第22話 下関、潮の向こうの名字
下関行きの列車は、尾路町の朝を背中に乗せたまま、海に沿って西へ走った。
窓の向こうで、夏の光を受けた海が細かくきらめいている。島影は薄い青に沈み、遠い船の白い航跡だけが、紙の上に引いた線のようにまっすぐ残った。祐は膝の上に置いた鞄を押さえ、名札を包んだ封筒が動かないよう、何度も指先で位置を確かめた。
封筒の表には、裕子の字で「本人確認前・公開不可」と書かれている。角には、文香が淡い糸で小さく印を縫ってくれていた。紙が擦れても中身が分かるように、けれど目立ちすぎないように。祐はその糸を見るたび、潮紙堂の薄暗い作業台と、文香が針を止めずに言った声を思い出す。
「追わないで」
その一言だけだった。
下関へ向かう名札の持ち主は、名札返却簿の中でも扱いが難しかった。名字は山口県側に多く、名は古い通学簿の端に一度だけ残っている。淡名島に夏だけ滞在していた可能性があり、本人がその時期を覚えているかどうかも分からない。手がかりをくれたのは、明純が港掃除の日に聞き出した漁師の一言だった。
「昔、関門の方から来とった子がおったのう。魚屋の親戚じゃったか」
それだけを頼りに、祐たちは商店街、港、古い電話帳、通学船の写真、団扇の裏の地図を照らし合わせた。ようやく候補が一人まで絞れたが、進祐からは「相手が拒んだら、そこで終わり」と強く言われている。裕子も同じ紙に赤字で書いた。
断られた時の手順。
謝る。
理由を聞きすぎない。
連絡先を消す。
名札は非公開箱へ。
祐はその手順を、昨夜から何度も読み返していた。
向かいの席では、愛衣子が膝にノートを広げている。ページの上には、聞き取りの順番が細かく書かれていた。最初の挨拶。来訪理由。名札を見せる前の確認。写真だけ希望の場合。話を終える合図。ページの端には、小さな字で「励まさない」とある。
祐はその字に気づいて、少しだけ笑った。
「緊張していますか」
愛衣子は顔を上げ、すぐに首を横に振ろうとしてから、途中で止めた。
「しています。かなり」
「それでいいと思います」
「前なら、頑張りますって言っていた気がします」
「今日は、それを言わないために来ましたから」
愛衣子はノートを閉じかけ、また開いた。
「相手の人が、怒ったら」
「謝ります」
「帰れって言われたら」
「帰ります」
「名札なんか知らないって言われたら」
「知らないままにします」
祐が答えるたび、愛衣子の肩から少しずつ力が抜けていく。だが彼女はまだ、窓の外を見ずにノートの紙を押さえていた。
明純は通路側で、駅弁の包みを膝に乗せている。朝から何も食べていないと騒いで買ったものだが、ふたを開ける気配はない。いつものように大きな声で周囲を巻き込むこともなく、箸袋を指で折ったり戻したりしていた。
「明純さん」
祐が呼ぶと、明純はびくっとして顔を上げた。
「はい。静かにしています」
「それは助かります」
「ですよね。僕、今日、笑わせたらだめな気がして」
「笑ってもいい時はあります。ただ、先に相手の顔を見てください」
明純は箸袋を握ったまま、まじめな顔でうなずいた。
「顔を見てから、声の大きさを決めます」
「それでお願いします」
祐はそう言って、また封筒に目を落とした。
薄い布名札の上には、かすれた墨で「石名」と読める名字が残っている。下の名前は二文字のうち、最初の字だけが見える。最後の字は海風と湿気に溶け、文香でも復元しなかった。無理に読める字へ変えることは、その人の過去をこちら側の都合で整えることになるからだ。
列車は大きな川を渡り、町並みが少しずつ変わっていった。ホームの看板に下関の文字が見えた時、明純がようやく駅弁を鞄へしまった。
「食べないんですか」
愛衣子が小声で聞く。
「帰りに食べます。今食べたら、海鮮丼の前で魚屋さんに失礼な腹になります」
「腹に礼儀があるんですね」
「あります。たぶん」
緊張が少しだけほどけた。祐は二人のやり取りを止めず、改札を抜けた。
下関の市場へ向かう道は、尾路町の港よりも声が多かった。台車の車輪がアスファルトを鳴らし、店先の発泡箱から氷の匂いが立ち上る。魚の銀色の腹に天井の灯りが反射し、通路を歩く人の顔まで明るく見えた。威勢のいい声が行き交う中で、祐たちの靴音はすぐに紛れた。
地図の印を頼りに進むと、奥まった角に、古い木札を掲げた魚屋があった。店先には小ぶりの鯵と、目の澄んだ鯛が並び、氷の間から潮の匂いが強く立っている。奥で包丁を動かしていた男性が、客に小さな包みを渡し、手ぬぐいで手を拭いた。
祐は一歩だけ前に出た。
「石名さんでいらっしゃいますか」
男性は顔を上げた。年は六十前後だろうか。眉の濃い顔で、祐の後ろにいる愛衣子と明純まで順に見た。
「そうやけど。何ね」
祐は名刺を差し出し、尾路町の交通案内所で働いていること、淡名渡船待合所で古い通学札を整理していることを短く説明した。名札という言葉を出した瞬間、男性の目の端がほんの少し動いた。だが、すぐに包丁を置いた音が返ってきた。
「知らんね」
早かった。
祐は封筒を出さなかった。愛衣子が息を吸ったのが横で分かったが、彼女は言葉にしなかった。明純も口を開かない。
「急に伺って、すみません」
祐は頭を下げた。
「こちらの確認不足でした。失礼します」
男性は返事をしない。店の奥から氷を砕く音が聞こえる。祐は踵を返そうとした。
その時、店先に吊られていた古い団扇が、風で揺れた。
尾路町から持ってきたものではない。竹の骨が少し曲がり、白地に薄い青で波が描かれている。端の破れを、糸で雑にかがってあった。その糸の結び目が、祐の目に止まった。文香が直す時の、裏へ引き込む結び方とは違う。もっと慌てた手つきの、けれどほどけないように力だけは込めた結び方だった。
男性の視線が、その団扇を追った。
「……あんたら、淡名から来たんか」
祐は振り返った。
「尾路町からです。淡名島にも渡っています」
「待合所、まだあるんか」
「あります。壊す話も出ていますが、今は残す方法を探しています」
男性は手ぬぐいを握ったまま、しばらく黙った。市場のざわめきが、二人の間を通り過ぎていく。
「わしは、知らんと言うた」
「はい」
「知らんと言うたままで、ええか」
祐は一拍置いて、うなずいた。
「はい。そう記録します」
愛衣子がノートを開く音がした。紙をめくる音は小さく、急がなかった。
男性は店の奥を見た。誰かに聞かれたくないのかもしれない。祐は半歩下がり、通路をふさがない位置へ移った。
「その名札、見せんでええ」
「分かりました」
「ただ、写真だけ見せてくれ。遠くからでええ」
祐は封筒を両手で持った。ここで開けていいのか、まだ迷った。本人の希望は写真だけ。現物を目の前へ出さない方がよい。文香が作ってくれた記録用の写真が、別の薄紙に入っている。
「現物ではなく、写真があります。近づけすぎません」
「それでええ」
祐は写真の入った薄紙を開いた。名札の写真を、店台の端に置く。男性との間には、鯵の入った発泡箱ひとつ分の距離が残った。
男性は近づかなかった。目だけで写真を見る。眉間にしわが寄り、唇が一度、何かを言いかける形になった。
「……字、消えとるな」
「下の名前は、最後の字が読めませんでした。こちらで補っていません」
「補わんでええ」
男性は低く言った。
「消えたままでええ」
祐はうなずいた。愛衣子の鉛筆が、静かに紙の上を動く。
少しして、男性は店先の椅子に腰を下ろした。立っているのが急に難しくなったようだった。明純が動きかけたが、祐は目で止めた。手を貸していいかどうかは、相手が決めることだった。
「夏だけ、行っとった」
男性が、写真から目を離さずに言った。
「親父とお袋が、下関で店を始めたばかりでな。忙しいけぇ、夏の間だけ淡名の親戚んとこへ預けられた。島の子らは、みんな顔見知りで、船も平気で、坂も走って上がる。わしだけ、何をするにも遅かった」
市場の奥で、誰かが大きく笑った。その声が近づいて、遠ざかった。
「帰る日も、急やった。親父が迎えに来て、そのまま船に乗せられた。友だちに言う暇もなかった。……いや、言う勇気がなかったんかもしれん」
男性は手ぬぐいを膝の上で広げ、またたたんだ。
「名札は、待合所の棚に掛けたままにした。戻るつもりでな。次の夏に使うつもりで。でも、次はなかった」
愛衣子の鉛筆が止まった。彼女は続きを促さない。ただ、手元のページの下に、余白を残している。
「島の子に、一人、団扇を貸してくれた子がおった。船で吐きそうになっとったら、背中をあおいでくれてな。名前は、もう覚えとらん。白い名札をしとった。端がほつれとって、女の人がその場で縫ってくれた」
祐の胸の奥が小さく鳴った。
八重かもしれない。
だが、その名前をここで出してはいけない気がした。男性の記憶は、男性のものだ。文香の母の足取りに使うためだけに、引き寄せていいものではない。
明純が、口元を結んでいる。普段なら「それ、八重さんかも」と言ってしまいそうなところで、言わずにこらえていた。
男性は団扇を見上げた。
「あの団扇、似たようなもんを、ずっと店に置いとる。淡名のじゃない。自分で買うた安物や。でも、風の音が似とる時がある」
祐は写真を閉じた。
「名札の現物は、どうしますか」
男性はすぐには答えなかった。包丁、氷、魚、通路を歩く人の靴。市場の音がひとつずつ戻ってくる。
「持って帰っても、置く場所がない」
「はい」
「捨てる気にもならん」
「はい」
「飾られるのは、嫌や。名前を見られるのは、好かん」
「非公開で保管できます」
「そんな面倒なこと、できるんか」
祐は鞄から、裕子が作った説明用紙を出した。個人名を公開しない保管、写真のみの共有、連絡先削除、再連絡の有無。項目は固い言葉で並んでいるが、どれも夜明けまで誰かが考えた跡だった。
「できます。お名前を展示に出さず、現物は淡名渡船待合所の非公開箱へ入れます。連絡先は今日の確認後に削除します。今後こちらから連絡しません。必要な場合は、石名さんから尾路町交通案内所へ連絡していただく形にします」
男性は用紙を受け取り、眉をしかめた。
「字が多いな」
「裕子さんが、字を減らすと不安になる人で」
愛衣子が小さく咳をした。笑いをこらえたのだと分かった。
男性の口元も、ほんの少し緩んだ。
「その人、店の値札作ったら細かそうやな」
「たぶん、一円単位で理由を書きます」
「魚が冷める」
男性はそう言って、用紙を店台に置いた。
「写真だけ、もらえるか」
「はい。お渡しできます。ただし、名札の写真を他の人へ見せるかどうかは、石名さんの自由です。こちらでは公開しません」
「現物は、待合所に置いとってくれ。見えんところでええ。棚の奥でも、箱でも」
「分かりました」
「理由は……」
男性は、少しだけ言葉を探した。
「戻らんかったことを、今さら誰かに謝る気はない。でも、なかったことにすると、あの夏に団扇を貸してくれた子まで消える気がする」
愛衣子の鉛筆が、また動き出した。今度はゆっくりだった。
祐は同意書を出し、公開範囲の欄を一つずつ確認した。男性は名前の公開に大きく横線を引き、写真の受領に丸をつけ、現物の非公開保管に丸をつけた。連絡先は残さない。再連絡も不要。
署名欄に筆ペンで名字だけを書くと、男性は紙を祐へ戻した。
「下の名前は、書かんでもええか」
「はい。名字だけで大丈夫です」
「それでええ」
祐は同意書を薄紙へ入れた。愛衣子は確認済みの欄に、個人名ではなく「下関・魚店」とだけ書く。明純はずっと黙っていたが、そこでようやく小さく手を上げた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
祐は男性の顔を見た。男性は眉を上げる。
「何ね」
明純は声をいつもの半分以下にした。
「魚を買って帰っても、迷惑じゃないですか」
愛衣子が目を丸くした。祐も少しだけ肩の力が抜けた。男性は明純をしばらく見て、それから鼻で笑った。
「買わん方が迷惑や」
「ですよね」
「ただし、保冷剤は余計に入れる。尾路町まで持たせんといけん」
「ありがとうございます」
明純は深く頭を下げた。その動きが大きすぎて、通路を歩いていた客が振り返った。男性は包丁を手に取りながら、少しだけ声を強くした。
「頭を下げるなら、魚に下げんか。今日は鯵がええ」
「鯵さん、ありがとうございます」
「魚にさんを付けるな」
愛衣子が今度こそ笑った。男性も、包丁を動かしながら口元をゆるめた。
祐はその笑いが広がりすぎないうちに、名札の写真を小さな封筒に入れて渡した。男性は手を拭き、封筒を受け取った。胸ポケットへ入れるか、引き出しへしまうか迷ったように見えたが、結局、店の奥にある木箱の上へそっと置いた。
「待合所、壊れるんか」
「まだ分かりません。八月上旬に説明会があります」
「残ったら、どうなる」
「朝と夕方の一部だけ開ける案です。暑さ対策、荒天時の閉鎖、鍵の管理、名札の非公開保管。全部、条件付きです」
「面倒やな」
「面倒です」
「面倒なら、続くかもしれんな」
祐はその言葉の意味を、すぐにはつかめなかった。男性は鯵を包みながら、続けた。
「簡単に残す言うたもんは、簡単に忘れる。面倒な手順を作ったら、やる人間の顔が残る」
祐は、昨夜の待合所の床に残った足跡を思い出した。裕子の赤字。信清の潮位メモ。文香の蝶。壮翔の蜜柑の皮。愛衣子の匿名欄。明純の大きな声を抑える顔。
「その言葉、記録してもいいですか」
「名前なしならな」
「はい。名前なしで」
男性は鯵の包みを明純へ渡した。
「団扇の子に、謝りたいと思ったことはある」
祐は顔を上げた。
「はい」
「でも、謝る相手の名前を忘れた。忘れた人間が、今さら探して謝るのは、相手をまた困らせる気がする」
「そう思います」
「だから、名札はそこに置いとってくれ。見えんところでええ。わしが戻らんかった夏が、見えんところで残っとるなら、それでええ」
祐は深く頭を下げた。
「お預かりします」
市場を出ると、海峡から湿った風が吹いてきた。遠くに大きな橋が見え、潮の流れが複雑な線を描いている。尾路町の海とは違う速さだった。船の音も、人の声も、どこか角が立っている。それでも風の中に、団扇であおがれた時のような涼しさが混じっていた。
明純は鯵の包みを両手で抱えている。
「買ってよかったですかね」
「よかったと思います」
愛衣子が答えた。
「でも、最後に魚にさんを付けたのは、いらなかったかも」
「緊張すると、礼儀が過剰になるんです」
「過剰な礼儀」
「裕子さんに怒られそうな言葉ですね」
祐は笑いながら、同意書を鞄の中で確認した。名札の現物はまだ封筒の中にある。持ち主は見なかった。見ないことを選んだ。その選択も、返却簿には残る。
愛衣子は岸壁のそばでノートを開いた。
「祐さん、今日の記録、これでいいですか」
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
下関・魚店。本人確認済み。現物確認なし。写真のみ受領。現物は淡名渡船待合所の非公開箱へ保管。個人名公開不可。再連絡不要。理由――戻らなかった夏を、なかったことにしないため。
祐はうなずいた。
「いいと思います」
愛衣子はほっとした顔をした。以前なら、もっと話を聞き出せたかどうかを気にしていただろう。今日は、聞かなかったことを手柄のように抱えている。
明純が岸壁の向こうを指さした。
「海、速いですね」
「潮の向こうですからね」
祐が言うと、明純は首をかしげた。
「潮の向こうでも、名札って戻るんですね」
「戻るとは限りません」
祐は鞄を持ち直した。
「今日は、戻らないまま残すことになりました」
愛衣子はノートを閉じた。
「戻らないまま残す」
「はい」
その言葉は、文香の母にも、文香自身にも触れているようだった。戻らなかった人。戻れなかった人。戻ることを望まない人。待合所が受け止めるのは、再会だけではない。
帰りの列車で、明純はようやく駅弁を開けた。鯵の包みは足元の保冷袋に入れてある。彼は箸を持ったまま、しばらく弁当を見つめていた。
「食べないんですか」
愛衣子が聞く。
「魚屋さんの前で食べなくてよかったなと思って」
「そこは、気にしていたんですね」
「僕にも、気にするところがあります」
「ありますね。少しずつ」
「少しずつって言われました」
祐は窓の外を見た。海峡の水が遠ざかり、列車はまた瀬戸内の穏やかな線へ戻っていく。鞄の中の名札は、行きと同じように軽い。だが、その軽さの意味は変わっていた。
尾路町へ着く頃には、夕方の光が駅前の道を斜めに照らしていた。祐たちはそのまま潮紙堂へ向かった。文香は店の奥で、古い封筒の角を直していた。顔を上げると、祐の鞄を見て、針を置いた。
「どうでした」
祐は封筒と同意書を作業台に置いた。
「現物は見ない。写真だけ受け取る。名札は非公開保管。再連絡なしです」
文香は、同意書の公開範囲を一つずつ読んだ。声には出さない。指先だけが紙の上を移動する。
「追わなかったんですね」
「はい」
「よかった」
その一言は、小さかった。けれど祐には、朝の列車からずっと胸の奥にあった力が抜けるほど、はっきり届いた。
愛衣子がノートを出した。
「聞かなかったことも、書きました」
文香はノートを見た。戻らなかった夏を、なかったことにしないため。その行を読んだ時、文香の指が少し止まった。
明純は保冷袋を掲げた。
「あと、鯵さんがいます」
文香は目を瞬いた。
「鯵さん」
「魚屋さんに怒られました」
「でしょうね」
祐と愛衣子が笑った。文香の口元にも、ほんのわずかに笑いが浮かんだ。
その夜、淡名渡船待合所の非公開箱に、新しい封筒が一つ加わった。表には名前を書かず、裕子の決めた番号だけを記した。文香は封筒の端を指で押さえ、箱の奥へゆっくり収めた。
外では、夕便の汽笛が短く鳴った。待合所の窓から入る風が、団扇を少しだけ揺らす。
祐は返却簿に、今日の記録を書いた。
返却ではない。
公開でもない。
忘却でもない。
非公開保管。
理由欄に、祐は愛衣子の言葉を写した。
戻らなかった夏を、なかったことにしないため。
文香は箱の鍵を閉め、その音を聞いてから顔を上げた。
「名前を呼ばないことも、あるんですね」
祐は返却簿を閉じた。
「あります」
窓の外の海は、もう暗かった。淡名島の灯りがぽつぽつと見え、対岸の道を走る車の光が細く流れている。
名前を呼び合える場所を作る。
その言葉だけでは、足りない。
呼ばれたくない名前を追わないこと。見せたくない名札を見せないこと。謝りたい気持ちがあっても、相手の静かな場所へ踏み込まないこと。
祐は、非公開箱の小さな鍵を見た。
待合所には、長椅子や団扇や標本箱のように、目に見えるものがある。けれど今日増えたのは、見せないための場所だった。
それもまた、ここを残す理由になる。
文香が、箱の上に薄い布をかけた。布は淡い青で、夕方の海の色に似ていた。
「鯵、焼きますか」
明純が待ってましたとばかりに顔を上げる。
「焼きましょう。鯵さんに感謝して」
「さんは不要」
文香が短く言った。
愛衣子が笑い、祐も笑った。待合所の外を通りかかった信清が、戸口から顔をのぞかせる。
「魚の匂いがする」
「まだ焼いていません」
祐が答えると、信清は中へ入り、非公開箱にかかった布を見て、何も聞かずにうなずいた。
誰も、今日の名字を口にしなかった。
その沈黙が、冷たくならないように、明純が鯵を包んだ紙を広げ、愛衣子が皿を探し、文香が台所の小さな火をつけた。祐は窓を少し開け、潮の匂いと魚の匂いが混ざるのを待った。
淡名渡船待合所の夜は、名前を呼ばないまま、ひとつの名札を受け入れた。
団扇がまた、かすかに揺れた。




