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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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19/45

第19話 蝶の標本箱

 高松から届いた出汁の便箋を、裕子は翌朝になっても名札棚の前に置いたままにしていた。


 淡名渡船待合所の窓は半分だけ開けられている。七月下旬の風は湿っていて、朝から潮と藻の匂いを運んできた。床板の継ぎ目には、昨日掃いたはずの砂がもう薄く入り込んでいる。祐が箒を立てかけると、砂の粒が畳座布団を置く予定の場所で小さく跳ねた。


 「まだ何も敷いていないのに、もう客の顔をしているな」


 信清が入口で靴を脱ぎながら言った。片手には古い工具箱。もう片方の手には、港の漁具倉庫から借りてきた薄い手袋が入った紙袋を提げている。


 祐は返却簿を閉じた。


 「今日、開けるんですよね」


 「開ける。けど、急がん。古い標本箱は、焦った手を嫌う」


 信清はそう言って、待合所の奥を見た。


 壁の高いところに、薄く曇ったガラス箱が掛かっている。何度も見上げていたはずなのに、祐には、それがずっと遠くにあるように感じられた。名札棚の横、古い時刻表の跡の上。そこだけ壁の色が四角く濃く、箱を外したら、もっと古い時間が出てきそうだった。


 文香は先に来ていた。


 作業台代わりの長椅子に、白い布、柔らかい刷毛、ピンセット、薄い和紙、乾燥剤の袋を順に並べている。言葉はない。けれど、物の置き方がいつもより狭い。文香の肘の近くに、まだ開けていないベージュの封筒が一つ置かれている。今治で聞いた話をまとめた祐の控えではなく、母・八重の手がかりを入れてきた、文香自身の封筒だった。


 裕子は入口の板戸に貼る注意書きを書いていた。


 「標本箱開封作業中。許可なく触らないでください。近づきすぎないでください。質問は一人ずつ。……壮翔さんは三歩下がってください」


 「最後、名指しじゃないですか」


 祐が言うと、裕子は筆ペンの先を止めなかった。


 「必要な注意です」


 その声が終わる前に、外から軽い足音が近づいてきた。


 「おはようございます、蝶の目覚めにふさわしい朝ですね!」


 壮翔が大きな木箱を抱えて入ってきた。木箱の上には、なぜか小さな電気スタンドが二つ、古い座布団、蜜柑の空き箱、さらに細長い板が縛りつけられている。


 裕子は筆ペンを置いた。


 「何ですか、それ」


 「標本箱を照らす棚です。俺、考えました。名札の中心に据えるなら、照明がいる。光が必要だ。蝶も舞台に立つなら、目元から——」


 「蝶に目元照明を当てない」


 「じゃあ、背中から?」


 「舞台に出さない」


 壮翔は木箱を床に置き、口を尖らせた。


 「でも、暗いと見えないでしょう」


 文香が、並べていた刷毛の向きを一ミリだけ直した。


 「弱い光」


 短い声だった。


 壮翔はすぐに胸を張った。


 「ほら、必要じゃないですか。俺の目元案は行き過ぎでも、弱い光は必要。つまり俺は半分正しい」


 「半分以上余計です」


 裕子が注意書きの最後に、赤で「直射日光不可」と加えた。


 祐は笑いかけて、やめた。文香の指が標本箱へ向かう前から、少しだけ固くなっていることに気づいたからだ。


 信清が壁際に立ち、箱の下を見上げた。


 「釘は二本。左が浮いとる。箱を持つのは俺と祐。文香さんは受けるだけでええ。割れたら指を切る」


 「はい」


 文香は頷いた。


 祐は脚立へ上がった。木の段がきしむ。窓の外から渡船の汽笛が短く聞こえ、待合所の空気がその音に合わせてわずかに震えた。標本箱に手をかけると、予想よりも軽かった。けれど、ガラスの奥に閉じ込められた薄い羽が、重さとは別のものを持っているように思えた。


 「右、外します」


 「左、待て。こっちが弱い」


 信清が下から手を添える。


 祐は息を詰め、ゆっくり釘から箱を浮かせた。長く動かなかったものが壁から離れる時、乾いた音がした。紙が剥がれるような、古い咳払いのような音だった。


 文香が両手を出す。


 箱は白い布の上に置かれた。


 誰もすぐには話さなかった。


 ガラスは曇り、内側の端に細かな埃が線を作っている。中には三頭の蝶が留められていた。羽は淡い黄、灰色がかった白、そして黒い筋の入った橙。色はところどころ抜けている。けれど、抜けた部分にも何かが残っていた。海風で褪せた名札の布と同じように、なくなった色の跡が、むしろ目を離せなくしている。


 壮翔が身を乗り出しかけ、裕子の貼り紙が目に入ったのか、その場で三歩下がった。


 「自分で守れるんですね」


 愛衣子が入口から覗き込んで言った。明純も一緒だった。二人は港の掲示板に説明会の案内を貼ってきた帰りらしい。


 「守らされてるんです」


 裕子が答える。


 信清は手袋をはめ、ガラスの縁を指でなぞった。


 「蝶は詳しくない。けど、これは海沿いでよく見るやつじゃろう。昔は秋口に、港の花によう来とった」


 「渡るんですか」


 明純が聞いた。


 「種類による。船みたいに時刻表どおりには渡らん。風と花と、体の軽さで行くんじゃろう」


 明純は感心した顔をした。


 「それ、案内所で使えそうですね。風と花と、体の軽さで行く旅」


 「時刻を聞かれた時に、それを言ったら怒られるよ」


 祐が言うと、明純は肩をすくめた。


 文香はピンセットを持ったまま、箱の右下を見ていた。


 そこに、小さな紙片が差し込まれていた。ガラスの曇りで、文字はほとんど読めない。だが紙の色は、ベージュだった。封筒と同じ、夕方の光を吸ったような色。


 「開けます」


 文香が言った。


 誰も返事を急がなかった。信清が小さく頷き、祐が窓をもう少し閉める。風が弱まり、待合所の中の音が薄くなった。遠くの船のエンジン、港で荷台を引く車輪、明純が息を止めた気配まで聞こえる。


 文香は箱の裏の留め具へ指をかけた。錆びた金具は一度では動かない。壮翔が反射的に手を出しかけたが、裕子に袖をつかまれた。


 「見守る」


 「はい」


 文香は二度目に、金具をほんの少しだけ押し上げた。かちり、と小さな音がする。


 祐は、その音を忘れないだろうと思った。名札棚の鍵とも、渡船の係留ロープの金具とも違う。閉じ込めていたものが、開く用意をした音だった。


 ガラス蓋がわずかに上がる。


 古い紙と乾いた草のような匂いがした。


 文香は刷毛で埃を払い、右下の紙片をそっと取り出した。紙は薄い。端が波打ち、真ん中に折り筋がある。八重の字かどうか、祐には分からない。けれど、文香の指先が止まった。


 文香は紙片を白い布の上に置いた。


 そこには、細い筆跡でこう書かれていた。


 蝶は同じ場所へ戻らず、季節ごとに別の命が道を継ぐ。


 下に、もっと小さな字が続いている。


 それでも、道は途切れたとは言わない。羽を見た人が、次の花を植えるから。


 祐は息を吸ったまま、しばらく吐けなかった。


 文香は紙片を見ている。目は濡れていない。唇も震えていない。ただ、紙を押さえる指が、強くなりすぎないように何度も力を抜いていた。


 「八重さんの字ですか」


 愛衣子が小さく聞いた。


 文香はすぐには答えなかった。ベージュの封筒を開いた時とは違う沈黙だった。あの時の沈黙は、扉の前で立ち尽くしているようだった。今の沈黙は、細い橋に足をかけているように見えた。


 「たぶん」


 文香は言った。


 たった三文字なのに、その声は床に落ちず、標本箱のガラスに触れて戻ってきた。


 裕子が紙を覗き込み、すぐに顔を離した。


 「展示するなら、説明が必要ですね。字が薄いから、複写と現物の扱いを分ける。公開していいものかどうかも、文香さんが決めてください」


 文香は頷いた。


 「これは、ここに置く」


 「現物を?」


 「箱に戻す。読めるようには、写し」


 祐はノートを開いた。


 「標本箱説明札。原本は箱内保管。写しを作成。公開範囲は文香さん確認。劣化防止が必要」


 書きながら、祐は自分の字が少し曲がっていることに気づいた。


 母が自分の元へ戻らなかったこと。


 母が残したものが、別の形でここに戻ってきたこと。


 その二つを同じ紙の上で見るのは、たぶん簡単ではない。祐は「よかった」とも「許せるね」とも言わなかった。言ってしまえば、この紙片の薄さを踏み破る気がした。


 信清が標本箱の中を覗いた。


 「乾燥剤は古い。今は役に立っとらんな。直射も避けんといかん。潮が入る場所じゃけえ、蓋の隙間も見る」


 「湿気取りなら宿にあります」


 壮翔が手を上げた。


 「客室用の、押し入れに置くやつ。大きいやつなら一気に——」


 「大きいものを中に入れたら標本より目立つ」


 裕子が言った。


 「じゃあ、小さいのを買ってきます」


 「勝手に買わないで、品番を確認してから」


 「品番……蝶にまで品番が」


 「湿気取りの話です」


 壮翔は板の束に腰かけようとして、文香に見られた。まだ何も言われていないのに、すぐ立ち上がる。


 「座りません。標本箱のために、俺は立てます」


 裕子が無言で赤ペンを持ち上げた。


 笑いが小さく起きた。文香も口元だけ、わずかにゆるめた。


 祐はその表情を見て、胸の奥で固まっていたものが少しほどけるのを感じた。


 けれど、作業は笑いだけでは進まなかった。


 標本箱の底には、細かな虫食いの跡があった。羽を留める針は、一本が傾いている。説明札の裏には、薄く染みが広がっていた。ガラス蓋の隅は欠けており、そこから潮気が入った可能性がある。祐が写真を撮り、裕子が状態を表にし、信清が壁の釘と裏板の強度を確かめる。愛衣子は触れてはいけないものと、見学者へ説明できるものを分けてメモした。


 明純は最初、何をしていいか分からずに立っていたが、しばらくして外へ走っていった。戻ってきた時には、商店街の文具店から借りたルーペと、小さな懐中電灯を持っていた。


 「勝手に借りてきたの?」


 裕子が目を細める。


 「違います。返却時間と名前を書いてきました。店のおじさんに、用途も説明しました。あと、落としたら弁償です」


 明純は胸を張った。


 裕子は少しだけ黙り、ルーペを受け取った。


 「よろしい」


 明純は口を開けたまま、祐を見た。


 「今の、褒められました?」


 「たぶん」


 「短すぎません?」


 「裕子さん基準では長い方かもしれない」


 裕子が祐のノートへ赤ペンを向けたので、祐は黙って書き続けた。


 ルーペで見ると、説明札の右下に、もう一つ小さな文字があった。


 八重、と署名がある。


 文香は、その二文字を見て、少しだけ顔を近づけた。


 祐は視線を逸らした。見てはいけないものではない。けれど、最初にその字へ近づく権利は、文香のものだと思った。


 文香はしばらくして、背筋を伸ばした。


 「母の字です」


 今度は、はっきりと言った。


 待合所の外で、渡船のロープが岸壁に当たる音がした。こつん、こつん、と同じ間隔で響く。信清はその音を聞きながら、標本箱の針を見ていた。


 「八重さんは、これを誰に見せるつもりだったんじゃろうな」


 文香は答えなかった。


 祐も、答えを探さなかった。


 母が娘に見せたかったのかもしれない。通学船の子どもたちに見せたかったのかもしれない。待合所に座る誰かへ、海を渡るものの話を残したかったのかもしれない。どれか一つに決めると、箱の中の羽が狭くなってしまう気がした。


 壮翔が、今度は声を落として言った。


 「戻らないって、つらいですね」


 裕子は茶化さなかった。


 文香は説明札の写しを作るため、薄い紙を重ねた。鉛筆を持つ指が紙の上を滑る。字をなぞるのではなく、形を受け取るような動きだった。


 「戻らないなら、捨てたのと同じだと思ってました」


 その声は、紙をこする鉛筆の音に混じった。


 祐はノートから顔を上げた。


 文香は続けた。


 「でも、これを書いた手が、私の知っている縫い方を残して、名札を直して、誰かの船酔いを団扇であおいで、ここに蝶を置いたなら……戻らなかっただけ、ではないのかもしれない」


 言い終えてから、文香は自分の言葉に驚いたように口を閉じた。


 愛衣子は何か言おうとして、やめた。鞆の浦から戻ってきて以来、彼女は励ましの言葉をすぐに出さなくなっている。代わりに、メモ帳の余白へ「言われたことだけでなく、言わなかったことも残す」と書いた。


 裕子は腕を組み、視線を窓へ向けた。


 「戻らなかった理由と、残したものは、同じ箱に入っていても別の欄ですね」


 文香が頷いた。


 「別の欄」


 祐はその言葉を名札返却簿の余白に書いた。


 別の欄。


 怒り。寂しさ。残された手仕事。誰かに貸した団扇。戻らなかった船。残った説明札。


 一つにまとめるには、どれも薄くて、どれも重かった。


 昼前になると、待合所の中に光が入ってきた。朝の弱い光ではない。ガラスを通ると、蝶の羽の色が少し強く見える。信清がすぐに気づき、箱の上に仮の布をかけた。


 「これじゃ、夏は傷む。置く場所を考え直さんといかん」


 「名札棚の中心に置く予定でしたよね」


 祐が言うと、信清は壁の方を見た。


 「中心が、一番安全とは限らん」


 文香が、標本箱の場所を測るための紙を出した。


 「名札棚の奥。光は弱く。説明は手前」


 「見せたいものを奥に置くんですか」


 明純が聞く。


 文香は標本箱のガラスを見た。


 「近づきすぎない方が、見えるものもある」


 祐はその言葉に、尾道水道の夜を思い出した。文香が母を許せないと言った時、祐はすぐ隣にいた。けれど、近づきすぎなかった。今日の標本箱も同じなのだろう。見せることと、さらすことは違う。


 壮翔は持ってきた細長い板を床に並べた。


 「なら、奥に置いても見えるように、低めの棚を作ります。光は横から。座った人の目線に合わせる。椅子はこの辺。あ、畳座布団が届いたら——」


 「まだ買わない」


 裕子が言う。


 「畳は買いません。倉敷の職人さんが送ってくれる約束です」


 「棚の材料の話です」


 「それは……少しだけ買ってます」


 壮翔は木箱の影に足で板を寄せた。


 裕子は深く息を吸った。


 「領収書」


 「あります」


 「宛名」


 「縁側寝床」


 「待合所で使うものを、あなたの宿の宛名で買わない」


 「俺の財布が先に泣いたので」


 明純が笑い、愛衣子もつられて吹き出した。信清は肩を揺らしただけだったが、口元は少し上がっていた。


 文香は、標本箱から出した説明札を薄い和紙で挟み、写しの紙を横に並べた。


 「祐さん」


 「はい」


 「これ、返却簿じゃなくて、保管簿に入れてください」


 「名札ではないから?」


 「名札ではない。でも、ここを通ったもの」


 祐は新しいページを開いた。


 淡名渡船待合所保管簿。


 一、蝶の標本箱。説明札あり。八重署名。原本は箱内保管。写しを作成。直射日光を避ける。湿気対策要。展示可否、文香確認済み。


 そこまで書いて、祐は手を止めた。


 「保管理由は、どうしますか」


 文香は少し考えた。


 窓の外で、淡名島行きの船が岸を離れる。船尾の白い泡が、港の水面を細く裂いた。水はすぐに戻り、泡だけが揺れながら広がっていく。


 「道が途切れていないことを、忘れないため」


 祐はそのまま書いた。


 壮翔が鼻をすすった。


 裕子が振り向く。


 「泣いてます?」


 「埃です」


 「三歩下がっているのに?」


 「感動の埃は、距離を越えるんです」


 文香が、ほんの少しだけ笑った。


 作業は午後まで続いた。


 祐は町の資料室へ電話をかけ、古い標本箱を展示する場合の注意点を聞いた。相手は専門施設ではないなら長時間の直射を避け、温湿度の記録を簡単に残し、虫害が出た場合はすぐ専門家へ相談するよう教えてくれた。祐は「専門家」の文字を強く書いた。待合所で抱え込まない。誰かの思い出だからこそ、素人の熱だけで触りすぎない。


 裕子はその横で、温湿度記録表を作った。


 「朝、昼、閉鎖前。三回でいいですか」


 信清が首を振る。


 「潮が強い日は、昼を二回に分けた方がええ。雨上がりも」


 「じゃあ、通常日三回、潮湿り日四回。誰が測るかも必要」


 「俺が朝を見る。昼は案内所か商店街。閉鎖前は鍵当番」


 裕子はすぐに欄を増やした。


 愛衣子は見学者向けの説明文の下書きを始めた。


 「淡名渡船待合所には、海を渡る蝶の標本箱が残っています。この箱は、かつて名札を縫い直していた八重さんが——」


 そこで手が止まる。


 「八重さんって書くと、文香さんのお母さんだって分かりますよね。どこまで書いていいですか」


 文香は写しの紙から顔を上げた。


 「母のことは、まだ書かない」


 「はい」


 「八重の名前は、説明札の写しにある分だけ」


 「分かりました」


 愛衣子はすぐに線を引き、書き直した。


 淡名渡船待合所には、海を渡る蝶の標本箱が残っています。説明札には、季節ごとに別の命が道を継ぐと書かれています。ここにある名札も、一人だけの思い出ではなく、次に座る人へ渡されていくものです。


 祐はその文を見て頷いた。


 文香は「次に座る人」のところを指で押さえた。


 「そこ、いい」


 愛衣子の顔がぱっと明るくなり、すぐに真面目な顔へ戻った。


 「ありがとうございます。調子に乗らないようにします」


 「少し乗ってもいいんじゃない」


 明純が横から言った。


 「明純さんが言うと、不安になります」


 「ひどい。俺だって最近は、返却時間と名前を書ける男なのに」


 裕子がルーペを返す袋に入れながら言った。


 「その程度で肩書きにしない」


 待合所に笑い声が戻る。


 標本箱は、もう一度閉じられた。説明札は写しを取った後、薄い和紙に挟まれて元の位置へ戻された。乾燥剤は新しい小袋を仮で置き、後日、適したものを確認する。ガラスの欠けは応急で覆い、箱は壁へ戻さず、日が当たらない奥の棚に仮置きされた。


 その時、文香が箱の裏板を見つめていた。


 「どうしました」


 祐が聞く。


 文香は箱を少し傾けた。裏板の隅に、古い紙が貼りついている。糊が乾き、半分剥がれかけていた。祐はルーペを借り、文字を読もうとした。


 かすれている。


 けれど、二つだけ読めた。


 門司。


 そして、港月堂文具。


 裕子がすぐにノートを引き寄せた。


 「門司港ですか」


 信清が眉を寄せる。


 「文具店の札か。標本箱を買った店か、修理した店かもしれん」


 文香はベージュの封筒へ視線を落とした。


 「封筒の紙と、似てる」


 祐は今治で聞いた証言と、高松で預かった手紙を思い出した。八重の足取りは、島から今治へ伸び、高松の湯気の中に現れ、今度は門司港という文字を標本箱の裏から出してきた。


 線はまっすぐではない。


 けれど、途切れてもいない。


 「調べます」


 祐が言った。


 文香は頷いた。


 「急がなくていい」


 「はい」


 「でも、調べる」


 「はい」


 文香は標本箱に手を添えた。ガラス越しの蝶は動かない。動かないのに、羽の筋は海図のように見えた。どこから来て、どこへ行くのか。答えを持っているわけではない。ただ、見る人に、道が一つではないと知らせている。


 夕方、待合所を閉める前に、祐は保管簿をもう一度読み返した。


 蝶の標本箱。八重の説明札。道が途切れていないことを、忘れないため。


 名札棚の淡い布たちの横に、標本箱が仮置きされている。名札は子どもたちの首に掛けられていたもの。蝶は誰の首にも掛からず、ただ羽を広げていたもの。その二つが同じ棚に並ぶと、待合所の意味が少し変わって見えた。


 ここは、戻ってきた人だけの場所ではない。


 戻れなかった人が、何かを置いていった場所でもある。


 文香は箱の前に立っていた。鍵束を持つ手は、いつものように静かだ。けれど、祐には、その手が朝より少しだけ違って見えた。母を待つための手ではなく、残ったものを次へ渡すための手に。


 「文香さん」


 祐が呼ぶと、文香は振り向いた。


 「門司港の件、明日から調べます。封筒と標本箱、両方の記録を分けて」


 「分けて」


 「別の欄で」


 文香は、ほんの短く頷いた。


 外へ出ると、港の空に小さな影が一つ舞っていた。蝶か、葉か、紙片か、遠くて分からない。風に押され、戻るでも進むでもなく、斜めに揺れている。


 壮翔が空を見上げた。


 「蝶ですかね」


 裕子は目を細めた。


 「紙くずかもしれません」


 「そこは蝶って言いましょうよ」


 「確認できないものを断定しない」


 明純が笑った。


 「じゃあ、確認できないけど、蝶だったらいいな、でどうですか」


 愛衣子がそれをメモしようとして、裕子に止められた。


 信清は港の方へ歩き出しながら、静かに言った。


 「どっちでもええ。風に乗っとるなら、落ちる場所は自分で選べん。けど、誰かが見とったことは残る」


 文香は空を見上げたまま、何も言わなかった。


 祐も同じ方を見た。


 小さな影は、船着き場の屋根を越え、淡名島へ向かう水面の上で一度だけ光り、それから見えなくなった。


 待合所の中には、閉じた標本箱がある。


 箱の中の羽は動かない。けれど、その説明札は、明日の調査先を一つ増やした。門司港。港月堂文具。ベージュの紙。八重の名前。


 祐は鍵が閉まる音を聞きながら、ノートを鞄にしまった。


 今日の記録は、名札の返却ではない。


 それでも、誰かの名前へ向かう道だった。



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