第18話 高松、うどん屋の名札
朝の尾路町駅は、まだ潮の匂いよりも、湿ったレールの匂いが勝っていた。
祐は改札前の丸い時計を見上げ、手帳の端に小さく時刻を書き込んだ。七時十八分。高松へ向かう列車に乗るには余裕がある。けれど裕子は、余裕という言葉を信用していない顔で、駅舎の入口からホームの奥までを三度見回していた。
「集合七時十五分って書いたでしょう」
「七時十三分には着いていました」
「じゃあ、どうして私が最後に来たみたいな顔してるの」
「してません」
「してた。今、ほんのりしてた」
祐はノートを閉じた。ほんのりした顔、という欄はない。作るとすれば、裕子専用の備考欄になってしまう。
裕子は肩から下げた布鞄を胸の前へ回し、駅のベンチに置いた。中には、透明の袋に入れた布名札、同意書、筆記具、持ち主確認用の写真、返却希望を聞くための用紙、そして文香が昨夜遅くまでかけて作った小さな紙包みが入っている。
淡い名札は、紙包みの中で静かに眠っていた。
白く見えていた布は、よく見ると潮で薄く黄ばみ、角には帆布を縫う時のような丈夫な糸が残っている。名字は、かすれた墨で「川添」と読めた。診療所の真部が話した「船酔いの子」とは別の一枚だが、高松へ移った一家の娘が、同じ待合所で団扇を貸してもらった記憶を持っているらしい、と祐は聞いていた。
「祐」
改札の外から、文香が小さな紙袋を差し出した。
「これ」
「ありがとうございます。包みの予備ですか」
「それと、乾燥剤」
紙袋の中には、薄い和紙と小袋が入っていた。文香は中身の説明を済ませると、すぐに口を閉じた。朝の光を受けた髪が、耳の横で少しだけ濡れている。潮紙堂から駅まで、坂を急いで下りてきたのだろう。
裕子が腕時計を見た。
「文香も来ればよかったのに」
「今日は名札棚」
「一日くらい閉めてもいいでしょう」
「湿気が強い」
裕子は何か言いかけて、やめた。言葉の代わりに、紙袋をそっと鞄へ入れる。雑に入れない。その手つきを見て、文香は小さくうなずいた。
「高松の人、うどん屋さんなんですよね」
祐が確認すると、裕子は鞄からメモを取り出した。
「店名は『川添うどん』。高松市内の商店街から一本入った路地。店主は川添初音さん。年齢は六十代前半。小学生の頃、淡名島から高松へ引っ越した。名札を失くしたかどうかは本人確認前だから断定しない」
「はい」
「聞く順番は、祐が名前と来訪理由、私が同意書、祐が写真、私が公開範囲」
「はい」
「私が話を遮ったら」
裕子はそこで言葉を止めた。
駅のホームへ、列車の到着を知らせる音が流れた。遠くから、まだ姿の見えない列車の振動が、レールを伝ってくる。
祐は裕子を見た。
「遮ったら?」
「あなたが、足を踏んで」
「痛いです」
「私が痛いのは我慢する」
「僕の足も痛いです」
裕子は少しむっとしたが、すぐ視線を落とした。
「……じゃあ、ノートを閉じて」
「分かりました」
祐が返事をすると、文香が裕子の鞄を見た。
「聞ける」
裕子は眉を寄せた。
「何が」
「たぶん」
短い言葉だった。けれど、裕子は黙った。ふだんなら「たぶんじゃ困る」と返すところで、今日は言わなかった。文香の「たぶん」は、いい加減な予想ではなく、昨夜まで裕子が何度も同意書を読み直していた姿を見た上での言葉だったからだ。
列車が入ってきた。海沿いへ向かう車窓には、尾路町の屋根が少しずつ低くなり、その向こうに銀色の海が見えてくる。文香は改札のこちら側に残り、二人へ手を振らなかった。ただ、紙袋を渡した時と同じ手で、鞄の口を指さした。
湿気に気をつけて。
祐には、そう見えた。
高松へ着く頃には、日差しが線路の上で白く跳ねていた。駅を出ると、海の風が広い道路を渡り、遠くのフェリー乗り場の匂いを連れてくる。尾路町の港の風より、少し乾いている。祐はその違いをノートに書こうとして、ふと裕子を見た。
裕子は駅前の地図を見ながら、眉間に皺を寄せていた。
「どうしました」
「うどん屋に行く前に、港を見たい」
「時間はあります」
「あるけど、だらだら歩かないで。暑いし」
言いながら、裕子はすでに港へ向かって歩き出していた。祐は後を追う。
高松の港は、朝の終わりと昼の始まりの間にいた。船を待つ人、荷物を転がす人、帽子を押さえて小走りになる人。ベンチに座った老夫婦の膝には、紙袋が一つ。中からうどんの出汁のような、昆布といりこの匂いがする気がして、祐は思わず顔を上げた。
「祐」
「はい」
「お腹すいた顔しない」
「まだ何も言ってません」
「顔が言った」
裕子は港の手すりに片手を置いた。
「ここからも、誰かが島へ行ったんでしょうね」
「そうですね」
「待合所って、建物の話だけじゃないのね」
祐は返事を急がなかった。裕子は、海を見ている。尾路町の会議で厳しい声を出す時のように、誰かを急がせる顔ではなかった。
「船が出るまでの時間って、人の話が残るのかもしれない」
祐が言うと、裕子は小さく鼻を鳴らした。
「詩みたいなこと言ってないで、道を確認して」
「はい」
路地に入ると、店先の暖簾が風に揺れていた。『川添うどん』の文字は、白地に藍色で染め抜かれている。古いが清潔で、入口の横に小さな木の椅子が二つ置かれていた。昼前だというのに、店の中からはもう湯気が出ている。
裕子が一歩前へ出て、暖簾を少し持ち上げた。
「失礼します。尾路町から参りました。川添初音さんにお約束をいただいています」
店内の奥から、白い割烹着の女性が顔を出した。髪を後ろでまとめ、額に汗を浮かべている。湯気の向こうで目が細くなった。
「ああ、淡名島の名札の」
その声は、思ったより明るかった。
裕子はすぐに鞄から封筒を出そうとしたが、途中で手を止めた。
「お忙しい時間でしたら、出直します」
祐は、裕子の横顔を見た。
初音は少し驚いたように瞬きをして、それから笑った。
「昼の波が来る前なら大丈夫。奥の小上がりへどうぞ。うどん、食べていく?」
「聞き取り前にいただくと、こちらの判断が緩む可能性があります」
裕子が真顔で言った。
初音は一瞬だけ固まり、それから大きな声で笑った。釜の湯気が揺れる。店の奥で、若い男性が麺を水で締めながら、何事かとこちらを見た。
「真面目な人やねえ。じゃあ、話が終わってからにしようか」
小上がりには、四人掛けの低い卓が一つあった。壁には、海の写真と古い暖簾が掛けられている。祐が座る前に、裕子は鞄から薄い布を出して卓の上に敷いた。名札を直接置かないための布だ。
初音はそれを見て、目を細めた。
「丁寧に持ってきてくれたんやね」
「紙修繕の方が包んでいます。湿気の強い日なので、開封は確認後にします」
「紙修繕の方」
初音はその言葉を、少し懐かしむように繰り返した。
祐は名乗り、来訪の理由を短く説明した。淡名渡船待合所の古い名札を整理していること。名前の似た方を探していること。名札の扱いは、受け取る、待合所に保管する、写真だけ受け取る、あるいは話を聞かず記録から外す、いずれも選べること。
初音は、途中で口を挟まなかった。祐が話し終えるまで、湯飲みを両手で包んでいた。
裕子が同意書を出した。
「こちらは、今日お伺いした内容の記録についての確認です。公開する場合、非公開にする場合、店名を伏せる場合が選べます。署名は、内容を読んでからで大丈夫です」
初音は書面へ目を落とした。何行か読むと、顔を上げる。
「名前を伏せることもできるんやね」
「できます」
裕子は、いつもの調子ならすぐに次の説明へ進むところで、一拍置いた。
「伏せたい理由を、こちらへ話す必要もありません」
初音の指が、用紙の端に触れた。
「そこまで決めとるんや」
「前に、話したくないとおっしゃった方がいました」
裕子は、声を少し落とした。
「その方に、こちらが学びました」
祐はノートを開きかけ、閉じた。裕子が自分で言葉を選んでいる。今は、それを書き留めるより、初音がどう受け取るかを見たかった。
初音はしばらく同意書を眺め、それから静かにうなずいた。
「私は、名前を出してええよ。店も出してええ。けど、名札の写真を使う時は、先に見せてほしい」
「はい」
裕子は用紙に印をつけた。
祐は文香の紙包みを布の上へ置いた。裕子が乾いた手で包みを開く。和紙が一枚、二枚。薄い紙の間から、淡い布が出てきた。
初音の顔から、笑いが消えた。
店の奥で釜の湯気が上がる。誰かが「初音さん、麺」と声をかけたが、初音は振り向かなかった。若い男性がすぐに察して、釜の前へ戻る。
布名札には、かすれた字で「川添はつ」と読めた。最後の一文字は、糸のほつれに隠れている。端には、子どもの手で引っ張ったような歪みが残っていた。
初音は名札に触れなかった。
「これ、私のや」
声が、湯気の中で少しだけ揺れた。
「ただし、私がなくしたんじゃない」
裕子の手が、一瞬だけ動きかけた。質問を書こうとしたのだろう。祐はノートを閉じる音を、小さく立てた。
裕子は、動きを止めた。
初音は、名札を見たまま話し始めた。
「淡名島にいたのは、小学校の途中までやった。父の仕事で高松へ出ることになって、あの日、荷物を先に船へ運んどった。私は、待合所で友だちと最後に遊んでてね。名札を首から外して、長椅子に置いたまま走ったんよ」
湯気が、初音の横顔をやわらかくぼかした。
「取りに戻ろうとしたら、船が出るけん早くせえって父に怒られて。泣いたら、母まで困らせる思うて、泣かんかった。高松へ着いたら、新しい学校の名札があって、そこにはちゃんと『川添初音』って書かれとった」
初音は笑った。けれど、その笑いは、釜の音より少し小さかった。
「でも、あっちの名札は、はつ、までしか書けてなかったんやね」
祐は、文字の欠けた端を見た。最後の一文字がない。子どもの名前が、途中で海風の中に残されたままになっている。
裕子は、質問をしなかった。
初音は続けた。
「船酔いする子がおってね。私も、時々気分が悪くなった。待合所に、背中をあおいでくれる女の人がおったんよ。お姉さんって呼ぶには大人で、おばちゃんって呼んだら叱られそうな人」
祐と裕子は顔を見合わせた。
「その人が、団扇であおぎながら、握り飯を半分くれた。塩が強くて、固くて、今思えばそんなにおいしいもんでもないんやけど」
初音は、店の奥の出汁鍋へ視線を向けた。
「高松へ来て、うどん屋に嫁いで、いりこで出汁を取るようになってから、たまにその塩の味を思い出した。お腹にやさしいもんを作りたいと思う時、なぜか、その固い握り飯が出てくる」
「その女性の名前を、覚えていらっしゃいますか」
祐が静かに聞くと、初音は首を傾げた。
「名前は知らん。けど、裁縫箱を持っとった。名札の糸がほつれた子がいたら、その場で縫ってくれた。手が早かったねえ。団扇であおぐ手も、針を持つ手も、同じくらい迷いがなかった」
裕子が小さく息を吸った。
文香の手に似ている、とは言わなかった。言えば、話が初音から文香へ移ってしまう。裕子は、それを飲み込んだ。
初音は名札へゆっくり手を伸ばし、触れる寸前で止めた。
「これは、もらって帰った方がええんかな」
「どちらでも大丈夫です」
祐は返却希望用紙を出した。
「現物を受け取る、待合所に保管する、写真だけ受け取る、一定期間だけ展示してから返却する、選べます」
「返すって、難しいねえ」
初音はそう言って、笑わなかった。
「私のもんやけど、私だけのもんでもない。あそこに置き忘れた子どもがおって、拾ってくれた誰かがおって、今まで捨てんと残してくれた場所がある」
裕子の鉛筆が、用紙の上で止まっている。祐は、急かさなかった。
初音は店の奥へ目を向けた。
「うどん、食べていきなさい」
「まだ記入が」
「食べながら考える」
裕子は一瞬、規則と空腹の間で迷った顔をした。祐は小さくうなずいた。
店の奥の若い男性が、小上がりへ盆を運んできた。白い器の中に、透き通った出汁が張っている。麺の上には、刻んだ葱と、薄い油揚げが一枚。湯気の中に、いりこの香りが立った。
「先に食べて。のびるけん」
初音が言った。
裕子は箸を持つ前に、深く頭を下げた。
「いただきます」
祐も続いた。
出汁は、思ったよりやさしい味だった。けれど薄いわけではない。舌の上に、海の底からゆっくり来るような旨みが残る。尾路町のじゃこ天のように笑って手を伸ばす味ではなく、船酔いした子の背中へそっと手を当てるような味だった。
裕子は一口食べ、目を伏せた。
「……おいしいです」
「それは、判断が緩んだ?」
初音がからかうと、裕子は箸を止めた。
「緩んでいません。おいしいものは、おいしいです」
初音はまた笑った。
「淡名島の待合所にも、何か温かいもんがあればええのにね」
祐は器を置いた。
「火を使うものは難しいです。建物が古く、管理者が常駐するわけではありません」
「そうやろね。じゃあ、出汁の取り方だけでも送ろうか」
「出汁の取り方、ですか」
「湯を沸かせとは言わんよ。家で作って魔法瓶に入れる日があってもええし、説明会の日に商店街の人が出すこともあるかもしれん。何より、誰かがお腹をさすっとる時に、何を渡せばええか考えるきっかけにはなるやろ」
初音は、名札をもう一度見た。
「固い握り飯をくれた人に、私はずっとお礼を言えてへん。その人が八重さんかどうかは知らん。でも、あの団扇と握り飯のことを、今の待合所に戻せるなら、少し戻したい」
裕子は、鉛筆を置いた。
「お話を、記録してもよろしいですか」
「ええよ」
「ただ、八重さんと断定せず、『裁縫箱を持った女性』として記載します」
「その方がええね。人の記憶は、湯気みたいなもんやから」
裕子は、すぐに「湯気では資料になりません」と言いそうな顔をした。けれど言わなかった。代わりに、用紙の隅へ小さく書いた。
裁縫箱を持った女性。団扇。固い握り飯。船酔い。
初音は、返却希望の欄に手を伸ばした。
「現物は、待合所に保管でお願いします。写真を一枚、店にください。あと、名札の説明に、私の名前は出してええ。ただ、最後の一文字が消えたことは、そのまま書いてほしい」
「なぜですか」
祐が聞くと、初音は名札の欠けた端を見た。
「途中で置いてきた子がおったことを、隠さんでええと思うから」
裕子は今度こそ、すぐには書かなかった。
聞いて、待って、それから書いた。
祐はその横で、裕子の鉛筆の音を聞いていた。以前の裕子なら、空白を嫌った。相手が迷えば、選択肢を先に並べ、早く形にしようとした。けれど今は、初音が選んだ言葉の長さを変えずに、用紙へ移している。
それは、黙るというより、器の中の麺を切らずに持ち上げるような動きだった。
昼の客が増え始めた。小上がりの外で、湯切りの音が強くなる。初音は立ち上がり、割烹着の袖をまくった。
「ちょっと店に戻るね。帰る前に待っとって」
祐たちは小上がりで待った。裕子は同意書を見直し、公開範囲の欄へ赤い印をつける。祐は名札を元の和紙に包み直した。
「遮らなかったですね」
祐が言うと、裕子は顔を上げなかった。
「ノート、閉じたでしょう」
「はい」
「見えたから」
それだけ言って、裕子は用紙を重ねた。
しばらくして、初音が戻ってきた。手には、店の便箋が数枚と、古い写真が一枚ある。写真には、小さな女の子が店の前に立っていた。まだ高松へ来て間もない頃だろう。胸の名札は新しい。文字は、はっきりと「川添初音」と読める。
「これは、店に飾っとる写真の写し。待合所に置くなら使ってええよ。高松へ来た後の私も、あの名札の続きやから」
「よろしいんですか」
「うん。ただ、写真は返してな。写しを送るから」
初音は便箋を裕子へ渡した。
「出汁の取り方、簡単に書いた。いりこは頭とはらわたを取る。けど、取る作業が面倒な日は、無理に作らんこと。疲れた人を助けるための出汁で、作る人が倒れたらあかん」
裕子は便箋を受け取り、すぐに読まず、封筒へ入れた。
「ありがとうございます。待合所で使う場合は、火気と衛生管理を確認してからにします」
「ほんまに真面目やねえ」
「はい」
裕子が堂々と返事をすると、初音はまた笑った。
店を出る時、初音は暖簾の外まで見送ってくれた。路地には昼の日差しが落ち、白い壁の反射がまぶしい。祐が一礼すると、初音は名札の包みへ向かって手を合わせるような形をした。
「置いてきたままで、ごめんね」
その言葉は、祐たちに向けたものではなかった。
裕子は、何も言わなかった。
駅へ戻る道で、祐は初音の便箋を持ち、裕子は名札の包みを抱えていた。港の近くまで来ると、海風が出てきた。さっきより少し強い。裕子の髪が頬にかかり、彼女は手の甲で払った。
「祐」
「はい」
「黙って聞くと、情報が増える」
「そうですね」
「腹立たしい」
祐は笑ってしまった。
「どうしてですか」
「私が言いたいことを我慢した分だけ、相手の言葉が出てくるから」
「いいことでは」
「いいことよ。だから腹立たしいの」
裕子は、港の手すりに少し寄った。海を渡る船が、白い線を引いて遠ざかっていく。
「私は、相手のために正しいことを言っているつもりで、相手が言おうとしていることを押し戻していたのかもしれない」
祐は返事を探した。慰める言葉も、肯定する言葉も、今は少し大きすぎる気がした。
裕子は、先に歩き出した。
「まあ、全部黙る気はないけど」
「それは、皆さん分かっています」
「分かっているならよろしい」
帰りの列車で、裕子は同意書をもう一度読み返した。初音の筆跡は、丸みがあって、最後のはねが強い。返却先は「淡名渡船待合所に保管」。写真希望あり。出汁の取り方は封筒で受領。公開範囲は、店名と氏名の公開可。ただし写真使用前確認。
祐は窓の外を見た。瀬戸内の海は、午後の光を受けて細かく揺れている。島影は近づいたり遠ざかったりしながら、線路の向こうに流れた。
名札を返すたび、待合所へ何かが戻ってくる。
名札そのものではないこともある。畳座布団。団扇の記憶。固い握り飯。出汁の取り方。言い残した謝罪。新しい学校の写真。
それらは、待合所の棚へきれいに並ぶものばかりではない。けれど、ひとつずつ受け取るたび、あの小さな建物は、ただ古いだけの場所ではなくなっていく。
尾路町へ戻ると、夕方の港は少し涼しかった。淡名渡船待合所の戸を開けると、文香が名札棚の前に座っていた。小さな扇風機が低い音を立て、壁の団扇がゆっくり揺れている。
裕子は鞄から名札を出す前に、手を洗った。文香はその動きを見て、紙包みのための布を広げる。
「どうだった」
「うどんが、おいしかった」
裕子がまっ先にそう言うと、文香は瞬きをした。
「名札は」
「保管希望。写真希望。氏名と店名は公開可。写真は使用前確認。あと、出汁の取り方を預かった」
文香の視線が、裕子の鞄へ移る。
「出汁」
「火を使う話じゃない。まだ。衛生管理もある。けど、説明会の日に商店街と相談する余地はある」
言い方はいつもの裕子だった。けれど、文香はその中に、初音の話を雑に扱わないための慎重さを聞いたのだろう。小さく「うん」と言った。
祐は初音の便箋を差し出した。
「裁縫箱を持った女性の話が出ました。八重さんと断定はしていません」
文香の手が、便箋の手前で止まった。
「団扇で、船酔いした子をあおいでいたそうです。固い握り飯を半分くれた、と」
文香は便箋を受け取った。封は開けない。今日は、開けなくていいと祐は思った。
裕子が名札を開く。文香は欠けた最後の一文字を見て、そっと息を吐いた。
「途中」
「はい」
「でも、続きがあったんだ」
文香は名札の横に、初音の新しい学校の写真の預かり記録を置いた。まだ写しではないので、展示はしない。記録だけを残す。
待合所の外で、壮翔の声がした。
「うどんの匂いがする!」
「しません」
裕子が戸口を振り返らずに言った。
「する! 俺の鼻は、この命に代えても——」
「代えなくていいから、靴の砂を落として入って」
壮翔は戸口で止まり、しぶしぶ足を払った。その後ろから、愛衣子と明純が顔を出す。二人とも、港の掃除から戻ったらしく、額に汗を浮かべていた。
「高松、どうでしたか」
愛衣子が聞く。
裕子は少し考え、初音の言葉を借りずに答えた。
「置いてきたものにも、続きがありました」
明純が首を傾げる。
「うどんの話ですか」
「名札の話よ」
「うどんもあるんですよね」
「あるけど、そこだけ拾わない」
文香が、封筒の端を指で押さえたまま、少し笑った。
祐は返却簿へ第十八件目の記録を書き入れた。
川添初音。高松。現物は淡名渡船待合所で保管。写真希望。出汁の取り方を預かり。船酔いした子を団扇であおいだ裁縫箱の女性の記憶あり。八重とは断定せず。
その最後に、初音の希望した一文を添える。
途中で置いてきた子どもがいたことを、そのまま残す。
書き終えると、祐は鉛筆を置いた。夕方の光が名札棚に差し込み、淡い布の端を照らしている。欠けた一文字は、戻ってこない。けれど、欠けたままの名札の横に、新しい学校の写真と、出汁の便箋と、今日黙って聞いた裕子の鉛筆の音が並ぶ。
高松の湯気は、尾路町の待合所へ届いた。
それは見えない。けれど、団扇の風のように、そこにいる人の頬を少しだけゆるめた。




