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恋を必要としない令嬢に、皇帝の執着だけが通じない  作者: 絵宮 芳緒
第四章 断絶

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第六話 帰る場所

屋敷の空気は、静かに保たれていた。

重苦しさではない。


ただ、何かを壊さないようにと、慎重に整えられている気配が薄く張りついている。


セレスティナは、その中をゆっくりと歩く。

見慣れた壁も、変わらない装飾も、差し込む光の角度さえ記憶と同じなのに、胸の奥で小さな違和感が揺れ、足取りをわずかに鈍らせた。


同じ場所のはずなのに、ほんの少しだけ遠い。


「セレス」


かけられた声に顔を上げると、そこにディオンが立っている。

隙のない佇まいはいつも通りだが、向けられた視線だけが、ほんのわずかに柔らかい。


「……お兄様」


自然にこぼれた呼びかけに、ディオンの表情が一瞬だけ揺れ、そのまま静かに息が落ちた。


「……ああ」


短く返される。

その声音は変わらないようで、どこかだけ違っていた。


「戻ったな」


確かめるようでいて、受け入れる響き。

セレスティナはゆっくりと頷き、「……はい」と小さく返す。


完全ではないと分かっている。

それでも、戻ってきている感覚は確かにあった。


ディオンは何も言わず、ただその様子を見てから、わずかに肩の力を抜く。


「母上が待っている」


いつもの調子に戻した声でそう告げるが、その奥に残るものは消えていない。


セレスティナはもう一度頷き、そのまま歩を進めて扉の前で足を止めた。

手をかけたまま、ほんの一瞬だけ指先に力が入らない。


胸の奥で、小さく何かが引っかかる。

それでも、そのまま扉を開けた。


「……セレス」


柔らかな声が、空気をほどくように落ちる。

母だった。


一歩踏み出すごとに距離が縮まり、母の手がゆっくりと伸びる。

だが途中で止まり、触れていいのか迷うように宙に留まる。


そのわずかな逡巡のあと、壊れ物に触れるような慎重さで抱きしめられる。


「……ごめんなさい」


かすれた声が胸元に落ちる。

震えを抑えきれず、言葉がほどける。


「気づけなかった」


それ以上は続かない。

セレスティナは動かず、その温度をそのまま受け止める。

逃げる理由も、拒む理由も、もうなかった。


「……大丈夫」


静かに返す。

その声音には、これまでになかったやわらかさが混じる。


「あのままで、よかったの」


言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。


「知らなかったから……普通にいられたの」


目を閉じると、雨の音と冷たい感触がかすかに浮かぶ。

それでも、その奥には確かに穏やかな時間があった。


母の腕がわずかに強くなり、今度は迷いなく抱きしめる。


「……そう」


それだけの返事で、すべてが伝わる。


少し距離が開き、顔を見ると涙の跡が残っている。

それでも笑おうとするその姿に、セレスティナの胸の奥がわずかに緩む。


「……騒がしいな」


軽い声が差し込む。

振り向けば、姉のリリアナが肩をすくめて立っている。


いつも通りの調子だが、目元は少し赤い。


「帰ってきたのに、そんな顔させるなんて」


冗談めかした言い方のまま、一歩距離を詰める。


「……お姉様」


その呼び方に、リリアナの表情が一瞬崩れ、すぐにいつもの笑みに戻る。


「ええ、そうよ」

やわらかく返しながら、

「ちゃんと戻ってきたわね」

と優しく言う。


その言葉に、セレスティナはほんの少しだけ笑った。


わずかでも、確かな変化。

それは、確かに――戻ってきた証だった。

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