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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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16/45

第16話 信清の潮目

 朝の案内所には、海から来る湿った風が先に入っていた。


 祐が引き戸を開けた時、カウンターの上の紙は、夜のうちに誰かが息を吹きかけたように、端だけ少し反っていた。窓の外の空は青いのに、遠くの雲の底が濃い灰色をしている。淡名島へ向かう一便目はいつも通り出たが、戻ってきた船の音は普段より低く、岸壁に近づく直前だけ、エンジンが一度唸った。


 祐は時刻表を直しながら、電話の横に置いた赤い鉛筆を見た。


 欠航の連絡は、観光案内の中で一番説明が難しい。船が出ないという事実より、出ない間にどこで待つか、どこへ連絡すればいいか、いつ諦めればいいかを決める方が、人を疲れさせる。以前の祐なら、乗り継ぎ表の空白を埋めることばかり考えただろう。今は、淡名渡船待合所の長椅子に座る人の膝の上まで、頭の中で見えるようになっていた。


 電話が鳴った。


 「はい、尾路町交通案内所です」


 受話器の向こうで、短く波の音がした。続いて、信清の低い声が入る。


 「祐か。昼前から荒れる」


 「欠航ですか」


 「まだ決まっとらん。けど、決まってから貼る紙じゃ遅い。港へ来い」


 その言い方は、急いでいるのに、慌ててはいなかった。祐は赤い鉛筆を胸ポケットへ入れ、壁の鍵を取った。案内所の外へ出ると、商店街の幟が同じ方向へ倒れるようになびいている。風はまだ人の帽子を飛ばすほどではない。けれど、軒先の風鈴が、鳴るというより、細く擦れるような音を立てていた。


 淡名渡船待合所へ着くと、入口の戸は半分だけ開いていた。


 中では、文香が名札棚の下に薄い油紙を敷いていた。指先で油紙の角を押さえ、棚板との間に空気が入らないよう、ゆっくり撫でる。机の上には、修繕中の名札が三枚、透明な袋へ入れられて並んでいた。


 「濡れる前に」


 文香は顔を上げずに言った。


 「まだ雨は降っていません」


 「降ってからだと、手が濡れる」


 その短さが、今日の空に合っていた。


 長椅子の側では、壮翔が脚立に片足をかけ、窓の上に古い葦簀を括りつけようとしていた。結び方が雑で、風が吹くたびに葦簀が壁を叩く。


 「祐、こっち押さえて。いや、命綱の方。いや、俺の方でもいい」


 「降りてください。今、その高さでふざける天気じゃないです」


 「ふざけてない。待合所の涼と安全と俺の評判を守っている」


 入口に立っていた裕子が、手にしたクリップボードで壁を一度叩いた。


 「評判は守るほど残っていません。脚立を畳んでください。風で倒れたら、修繕費の欄にあなたの名前を書きます」


 壮翔は大げさに胸を押さえたが、文香が無言で脚立の足元へ視線を落とすと、すぐに降りた。文香の視線は、時々、裕子の赤ペンより効く。


 祐は机の上に白紙を広げた。そこへ信清が入ってくる。手には海図ではなく、使い込んだ潮位表と、折り目のついた天気図があった。帽子の縁に、小さな水滴がついている。雨ではない。波しぶきだ。


 「一便目は出た。二便目は船長が迷っとる。風は南東。潮は昼に満ちる。満ち潮にこの風が重なると、桟橋の横へ波が入る」


 信清は紙に、港と島と桟橋を簡単な線で描いた。祐はその横に時刻を書き込む。


 「十一時までは様子見。十一時半に再判断。十二時以降は、欠航の可能性高い」


 「可能性、で貼れますか」


 「貼るんじゃない。言う。紙は紙で、耳には入らん人がおる」


 信清は鉛筆を置き、待合所の戸口から外を見た。小さな漁船が一艘、船首を揺らして岸へ戻ってくる。港の水面には、まだ白い波頭は立っていない。ただ、普段は横へ流れる波紋が、今は斜めから押されて、細かく折れていた。


 「潮目が変わっとる」


 明純が、掃除用のバケツを持ったまま首を傾げた。


 「潮目って、どこですか。線、見えます?」


 「見える時もある。見えん時の方が、怖い」


 「見えないのに、どうして分かるんですか」


 信清は答える前に、港の向こうへ少し顎を上げた。


 「船の腹が、さっきより横へ逃げとる。ロープが鳴る。鳥が低い。風鈴が鳴らんで擦れる。見えるもんだけ見とったら、間に合わん」


 明純は自分の持っているバケツを見た。水面が小さく震えている。彼はそれを床に置き、いつもの調子で笑おうとして、やめた。


 十時を過ぎる頃には、待合所に人が増え始めた。


 淡名島から病院帰りの老夫婦が戻り、島へ渡る予定の旅行者が二組、商店街で買った紙袋を抱えた母子が一組、長椅子に座った。仮開放はまだ先だが、今日は作業のために戸を開けている。祐は一人ずつ行き先と急ぎ具合を聞き、裕子は横で「個人情報を書かない聞き取り票」を広げる。名前は尋ねず、島へ渡る理由も深く聞かない。ただ、今日中でなければ困ること、明日へ回せること、連絡先を持っているかどうかだけを確認する。


 文香は名札棚の戸を閉め、桐箱を少し奥へ移した。油紙を敷いた棚の上に、さらに薄い布をかける。湿気は、目に見えないうちに布へ入る。文香の手は、誰かに話しかけられても止まらなかった。


 壮翔は宿から持ってきた毛布を長椅子の端へ積み上げていた。


 「夏に毛布って、暑苦しくないか」


 明純が言うと、壮翔は毛布の一枚を肩にかけ、眉を上げた。


 「濡れたら夏でも冷える。あと、毛布がある場所は、なんとなく人が落ち着く。旅館の法則」


 「縁側寝床は宿ですよね」


 「宿にも法則はある」


 その毛布の上に、裕子が紙を一枚置いた。


 「使用後洗濯。持ち出し禁止。管理者は壮翔さん」


 「俺の名前が、やっと役立つ欄に」


 「紛失時弁償の欄でもあります」


 長椅子の母子が小さく笑った。笑いはすぐに風の音に混ざったが、待合所の空気が少しやわらいだ。


 十一時前、二便目が着いた。


 船から降りてきた人たちは、口数が少なかった。波が大きかったわけではない。ただ、桟橋に足を置く時、皆が一度、手すりを強く握った。船長は信清と短く話し、二人で海を見た。祐は近づかず、待った。船長の肩が少し上下している。荒れた海を渡ってきた体の疲れは、陸に上がってから遅れて出る。


 やがて、信清が戻ってきた。


 「次、止める」


 待合所の中で、空気が一段低くなった。


 祐はすぐに紙を取った。


 「十一時三十分以降、淡名渡船は天候確認のため運航見合わせ。再開判断は十三時。島へ渡る方は、待合所または案内所でお待ちください。荒天時は待合所を閉め、商店街集会室へ移動」


 「十三時でいいですか」


 裕子が確認する。


 「十三時に、出るか決めるんじゃない。出さない確認になるかもしれん」


 信清はそう言った。


 祐は文を少し変えた。


 「十三時に次の案内を出します」


 裕子がうなずき、明純へ紙を渡す。


 「港の掲示板。濡れない場所。文字が斜めになったら貼り直し」


 「はい」


 明純はいつもなら走るところを、今日は戸口で一度止まり、風を見てから外へ出た。バケツの水を見てから、彼の足は少しだけ慎重になっている。


 欠航の案内を聞いた旅行者の一人が、強い声を出した。


 「困ります。島の宿を取っているんです。今日行けないと、向こうも迷惑でしょう」


 祐は近づいた。


 「宿へはこちらから連絡します。今は再開判断まで、こちらでお待ちください」


 「待つって、いつまでですか。少し波があるだけに見えますけど」


 男性は港の方を指した。白い波はまだ少ない。遠くから来た人には、荒れているように見えないのだろう。祐は、どう説明すればいいか一瞬迷った。数字を出せば伝わる人もいる。けれど、数字は見えない海の怖さを隠すこともある。


 信清が祐の横へ立った。


 「少しに見える時に、止めます」


 男性は信清を見た。濡れた帽子、日に焼けた頬、何も飾らない声。その前で、先ほどの勢いが少しだけ揺らいだ。


 「でも、船長さんが行けるって言えば」


 「船長が行けると言う前に、止める人間が要る」


 「責任は、こちらで」


 「あなたの責任だけじゃ済まん。船長も乗る。綱を取る人間もおる。待っとる宿も、無理に来た客を迎えたら気を遣う。今動けば、あなた一人の用事が、何人もの危ない用事になる」


 待合所の中が静かになった。


 男性は口を開きかけて、閉じた。文香がその前に湯のみを置く。中身は冷たい麦茶だった。男性は礼も言わずに手を伸ばし、一口飲んだ。その横で、母子の子どもが小さな声で「船長さんも乗るんだ」と母に言った。


 信清はもう男性を責めなかった。海へ向き直り、時刻だけを祐に告げる。


 「十二時までに、島の宿へ連絡。十三時の案内で、今日の最終判断を出す準備」


 「はい」


 祐は電話番号を探した。裕子が旅行者から宿名だけを聞き、名前は本人が伝えるよう紙に書く。愛衣子が案内所から戻ってきて、商店街集会室の鍵を借りられるか確認に走った。壮翔は毛布を抱え、入口の床に溜まり始めた砂を掃く。文香は名札棚の鍵を確認し、標本箱の上に、古い紙を一枚置いた。


 蝶の説明札を湿気から守るためだ。


 昼過ぎ、雨が来た。


 最初は、誰かが水を撒いたように石畳の色が変わった。次の瞬間、港の向こうが白く煙った。待合所の窓へ、斜めに雨が当たり、古い木の枠が細かく鳴る。祐は窓際の資料を下げ、裕子は入口の紙を内側へ移した。明純が掲示板から戻り、髪を額に貼りつかせている。


 「貼れました。文字、まっすぐです」


 「自慢する前に拭いてください」


 裕子がタオルを投げた。明純は受け損ね、タオルを顔で止めた。母子の子どもが笑い、明純は濡れたまま小さく頭を下げた。


 十三時、信清は戸を開けずに、窓の隙間から港を見た。船長からの電話は短かった。祐は受話器を置いた信清の顔を見る。信清は首を横に振った。


 「今日は、止める」


 祐は赤い鉛筆を取った。今日中の運航再開なし。島へ渡る予定の人には宿と連絡。島から本土へ戻れない人には、島側の待機場所を案内。待合所は十五時で閉め、風雨が強まる場合は十四時に閉鎖。商店街集会室を臨時待機先にする。


 それは、誰かの希望を断つ紙だった。


 だから、祐は文字を大きくしすぎなかった。けれど、読めないほど小さくもしなかった。


 旅行者の男性は紙を見たあと、肩を落とした。


 「宿に、電話できますか」


 「こちらで番号をお調べします。ご本人から話してください。必要なら、運航見合わせの説明は代わります」


 祐がそう言うと、男性は一度だけうなずいた。受話器を持つ手は強く握られていたが、声は先ほどより低くなっていた。


 待合所の中では、それぞれが自分の困りごとを抱えて座っていた。病院帰りの老夫婦は薬の袋を確認し、母子は弁当を半分ずつ食べ、島へ帰れない若い女性は、仕事先へ何度も頭を下げていた。風の音は、誰かの溜息をさらっていくほど大きくなっている。


 文香は机の端で、濡れた傘から落ちた水が名札棚へ向かわないよう、古い新聞紙を折って小さな堤を作った。紙修繕店の店主らしい、静かな防波堤だった。壮翔はそれを見て、宿の玄関にも使えると感心し、文香に新聞紙を一部だけ渡される。


 「一部だけ?」


 「全部持っていくから」


 「信頼が浅瀬」


 「濡れたら沈む」


 祐は思わず笑った。笑ったあとで、待合所の中の人たちも少し息を吐いたのが分かった。安全の話は固くなる。固くなると、人は不安を声に出せなくなる。壮翔のくだらない一言は、時々、その固さを少しだけ割る。


 十四時前、風がさらに強くなった。


 信清は外へ出て、桟橋のロープを見た。すぐ戻ってきて、戸を閉める。


 「閉めるぞ」


 「十五時ではなく?」


 裕子が確認する。


 「十四時。今なら濡れるだけで動ける。十五時は、飛ぶもんが出る」


 祐はうなずいた。


 待合所を閉める判断は、思ったより胸に重かった。ここを人のために開きたいと言ってきた。名札を守り、座る理由を増やしたいと話してきた。その場所を、今、自分たちの手で閉める。


 けれど、信清は迷わなかった。


 「開けるために、閉める日が要る」


 その言葉で、祐の胸の中の結び目が少し緩んだ。


 明純と愛衣子が、待機していた人たちを商店街集会室へ案内する。裕子は人数を数え、祐は島側の宿へ最後の連絡を入れる。壮翔は毛布を濡れない袋へ入れ、文香は名札棚の鍵を二度確認した。標本箱には布がかけられ、白い紙札の箱は机の下へ移された。


 最後に残ったのは、祐と信清だった。


 雨は戸の外で横へ走っている。淡名島は、灰色の幕の向こうに輪郭だけを残していた。船は出ない。人は待つ。待つ場所も、風が危ない時には動かさなければならない。


 信清は長椅子に腰を下ろした。閉める前の短い時間だけ、彼の肩から力が抜けた。


 「昔、一度だけ、無理をした」


 祐は入口の鍵を手にしたまま、信清の横へ立った。


 「船で、ですか」


 「若い頃じゃ。客が急いどった。病院へ行きたい言うてな。天気は今日より悪うなかった。わしは行けると思った。船長は止めた。わしは、なぜ止めるんか分からんかった」


 信清は濡れた帽子を膝の上に置いた。


 「結局、その客は次の日に渡った。病院も間に合った。けど、その日の午後、同じ潮で別の漁船がひっくり返りかけた。船長は、それを読んどったんじゃろうな。わしは波だけ見て、潮を見とらんかった」


 祐は何も言わなかった。


 「人を信じるいうのは、行けと言われた時に行くことじゃない。止める人間を信じることも、入る。止められる人間になることも、入る」


 信清は立ち上がり、戸の外を見た。


 「祐。待合所を残すなら、開ける理由より、閉める理由を先に持て。怒られても、残念がられても、閉める。そうせんと、ここは名前を預かる前に、人の足を危ない方へ向ける」


 祐は赤い鉛筆を取り出し、紙の端に書いた。


 開ける理由より、閉める理由。


 信清はそれを見て、少しだけ口元を動かした。


 「そのまま資料に入れるな。裕子に怒られる」


 「言葉は整えます」


 「意味は残せ」


 祐はうなずいた。


 二人で待合所を出た。文香は外で、鍵袋を持って待っていた。雨具の袖が濡れ、髪の先から水が落ちている。それでも名札棚の鍵袋だけは、胸元の内側へ入れて濡らしていなかった。


 「閉めた?」


 「閉めます」


 祐は鍵を回した。古い錠が、雨の中で鈍い音を立てる。文香はその音を聞いてから、鍵袋を受け取った。指先が少し冷えている。


 「開けるために、閉める日が要るそうです」


 祐が言うと、文香は信清を見た。


 「潮が、悪い?」


 「悪いんじゃない。今日の潮なだけじゃ」


 信清はそう答えた。


 文香は少し考え、うなずいた。


 「名札も、同じです」


 「同じ?」


 「見せる日と、しまう日がある」


 信清は一度目を細め、それから雨の向こうの海へ視線を戻した。


 商店街集会室へ行くと、壮翔が毛布を配りながら、なぜか宿の朝食案内まで始めていた。裕子に睨まれ、すぐに「非常時の参考情報」と言い直す。明純は濡れた靴を入口でそろえ、愛衣子は老夫婦の薬袋が濡れていないか確認している。旅行者の男性は、島の宿へ電話を終え、壁際で深く頭を下げていた。祐は近づき、代替案を書いた紙を渡す。


 「明日の一便が出る場合、案内所から連絡します。出ない場合は、駅へ戻る便も含めて確認します」


 男性は紙を受け取った。


 「さっきは、すみませんでした」


 「困っている時は、急ぎたくなります」


 祐がそう言うと、男性は窓の外を見た。雨で港はほとんど見えない。


 「船長さんにも、謝っておいてください」


 「伝えます」


 そのやり取りを、裕子が遠くから見ていた。あとで報告書に書けと言われる顔だ。祐は先にノートを開き、今日の流れを時刻順にまとめた。


 十時、事前案内。十一時半、運航見合わせ。十三時、終日欠航。十四時、待合所閉鎖。商店街集会室へ移動。宿連絡。島側連絡。毛布使用。名札棚保護。標本箱布掛け。個人名聞き取りなし。


 最後に、信清の言葉を別欄に書く。


 人を信じるには、危ない時に止める言葉を持つこと。


 裕子が横から覗き込んだ。


 「それ、いいです」


 「直しますか」


 「直します。でも、消しません」


 裕子は赤ペンで、祐の字の横に小さく書いた。


 荒天時閉鎖基準の基本方針。


 祐はそれを見て、待合所がまた一つ、感情だけではない場所になったと思った。


 夕方、雨は少し弱まったが、船は出なかった。港の水は濁り、桟橋のロープは時折、低く鳴った。淡名渡船待合所の戸は閉まっている。けれど、閉じた戸の向こうには、油紙で守られた名札、布をかけた蝶の標本箱、机の下へ移された白い紙札、雨を避けた団扇がある。


 人の声は、今は商店街集会室に移っていた。


 文香は鍵袋を膝に置き、濡れていないことを確かめている。壮翔は毛布の数を数え間違え、裕子に数え直されている。明純は靴の向きを直し、愛衣子は聞き取り票の「困りごと」欄を、誰にも見えないよう裏返して重ねている。信清は窓辺に立ち、雨の向こうに見えない潮目を見ていた。


 祐は、その背中を見ながら思った。


 待合所を開くことばかり考えていた。けれど、開けるためには、閉める手順が要る。名前を呼ぶ場所にするためには、呼ばない判断も要る。海を渡るためには、渡らない日を決める人が要る。


 窓を打つ雨の音が、少しずつ細くなっていく。


 その音の下で、祐は新しい紙を一枚取り出し、表題を書いた。


 淡名渡船待合所 荒天時閉鎖基準案。


 最初の一行で、鉛筆が止まった。難しい言葉ではなく、今日見たものから始めたかった。


 祐は、ゆっくり書き出した。


 海が静かに見えても、船を出さない日がある。


 隣で文香がそれを見て、小さくうなずいた。信清は何も言わなかった。ただ、窓の向こうの海を見たまま、少しだけ帽子の縁を持ち上げた。


 淡名渡船待合所は、今日、誰も迎えなかった。


 それでも確かに、人を守る場所へ近づいていた。



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