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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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17/45

第17話 明純、港を騒がせる

 雨のあと、尾路町の港は、いつもより音がよく通った。


 桟橋に当たる小波の音も、魚箱を積み替える軽トラックの唸りも、遠くの坂道で誰かが自転車のブレーキをきしませる音も、湿った空気に押し戻されず、淡名渡船待合所の薄い壁までまっすぐ届いてくる。


 祐は朝の交通案内所で、欠航明けの渡船時刻を赤鉛筆で直していた。昨日の雨で地面が滑りやすいこと、港の北側の階段に落ち葉が残っていること、島側の小型バスが一便だけ遅れること。それを一枚の紙にまとめ、待合所用の掲示として鞄へ入れる。


 掲示の余白には、昨夜書き始めた荒天時閉鎖基準案の一文がまだ残っていた。


 海が静かに見えても、船を出さない日がある。


 文字を見ていると、信清の帽子の縁が浮かんだ。文香が小さくうなずいた横顔も思い出す。待合所は、人を集めるだけの場所ではない。止める、閉める、待つ。その手順を持って初めて、開けることができる。


 祐が掲示を丸めたところで、案内所の引き戸が勢いよく開いた。


 「祐さん、今日、掃除です」


 明純が、朝からひどく晴れやかな顔で立っていた。肩から斜めに提げた布袋には、軍手、養生テープ、白い雑巾、古い手ぬぐい、名前を書いた紙片がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。袋の口から、竹ぼうきの柄まで出ていた。


 祐は、壁の時計を見た。七時四十分。


 「掃除というのは、待合所の掃除ですか」


 「はい。八時半集合です」


 「誰が」


 「商店街の若い人たちと、中学生と、壮翔さんと、愛衣子さんと、たぶん裕子さんも」


 「たぶん、ではなく」


 「裕子さんには、昨日の夜に連絡しました」


 「返事は」


 「『勝手に決めるな』でした」


 明純は、注意されたことを報告する顔ではなく、参加表明を受け取ったような顔で言った。祐は丸めた掲示を机に置き、深く息を吐く。


 「それは、参加ではありません」


 「でも、最後に『集合時間を書いた紙を寄こせ』と」


 「それは、叱るための資料を要求しています」


 明純はそこで少し考え、布袋の中から折りたたんだ紙を出した。紙には、太い黒ペンで大きく「淡名渡船待合所 朝の片づけ」と書かれている。下には、参加者名、持ち物、作業内容、休憩時間、水分補給、危険箇所、連絡先が並んでいた。


 祐は紙を受け取り、想像していたより細かい字に目を止める。


 掃き掃除。窓拭き。落ち葉集め。桟橋側の泥落とし。長椅子の乾拭き。使用禁止区域の確認。床下を覗きこまない。釘やガラス片を見つけたら拾わず祐か信清へ報告。小学生は桟橋へ出ない。休憩は九時十五分と十時。水は一人一本。熱がこもったら中止。


 最後に、少し斜めの字でこう書かれていた。


 騒ぎすぎたら漁師さんに謝る。


 祐はその一行を見て、思わず明純の顔を見た。


 「準備はしていますね」


 「はい。騒がせない自信は、あまりありません」


 「そこを一番先に言ってください」


 明純は笑った。笑うと、案内所の朝の空気まで軽くなる。祐は叱る言葉を一つ飲みこみ、かわりに紙の下へ赤鉛筆で追記した。


 作業前に、港の人へあいさつ。


 「これを足してください。港は仕事場です。待合所だけ見ていると、船を出す人、魚を運ぶ人、ロープを直す人の邪魔になります」


 「はい」


 明純は素直に紙を受け取り、布袋へしまった。その動きが早すぎて、竹ぼうきの柄が案内所の天井に当たり、ぽこん、と乾いた音を立てる。


 奥の机で伝票を書いていた案内所の年配職員が、眼鏡の上から明純を見た。


 「港へ行く前から騒がしいねえ」


 「すみません。港では静かに騒ぎます」


 「静かに掃除しなさい」


 祐が言うと、明純は「はい」と返事をした。返事だけは、いつも気持ちがいい。


 八時半前、待合所へ続く石畳には、もう十人以上の人が集まっていた。商店街の菓子店の息子、古道具屋の姪、魚屋の甥、尾路中学の生徒三人、港の食堂で手伝いをしている青年、そして愛衣子が、やや大きすぎる軍手をはめて立っている。


 壮翔は、なぜか宿の前掛け姿で長椅子を担いでいた。


 「その椅子はどこから」


 祐が聞くと、壮翔は額の汗を手の甲でぬぐった。


 「縁側寝床の廊下から。待合所の外で靴を履き替える時、座る場所が足りないと思って」


 「宿の備品を勝手に持ち出さないでください」


 「持ち出す前に、宿の主人に許可を取りました」


 「あなたですね」


 「はい。許可は早かった」


 裕子が商店街側から歩いてきた。白いシャツの袖を肘まで折り、手には厚紙の挟み板を持っている。紙面にはすでに参加者の名前が書かれ、遅刻、持参品、連絡済み、未連絡の欄がある。


 「明純」


 「はい」


 「勝手に人数を増やした件は、あとで三十分説教です」


 「短めでお願いします」


 「四十五分に増やします」


 明純は口を閉じた。


 裕子は祐へ挟み板を差し出す。


 「港の人へのあいさつは、今から回ります。信清さんには連絡済み。船長さんたちは九時前が忙しいから、作業区域を桟橋から離すように言われました」


 「ありがとうございます」


 「礼はいいです。今日、誰かが海に落ちたら、私はあなたと明純を両方怒ります」


 「怒られるだけで済ませます」


 「済みません」


 短く切られ、祐はうなずいた。


 文香は少し遅れて来た。潮紙堂の作業着に、薄い生成りの前掛けを重ね、髪を後ろでひとつに結んでいる。手には小さな木箱を抱えていた。中には柔らかい刷毛、綿手袋、油紙、小さなピンセット、布を押さえる重しが入っている。


 「名札棚は、私がやる」


 それだけ言うと、待合所の戸へ向かった。


 明純が「文香さん、おはようございます」と大きめに声をかける。文香は振り向かずに「おはよう」と返した。その返事が聞こえた中学生の一人が、ほっとしたように笑う。文香が短く返すだけで、なぜか場が落ち着くことがある。


 祐は全員を集め、作業の説明をした。桟橋へ出ないこと。床下へ入らないこと。釘、ガラス片、虫の巣を見つけたら触らないこと。名札棚、標本箱、団扇は文香が見ること。重い物は壮翔と祐が動かすこと。港の仕事の邪魔になりそうな時は、すぐ道を空けること。


 明純が横で、何度も大きくうなずいている。


 説明が終わる前に、尾路中学の生徒が手を挙げた。


 「床下から宝物が出たら、誰のものですか」


 裕子が即座に答えた。


 「宝物という言葉を使うと、だいたい面倒になります。見つけた物は全部、祐さんの記録表に書き、待合所で預かるか、持ち主を調べます」


 「じゃあ、百円玉は」


 「落とし物です」


 「古い百円玉は」


 「落とし物です」


 「すごく古い百円玉は」


 「しつこいです」


 笑いが起きた。漁師の一人がロープを肩に担いで通りかかり、こちらを見る。明純がすぐに頭を下げた。


 「おはようございます。今日は待合所の掃除をします。桟橋には出ません」


 漁師は片眉を上げた。


 「ほんまか」


 「出ません」


 「騒ぐなよ」


 「少しだけ」


 裕子の挟み板が、明純の背中を軽く叩いた。


 「騒ぎません」


 「騒ぎません」


 明純が言い直すと、漁師は鼻で笑い、ロープを抱えて船のほうへ歩いた。


 掃除は、最初だけ静かだった。


 窓を開けると、湿った木の匂いが一気に外へ抜けた。昨日の雨で床板の継ぎ目には細かい砂が入り、長椅子の脚元には落ち葉が寄っている。壁の古い掲示板には、閉鎖予定の貼り紙を剥がした跡が薄く残っていた。天井の隅には蜘蛛の巣があり、風が通るたびに細く揺れる。


 愛衣子は、ほうきを持つ中学生へ、床を強くこすらないよう声をかけていた。以前なら自分が先に走ってやってしまいそうな場面で、今日は相手の動きを見てから「こっちから掃くと、名札棚に埃が行かないよ」と言う。言葉は少しぎこちないが、相手は素直に向きを変えた。


 壮翔は外に置いた椅子の高さを調整していた。石畳のわずかな傾きで椅子ががたつくたび、足元に板切れを差し込む。厚かましく椅子を持ち込んだわりに、座る人の膝の角度だけは細かい。


 「この椅子、ここに置くと、船を待つ人が海ばかり見てしまう」


 「海を見る場所です」


 祐が言うと、壮翔は首を横に振った。


 「海だけ見ていると、船が来ない時に腹が立つ。少しだけ待合所の中が見える角度がいいんです。人がいると、待てる」


 祐は椅子の向きを見た。たしかに、そこへ座ると、海と待合所の戸口が半分ずつ視界に入る。


 「では、その角度で」


 「でしょう。座り心地は、人生の半分です」


 「残り半分は」


 「じゃこ天です」


 近くで聞いていた裕子が、何も言わずに挟み板を上げた。壮翔はすぐに椅子の脚へ戻った。


 文香は名札棚の前で、綿手袋をはめていた。棚の引き戸を少しずつ開け、湿気がこもっていないか確かめる。油紙で包んだ名札を一枚取り出し、布の端を刷毛で軽く払う。名札の字は、強く触れば消えそうに薄い。けれど文香の手は、紙の上に落ちた羽を拾うように静かだった。


 明純は外と中を行ったり来たりしていた。雑巾が足りないと聞けば商店街へ走り、飲み水の箱が重いと見れば二人を呼び、通りかかった観光客に「今日は掃除中です」と案内する。声は明るい。明るすぎて、港の端まで届く。


 「はい、次、泥落とし組はこちらです。靴の裏、けっこう砂が入ってます。中へ入る人は一度ここで足を止めてください。あ、船の荷物を運ぶ方が通ります、道を空けてくださーい」


 尾路中学の生徒たちが、明純の声につられて動く。商店街の若者たちも、自然に手分けを始める。祐はその様子を見て、明純の力を改めて感じた。声をかけると、人が集まる。集まった人が、自分の動きを少し前向きに変える。


 ただし、港は前向きな声だけで動く場所ではなかった。


 九時すぎ、魚箱を積んだ台車が石畳を通ろうとした時、中学生の一人が泥落としの桶を道の真ん中へ置いた。明純が「持ち上げて」と叫び、別の子が慌てて動かした拍子に、水がはねる。魚箱を押していた漁師のズボンの裾に、泥水が飛んだ。


 空気が一瞬で固まった。


 「おい」


 漁師の声は大きくなかった。けれど港の音が、そこで少し止まったように感じられた。


 明純がすぐ頭を下げる。


 「すみません。道をふさぎました」


 「掃除しとるんか、散らかしとるんか、どっちなんや」


 「掃除です。散らかしました」


 「言い直さんでええ」


 漁師は眉間にしわを寄せたまま、台車を止めた。祐も近づき、桶を端へ寄せた。


 「申し訳ありません。作業区域を広げすぎました。ここから桟橋側の通路は空けます」


 裕子は挟み板にすばやく線を引き、作業場所を三つに分けた。


 「泥落としは待合所の山側。水桶は壁沿い。通路に物を置いた人は、私が名前を書きます」


 「怖いです」


 中学生が小さく言うと、裕子は顔を上げた。


 「怖くていいです。海へ落ちるよりましです」


 その言い方は鋭かったが、誰も笑わなかった。生徒たちは桶を持ち直し、商店街の青年が濡れた石畳を拭いた。明純は漁師の裾を見て、もう一度頭を下げる。


 「あとで、食堂へ替えの手ぬぐいを持っていきます」


 「いらん。次から先に通路を見い」


 「はい」


 漁師は台車を押していった。魚箱の氷が小さく鳴り、港の音が戻る。


 明純の顔から、いつもの勢いが少し引いていた。祐は声をかけようとしたが、その前に愛衣子が近づいた。


 「今の、記録したほうがいいと思う」


 「失敗を?」


 「うん。次に同じことをしないように」


 明純は一度だけ口を曲げたが、すぐ布袋から紙を出した。


 通路に桶を置かない。魚箱、ロープ、台車が通る道を先に確認。港の仕事の人が通る時は声を止める。


 愛衣子は横から「声を止める」を指差した。


 「そこ、大事」


 「はい」


 明純は素直にうなずいた。さっきまで場を動かしていた声が、今は紙の上で細くなっている。それを見て、祐は声をかけずにおいた。失敗の直後、すぐ励ますことが相手のためになるとは限らない。自分で線を引く時間が必要な日もある。


 待合所の中では、文香が標本箱の下の床板を見ていた。


 「祐さん」


 短く呼ばれ、祐は中へ入った。文香の足元、長椅子をどかした下に、古い金具が半分だけ見えている。錆びているが、形はしっかりしていた。床板の隙間に入り込み、昨日の雨で浮いた砂の下から出てきたらしい。


 「触らないほうがいいですか」


 「うん。外すなら、信清さんか業者さん」


 祐はしゃがんで、金具の位置をノートに描いた。待合所の壁に残る画びょう跡、標本箱の幅、金具の高さ。天井裏から出てきた団扇の地図から推測した名札台の位置とも近い。


 文香は標本箱の底を見上げるようにして言った。


 「ここ、前は固定していたと思う」


 「標本箱を?」


 「たぶん。揺れても落ちないように」


 祐は壁の色の違う部分を見た。そこだけ日焼けの跡が四角く薄い。今の標本箱より少し大きいものが、長く掛けられていたように見える。


 外から壮翔が顔を出した。


 「宝物ですか」


 「金具です」


 「金具も宝物に入ります」


 裕子が外から声を飛ばした。


 「入りません。記録物です」


 「夢がない」


 「予算表に夢の欄はありません」


 壮翔は肩をすくめながらも、工具箱を持ってきた。ただし、文香が「まだ」と言うと、すぐ手を引っ込めた。騒がしいのに、文香の短い一語はちゃんと聞く。そのあたりが、壮翔の不思議なところだった。


 信清は九時半を過ぎてから現れた。船着き場での作業を終え、手を洗ったばかりらしく、指先にまだ水が光っている。祐のノートを見ると、黙って金具の周りを確かめた。


 「床板を外すなら、今日はやめとこう。人が多い」


 「危ないですか」


 「見つけた時ほど、触りたくなる。触りたくなる時ほど、危ない」


 信清はそう言い、金具の周りに養生テープで小さな四角を作った。


 「ここから先は、大人だけ。大人も勝手に触らん」


 尾路中学の生徒が、遠くから残念そうに見ていた。信清はその視線に気づくと、少しだけ声をやわらげた。


 「見つけた子は、よう見つけた。それは手柄や。外すのは別の日や」


 生徒の顔が明るくなった。


 明純が、そのやり取りを見ていた。さっき漁師に叱られたせいか、声を出す前に一拍置くようになっている。


 「見つけた人の名前、記録表に書いていいですか。展示には出さず、作業記録だけ」


 祐はうなずいた。


 「本人に確認してから。名字だけでもいいです」


 「はい」


 明純は生徒のところへ行き、しゃがんで話しかけた。いつもなら立ったまま、上から明るい声を落としていたかもしれない。今日は目線を合わせている。


 その背中を、文香が少しだけ見た。


 「変わった」


 「誰がですか」


 「明純」


 祐も同じほうを見た。


 「叱られたばかりですから」


 「それだけじゃない」


 文香は金具へ視線を戻した。


 「声を置く場所を、探してる」


 祐はその言葉をノートの端に書きたかったが、やめた。文香の言葉は、記録にすると薄くなることがある。


 十時の休憩で、待合所の外に水の箱が並んだ。壮翔が宿から持ってきた椅子に、年配の商店主が腰を下ろす。中学生たちは石段に座り、額の汗を手ぬぐいで拭いた。裕子は人数を確認しながら、水を飲んでいない人を見つけて紙コップを渡す。


 「休憩を取らない人は、次から参加禁止です」


 「裕子さんも飲んでません」


 愛衣子が言うと、裕子は一瞬黙り、紙コップを受け取った。


 「……今、飲みます」


 壮翔が小さく拍手したので、裕子は冷たい目を向けた。


 明純は、水の箱の横で漁師たちの通路を見ていた。誰かが道へ荷物を置きそうになると、先に手を出して端へ寄せる。声は小さくなったが、動きは鈍っていない。


 祐はその横へ立った。


 「疲れましたか」


 「少し」


 「人を集めるのは、疲れます」


 「集めるだけなら、楽しいです」


 「今日は、そのあとがありましたね」


 明純はうなずいた。


 「港って、空いている場所に見えるんです。でも、空いているように見えるところにも、通る人がいるんですね。船のロープとか、魚箱とか、台車とか。僕、待合所しか見てませんでした」


 祐は海を見た。朝より潮が少し引き、桟橋の柱の濡れた跡が見える。


 「待合所を開けるなら、待合所の外も見ないといけません」


 「はい」


 「明純さんの声で、人は動きます。だから、どこへ動かすかが大事になります」


 明純は紙コップを両手で持ったまま、少し口を結んだ。


 「騒がせるの、得意なんですけど」


 「知っています」


 「静かにするのは、難しいです」


 「静かにし続ける必要はありません。必要な時に、必要な大きさで声を置ければいいんです」


 明純は祐を見た。


 「それ、文香さんみたいですね」


 祐は待合所の中を見た。文香は名札棚の前で、油紙を一枚ずつ整えている。短い返事だけで、棚の前の空気が静かになる。


 「たぶん、そうです」


 明純は紙コップの水を飲み干し、息をついた。


 「今日、謝りに行きます。さっきの漁師さんに」


 「今ではなく」


 「はい。仕事が落ち着いた頃に。食堂の人に時間を聞いてから」


 祐はうなずいた。明純が、先に相手の時間を見ると言った。それだけで今日の掃除には意味があった。


 休憩の後、作業は少し静かになった。誰かが笑うたび、明純が通路を見てから笑い返す。中学生がほうきを振り回しそうになると、愛衣子が「床に近く」と言って手首の角度を直す。壮翔は椅子の位置を三回変えたが、四回目で裕子に「固定」と書いた紙を貼られた。


 文香は金具の周りへ小さな紙を置いた。


 標本箱固定金具と思われるもの。七月下旬確認。取り外し保留。


 祐はそれを見て、名札と同じだと思った。見つけたからといって、すぐ動かさない。持ち主が分からないものは、まずそこにあった時間を守る。金具も、標本箱も、名札台の脚も、待合所のどこかに残った手の跡だった。


 昼前、掃除は終わった。窓は少し明るくなり、長椅子の下の砂は消え、床板の木目が見えるようになった。名札棚の油紙は新しく整い、団扇は紐をゆるく通されて壁に掛け直された。外の椅子は、海と待合所の戸口が半分ずつ見える角度で置かれている。


 裕子は参加者を集め、今日の作業結果を読み上げた。


 「掃き掃除完了。窓拭き完了。泥落とし位置変更。通路確保。標本箱固定金具を発見。触らない。名札棚の湿気確認。水分補給二回。港の人へのあいさつ、最初は不足。途中から改善」


 明純が背筋を伸ばした。


 「すみませんでした」


 「謝る相手は私だけではありません。あとで行きます」


 「はい」


 中学生の一人が手を挙げた。


 「また掃除してもいいですか」


 裕子はすぐには答えなかった。祐を見る。祐は文香を見た。文香は名札棚の引き戸を閉め、鍵をかけてから言った。


 「手順があれば」


 それが返事だった。


 明純は小さく笑った。いつものように大きく喜びを撒き散らすのではなく、手元の紙に「次回は手順を先に渡す」と書いた。


 解散後、祐、明純、裕子は食堂の裏手へ向かった。さっき泥水をかけた漁師は、魚箱を洗い終え、長靴を脱いでいるところだった。明純は少し離れた場所で足を止め、相手がこちらに気づくまで待った。


 「なんや」


 「朝は、すみませんでした。通路を先に見ていませんでした」


 明純は手ぬぐいを差し出した。新品ではないが、きれいに畳まれている。


 「替えはいらんと言うた」


 「はい。これは、食堂の人から、魚箱を拭く用なら置いていけと言われました」


 漁師はしばらく明純を見た。それから、手ぬぐいを受け取らず、顎で食堂の軒下を示した。


 「そこ置いとけ」


 「はい」


 「次にやる時は、先に言いに来い。何時から何時まで、どこを空けるか。こっちも荷の時間がある」


 「はい。紙にして持ってきます」


 「声は、もうちょい小さくても聞こえる」


 「はい」


 明純はそこで笑いそうになり、こらえた。祐はその横顔を見て、明純が今、自分の声を手で押さえているように感じた。


 帰り道、裕子は挟み板を閉じた。


 「四十五分の説教は、十五分に短縮します」


 「ありがとうございます」


 「ただし、反省文ではなく、次回作業手順を書いてください」


 「はい」


 「港の人へ渡す版と、参加者へ渡す版を分けること」


 「はい」


 「あと、題名に『朝の片づけ』とだけ書くと軽く見えます。『淡名渡船待合所 清掃作業と通路確保』にしてください」


 「長いです」


 「長くていいです。何をするか分かります」


 明純は布袋から紙を出し、その題名を書き写した。字は少し曲がっているが、朝より丁寧だった。


 待合所へ戻ると、文香が標本箱の前に立っていた。金具の周りには養生テープが貼られ、小さな紙札が置かれている。その横で、壮翔が外の椅子に座り、海と戸口を交互に見ていた。


 「この角度、いいでしょう」


 壮翔が言う。


 「はい」


 明純が答えた。


 「海も見えるし、人が通るのも見えます」


 「分かってきたじゃないですか」


 「壮翔さんが言うと、少し腹が立ちます」


 「成長です」


 裕子が横から言った。


 「二人とも、椅子の脚を拭いてから中へ戻してください」


 壮翔と明純は同時に「はい」と返事をした。返事の大きさは、少しだけ違った。壮翔はいつも通り。明純は港の通路へ響かない程度。


 祐は待合所の中へ入り、今日の記録をノートにまとめた。


 七月下旬。清掃作業。参加者十四名。港の通路確保に不足あり、途中で作業区域を修正。標本箱固定金具らしきものを発見。取り外し保留。名札棚湿気なし。次回から、港関係者への事前説明を必須とする。


 最後に、明純の欄を作った。


 人を集める力あり。声の大きさ、場所、時間の調整が必要。失敗後、相手の仕事が落ち着く時間を確認して謝罪。次回手順書を作成予定。


 文香が横から覗き込んだ。


 「褒めてる?」


 「事実を書いています」


 「少し褒めてる」


 「少しです」


 文香は、それでいいというようにうなずいた。


 外では、明純が椅子の脚を拭きながら、中学生に話している。


 「次に来る時は、先に港の人へあいさつして、通る道を空けて、それから掃除。見つけた物は触らない。声は、届けばいい。大きければいいわけじゃない」


 中学生が「先生みたい」と言うと、明純は慌てて首を振った。


 「先生じゃない。今日、怒られた人」


 その言い方に、祐は笑った。明純も笑った。今度の笑い声は、港全体を騒がせるほどではない。けれど待合所の中には、ちゃんと届いた。


 夕方、祐が帰り支度をしていると、文香が金具の前にしゃがんでいた。西日が床板の隙間を照らし、錆びた金具の縁が少しだけ赤く見える。


 「これが、標本箱を支えていたなら」


 祐はそばに立った。


 「はい」


 「八重が置いた箱を、誰かが落ちないようにしてくれていた」


 「その可能性があります」


 文香は金具に触れなかった。ただ、床板の少し手前に指を置いた。


 「見えないところで、支えてたんだ」


 その言葉が、金具だけの話ではないことを、祐は感じた。名札台の脚。標本箱の金具。港の通路。掃除の手順。怒ってくれる漁師。水を配る裕子。声を小さくする明純。どれも、待合所を見える形で飾るものではない。けれど、それがなければ人は安全に集まれない。


 外で、明純が最後の水箱を商店街へ運んでいる。途中で漁師の台車が来るのに気づき、すぐ端へ寄った。台車を押す漁師が、何も言わずに片手を上げる。明純も、声を出さずに頭を下げた。


 文香がそれを見て、小さく言った。


 「今日は、あまり騒がせてない」


 「朝は、かなり騒がせました」


 「でも、帰りは静か」


 祐はうなずいた。


 淡名渡船待合所の窓から、夕方の港が見える。魚箱の水が流れた石畳は乾き始め、船のロープは低く鳴り、外の椅子は海と戸口を半分ずつ見ている。名札棚の中には、湿気を逃した淡い布が眠り、標本箱の下には古い金具が、次の手順を待っている。


 人を集める声は、今日、港に叱られた。


 叱られた声は、帰る頃には、必要な場所へ必要な分だけ届く声になろうとしていた。


 祐はノートを閉じ、待合所の戸を引いた。木の戸は、昨日より軽く動いた。掃除をしたからか、風の通りがよくなったからか、それとも、この場所を見る目が少し増えたからか。


 鍵をかける前、明純が振り返った。


 「祐さん、次はちゃんと紙を先に持ってきます」


 「お願いします」


 「あと、港の人に、先に聞きます」


 「それがいいです」


 「声は」


 明純は少し迷って、笑った。


 「届くくらいで」


 祐はうなずいた。


 海からの風が、壁に掛け直された団扇をかすかに揺らした。騒がしかった一日の終わりに、その音だけが、待合所の中で小さく鳴った。



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