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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第20話 門司港の手紙

 朝の尾路町は、雨が上がったばかりだった。


 港へ下りる石段の端に、昨夜の水が細く残っている。祐が靴底を濡らさないように歩くと、後ろから来た壮翔が同じ場所をわざと大股で越え、勢い余って片足を滑らせた。


 「おっと。いまのは、港に挨拶しただけです」


 壮翔は空へ向かって両手を広げた。手には、湯気の立つ紙袋が二つある。


 裕子はその紙袋を見た。


 「中身は何ですか」


 「門司港へ行く人への朝食です。旅には腹ごしらえが必要ですから」


 「数は」


 「二つ」


 「行くのは祐さんと文香さんです。どうしてあなたの口元にソースがついているんですか」


 壮翔は指で口の端をぬぐい、見なかったことにしようとして失敗した。


 「これは、さっきまで未来のソースでした」


 「過去です」


 裕子が紙袋を取り上げると、信清が待合所の戸口で低く笑った。愛衣子はその様子を手帳に書こうとして、すぐにやめた。じゃこ天の件から、食べ物に関する記録は余計な争いを呼ぶと学んでいる。


 祐は待合所の長椅子に鞄を置き、中身を一つずつ確かめた。ベージュの封筒の写真、蝶の説明札の写し、今治の船具店で聞いた八重の足取りをまとめた紙、文香の本人確認に必要な書類、そして連絡先を書いた封筒。どれも、裕子が前夜に赤字で見出しをつけたものだった。


 「門司港で聞くことは、三つに絞ります」


 祐は声に出して確認した。


 「港月堂文具に八重さんの記録が残っているか。八重さんから文香さん宛てに預けられたものが本当にあるか。もしあるなら、誰が、どんな条件で渡すと決めていたか」


 裕子が頷いた。


 「それと、手紙があっても、その場で開封する必要はありません。封が切られていないなら、まず手渡しまで。中身を記録するかどうかは、文香さんが決めてください」


 文香は小さく頷いた。


 「はい」


 その返事は、いつもの短さだった。けれど祐には、紙を押さえる文香の指先が、昨日よりも少し冷えているように見えた。潮紙堂で古い紙に触れる時の、迷いのない指ではない。何かを受け取る前に、自分の中の棚を空けようとしている手だった。


 進祐は、待合所の外で腕時計を見た。


 「今日の移動は余裕を持っている。帰りが遅くなるなら、尾路町の案内所には俺から連絡しておく。門司港で個人情報に関わるものを見せられたら、写真は撮らない。写しが必要なら許可を取る。口頭の証言は、相手の名前を出してよいか確認する」


 壮翔が小さく手を上げた。


 「ついでに、門司港名物を買ってくる場合の確認事項は」


 「ありません」


 裕子が即答した。


 「え、でも土産は町の関係を円滑に」


 「あなたの場合は、胃袋との関係が円滑になるだけです」


 明純が吹き出し、愛衣子が笑いをこらえた。文香の口元が、ほんの少しだけ動いた。


 祐はそれを見て、胸の奥を静かに整えた。今日は、笑いで軽くしてよいことと、軽くしてはいけないことが同じ鞄に入っている。間違えないように、何度も手で確かめるしかなかった。


 船が一便、淡名島へ向かって離れていく。白い波が尾を引き、待合所の窓に細かな光が跳ねた。


 「行きましょう」


 祐が言うと、文香は名札棚へ一度だけ目を向けた。


 蝶の標本箱は、柔らかい布をかけられている。中の羽は見えない。けれど、八重の小さな説明札が、いまもそこにあることを二人は知っていた。


 尾路町から列車を乗り継ぎ、海沿いの線路を西へ進むにつれて、窓の外の色が少しずつ変わっていった。尾路町の海は、島々が手を伸ばせば届きそうな距離に浮かんでいる。門司港へ近づく海は、もっと広く、船の影も大きい。向こう岸へ渡るというより、潮の流れを読みながら別の時間へ入っていくようだった。


 文香は座席で、ベージュの封筒の写真を見ていた。


 写真の紙は、何度も見返されたせいで、端が少し曲がっている。祐は隣でノートを開いたが、すぐには書かなかった。列車の音が続く間、文香が何を見ているのかを邪魔したくなかった。


 しばらくして、文香が言った。


 「開けたら、終わる気がしていました」


 祐は顔を向けた。


 「封筒ですか」


 「はい」


 文香は写真から目を離さない。


 「母が出ていった日のことも、祖母が何も言わずに私の手を引いたことも、全部、封筒の中に入っている気がして。だから、触るだけでした」


 「今日、触るだけでもいいと思います」


 文香は少しだけ首を横に振った。


 「それだと、また戻ります」


 祐はノートの上で指を止めた。


 「どこへ」


 「待っているところへ」


 列車が短いトンネルへ入った。窓に二人の顔が映る。文香の横顔は暗いガラスの中で、幼い頃の名札を探す人のようにも、修繕台の前で糸を選ぶ人のようにも見えた。


 トンネルを抜けると、海の光が戻った。


 「待つのを、やめたいわけではありません」


 文香は言った。


 「でも、待つだけで終わりたくない」


 祐は頷いた。


 「それを、今日の記録にします」


 「記録?」


 「文香さんが決めたことです。誰かが決めたことじゃない」


 文香は写真を封筒に戻し、膝の上で両手を重ねた。


 「はい」


 門司港の駅へ降りると、潮の匂いに古い煉瓦の湿った匂いが混じっていた。観光客の声が広場に広がり、港の方からは汽笛が短く鳴った。尾路町の待合所の音よりも、いくつもの行き先が重なって聞こえる。


 港月堂文具は、駅から少し歩いた路地にあった。


 店先のガラス戸には、色の薄くなった便箋の見本が貼られている。金色の文字で書かれた店名は、ところどころ剥げていた。扉を開けると、紙の匂いがした。潮紙堂の匂いとは違う。こちらは、封筒、伝票、鉛筆、古い帳面が混ざった、港で働く人の手から移った匂いだった。


 「いらっしゃい」


 奥から現れた女性は、七十を越えているように見えた。髪をきちんとまとめ、紺色の前掛けをしている。祐が名乗り、尾路町から来たこと、淡名渡船待合所で八重の説明札とベージュの封筒の手がかりを見つけたことを順に話すと、女性はすぐに頷かなかった。


 カウンターの上に置かれた帳面へ目を落とし、それから文香を見た。


 「あなたが、文香さん」


 問いではなかった。長い間、いつか口にするためにしまっておいた名前のようだった。


 文香は背筋を伸ばした。


 「はい」


 「八重さんの娘さんですね」


 「はい」


 女性は、カウンターの下から眼鏡を取り出し、ゆっくりとかけた。


 「私は港月堂の二代目で、名前は三津江です。八重さんがここへ来ていた頃、店は母が見ていました。私はまだ若くて、店番と言いながら、よく奥で菓子を食べていました」


 祐は、すぐにノートを開かなかった。


 「記録を取ってもよろしいですか。お名前を記載してよい範囲も、あとで確認させてください」


 三津江は、少し驚いたように祐を見て、それから笑った。


 「尾路町の方は、ずいぶん丁寧になったんですね」


 「裕子さんという、怖い先生がいます」


 「怖い?」


 「正確には、逃げ道のない先生です」


 文香が小さく息をこぼした。笑ったのか、緊張がゆるんだのか、祐には分からなかった。


 三津江は奥の棚から、布に包まれた箱を持ってきた。箱は菓子折りほどの大きさで、紐がかけられている。その紐は新しいものではないが、ほどけないよう丁寧に結び直されていた。


 「母が亡くなる前、これを私に渡しました。淡名島の文香さんが、いつか自分の足で来たら渡してほしい、と。誰かが代わりに来た時は、封は切らず、名前と顔と、八重さんの話を知っているかを確かめてからにしなさい、と」


 文香の手が、鞄の持ち手を強く握った。


 祐は聞いた。


 「中身は、ご存じですか」


 三津江は首を横に振った。


 「母は知っていたかもしれません。でも私は知りません。封は切っていません。箱の中に、封筒が一通あるだけです」


 文香はしばらく箱を見ていた。


 カウンターの上の紙束が、店の奥から吹いた風でかすかに鳴る。薄い紙の端が擦れる音は、波の音より小さいのに、文香の耳には大きく届いているようだった。


 三津江は箱に手を置いたまま、続けた。


 「八重さんは、よく封筒を買いに来ました。いちばん安い白い封筒ではなく、少し厚い、ベージュのものを選んでいました。船で湿気を吸っても、中の紙がすぐ曲がらないものがいいと言って」


 「母は、ここで働いていたんですか」


 文香の声は、かすかに揺れていた。


 「働いてはいません。港の近くの縫い物の仕事を手伝っていました。船員さんの袋、荷札、帆布の補修。けれど体を悪くしてからは、長くは続かなかったようです」


 三津江は、引き出しから古い伝票の写しを出した。


 「これは店の控えです。八重さん本人の住所や細かい事情は書かれていません。ただ、ベージュ封筒を何度か買った記録と、母のメモだけ残っています。『淡名島、文香、開けるのは本人』と」


 祐は、伝票を覗き込まなかった。


 「写しを取る必要があるかは、文香さんと相談します。展示に使う場合も、公開範囲を確認します」


 三津江は頷いた。


 「展示?」


 文香が口を開いた。


 「待合所を、残そうとしています」


 その言葉は短かった。けれど、三津江はすぐに意味を受け取ったように表情を変えた。


 「淡名の渡船待合所ですか」


 「はい」


 「まだあるんですね」


 文香は頷いた。


 「壊されるところでした」


 「そう」


 三津江は、箱の紐を指で撫でた。


 「八重さんは、あの待合所の話をしていました。子どもが船を待つ場所だ、と。名前を間違えないように、名札の字は大きく書くのだと。船酔いした子には、団扇で風を送るのだと」


 祐の頭に、真部が話した診療所の待合室が重なった。八重の話は、尾路町だけでなく、海のこちら側にも同じ形で残っている。


 三津江は文香を見た。


 「でも、あなたの話は、あまりしませんでした」


 文香の顔が強ばる。


 「そうですか」


 「違います。しなかったのではなく、できなかったのだと思います」


 三津江の声は静かだった。


 「母が言っていました。八重さんは、娘の名前を書くたびに紙を替えた、と。たくさん書いて、たくさん破って、最後に一通だけ残したそうです」


 文香は視線を落とした。


 カウンターの木目の上に、薄い傷がいくつも走っている。長い年月、紙を折り、封筒を数え、鉛筆を転がした跡だ。文香はその傷を見つめていた。母がここで何を思ったのか、もう誰にも正確には分からない。分からないからこそ、勝手に美しい話にしてはいけない。


 祐はそう思い、ノートの端に小さく書いた。


 分からないところは、分からないまま残す。


 三津江は箱を文香の前へ滑らせた。


 「本人確認を、させてください」


 文香は鞄から書類を出した。裕子が用意した薄いファイルだ。三津江は名前を確かめ、八重の名前と、淡名島の祖母の姓を確認した。祐は横で見守りながら、どこにも手を出さなかった。


 確認が終わると、三津江は箱の紐をほどいた。


 中には、ベージュの封筒が一通入っていた。


 古いが、汚れてはいない。端に薄い折れ目があり、封はしっかり閉じている。宛名は、文香へ、とだけ書かれていた。幼い子へ向けた丸みではなく、大人になってから読む人を思って書いたような、落ち着いた字だった。


 文香は手を伸ばした。


 指先が封筒に触れる直前で止まる。


 祐は声をかけなかった。


 三津江も、何も言わなかった。


 店の外を、観光客の笑い声が通り過ぎた。近くの船が汽笛を鳴らし、ガラス戸が小さく震えた。門司港の日常は、文香の手が止まっている間も、何事もなかったように流れている。


 やがて、文香は封筒を両手で受け取った。


 その動きは、修繕した名札を棚へ戻す時よりも遅かった。古い紙を傷めないためではない。自分の中で、まだ触れたことのない場所を傷つけないようにしているようだった。


 「ありがとうございます」


 文香は言った。


 三津江は頷き、カウンターの下から小さな紙袋を出した。


 「これも一緒に。母が使っていた封筒の残りです。展示に使うか、使わないかは、あなたが決めてください」


 紙袋の中には、同じベージュの封筒が数枚入っていた。新品ではない。長く保管されていたせいで、角がわずかに丸くなっている。


 文香は紙袋を見た後、首を横に振った。


 「いただけません」


 三津江は少し目を細めた。


 「なぜ」


 「母のものではないから」


 祐は、文香の言葉を聞いて顔を上げた。


 文香は続けた。


 「手紙は、私宛てです。でも、その封筒はお店の時間です。待合所で使うなら、写しを作ります。元の封筒は、ここにあった方がいいです」


 三津江はしばらく黙っていた。


 それから、紙袋を引き戻した。


 「そう言えるなら、八重さんも安心するかもしれません」


 文香は答えなかった。


 安心するかどうかは、もう確かめようがない。母の気持ちを誰かに決められるのは、まだ痛い。けれど祐には、文香がその言葉に怒っていないことも分かった。


 店を出る前、祐は三津江に、待合所の仮開放が決まったら改めて連絡してもよいか尋ねた。三津江は店の名刺をくれた。名刺の端には、店名と同じ金色の文字で、小さな月が描かれている。


 「八重さんの話を展示に出すなら、一度、文章を見せてください。母の名前は出さなくてかまいません。ただ、手紙を預かった人がいたことだけ、間違えないでほしい」


 「分かりました」


 祐は頭を下げた。


 文香も、深く頭を下げた。


 店を出ると、門司港の空は午後の色に変わっていた。雲の切れ目から光が落ち、海面がところどころ白く光っている。観光客が写真を撮る横で、文香は封筒を胸に抱えたまま動かなかった。


 「開けますか」


 祐は聞いた。


 文香は、すぐには答えなかった。


 風がベージュの封筒の端をかすかに鳴らす。紙の音は、待合所の古い名札が触れ合う音と少し似ていた。


 「ここでは、開けません」


 「はい」


 「待合所で読みます」


 祐は頷いた。


 「一人で?」


 文香は首を横に振った。


 「一人だと、また待つ方へ戻るので」


 祐は、鞄の紐を握り直した。


 「では、待合所で。読みたい時に」


 「はい」


 二人は港の方へ歩いた。昼食に入った小さな店で、祐は焼きカレーの香りに一瞬だけ気を取られたが、文香はあまり箸を進めなかった。代わりに、封筒の角へ目を落とし、何度も息を整えていた。


 祐は無理に話題を作らず、水の入ったコップを少し文香の方へ寄せた。


 文香はそれに気づき、短く言った。


 「ありがとうございます」


 帰りの列車に乗る前、文香は港の見える場所で立ち止まった。対岸へ向かう船が、白い跡を残して進んでいく。人は船で渡れる。荷物も、手紙も、封筒も渡れる。けれど、渡った先で何が変わるかまでは、誰にも決められない。


 文香は封筒を鞄へ入れた。


 「祐さん」


 「はい」


 「読んでも、許せないかもしれません」


 「はい」


 「読まなかったことにしたくなるかもしれません」


 「その時は、そう記録します」


 文香は少しだけ眉を寄せた。


 「そんな記録、ありますか」


 「あります。名札を返さない人の欄も、空白のまま残す欄もありますから」


 文香は、海の方を見た。


 「では、それで」


 列車の中で、祐は門司港で聞いたことを整理した。港月堂文具。三津江。八重の封筒。本人確認。封を切らない手渡し。公開範囲は未定。文香が待合所で読むと決めたこと。


 最後に、祐は一行だけ書き足した。


 手紙は、答えではない。読む場所を選ぶために、海を越えてきた。


 尾路町へ戻る頃には、空が夕方の青へ沈み始めていた。港の灯りが一つずつともり、淡名島へ向かう最終便の案内が聞こえる。


 待合所では、裕子が名札棚の前で腕を組み、壮翔が長椅子の位置を直し、明純が白い紙札の試作品を手にしていた。信清は外で潮を見ている。愛衣子は、今日の聞き取り結果を書き込むための新しい用紙を用意していた。


 「おかえりなさい」


 愛衣子が言った。


 文香は頷いた。


 裕子は封筒を見ても、すぐに何も聞かなかった。代わりに、机の上に白い布を敷いた。


 「置くなら、ここです」


 文香は鞄から封筒を出し、その布の上に置いた。


 壮翔が珍しく口を閉じている。明純も声を落とした。信清が外から戻り、戸口で足を止める。


 待合所の中に、船を待つ時とは違う沈黙が生まれた。


 文香は封筒を見つめた。


 開けるのは、今日ではないかもしれない。明日かもしれない。もっと先かもしれない。それでも、封筒はもう、遠い港の店の奥ではなく、文香の手が届く場所にある。


 それだけで、待っていた時間の形が少し変わった。


 祐はノートを閉じた。


 ベージュの封筒は、標本箱の前に置かれている。ガラスの中の蝶は、羽を閉じないまま、静かにそこにいる。


 文香はゆっくり息を吸った。


 「ここで読みます」


 誰も急かさなかった。


 潮の匂いが、窓の隙間から入り込む。外では、渡船のロープが桟橋に当たり、小さな音を立てていた。


 文香はまだ封を切らない。


 けれど祐には分かった。


 門司港から戻った手紙は、文香を過去へ閉じ込めるためではなく、この小さな待合所で、次の朝へ進ませるために届いたのだと。


 その夜、待合所の記録簿には、新しい欄が増えた。


 八重から文香への手紙。


 保管場所、淡名渡船待合所。


 開封、本人の意思による。


 公開、未定。


 そして備考欄には、文香の短い字で、ただ一行だけ書かれていた。


 待合所で読む。



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