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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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24/45

第24話 決勝戦前夜

 八月上旬の夕方、淡名渡船待合所の窓は、海から戻ってくる光で薄く赤くなっていた。


 祐が交通案内所から最後の資料束を抱えて到着した時、港の空は、昼の白さを少しずつ失いかけていた。石畳の濡れ跡はもう乾いている。けれど、木造の待合所の床には、日中にこもった熱がまだ残り、靴底からじわりと上がってきた。


 明日の説明会は、町の会議室ではなく、この淡名渡船待合所で行われる。


 祐がそう提案した時、裕子は最後まで反対した。暑い。狭い。椅子が足りない。資料を広げる机もない。反対意見を持つ人が来た時に、逃げ場がない。どれも正しかった。それでも進祐は、現場を見ずに判断するよりはいい、と短く言った。信清も、明日の午前なら風が抜ける、と海を見ながらうなずいた。


 だから今夜、祐たちはこの場所を、明日の朝、人の声を受け止められる形に整えている。


 長椅子の上には、裕子が朱を入れた資料が四山、きっちり角をそろえて積まれていた。名札返却の件数、保管希望、写し希望、非公開希望。暑熱対策の温度記録。荒天時の閉鎖判断。鍵管理。床板補修。清掃当番。どの紙にも、裕子の赤字が細かく入っている。


 「祐さん、ここ。『返却先』じゃなくて『確認先』。本人にまだ会っていない名札まで返したことにしない」


 「直します」


 「あと、この『協力者一同』も駄目。誰が何をするか書いて。名前だけ並べると、働く人と拍手する人が同じ重さになる」


 「はい」


 祐は床に膝をつき、資料の余白へ修正を入れた。鉛筆の芯が紙に当たる音が、室内に小さく響く。裕子はその横で、誤字を見つけるたびに息を吸い込み、言葉を刺す前に一拍だけ置くようになっていた。


 それでも、刺す時は刺した。


 「壮翔さん、そこに畳座布団を置いたら、入口でつまずく人が出る」


 「いや、入ってすぐ柔らかいのがあると、心も柔らかく――」


 「膝から落ちたら心どころじゃない」


 壮翔は両手に畳座布団を抱えたまま、入口と長椅子の間を三往復していた。倉敷の畳職人から届いた小さな座布団は、青い畳表の匂いがまだ強い。彼はその匂いをかぐたびに、「これは待合所の腰を救う」と胸を張った。


 文香は、名札棚の前に座り、ひとつずつ布名札を確認していた。白い手袋をはめ、破れの補修跡、糸のゆるみ、記録番号の小さな札を見比べる。祐が入口側から見ると、文香の背中は標本箱の影と重なっていた。蝶の羽は灯りの下で薄く光り、その下に、まだ展示されていない小さな説明札が伏せて置かれている。


 文香の胸ポケットには、ベージュの封筒が入っていた。


 門司港で受け取った、母・八重からの手紙。封はまだ切られていない。文香は今日、何度もその封筒に触れた。触れて、離した。離して、また触れた。誰も急かさなかった。壮翔でさえ、封筒について冗談を言わなかった。


 信清は窓辺の柱に、荒天時閉鎖の基準を貼っていた。


 「南東の風が強くなったら、この窓は先に閉める。潮位がこの線まで来たら、待合所は開けない。船が出るかどうかと、この建物を開けるかどうかは別に考える」


 信清は紙を一枚貼るたび、祐に向かって説明した。声は低く、急がない。けれど、聞いている者の足元をしっかり止める力があった。


 愛衣子はその横で、発表順を書いた紙を壁へ貼っていた。何度も貼っては剥がし、剥がしては斜めになった角を直す。


 「最初が祐さんで、次が裕子さん、信清さん、文香さん、進祐さんから質問、で合ってますか」


 「進祐は質問する側です。こちらから発表させると、また条件が三つ増えます」


 祐が答えると、入口から進祐本人の声がした。


 「聞こえている」


 愛衣子が紙を落とした。壮翔が座布団を抱えたまま振り返り、裕子が眉間に指を当てた。


 進祐は片手に大きな筒を持ち、もう片方に折り畳みの脚立を持っていた。役場の作業用だろう。白いシャツの袖を肘までまくり、靴の先には細かな砂がついている。


 「図面の掲示場所を確認に来た。あと、外の案内板の高さが低い。高齢者が読むにはいいが、混んだ時に後ろから見えない」


 「明日までに直せってことですか」裕子が言った。


 「今直す」


 進祐はそう言って、脚立を入口の横に立てた。壮翔がすぐに駆け寄り、脚立を押さえる。


 「進祐さん、この命に代えても脚立を――」


 「命はいらない。脚立だけ押さえて」


 壮翔は口を閉じた。文香が名札棚の前で、ほんのわずかに肩を揺らした。笑ったのか、咳をしたのかは分からない。けれど祐には、それだけで十分だった。


 外では、明純が港のほうへ向かって電話をかけていた。


 「はい、明日は八時半集合です。掃除用の軍手はこっちで用意します。違います、団扇は持って帰らない。待合所で使う分です。はい、魚箱も椅子にしません。裕子さんが怒ります。僕も怒られます」


 通話の合間に、明純は協力者名簿へ丸をつけていく。以前なら人が集まるだけで満足していたはずの彼が、今は集合時刻、持ち物、立ち入り禁止の場所まで一人ずつ確認していた。港で叱られた朝のことを、彼は笑い話にしながらも、紙の上には残している。


 祐は資料束をめくった。


 七月上旬に、時刻表の裏から名札を見つけた。文香が「捨てないで」と言った。団扇の裏に地図があり、淡名島へ渡り、今治へ行き、鞆の浦、倉敷、高松、下関、門司港へ線が伸びた。受け取る人がいた。戻してほしい人がいた。写真だけでいい人がいた。名前を出さないでほしい人もいた。


 この待合所を残したい、と言うだけなら簡単だった。


 けれど明日の朝、祐たちが見せるのは、言葉ではなく、積み重なった紙だった。確認した名札。守った距離。閉める基準。開ける時間。誰が鍵を持ち、誰が床を拭き、誰が苦情を受けるのか。名前を呼ぶ場所にするために、呼ばれたくない人の紙をどこへしまうのか。


 祐は、返却簿の端を指で押さえた。


 そこには、まだ空白がある。


 文香の名札の欄だ。


 ふと顔を上げると、文香も同じ欄を見ていた。二人の視線が紙の上で重なり、文香はすぐに目を伏せた。手袋を外し、胸ポケットの封筒に触れる。封筒は古い紙の色をしている。ベージュというには少し褪せ、茶色というには柔らかい。夕方の灯りとよく似ていた。


 「読むんですか」


 祐は声を落として聞いた。


 文香はしばらく答えなかった。名札棚の中で、布と紙が風にわずかに震える。窓の外では、船のロープが桟橋に当たり、こつ、こつ、と乾いた音を立てていた。


 「明日の前に」


 「はい」


 「読んでおかないと、母のことで誰かに聞かれた時、わたしが勝手に母の話を作る」


 祐は鉛筆を置いた。


 「話さなくてもいいことは、話さなくていいです」


 「知っています」


 文香は短く返した。それから、封筒を胸ポケットから出し、標本箱の下へ置いた。


 「でも、読まないまま守ると、守っているものが何か分からなくなる」


 裕子が誤字の確認をする手を止めた。壮翔は座布団を抱えたまま、そっと入口から離れた。信清は閉鎖基準の紙を貼り終えると、外へ出て海を見に行った。愛衣子は壁に貼った発表順を、もう一度だけなぞった。明純の電話の声も、いつの間にか小さくなっていた。


 進祐だけが、案内板の高さを測りながら言った。


 「公開する必要はない。明日の資料にも入れなくていい」


 「分かっています」


 「個人の手紙は、本人が決める」


 「はい」


 進祐はそこで黙り、脚立から下りた。壮翔が脚立を畳もうとして指を挟みかけ、裕子が無言でその手を払った。小さな音がひとつ鳴り、張りつめた空気が少しだけ戻った。


 夜が近づくにつれ、待合所の中は暗くなった。壮翔が持ってきた小さな灯りを床に置くと、畳座布団の縁、名札棚のガラス、古い時刻表の跡が、順に浮かび上がった。ベージュの封筒も、灯りを受けて少しだけ明るくなった。


 祐は最後の確認表を読み上げた。


 「開場は八時半。説明開始は九時。入口側に長椅子三脚、奥に名札棚。非公開箱は棚の下、鍵は文香さんと裕子さん。暑熱対策は日よけ布、飲み水、温度計。荒天時の判断は信清さん。協力者の受付は明純さん、来訪者の誘導は愛衣子さん。資料説明は僕、会計と規則は裕子さん。名札保管の説明は文香さん」


 「壮翔さんは?」明純が窓から顔を出した。


 「椅子係」裕子が言った。


 「格が低い」壮翔が言う。


 「つまずかない椅子を置けたら、格は上がる」


 壮翔は畳座布団を胸に当て、真剣な顔でうなずいた。


 「明日、椅子で町を救う」


 「町は救わなくていい。足元を救って」


 今度は文香も笑った。声にはならなかったが、灯りの中で目元がほんの少し緩んだ。祐はそれを見て、胸の奥の硬いところがほどけるのを感じた。


 やがて、外の空が深い藍色になった。


 港の向こうに淡名島の灯りがぽつぽつと浮かび、尾路町の坂道にも家々の窓明かりがつき始めた。待合所の中では、最後の紙束が鞄に入り、座布団の位置が決まり、案内板の高さが直され、発表順の紙が壁にまっすぐ貼られた。


 壮翔が腰を伸ばしながら言った。


 「なんか、決勝戦前夜みたいだな」


 裕子が資料の紐を結びながら振り返った。


 「相手は誰なの」


 「ええと……老朽化?」


 「建物を敵にしたら直せないでしょう」


 「じゃあ、役場」


 進祐が無言で壮翔を見た。壮翔はすぐに首を横へ振った。


 「違います。役場は味方です。条件つきの味方です」


 愛衣子が笑い、明純が「条件多めの味方」と小声で足した。裕子が睨む前に、祐は資料の紐を押さえたまま、窓の外を見た。


 古い港の夜は静かだった。船はもう少ない。時刻表の白い紙だけが、壁でぼんやり浮いている。名札棚の中には、子どもだった誰かの名前が眠っている。返されたもの、残されたもの、伏せられたもの。どれも同じ棚には入らない。けれど同じ待合所の中にある。


 「相手は」


 祐が言うと、全員がこちらを見た。


 「名前を忘れる速さだと思います」


 裕子の手が、資料の紐の上で止まった。


 祐は続けた。


 「人は忙しいと、場所を先に忘れます。場所を忘れると、そこを通った人の名前も、どう扱えばよかったかも分からなくなります。でも、無理に呼び戻すと傷つく人がいる。だから、忘れないための棚と、忘れたふりをしたい人のための箱と、危ない時に閉める鍵がいるんだと思います」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 窓の外で、船の小さな汽笛が鳴った。夜の水面を渡り、待合所の壁に低く触れて消える。


 文香が、標本箱の前に座った。


 「忘れる速さ」


 祐はうなずいた。


 「はい」


 「速いですね」


 「速いです」


 「では、縫います」


 文香はそう言って、ベージュの封筒を手に取った。裁ち鋏ではなく、紙用の細いナイフを道具箱から出す。刃先が灯りを受け、ほんの一瞬だけ白く光った。


 裕子が小さく息を吐く。


 「ここで読むの?」


 「はい」


 「一人で?」


 文香は首を横に振った。


 「ここで」


 それだけで、誰も動かなかった。


 祐は資料束を閉じ、名札棚の前から少し離れて座った。裕子は長椅子の端に腰を下ろし、手に持っていた赤ペンを膝へ置いた。壮翔は入口近くに座布団を置き、自分は床に座った。愛衣子は発表順の紙の下に立ち、明純は窓を閉めた。進祐は案内板の高さをもう一度見てから、脚立に手を置いたまま黙った。信清は外から戻り、戸口の柱にもたれた。


 文香は封筒の端へ刃を入れた。


 紙が切れる音は、波の音より小さかった。


 けれど、その場にいる全員が聞いた。


 封筒の中から、折りたたまれた便箋が出てくる。古い紙の匂いが、畳の青い匂いと、海風と、夜の木の匂いに混じった。文香は便箋を開かず、まず封筒の内側を見た。そこに何か書かれているのか、ただ癖で確かめたのか、祐には分からない。


 文香の指先は震えていなかった。


 ただ、便箋の折り目を開く時だけ、少し時間がかかった。


 祐は目を伏せた。手紙の文面を、先に見ないためだった。これは資料ではない。公開範囲を確認する紙でもない。文香が、読んで、しまうか、見せるか、燃やすか、折り直すか、自分で決めるものだ。


 灯りの下で、文香が一行目を追った。


 外の海は暗く、淡名島の灯りは揺れずに浮かんでいる。明日の朝になれば、人が来る。反対する人も来る。思い出を差し出す人も、黙って帰る人もいるだろう。資料はまだ足りないかもしれない。質問に答えられないこともあるかもしれない。三か月の仮開放さえ、認められるかどうか分からない。


 それでも今夜、この待合所には、名前を忘れる速さに追いつこうとする人たちが座っていた。


 文香が便箋を少しだけ持ち直した。


 誰も、次の言葉を急がせなかった。


 決勝戦前夜というには、拍手も応援歌もない。あるのは、古い木の匂い、朱を入れた資料、畳座布団、閉鎖基準の紙、発表順の貼り紙、名札棚、蝶の標本箱、そして母から娘へ届いたベージュの封筒だけだった。


 祐は膝の上で手を組んだ。


 明日の朝、この場所がどう判断されるとしても、今夜だけは、誰も待合所を物置とは呼べなかった。


 ここには、人が待っている。


 人が、読まれるのを待っている言葉のそばで、静かに息をしている。



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