第五話 断たれるもの
その建物は、皇城の外縁に近い一角にあった。
かつては応接に使われていたが、今はほとんど人の出入りがない。
整えられてはいる。
だが――
どこか、使われていない空気が残っていた。
「こちらです」
エレナが、やわらかな声音で告げる。
その歩みは乱れていない。
だが、ほんのわずかに早い。
気付くほどではない。
それでも、どこか急かされているような違和感が残る。
セレスティナは、その後ろを歩きながら周囲を見渡す。
人の気配が、少ない。
静かすぎるほどに。
「……このあたりは」
小さく、言葉を落とす。
「普段は使われていないのでは?」
エレナは、わずかに間を置く。
「ええ……ですが」
「今日は特別に」
振り返らずに、それだけを言う。
説明は、続かない。
「……陛下が?」
自然に出た問い。
一瞬、空気が止まる。
エレナの足が、わずかに止まりかける。
だが、すぐに歩みを再開する。
「……はい」
小さく、肯定する。
その声音は穏やかだ。
だが、ほんのわずかに浅い。
扉の前で足を止める。
「こちらに」
ゆっくりと、扉を開ける。
中は静かだった。
光は入っている。
整えられている。
だが――
人の気配がない。
「……」
セレスティナは一歩、踏み入れる。
空気が、わずかに重い。
「……陛下は?」
室内を見渡しながら問う。
エレナは、少しだけ視線を逸らす。
「……すぐに」
そう答える。
その時、遠くで何かが落ちる音がした。
かすかに、だが確かに。
セレスティナの視線が、奥へ向く。
「……今の音は?」
問いかける。
エレナは、答えない。
ほんの一瞬だけ、唇を結ぶ。
「……確認してまいります」
そう言って、奥へ向かおうとする。
だが――
足が止まる。
迷いが見える。
行くべきか、行かざるべきか。
その一瞬の揺れ。
「……」
セレスティナは、それを見ている。
違和感が、少しずつ形になる。
空気が、変わっていく。
静かに、確実に。
時間だけが、わずかに伸びる。
そして――
足音がする。
奥から、ゆっくりと。
一定の速さで、近づいてくる。
エレナの肩が、わずかに震える。
振り返らない。
振り返れない。
セレスティナの視線が、奥へと向く。
影が、現れる。
最初に見えたのは――
滴る赤だった。
床に、ひとつ、またひとつと落ちる。
遅れて、その姿が現れる。
ノエルだった。
その手は血に濡れている。
衣服にも赤が広がっている。
それでも――
表情は穏やかだった。
「……やっと会えた」
静かに、言う。
その声は、いつもと変わらない。
それが、何よりも異質だった。
セレスティナは、動けない。
理解が、追いつかない。
だが――
目だけは、逸らさない。
ノエルはゆっくりと歩み寄る。
「……守ったよ」
穏やかに告げる。
「もう、これで二人だけだ」
手を差し出す。
血の滴るその手を、ためらいもなく。
「邪魔なものは、全部どけた」
一片も、疑いはない。
「これが正しい」
断言だった。
セレスティナの呼吸が、わずかに乱れる。
胸の奥が、強く締めつけられる。
怖い。
――だが、それ以上に。
「……違う」
言葉が落ちる。
小さく。
だが、はっきりと。
ノエルの動きが止まる。
「それは……守るじゃない」
真っ直ぐに、否定する。
ノエルは、セレスティナを見る。
理解できないものを見るように。
「……まだ分かっていないだけだ」
静かに返す。
どこまでも穏やかに。
「大丈夫」
一歩、踏み出す。
その瞬間――
「そこまでだ」
低い声が、空気を断ち切る。
ノエルの身体がわずかに揺れる。
次の瞬間、意識が落ちる。
背後に立っていたアシュレイが、手刀を引いたまま静かに息を吐く。
崩れ落ちる身体を支える。
床に落とさない。
ただ、それだけの動き。
「……遅くなった」
軽く言う。
だが、その目は冷えている。
兵がなだれ込み、ノエルを拘束する。
「拘束」
短い命令。
「回収する。これは我が国の問題だ」
レオニスへ向けて、淡々と告げる。
レオニスは何も言わない。
ただ一瞬、視線を向ける。
それで十分だった。
ノエルは運ばれる。
意識のないまま。
その口元には、わずかな笑みが残っていた。
扉が閉じる音が、やけに重く響く。
静寂が落ちる。
――そのとき。
セレスティナの視界が歪む。
赤、床、壁。
それが、重なる。
雨の音。
濡れた地面。
押さえつけられる腕。
振りほどこうとして――
倒れる。
「……っ」
呼吸が乱れる。
喉が締まる。
現実と記憶が、混ざる。
「……セレス」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
レオニスだった。
だが、遠い。
「……来い」
短く言われる。
足を動かそうとする。
うまくいかない。
身体が崩れる。
次の瞬間、支えられていた。
強い腕。
迷いのない支え。
「……大丈夫だ」
低く、確かな声。
その響きが、わずかに現実を引き戻す。
だが、まだ足りない。
足音が響く。
速く、迷いがない。
「セレス!」
ディオンの声だった。
視線が動く。
兄。
そして――父。
その姿を見た瞬間。
張りつめていたものが、一気にほどける。
「……あ」
声にならない。
力が抜ける。
安心が、先に来る。
そのまま、意識が落ちていく。
最後に見えたのは――
確かな存在だった。
セレスティナの身体が、静かに崩れ落ちる。
レオニスの腕の中で。




