「最後だから軽いという意味ではない。最後に聞いた言葉が、一番残ることもある」


 文香はうなずいた。


 「はい」


 その返事は短かったが、会議室の端まで届いた。


 壮翔が、急に姿勢を正した。


 「じゃあ、僕は何を話します?」


 「椅子」


 裕子が即答した。


 「椅子だけ?」


 「椅子、畳座布団、毛布、濡れた靴の置き場。あなたが勝手に増やしたものは全部、あなたが説明してください」


 「責任が重い」


 「厚かましさの分です」


 壮翔は胸に手を当て、妙に誇らしそうにうなずいた。


 「この命に代えても、椅子を」


 「その言い方は禁止」


 文香の声が、裕子より先に飛んだ。祐はつい笑ってしまった。進祐も、ほんのわずかに口元を動かしたように見えた。


 昼前、会議室を出る時、祐は大きな図面を抱えた。進祐は筒を持ち、裕子は費用表を紙袋へ戻し、文香は名札棚の寸法図を布で包んだ。壮翔は椅子の説明を練習しながら廊下を歩き、途中で役場の職員に「椅子は命です」と言って、裕子に背中を叩かれた。


 役場の外へ出ると、潮の匂いがした。


 港へ下りる道の先に、淡名渡船待合所の屋根が小さく見えた。図面の上では赤い点だった場所が、夏の光の中で、ちゃんと影を持って立っている。まだ古く、まだ危うく、まだ誰にも認められたわけではない。けれど、今日、その場所には新しい線が一本つながった。


 駅から港へ。


 港から島へ。


 島から戻る人の足元へ。


 名前を見せる人と、見せない人の間へ。


 祐は筒を抱え直した。紙の重みが腕に残る。大きな図面の中に小さな待合所を置くのは、思っていたより難しい。けれど、その難しさから逃げないことが、名札を預かるということなのだと思った。


 文香が隣に並んだ。


 「赤い点」


 祐は彼女を見た。


 「はい」


 「小さかったですね」


 「でも、消されませんでした」


 文香は、布で包んだ寸法図を胸の前で持ち直した。


 「なら、よかった」


 それだけ言って、坂道を先に下り始めた。祐は少し遅れて歩き出す。壮翔と裕子の言い合いが前から聞こえ、進祐の靴音が後ろで規則正しく続いた。


 淡名渡船待合所は、まだ遠かった。


 けれど祐には、そこへ向かう線が、前より少し太く見えていた。



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