第六話 帰る場所
屋敷の空気は、静かに保たれていた。
重苦しさではない。
ただ、何かを壊さないようにと、慎重に整えられている気配が薄く張りついている。
セレスティナは、その中をゆっくりと歩く。
見慣れた壁も、変わらない装飾も、差し込む光の角度さえ記憶と同じなのに、胸の奥で小さな違和感が揺れ、足取りをわずかに鈍らせた。
同じ場所のはずなのに、ほんの少しだけ遠い。
「セレス」
かけられた声に顔を上げると、そこにディオンが立っている。
隙のない佇まいはいつも通りだが、向けられた視線だけが、ほんのわずかに柔らかい。
「……お兄様」
自然にこぼれた呼びかけに、ディオンの表情が一瞬だけ揺れ、そのまま静かに息が落ちた。
「……ああ」
短く返される。
その声音は変わらないようで、どこかだけ違っていた。
「戻ったな」
確かめるようでいて、受け入れる響き。
セレスティナはゆっくりと頷き、「……はい」と小さく返す。
完全ではないと分かっている。
それでも、戻ってきている感覚は確かにあった。
ディオンは何も言わず、ただその様子を見てから、わずかに肩の力を抜く。
「母上が待っている」
いつもの調子に戻した声でそう告げるが、その奥に残るものは消えていない。
セレスティナはもう一度頷き、そのまま歩を進めて扉の前で足を止めた。
手をかけたまま、ほんの一瞬だけ指先に力が入らない。
胸の奥で、小さく何かが引っかかる。
それでも、そのまま扉を開けた。
「……セレス」
柔らかな声が、空気をほどくように落ちる。
母だった。
一歩踏み出すごとに距離が縮まり、母の手がゆっくりと伸びる。
だが途中で止まり、触れていいのか迷うように宙に留まる。
そのわずかな逡巡のあと、壊れ物に触れるような慎重さで抱きしめられる。
「……ごめんなさい」
かすれた声が胸元に落ちる。
震えを抑えきれず、言葉がほどける。
「気づけなかった」
それ以上は続かない。
セレスティナは動かず、その温度をそのまま受け止める。
逃げる理由も、拒む理由も、もうなかった。
「……大丈夫」
静かに返す。
その声音には、これまでになかったやわらかさが混じる。
「あのままで、よかったの」
言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「知らなかったから……普通にいられたの」
目を閉じると、雨の音と冷たい感触がかすかに浮かぶ。
それでも、その奥には確かに穏やかな時間があった。
母の腕がわずかに強くなり、今度は迷いなく抱きしめる。
「……そう」
それだけの返事で、すべてが伝わる。
少し距離が開き、顔を見ると涙の跡が残っている。
それでも笑おうとするその姿に、セレスティナの胸の奥がわずかに緩む。
「……騒がしいな」
軽い声が差し込む。
振り向けば、姉のリリアナが肩をすくめて立っている。
いつも通りの調子だが、目元は少し赤い。
「帰ってきたのに、そんな顔させるなんて」
冗談めかした言い方のまま、一歩距離を詰める。
「……お姉様」
その呼び方に、リリアナの表情が一瞬崩れ、すぐにいつもの笑みに戻る。
「ええ、そうよ」
やわらかく返しながら、
「ちゃんと戻ってきたわね」
と優しく言う。
その言葉に、セレスティナはほんの少しだけ笑った。
わずかでも、確かな変化。
それは、確かに――戻ってきた証だった。




