第十一話 さざめき
リリアナは、カップを持つ手をわずかに止めた。
向かいに座るセレスティナの、ほんのわずかな変化に気づく。
視線の置き方。
呼吸の間。
仕草の柔らかさ。
以前とは違う。
それを見て――
「……近いわね」
静かに、言葉を落とす。
カップはそのまま、音を立てずに卓へ戻される。
整えられた所作の中に、わずかな意識だけが残る。
「陛下とお会いすることが増えたわね」
続ける声音は、あくまで穏やかだ。
探る気配はない。
ただ、事実を置くように。
セレスティナは、少しだけ視線を上げる。
一瞬、考えるような仕草を見せる。
「……そうですね」
静かに返す。
否定はしない。
だが、それ以上も続けない。
リリアナは、その様子を見て、ほんの少しだけ目を細める。
(気づいていないのね)
内心で、そっと。
だが、それは表には出さない。
「いいことだと思うわ」
やわらかく言う。
指先が、カップの縁をなぞる。
ゆるやかな動き。
セレスティナは、わずかに首を傾げる。
「……そうでしょうか」
本気で分からない声音。
リリアナは、くすりと控えめに笑う。
だが、楽しんでいる。
「ええ…」
セレスティナをまっすぐに見る。
「とても……本人以外は、ね」
それ以上は踏み込まない。
セレスティナが、自分で気づくべきことだから。
セレスティナは、その言葉を受け取る。
だが――
深くは考えない。
ただ、小さく頷くだけ。
「……そう、ですか」
カップを手に取る。
温かさが、指先に広がる。
わずかに、息をつく。
その仕草を、リリアナは見逃さない。
(やわらかくなったわね)
以前の張りつめた気配はない。
無理に整えたものでもない。
自然に、そこにある。
それだけで、十分だった。
回廊の奥、柱の影に、二つの人影がある。
ディオンとアルベルト。
言葉は少ない。
だが、同じ方向を見ている。
「……分かりやすい」
ディオンが、腕を組んだまま低く呟く。
アルベルトは、すぐには返さない。
ただ、静かに視線を向けたまま。
「何がだ」
ようやく、問いが落ちる。
ディオンは、わずかに顎を引く。
「陛下です」
「視線も、距離も……隠す気がない」
アルベルトは、ほんのわずかに目を細める。
その言葉を、内側でなぞる。
「……隠す必要がないのだろう」
静かに言う。
評価でも否定でもない。
ただの事実として。
ディオンは、小さく息を吐く。
肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「……ならいいです」
短く落とす。
完全に信じたわけではない。
だが――
任せると決めている。
それで十分だった。
皇城、執務室。
ペン先が、一定の速度で紙の上を滑る。
だが――
ふと、止まる。
窓の外。
淡い色が、視界に入る。
桜。
ほんの一瞬だけ、視線が向く。
それだけのはずだった。
(………。)
風に舞う花びら。
そして――
静かに見上げていた横顔。
記憶に残って、消えない。
「………」
息が、ひとつ落ちる。
音にはならない。
(……気まぐれ、か)
内側で、言葉をなぞる。
自分で言ったもの。
否定はしない。
それだけではないと、分かっている。
ペンを持ち直す。
再び、動かす。
だが――
わずかに、間が生まれる。
完全には戻らない。
意識の一部が、そこに残っている。
ラディア公爵邸の内廊下。
セレスティナは、一人で歩いていた。
足音は、静かに響く。
窓の外に、桜が見える。
ふと、足が止まる。
風が吹く。
花びらが、舞う。
言葉もなく、しばらく眺めていた。
ただ、視線だけがそこにある。
やがて――
指先が、そっと髪に触れる。
何かを確かめるように。
「……?」
小さく、首を傾げる。
理由は、分からない。
だが――
胸の奥に、残っている。
あたたかいものが。
やわらかい感触が。
消えない。
「……不思議ですね」
静かに、呟く。
「……問題ありません」
それが何なのか。
まだ、分からないまま。
ただ――
確かに、そこにあった。




