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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第21話 狂気の沙汰の修繕表

 門司港から戻った夜の空気は、港の外灯の色を薄くにじませていた。淡名渡船待合所の窓ガラスには、海から上がる湿気がうっすら張りつき、文香が置いたベージュの封筒の角にも、灯りがやわらかく乗っていた。


 封筒は、標本箱の前の白い布の上に置かれている。誰も触れない。誰も中身を尋ねない。ただ、そこにあるだけで、長いあいだ遠い港の棚にしまわれていた時間が、待合所の畳まれた空気の中へ戻ってきたようだった。


 祐は、記録簿を閉じたまま、長椅子の端に座っていた。門司港の文具店で聞いた三津江の声、古い封筒の匂い、文香が胸に抱いたときの指の白さが、まだ目の奥に残っている。


 「で」


 裕子の声が、静かな待合所に落ちた。


 祐が顔を上げると、裕子は両腕に紙の束を抱えていた。胸の前に積み上がった紙は、まるで小さな防波堤のようで、その上に赤鉛筆が一本、斜めに挟まっている。


 「泣く場所の準備は、済みましたか」


 文香が封筒から目を離さないまま、短く答えた。


 「まだです」


 「では、泣く前に書類です」


 壮翔が長椅子の背もたれから身を起こした。


 「裕子さん、人の心の縁側に土足で入ってくるの、どうにかなりませんか」


 「あなたは本物の縁側で、昨日、泥のついた靴を脱がずに上がりました」


 「記憶にございません」


 「写真があります」


 明純が、気まずそうに手を上げた。


 「僕が撮りました」


 壮翔は胸を押さえた。


 「裏切りが早い」


 信清が外から戻ってきた。肩に潮を含んだ風を乗せている。手には、待合所の外壁や桟橋の継ぎ目を写した写真が入った封筒を持っていた。


 「進祐さんから電話があった。明日の朝までに、安全資料の下書きが欲しいそうだ」


 裕子は紙の束を机に置いた。どさり、という音で、ベージュの封筒の端が小さく震えた。


 「これです」


 祐は紙の山を見た。修繕費の見積もり、当番表、暑熱対策、荒天時の閉鎖基準、名札管理規則、個人名の公開範囲、非公開希望者の扱い、清掃記録、鍵の受け渡し、苦情対応、白い紙札の試案、日よけ布の寸法、名札棚の鍵番号。


 紙は、それぞれ別の人の字で埋まっていた。裕子の角ばった赤字。祐の小さくそろった黒字。愛衣子の丸い文字。明純の勢いだけで伸びた線。信清の短い潮位メモ。文香のほとんど言葉になっていない寸法の数字。壮翔の、妙に大きな丸印。


 「これを、明日の朝までに一つにするんですか」


 愛衣子が、湯飲みを両手で持ったまま言った。


 裕子は、赤鉛筆を握り直した。


 「狂気の沙汰です」


 待合所の中に、少しだけ笑いがこぼれた。けれど裕子は笑わず、すぐに紙を三つの山へ分け始めた。


 「笑っている時間はありません。安全。運用。名札。この三つに分けます。祐さんは運用の見出しを作ってください。信清さんは安全。文香さんは名札。愛衣子さんは作業提供の一覧。明純さんは協力者の連絡先。壮翔さんは」


 裕子は一瞬、壮翔を見た。


 「何もしないでください」


 「ひどい!」


 「では、畳座布団の枚数と長椅子の脚のぐらつきを調べてください。余計な詩は書かないで」


 「詩を書くと思われていたことが、まず光栄です」


 「光栄に思う前に、脚を見てください」


 壮翔は立ち上がり、長椅子の下へ潜り込んだ。すぐに、頭を板へぶつける音がした。


 「大丈夫ですか」


 愛衣子が覗き込む。


 「この命に代えても、椅子の脚は守ります」


 「命を出す前に、頭を守ってください」


 文香が、修繕台から古い手ぬぐいを取り、壮翔の前へ置いた。


 「冷やす」


 「文香さんの短い慈悲が、今日の僕には染みます」


 「静かに」


 「はい」


 壮翔は素直に手ぬぐいを頭へ当てた。


 祐は、机の中央に大きな紙を広げた。待合所の全体図を描き、入り口、長椅子、名札棚、標本箱、団扇の棚、白い紙札の板、非常時に外へ出す案内板の位置を書き込む。これまで見つけたもの、直したもの、これから直すものを、線で結んでいく。


 鉛筆の先が、名札棚の前で止まった。


 ここに、文香の母からの手紙がある。けれど、それは運用資料に載せるものではない。誰かを説得するための涙として使うものでもない。


 祐は、名札棚の横に小さく書いた。


 私信は本人管理。展示しない。公開範囲は本人確認後、本人が決める。


 文香が隣からその字を見て、頷いた。


 「それで」


 「はい」


 祐は、少しだけほっとした。母の手紙を、待合所を残すための材料にしてしまわない。その線を、今夜のうちに紙へ引いておく必要があった。


 信清は写真を一枚ずつ机に並べていった。北側の外壁、潮で黒ずんだ柱の根元、雨どいの割れ、桟橋へ向かう段差、待合所の裏にある排水溝。写真の端に、日付と時刻、風向きが小さく書かれている。


 「ここは、南東の風が強い日は雨が吹き込む。閉める基準は風速だけじゃ足りん。潮位と、桟橋の濡れ方も見る」


 信清は、鉛筆で紙に線を引いた。


 「渡船が欠航の可能性を出したら、待合所は開けない。開けて人を呼び込むより、駅と商店街へ案内を出す。誰かがここで待ってしまうのが一番困る」


 「待合所なのに、待たせない判断も必要なんですね」


 愛衣子が言うと、信清は頷いた。


 「船が出ない日に、港まで人を歩かせるのは違う」


 祐は、そのまま運用欄に書いた。


 荒天時は開放しない。閉鎖理由は、風速、潮位、欠航予告、桟橋状態を記録。閉鎖時は、駅、商店街、宿、船会社へ同じ文面で連絡。


 裕子が横から赤鉛筆で線を引く。


 「連絡担当を固定してください。全員が連絡したら重複します。誰も連絡しないよりはましですが、確認が取れません」


 「担当は僕で」


 祐が言うと、裕子は即座に首を横に振った。


 「祐さんは全体を見る。連絡は二人体制。主担当、予備担当。急病、通信不良、船の遅れを考えます」


 明純が手を上げた。


 「僕、連絡できます。人に声をかけるのは得意です」


 「声をかけるだけでは足りません」


 「はい」


 明純は一度、背筋を伸ばした。


 「連絡した時間と、相手の名前を記録します。相手が出なかったら、何分後にもう一度かけるかも書きます」


 裕子の赤鉛筆が、少しだけ止まった。


 「……それなら、予備担当に入れてもいいです」


 明純は顔を明るくしたが、すぐに口元を引き締めた。


 「ありがとうございます。騒ぎすぎません」


 「そこも記録してください」


 「そこまで?」


 「そこまで」


 愛衣子は、別の紙へ作業提供の一覧を作っていた。寄付金ではなく、誰が何をできるかを一行ずつ書く。商店街の惣菜屋は清掃日の昼食を値引きで出せる。倉敷の畳職人は小さな畳座布団を一枚ずつ送れる。高松のうどん屋は出汁の手紙をくれるが、食品提供は衛生管理が必要なので、説明会では紹介だけにする。小豆島の紙工房は紙札用の端紙を分けられるかもしれない。壮翔の宿は、荒天時の一時避難先として玄関土間だけ使える。


 「寄付って書かないんですね」


 明純が覗き込んだ。


 愛衣子は、前よりもゆっくり答えた。


 「お金だけだと、出せない人が関われないから。作業とか、道具とか、場所とか、時間とか。そういうのも書いた方がいいって、祐さんが」


 祐は顔を上げた。


 「僕だけじゃないです。千代さんが、蜜柑を持ってきた時に言っていました。『残したいなら、残し方を分けた方がええ』って」


 「千代さん、強いなあ」


 壮翔が長椅子の下から言った。


 「あなたは早く出てきてください」


 裕子が床を軽く蹴ると、壮翔は這い出してきた。額に手ぬぐいを乗せたまま、真剣な顔で紙を差し出す。


 「長椅子三脚、うち二脚が脚の締め直し必要。一脚は板に割れあり。畳座布団は倉敷から届く予定を含めて六枚。座布団の下に滑り止めが必要。あと、窓際は風が抜けますが、午後二時は背中が焼けます」


 裕子はその紙を受け取り、赤字を入れずに頷いた。


 「使えます」


 「いま、僕は褒められましたか」


 「調子に乗ると取り消します」


 「胸にしまいます」


 壮翔は胸を押さえ、そのまま台所代わりの隅へ向かった。眠気覚ましに蜜柑を一つ取り、皮をむき始める。甘い匂いが待合所に広がった。


 「食べる時間ではありません」


 裕子が言う。


 「食べません。香りで起きます」


 壮翔は蜜柑の皮を細く折り、鼻の下へ近づけた。明純が吹き出し、愛衣子が口元を押さえる。祐も笑いそうになったが、裕子の視線を受けて咳払いをした。


 次の瞬間、壮翔は蜜柑の皮を両方の鼻の穴へ差した。


 「これで眠気は」


 文香の手が、すっと伸びた。


 無言で蜜柑の皮を引き抜く。


 壮翔は目を潤ませた。


 「文香さん、涙が出ます」


 「出せば」


 「この待合所、時々とても厳しい」


 裕子が紙を叩いた。


 「今夜一番まともな判断です。続けます」


 笑いが落ち着くと、待合所には再び鉛筆の音が戻った。紙をめくる音。写真を貼る音。糊のふたを開ける音。古い木の床が、人が立ち上がるたびに小さく鳴る音。


 文香は名札管理規則を書いていた。


 名札は、持ち主本人または家族と確認できる人へ説明する。返却、保管、写し作成、非公開の四つを選べる。保管希望の場合、展示するか、引き出しで保管するかを選べる。名前が読み取れない場合、推測で公開しない。学校名や住所に当たる情報は、本人の許可がない限り書かない。


 文香の字は短く、余白が多い。その余白が、祐には大切に見えた。


 「ここ」


 文香が言った。


 祐が覗き込む。


 「非公開箱、名前が硬い」


 「非公開保管箱、ですか」


 「硬い」


 壮翔が、蜜柑の皮を遠くへ置かれたまま言った。


 「そっとしとく箱」


 「却下」


 裕子が即答した。


 文香は、少しだけ考えた。


 「未公開保管」


 「それなら正式文書に入れられます」


 裕子が頷く。


 壮翔は肩を落とした。


 「僕の言葉は、いつか歴史が拾います」


 「歴史に迷惑です」


 明純が笑い、信清も口元だけ緩めた。けれど、文香は未公開保管という言葉を丁寧に書いた。その横に、鍵の番号を書かず、鍵の保管者だけを書く。


 祐はそれに気づいた。


 「番号は書かないんですね」


 「紙を見た人が開けられる」


 「確かに」


 裕子が赤鉛筆で丸を付けた。


 「よいです。鍵番号は別紙。保管者は二名。片方が不在なら開けない。本人確認の時だけ開ける」


 文香は頷いた。


 「二名なら、私と祐さん」


 祐は、思わず鉛筆を止めた。


 「僕でいいんですか」


 「記録するから」


 文香はそれだけ言って、また紙に向かった。


 裕子は、そこへ赤字で小さく書き足した。


 保管者が私情で開けないこと。


 祐は苦笑した。


 「厳しいですね」


 「厳しく書いておけば、優しく守れます」


 裕子はそう言って、次の紙へ移った。


 時計は、夜の十一時を過ぎていた。最終便の音はもうない。港の外は、潮が満ちる低い音だけになっている。待合所の中には、灯りの下で働く人の影がいくつも揺れた。


 進祐に出す下書きは、少しずつ形になっていった。


 一、待合所の開放時間は、朝七時から十時までを基本とする。午後は熱放射が強いため、気温、屋根温度、利用者の体調を確認する試験日を除き、開放しない。


 二、荒天時は、信清の潮位確認と船会社の欠航情報を合わせ、祐または明純が関係先へ連絡する。閉鎖時は、入り口に理由と代替の待機場所を掲示する。


 三、名札は、返却、保管、写し作成、未公開保管の四つから選ぶ。個人名、住所、学校名に関わる情報は、本人または家族の同意なしに公開しない。


 四、鍵は二名で管理する。開閉時間、清掃、来訪者の困りごとを記録簿に残す。


 五、費用は、床板の最低限の補修、日よけ布、滑り止め、名札棚の鍵、温度計、掲示板、消耗品に分ける。寄付金ではなく、作業提供や物品提供も別欄で記録する。


 六、待合所は観光の飾りではなく、渡船、徒歩、バス、駅をつなぐ小さな案内場所として扱う。


 最後の一文を書いたとき、祐は鉛筆を置いた。


 自分たちがやってきたことは、名札を見つけて泣いたり笑ったりすることだけではなかった。誰が鍵を持つか。誰が閉めるか。暑い時に開けない勇気を持てるか。断られた名札を追いかけないか。私信を人前に出さないか。


 小さな場所を残すには、小さな決まりがいる。決まりは冷たいものではなく、誰かが傷ついた時に、もう一度戻ってこられるための手すりなのだと、祐は紙の束を見て思った。


 深夜一時、愛衣子が机に突っ伏した。


 「少しだけ、目を閉じます」


 「三分なら」


 裕子が言う。


 「三分で人は寝られますか」


 「寝るのではなく、閉じるんです」


 愛衣子は小さく笑って、目を閉じた。けれど一分もしないうちに起き上がり、また作業提供の一覧へ向かった。


 「失敗した聞き取りの欄も、必要ですか」


 祐は頷いた。


 「必要です。うまくいった話だけだと、同じ失敗をします」


 愛衣子は、紙の端に書いた。


 断られた場合、理由を聞き返さない。謝って終了。連絡先は削除。名札は未公開保管へ。


 その字は、以前より少し小さく、丁寧だった。


 明純は協力者名簿を作っていたが、途中で手が止まった。


 「僕、港を騒がせた時の漁師さんたちにも、名前を入れていいですか」


 信清が顔を上げる。


 「先に聞け」


 「はい。明日の朝、謝り直してから聞きます」


 「謝り直すなら、早朝の仕事前はやめろ。網を見ている時に話しかけるな」


 「では、何時がいいですか」


 「昼前。片づけが終わってから」


 明純は名簿の余白に、昼前、と大きく書いた。


 壮翔は長椅子の脚を締め直しながら、何度もあくびを噛み殺した。そのたびに裕子が睨むので、彼は蜜柑の皮を見つめたが、文香が先にその皮を紙袋へ入れた。


 「もうしません」


 「しない方がいい」


 「はい」


 そのやり取りに、祐はまた笑いそうになった。けれど、机の上の資料は、笑いの隙間で確かに積み上がっている。馬鹿げた眠気覚ましも、赤字だらけの修正も、潮位のメモも、封筒を急かさない沈黙も、全部この待合所の運用に必要な時間だった。


 午前三時を過ぎた頃、風が変わった。


 信清が窓を少し開け、外を見た。


 「明け方、雨は来ない。今日の一便は出る」


 その言葉だけで、待合所の中の空気が少し軽くなった。


 裕子は最終確認の紙を三枚重ね、祐の前へ置いた。


 「読んでください。眠いからといって、誤字を許しません」


 「はい」


 祐は声に出して読み始めた。安全資料。運用資料。名札管理規則。紙の一文ごとに、誰かの顔が浮かぶ。暑さで顔を赤くした老夫婦。名札を残したいと言った千代。忘れたふりをしているかもしれない人。まだ手紙を開けていない文香。真部の診療所で泣きそうになっていた子ども。今治の船具店の女主人。高松の湯気の向こうの店主。門司港の三津江。


 この資料は、その人たちの記憶を飾るためではなく、傷つけずに預かるためのものだ。


 読み終える頃、窓の外がかすかに白んだ。


 文香は、最後の一枚を祐の前に置いた。名札管理規則の表紙だった。題字は裕子の字で、下に小さく、文香の字でこう書かれている。


 名前を預かる時は、呼ばない約束も預かる。


 祐は、その一行をしばらく見た。


 「これ、説明会でも使いましょう」


 文香は首を横に振った。


 「まだ」


 「まだ、ですか」


 「手紙を読んでから」


 祐は頷いた。


 「分かりました」


 文香は表紙の隅に、細い鉛筆で何かを描き始めた。最初は糸くずのように見えた線が、少しずつ羽の形になっていく。標本箱の中の蝶よりも小さく、説明札の絵よりも頼りない。けれど、ちゃんと二枚の羽を広げていた。


 裕子が横から見て、声を落とした。


 「それは、資料に入れていいんですか」


 文香は鉛筆を置いた。


 「これは、目印」


 「何の」


 「なくさないため」


 誰もそれ以上、聞かなかった。


 朝の一便のエンジン音が、淡名島の方から近づいてきた。港の空は薄い灰色で、海面には細かな光がまだらに浮いている。


 祐は出来上がった資料をそろえ、角を軽く叩いた。


 安全資料。運用資料。名札管理規則。作業提供一覧。費用表。鍵管理表。清掃記録案。荒天時連絡先。未公開保管の扱い。


 紙の山は、夜の初めに見た時よりもずっと薄く、ずっと重くなっていた。


 壮翔が長椅子に座り込み、額の手ぬぐいを外した。


 「狂気の沙汰、終わりましたか」


 裕子は資料を抱えた。


 「終わっていません。これを進祐さんに出して、直されて、また直します」


 「終わらない狂気」


 「運用です」


 壮翔は苦笑して、窓の外を見た。


 「運用って、強い言葉ですね」


 祐も外を見た。渡船が桟橋へ近づき、ロープを持った人影が動いている。


 待合所は、まだ正式に残ると決まったわけではない。三か月の仮開放さえ、まだ遠い。説明会までに、反対する人の言葉も聞かなければならない。直さなければならない床板もある。足りない費用もある。文香の手紙は、まだ封をされたままだ。


 それでも、夜を越えた紙の束は、ただの願いではなくなっていた。


 祐は資料の一番上に、今日の日付を書いた。


 七月下旬。淡名渡船待合所、修繕表第一稿。


 文香が、ベージュの封筒をそっと持ち上げ、標本箱の前から自分の鞄へ戻した。


 「持って帰るんですか」


 祐が聞くと、文香は首を横に振った。


 「今日は店。夜、またここ」


 「待合所で読むんですね」


 「はい」


 その返事は、昨夜より少しだけ音がはっきりしていた。


 朝の光が、表紙の隅の小さな蝶に当たった。鉛筆の線は薄く、触れれば消えそうだったが、そこに描かれていると分かれば、もう見失わなかった。


 祐は、資料を抱えた裕子の後ろに立った。


 「行きましょう。進祐さんが、名前の似ている方をまた間違える前に」


 壮翔がすかさず立ち上がる。


 「祐さん、進祐さん、裕子さん、文香さん、信清さん、愛衣子さん、明純さん、そして僕。全員の名前を間違えずに呼ぶ練習をしましょう」


 裕子が戸口で振り返った。


 「まず、あなたが静かにする練習からです」


 「それは難関ですね」


 明純が笑い、愛衣子も小さく笑った。信清は何も言わず、戸を開けた。


 海の匂いが朝の冷たさを連れて入ってくる。


 淡名渡船待合所の床には、夜通し動いた人たちの足跡が薄く残っていた。雑巾で拭けば消える跡だ。けれど祐は、その跡も今朝だけは少し残しておきたいと思った。


 名前を預かる場所を作るために、誰かが眠い目をこすり、誰かが赤字を入れ、誰かが潮を読み、誰かが蜜柑の皮を取り上げ、誰かが小さな蝶を描いた。


 狂気の沙汰と呼ばれた夜は、朝になると、待合所を守るための最初の手順に変わっていた。



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