第六話 名前のある感情
あの日から、数日が過ぎていた。
ラディア公爵邸、セレスティナの私室。
窓から入る光はやわらかく、室内は静かな空気に包まれている。
あの時のやり取りが、まだ胸の奥に残っている。
だが――
「……」
セレスティナは、椅子に座ったまま動かない。
手元の本は開かれている。
だが、ページは進んでいなかった。
「……」
視線は落ちている。
それでも、読んではいない。
思考が、まとまらない。
「……お嬢様?」
控えめな声がかかる。
ミアだった。
いつものように、静かに傍へと立つ。
「……どうかなさいましたか?」
セレスティナは、少しだけ顔を上げる。
そして――
わずかに迷ってから、口を開いた。
「……ミア」
「はい」
「少し、聞いてもいいかしら」
ミアは、すぐに頷く。
「もちろんです」
変わらない声音。
それに、セレスティナはわずかに息をつく。
「……胸が」
言葉を探すように、少しだけ間が落ちる。
「落ち着かないの」
ミアは、一瞬だけ目を瞬かせた。
「……落ち着かない?」
「ええ」
セレスティナは、静かに続ける。
「理由は分かっているのに」
ほんのわずかに、視線が揺れる。
「それでも、収まらないの」
ミアは、しばらく黙っていた。
そして――
次の瞬間。
「ふふっ」
小さく、笑いがこぼれる。
「……ミア?」
セレスティナは、わずかに首を傾げる。
ミアは口元を押さえながら、笑いをこらえる。
「失礼いたしました」
だが、完全には止まらない。
「いえ、その……あまりにも分かりやすくて」
セレスティナは、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……分かりやすい?」
ミアは、頷く。
それから――
迷いなく、言った。
「それは恋ですよ、お嬢様」
静かに。
だが、はっきりと。
セレスティナは、目を瞬かせる。
「……恋?」
初めて聞く言葉のように、繰り返す。
ミアは、やわらかく微笑む。
「ええ」
優しく、続ける。
「好きな方のことを考えてしまうのも、落ち着かないのも――全部、そうです」
セレスティナは、しばらく言葉を失う。
思考が、ゆっくりと繋がっていく。
「……」
そして――
ほんのわずかに、息を呑む。
「……そう、なのね」
小さく、呟く。
理解はできる。
説明もつく。
だが――
「……不思議ね」
自然と、言葉が落ちる。
ミアは、くすりと笑う。
「はい」
それから、少しだけ表情をやわらげる。
「安心いたしました」
セレスティナを見る。
「お嬢様が、ちゃんと戻ってこられて」
その言葉に――
セレスティナは、わずかに息を止めた。
「……戻る?」
「ええ」
ミアは、ゆっくりと頷く。
「以前のお嬢様に」
ほんの少しだけ、目を伏せる。
「……あの時は」
言葉は続けない。
だが、十分だった。
セレスティナは、静かに受け取る。
「……」
思い出す。
何も感じなかった時間。
何も残らなかった感覚。
それが、今は違う。
「……そうね」
小さく、頷く。
胸の奥に、あたたかいものがある。
はっきりと。
消えずに、残っている。
「……」
セレスティナは、ゆっくりと息を吐く。
それから――
ほんの少しだけ、口元をやわらげた。
「……悪くないわ」
静かに、言う。
その言葉に、ミアは嬉しそうに目を細めた。
部屋の中に、やわらかな空気が広がる。
もう、以前とは違っていた。




