第15話 倉敷の白壁と畳の匂い
翌朝、尾路町交通案内所の窓ガラスには、雲の切れ目から差した光が白く映っていた。昨日の待合所に置いた「困ることの紙」は、裕子が開所前に回収してきたらしく、カウンターの端にまっすぐ置かれている。まだ誰の字もなかったが、紙の角だけが、夜の湿気を吸って少し反っていた。
祐は運行表を確認し、倉敷行きの乗り継ぎを書いた小さな紙をもう一枚作った。淡名島の診療所で真部が口にした畳職人の名は、古い診察予約票ではなく、真部本人の記憶と、裕子が確認した同窓名簿の公開欄に残っていた住所でつながった。今は倉敷で畳の仕事をしているらしい。名札の布には、かすれた筆跡で「みずの」と読める字がある。下の名は、潮を吸った糸でにじみ、はっきりしない。
文香は、名札を薄い紙で包み、さらに小さな桐箱へ入れた。箱の内側には、昨夜のうちに貼ったらしい和紙が敷かれている。白ではなく、古い障子紙に近い、わずかに温かい色だった。
「持って歩くなら、これ」
文香はそれだけ言い、桐箱を祐に渡さず、自分の布鞄へ入れた。肩紐を整える指先が、いつもより少し硬い。
「無理に話さなくていいです」
祐が言うと、文香は目を上げなかった。
「話すのは、向こうの人」
「そうですね」
「でも、聞くのは、こっち」
それだけ言って、文香は店の鍵をかけた。潮紙堂の引き戸には、今日一日休むと書いた小さな紙が貼ってある。字は細く、迷いが少ない。店の中で眠っている古い本や紙片へも、行ってくる、と一度告げてから出てきたような貼り方だった。
駅へ向かう途中、宿「縁側寝床」の前で壮翔が待っていた。片手に大きな紙袋を持ち、もう片方の手で自分の腹を押さえている。
「倉敷まで行くんだろ。これ、道中の非常食」
祐が紙袋をのぞく前に、裕子が背後から現れた。
「非常食と言いながら、自分が食べたいものを入れていませんか」
「失礼な。今回はちゃんと二人分」
「三つ入っています」
「予備だよ。人生には予備が必要なんだ」
裕子は紙袋から包みを一つ抜き取った。壮翔の顔が、船の汽笛を聞き逃した子どものようにしぼんだ。
「予備は案内所に置いておきます。帰ってきてから食べてください。道中で油のにおいを桐箱に移したら、文香さんに布で叩かれます」
文香は何も言わず、壮翔の紙袋を受け取った。中身を確かめ、桐箱の入った鞄とは反対側の手で持つ。その仕草だけで、壮翔は叩かれずにすんだことを理解したらしく、肩をなで下ろした。
「倉敷の白壁によろしく。あと畳によろしく。うちの宿の畳も、そろそろ俺の厚かましさを受け止めきれなくなってる」
「それは畳ではなく、宿泊客の問題です」
裕子が即座に言うと、壮翔は胸を押さえた。
「朝から刺さるねえ」
祐は笑いながら、乗り継ぎの紙を確認した。笑い声の向こうで、文香は紙袋をほんの少し持ち上げた。礼の代わりの動きだった。壮翔はそれを見て、満足そうに二歩下がり、邪魔にならない場所へ立った。
列車の窓から見える海は、朝の光を細かく砕いていた。尾路町の屋根が遠ざかり、島影が少しずつ線になっていく。祐は膝の上でノートを開き、今日確認する順番を書いた。
本人確認。名札の提示。受け取り、保管、写し、非公開の選択。八重のことは、相手から出た場合だけ聞く。通学船の記憶は、話したい範囲だけ。
文香は隣で、窓の外ではなく、自分の手元を見ていた。布鞄の上に置かれた指は、桐箱の位置を何度も確かめる。紙修繕の道具を持つ時の確かさとは違う。落とさないように、ではなく、開いた時に何が出てくるかを、先に知ってしまうのが怖いような指だった。
「真部先生、あの人のことを、船酔いの子って呼んでいましたね」
祐が言うと、文香は小さく頷いた。
「名前より先に、背中」
「背中?」
「団扇で、あおいだって」
診療所で、真部は歯科用の小さな鏡を片づけながら話していた。船酔いで泣く友人の背中を、待合所にいた若い女がずっと団扇であおいでいた。名札の糸が切れた時、その女は自分の裁縫箱を開けて、布を二重にして縫い直した。真部は女の名を覚えていなかったが、文香が八重の名を出すと、しばらく天井を見上げ、「そうじゃったかもしれん」と言った。
その曖昧さを、祐は無理に強い証言へ変えなかった。人の記憶は、古い写真の端のように、明るいところから消えることがある。けれど、消え残った匂いや手の温度が、名前より長く残ることもある。
倉敷の駅に着くと、空気の湿り方が尾路町とは少し違った。海の匂いは遠く、代わりに石畳と水路の冷たさが歩く足元から上がってくる。白い壁の続く路地には、観光客の声が控えめに反響していた。柳の葉が水面へ影を落とし、その影の間を、鯉がゆっくりと通り抜けていく。
文香は人の多い通りで少し歩幅を狭めた。祐は急がず、道の端を選んだ。白壁の町は、写真で見れば明るく整っている。けれど実際に歩くと、石の継ぎ目、軒下の暗さ、水路を渡る橋の湿り気が、古い時間を一枚ずつ重ねていた。
目的の畳店は、表通りから細い路地へ入った先にあった。入口には「水野畳店」と木札が掛かり、戸は半分だけ開いている。中から青い草の匂いと、乾いた藁の匂いがした。祐が声をかけると、奥で包丁が畳表を切る音が止まった。
「はい」
出てきた男性は、六十を少し越えたくらいに見えた。作業着の袖を肘までまくり、手の甲には細かい傷がいくつもある。目元は穏やかだが、祐たちの顔より先に、文香の布鞄へ視線が落ちた。
「尾路町から来ました。祐と申します。真部先生から、水野さんに昔の通学船のお話をうかがえるかもしれないと聞きまして」
男性は真部の名に、少しだけ眉を動かした。
「真部。歯を見せろと言う前から口を開けさせるやつか」
文香が、ほんのわずかに目を伏せた。笑いを押し込めた時の動きだった。
祐は名札返却の説明書を差し出した。裕子が昨日、赤字を入れ、今朝もう一度印刷し直したものだ。個人名の公開をしないこと、持ち主本人が希望を選べること、拒否した場合は連絡先を残さないことが、はっきり書いてある。
水野は一行ずつ読んだ。急がなかった。紙を持つ指が、畳表を測る時と同じように、端をそろえている。
「名札が、あったんですか」
声は低かった。懐かしさより先に、戸惑いがあった。
文香は布鞄から桐箱を取り出し、作業台の上に置いた。店の奥から入る光が、箱の蓋を薄く照らす。文香は一度だけ祐を見た。祐が頷くと、蓋を開け、薄紙をほどいた。
淡い布名札が現れた。もとは紺に近かったのだろうか。今は海の水で何度も洗われたような薄い灰青になっている。左上には、何度か縫い直した跡があり、角の布が二重になっていた。名の部分はにじんでいるが、名字の「水野」はかろうじて読める。
水野は、手を伸ばさなかった。作業台の端に置いていた畳針をそっと横へずらし、両手を膝に置いた。その膝の上で、指先だけが動く。
「こんな色じゃったか」
「潮と日で、だいぶ薄くなっています」
文香が答えた。
「直したんですか」
「破れを、押さえただけ」
「いや、そこじゃない」
水野は名札の左上を見ていた。二重に当てられた布、細かく寄せられた針目。文香が今回ほどこした修繕の外側に、さらに古い縫い目があった。
「ここ。これ、あの人の縫い方じゃ」
文香の指が、薄紙の上で止まった。
「覚えているんですか」
祐の問いに、水野はすぐには答えなかった。店の奥で、畳表が青い匂いを放っている。通りを歩く人の足音が、戸の外をゆっくり流れていく。
「名前は、長いこと思い出せんかった。でも、船の中で背中をさすられたのは覚えとる。わしは船に弱くてな。淡名島から本土へ出るたび、待合所の長椅子で青い顔をして座っとった。真部は横で、平気な顔をして握り飯を食べよった。腹が立つほど平気でな」
祐は、ノートを開く手を止めた。笑っていいところなのか、まだ分からなかったからだ。
水野は自分で小さく笑った。
「あいつ、今でも人の口を開けさせるんじゃろ。昔は、船酔いで口もきけんわしに、残した握り飯を見せて、食わんのかと言うとった。食えるわけがない」
「真部先生らしいです」
祐が言うと、水野は頷いた。
「その時、待合所にいた若い女の人が、団扇で背中をあおいでくれた。団扇は古くて、骨が一本折れとった。けれど風はやわらかかった。背中をあおぐだけじゃなくて、首の後ろに濡れた手拭いを当ててくれた。吐いたら恥ずかしいと泣いたら、船も海も見えん向きに座らせてくれた」
文香は、名札を見ていた。視線が動かない。
「その人は、八重という名前でしたか」
声は短いが、いつもの固さよりも、少しだけ薄かった。
水野はゆっくりと文香を見た。
「八重さん。そうじゃ。裁縫箱に、小さな貝ボタンを入れていた。針山に、赤い糸が一本だけ巻いてあった。子どもの名札を直す時、糸の玉を内側へ隠すんじゃ。表に出ると、子どもが指で引っかけるからと」
文香の喉が、小さく動いた。
「同じです」
祐はその一言に、すぐ言葉を重ねなかった。文香が何と何を同じだと言ったのか、聞けば答えは小さく壊れる気がした。母の縫い方と自分の縫い方。名札の角と、畳の縁。糸の玉を隠す癖。誰かが痛がらないように、表へ出さない手間。
水野は名札へ手を伸ばした。だが、触れる直前で止めた。
「持っても、ええですか」
祐は文香を見た。文香は、薄紙ごと名札を少し前へ押した。
「この紙の上で」
「はい」
水野は両手で薄紙を支えるようにして、名札を持ち上げた。大きな手の中で、淡い布は驚くほど小さかった。
「わしは、この名札を失くしたと思っていました。祖母に叱られると思って、船の中を探して、待合所の下も探した。見つからんで、そのまま倉敷へ戻った。夏の終わりでした」
「淡名島へは、その後」
「行っていません。祖母が亡くなって、家も人手に渡って。行く理由がなくなったと思っていた」
水野は名札を薄紙の上へ戻した。指先が、古い縫い目のすぐ横で止まる。
「でも、理由はなくなったんじゃなくて、置いてきたんかもしれんな」
文香は何も言わなかった。けれど、桐箱の蓋を持つ手から、少し力が抜けた。
祐は説明書の下に、選択肢を書いた紙を置いた。受け取り。淡名渡船待合所で保管。写真のみ。非公開。
「どれを選んでも大丈夫です。今日決めなくてもかまいません」
水野は紙を見た後、店の奥を振り返った。畳表が重ねられた棚の向こうに、小さな作業場がある。そこには裁ちかけの畳縁と、古い木箱が置かれていた。
「受け取りたい気持ちはあります」
祐は頷いた。
「ただ、家へ持って帰ってしまうと、この名札はわしの昔だけになる気がします。あの待合所にあったから、今日あなたたちがここへ来た。真部の名前も出た。八重さんのことも、少し戻った」
文香は「戻った」という言葉に、目を上げた。水野はその視線を受けて、言い直すように首を振った。
「いや、戻ったというより、届いた、ですかね。海を渡って、だいぶ遅れて」
文香は小さく息を吐いた。
「届いたなら、いいです」
水野はその言葉を、大切そうに聞いた。
「では、しばらく待合所に保管してください。写真を一枚いただけるなら、店に置きます。お客さんへ見せびらかすためではなく、わしが忘れんために」
「公開範囲を確認します」
祐が同意書を出すと、水野は丁寧に記入した。字は角が丸く、畳縁を折る時のように、曲がるところで少しだけ力が抜けている。名字の公開は可。下の名は非公開。写真は店内の私的保管のみ。祐は記録欄に、本人希望をそのまま書いた。
文香は名札を桐箱へ戻した。蓋を閉める前に、古い縫い目を一度だけ見た。水野は、その様子を黙って見守っていた。
「八重さんの娘さんですか」
文香の肩が、わずかに動いた。
祐は口を挟まなかった。答えるかどうかは、文香のものだった。
「はい」
短い返事だった。けれど、店の中の畳の匂いを、少し変えるだけの重さがあった。
水野は頭を下げた。深くではない。作業中に近所の人へ挨拶するような、生活の中の礼だった。
「あの時、あなたのお母さんに助けてもらいました。わしは、船に乗るのが怖くなくなったわけではありません。でも、待合所にあの人がいる日は、座っていられた」
文香は、桐箱の蓋に手を置いたままだった。
「母は、私のところには、戻りませんでした」
水野はすぐに慰めなかった。工房の奥から、乾いた木が鳴る音がした。外の路地では、誰かが写真を撮る小さな電子音がした。
「はい」
水野は、その一語だけ返した。
祐は、文香の横顔を見た。そこには、泣きそうな顔も、怒っている顔もなかった。ただ、母のしたことを一つ受け取り、母のしなかったことを手放さずに立っている人の顔があった。
水野は作業台の下から、畳縁の見本帳を取り出した。黒、紺、茶、薄い緑、古い金茶。布の端が何枚も重なり、ページをめくるたびに、乾いた音がする。
「待合所には、まだ長椅子がありますか」
「あります。座れますが、木が硬くて、夏は熱を持ちます」
祐が答えると、水野は頷いた。
「小さな畳座布団を作らせてください。厚いものではなく、長椅子に置ける薄いものを。湿気に弱いから、使わん日は立てかける形がいい。縁は派手にせず、古い名札の色に近いものを選びます」
文香が目を上げた。
「なぜ」
「名札を預けるだけでは、わしはまた置いて帰るだけになります。座布団なら、誰かが待つ時間に触れる。船酔いの子が座っても、少しは楽かもしれん」
祐はノートに書きかけ、手を止めた。返却の欄の下に、新しい言葉が必要だった。受け取りでも、保管でも、写しでもない。名札を受け取った人が、待合所へ何かを戻す形。
支援、という言葉は少し硬い。寄付、という言葉は少し遠い。協力、という言葉は広すぎる。
祐は考えた末に、欄外へ「待つ時間への返礼」と書いた。裕子に見せたら、確実に赤字で直される。けれど、今はそれが一番近かった。
水野は見本帳を文香へ差し出した。
「選んでもらえますか」
文香は布の端を指でめくった。紙と布では触り方が違う。けれど、彼女の指はすぐに素材の呼吸をつかんだ。淡い灰青の縁で止まり、次に薄い茶へ移り、また戻った。
「これ」
選んだのは、名札の色に近い灰青ではなく、少しベージュを含んだ茶だった。
「名札と同じにしないんですか」
祐が尋ねると、文香は首を横に振った。
「同じにすると、名札が飾りになる」
水野はゆっくり頷いた。
「座るものは、座る色がいい」
文香は見本帳の縁をなぞった。畳縁の模様は細かい市松で、近くで見なければ分からない。糸の走り方が、八重の名札の縫い目と似ていた。表に出る部分は静かで、裏でしっかり押さえている。
「母の縫い方に、似ています」
水野は手元の畳針を見た。
「畳も、見えるところだけきれいにしても、すぐ崩れます。裏をどう押さえるかで持ちが決まる。八重さんも、そういう人だったのかもしれません」
文香は答えなかった。母を褒められた時に、素直に頷けない気持ちがそこにあった。祐はそれを見て、母の話を明るい方へ押し出さないよう、ノートのページを一枚めくった。
「座布団の管理方法も、こちらで決めます。湿気対策、使用後の立てかけ、破損時の連絡先。費用も確認させてください」
「費用は」
「払います」
祐が言う前に、文香が言った。水野と祐が同時に彼女を見る。
「待合所のものにするなら、費用を曖昧にしないほうがいい」
裕子の声が、ここにいないのに聞こえたようだった。祐は思わず笑いそうになり、口元を押さえた。文香も同じことを思ったのか、ほんの少し眉を下げた。
水野は困ったように笑った。
「では、材料代だけ。手間賃は、昔の船酔い分で相殺にしてください」
「それは、帳簿に書けません」
祐が言うと、水野は大きく笑った。店の奥で畳表の青い匂いが揺れ、外の路地を歩く観光客が一瞬こちらを見た。
「では、手間賃は倉敷の水野畳店から淡名渡船待合所への作業提供。そう書けば、帳簿に残りますか」
「残ります」
祐はすぐに書いた。作業提供。畳座布団四枚。材料代は別途確認。使用時は晴天時中心。湿気対策を添える。
文香は桐箱を鞄へしまい、代わりに小さな紙片を取り出した。潮紙堂の印が押された、薄い修繕用紙だった。
「名札の写真を送ります。座布団ができたら、受け取りに来ます」
「船で?」
「船で」
「では、酔わないようにしてください」
水野が真面目な顔で言い、祐は笑ってしまった。文香は一拍遅れて、短く言った。
「団扇、持っていきます」
その返事に、水野の目元が緩んだ。
店を出る頃、昼の光は白壁をさらに明るくしていた。水路の水面が揺れ、柳の影が細かくほどけている。祐と文香は、人通りの少ない橋のたもとで少し休んだ。壮翔の紙袋を開けると、抜き取られたはずの予備の包みが、紙袋の底にもう一つ入っていた。
祐はそれを見て、しばらく黙った。
「裕子さん、気づいていたと思います」
文香は包みを一つ差し出した。
「たぶん」
「黙って残したんでしょうか」
「たぶん」
紙包みの中身は、小さな塩むすびだった。油の匂いはしない。壮翔なりに、桐箱へ匂いが移らないよう考えたのだろう。少し形が崩れ、海苔の端が雑に巻かれている。
祐は橋の欄干にもたれず、石の上に立ったまま食べた。文香も同じように、小さく口へ運ぶ。川面を渡る風は、尾路町の海風より丸く、塩気が少ない。
「お母さん、他の子にも、団扇を使っていたんですね」
祐が言うと、文香はむすびを持ったまま水路を見た。
「知りませんでした」
「嫌でしたか」
文香は答えるまでに少し時間を置いた。
「少し」
その正直な一語に、祐は頷いた。
「でも、少し、よかった」
文香は続けた。
「母がどこかで、誰かにやさしかったなら、私だけが置いていかれたことと、別にできる気がします。別にできるだけで、消えません」
「消さなくていいと思います」
文香は祐を見た。川面の明るさが、その目の下に小さく映っている。
「祐さんは、すぐ、いいことにしない」
「いいことにできないことが、多いので」
「案内所の人なのに」
「道は案内できます。でも、気持ちは近道を出すと、だいたい迷います」
文香は塩むすびの最後の一口を食べ、紙を小さく畳んだ。その折り目はまっすぐで、畳縁の端に似ていた。
帰りの列車で、祐はノートを開き直した。水野の言葉を、証言として残す部分と、公開しない部分に分ける。船酔い。団扇。八重の縫い方。貝ボタン。名札は待合所保管。写真は店内私的保管。畳座布団四枚。作業提供。
その下に、裕子へ確認、と書き、費用、湿気、保管棚、使用時間の四項目を丸で囲んだ。
文香は隣で、畳縁の見本布を一枚、透明の袋越しに見ていた。水野が持たせてくれたものだ。薄い茶に、細かな市松。派手ではない。けれど、長椅子の上に置かれた時、古い木と名札棚の間で、きっと浮かずに座る。
「名札を返すと、待合所のものが増えますね」
祐が言うと、文香は見本布から目を離さずに答えた。
「ものだけじゃない」
「はい」
「座る理由も、増える」
祐は、その言葉をノートの最後に書いた。座る理由。赤字で直されても、これは残したいと思った。
尾路町に戻ると、夕方の港には魚箱を洗う水の音が響いていた。淡名渡船待合所の戸は閉まっていたが、入口の机の上には裕子が置いた「困ることの紙」が新しい紙に替えられていた。線は昨日よりまっすぐで、下に小さく「書きにくい場合は案内所へ」と添えてある。
裕子は入口で腕を組んで待っていた。
「遅いです」
「乗り継ぎは予定通りです」
「心配したとは言っていません」
祐は笑い、ノートを差し出した。裕子はページをめくり、すぐに眉を寄せた。
「待つ時間への返礼、は何ですか」
「やっぱり直しますか」
「直します。けれど、意味は分かります」
裕子は赤ペンを取り出し、「作業提供」と書き足したあと、その横に小さく括弧をつけた。
(待つ時間への返礼)
祐はそれを見て、何も言わなかった。言うと裕子が消してしまいそうだった。
文香は桐箱を名札棚の前に置き、鍵を開けた。水野の名札を元の位置へ戻す。返されたのではない。預け直されたのでもない。少し遠い町で見つかった記憶が、またこの棚へ座り直した。
祐は返却簿を開き、水野の欄へ記入した。
保管希望。写真私的保管。畳座布団作業提供。八重の縫い目に関する証言あり。公開は本人確認済み範囲のみ。
文香は名札棚の戸を閉めた。その音は、軽すぎず、重すぎなかった。
外では、壮翔が待ちきれずに紙袋の予備を食べている。明純がそれを見つけ、裕子を呼びに走る。愛衣子は二人を止めようとして、まず自分の笑いを止められずにいる。信清は港の方から歩いてきて、風向きを見るようにその騒ぎを眺めた。
淡名島へ向かう夕便の汽笛が鳴った。
文香は畳縁の見本布を名札棚の下へ置いた。古い布名札、ベージュの封筒、蝶の標本箱、団扇の地図。そのどれとも違うのに、そこにある理由だけは、もう待合所の中へなじみ始めている。
祐は入口の長椅子に座ってみた。板はまだ硬い。背中に木の角が当たる。けれど、ここへ畳座布団が届く日を思うと、硬さの中に余白が見えた。
「少し、変わりますね」
祐が言うと、文香は名札棚を見たまま答えた。
「少しでいい」
その短い言葉の中に、倉敷の白壁、水路の風、畳の匂い、八重の隠した糸玉、水野の船酔いが、静かに重なった。
待合所は、誰かが昔を語るだけの場所ではなくなっていく。次に座る人のために、ほんの少し手触りを変える場所になろうとしていた。




